#7 夜は恐ろしい
ギルドで例の特製サンドイッチを食べながらマーシの報告に付いていく。
本来なら倒してもらった以上クルスが行うべきなのだろうが、心労と空腹に耐えかねたクルスは先に遅めの昼食とさせてもらった。
魔物を討伐したかどうかの指定部位がいるのだが今回はオーガはそのまま持ってきた。
恐らくこの後ギルドの裏にある解体小屋に向かってオーガの解体が行われるはずだ。
そして、暫くは困らない程度には収入が得られるはず。
そうなれば目下の課題はランク上げだろう。
クルスが今後の計画を脳内で組み立てていると
「きゃあああああ!」
今後の事を考えていると突如『ドサッ』という重い音と共に受付の女性の悲鳴が上がる。
クルスが視線を落とすとそこには赤い二本角のオーガが横たわっていた。
クルスの表情は固まり、そしてその原因であろう赤髪の男へと視線を動かす。
何を考えているんだと目線で訴えかけても彼は気付いていないようだが。
オーガだがそれでもギルドの受付一つを容易に占領できるほど大きい。
幸いマーシが血抜きをしていたようで大事には至らなかった。
だが、オーガの突然の出現に周囲の冒険者のどよめきは瞬く間に広がった。
まだ新米であろう冒険者は始めてみるのかオーガに視線が釘付けだ。
だが、多くの冒険者の視線はマジックバックへと注がれていた。
オーガが入っていたマジックバックだ。
驚かれるのも無理はない。
すぐに駆け寄り一応は耳打ちで原因を伝える。
「マジックバック見られてるぞ」
「え、あ、そうだね」
だからどうしたと言わんばかりの表情で答えられた。
彼にとってはそれほど些細なことなのだろうか。
しかし、クルスにとってはこれは大事だ。
「マジックバック目当ての奴らが襲って来るぞ」
「だいじょぶだよ」
「……なにが」
何が大丈夫なのか理解できないクルスは困惑する。
今の状況はクルスにはとても大丈夫には見えない。
むしろ危険と言う状況に全身どっぷりとつかっているようにすら見える。
しかし、警告はした以上何も言うことは無い。
一旦クルスは口を紡ぐ。
一方、受付の女性はオーガの体の下敷きになった書類を何とか取り出せたところだ。
「こ、これ! 何とかしてください!」
悲鳴に似たお願いにマーシは応じてオーガの足をマジックバックに近づける。
そして、吸い込まれるように一瞬で消えたオーガに周りは再び静かに盛り上がる。
オーガを吸い込んだことで書類が数枚舞い上がる。
もし、彼女が先に書類を取り出していなければその数は比にならなかっただろう。
職員のマニュアルがあるのだろうか彼女の勘や経験か、結果として被害を最小に食い止めた彼女にクルスは心中で賞賛を送った。
その賞賛が届いたせいかそれとも先ほどのお願いのせいか仄かに頬を赤く染めて彼女は咳ばらいをした。
幸いその後は恙なく物事が進みマーシとクルスはギルド裏の解体小屋へと向かうことになった。
ギルドを出る時の周りからの無遠慮な視線は中々に不快だったが。
細い路地を通りギルドの裏へと回る。
それと同時にクルスは突如鼻を突き刺すような臭いに顔を顰める。
濃密な血の臭いだ。
隣をマーシは平気そうに歩く。
「なあ、王都とやり方違うのか?」
一度も王都へと行ったことのないクルスは不思議に思った。
王都とやり方が違うのならマーシの行動も納得できるのだが。
マーシは思い出すように視線を動かす。
「あまり変わらないかな、ただ解体用の部屋が見当たらなかったから」
「なるほど」
てっきり報告してから向かうのかと思っていたクルスは納得した。
王都のギルドには魔物を運ぶ部屋があったのだろう。
しかし、この街のギルドにはそんな部屋は無い。
それに解体を行う場所は一見わからない場所にあるのだ。
二人が角を曲がると目の前にある所々隙間の空いた小屋があった。
そう、それが解体小屋だ。
この血のにおいがこんな場所に立てられた理由だろう。
建物のギルドと比べると数段劣るような不格好な小屋の隙間からは中で男たちが何かを振り回している。
小屋の側面に回り込むと小さな扉があった。
クルスは何の躊躇いもなく扉を開ける。
「解体を頼みたい」
クルスの声に中の男三人は揃って視線をこちらに向けた。
しかし、ここを仕切っている巨漢が他の二人に視線を送るとすぐさま作業に戻った。
外見だけなら並の冒険者よりも近寄り難い圧を放っている巨漢はこちらへ向かう。
そして、不愛想に何かを確かめるようにまじまじと二人……というよりはクルスを見ていた。
「……ああ、新入りか、それでその魔物は」
クルスの顔を見て一瞬何かを言いそうだったがすぐにギルドカードに気付いた彼はどこか物寂しそうだった。
彼は以前よく世話になっていたジャインだ。
彼はこの見てくれでも人並み以上に優しい。
今のフォルたちの事を聞けば確実に心を痛める程に。
だから、クルスはあえて無視をした。
クルスがマーシに目配せ、そしてマジックバックからオーガを出そうとするところにジャインが近くから机を持ってくる。
ジャインはマジックバックから魔物が出ることに驚きつつもそれが二本角のオーガで持ってきた机じゃ収まり切れないことに更に驚く。
「CランクとFランクでよくもまあオーガに挑もうと思ったな……」
「……もう一つでかい机を頼む」
呆れるようなジャインの言葉にクルスは酷く心の中で頷く。
しかし、クルスの言葉にジャインは何かを察したのか顔が引き攣っている。
先ほどより一回り大きい机を持ってくるとマーシはもう一体のオーガを乗せた。
「……お前らは馬鹿か」
「こいつに言ってくれ」
ジャインが二人に呆れたように言葉を溢すがクルスはマーシを指さしその責任を擦り付ける。
実際、クルスは被害者と言っていいだろう。
ジャインはある程度状況を把握したのだろうか諦めたようにオーガを眺める。
「このオーガは番か? それにしてもよく仕留めたな」
ジャインはオーガの隅々まで観察するのにたっぷりと時間を使う。
その間に他の二人の作業が終わってしまうほどに。
それから程なくしてジャインはオーガから視線を外した。
「状態が良い、その上オーガ、しかも片方は随分と特殊な個体だな」
そう言うとジャインは一本角のオーガの腕を持つ。
腕でもかなりの重さのはずだがそれでも軽々と片手で持っている。
その巨漢に相応しい力は日々の肉体労働の賜物だろう。
その彼が持ち上げた腕をクルスはまじまじと見る。
だが、そもそもオーガをこの二体の他に見たことがないクルスはこれがどう特殊かなんてわかるはずがない。
オーガの腕からジャインへとクルスの視線はゆっくりと移る。
クルスのわからない様子にジャインは仕方ないとばかりに息を吐いた。
「このオーガは体がもう一体より大きい。オスとメスでその体の大きさは変わらないんだ、丁度あれくらい」
もう一体のオーガを指さす。
ジャインの言葉にもかなり熱が入っているのを二人は実感する。
「こいつは大きい個体だがその上、皮が上質で斬撃でも生半可なものならそう傷はつかないだろう。オーガは魔法にも耐性がある。少なくともCとFランクの奴らが持つには本来過ぎた物だと言わざるを得ないほどのものだ」
どうやら随分と上質な物みたいだ。
もしかしたらクルスが今までで手にしてきた物の中で最も高価な物かもしれない。
一応確認の意味を込めてマーシに耳打ちする。
「このオーガの素材も山分けだよな」
「うん、そうだよ、昨日確認した通り」
確かな言質をマーシから引き出せたことにクルスは安堵する。
実際に何に使うのか、使えるのかというのは知らないがそれでも価値がある以上持っておくに越したことは無い。
二人の反応を見てタイミングを窺っていたジャインは口を開く。
「それで魔物の素材をどうしたいとか希望はあるか?」
ギルドでは討伐した魔物を解体する際には五割をギルドの取り分とする決まりがある。
冒険者が自由に素材を扱えるのは残った五割、素材はクルスとマーシの山分けの為、素材の内自由に仕えるのは実質四分の一だ。
少ないというのが正直なところだが使うつもりのないクルスには関係ない。
ふと、オーガの体の紫に目を奪われる。
じっくり見ればかなり前に付けられたであろう傷が目に入る。
歴戦のオーガだったのだろうことを想起させる皮はその傷すら飾りに思えた。
そして、今自らが身に着けている皮鎧に目を落とす。
魔物だろうか獣だろうか、その何枚も重ねられた皮に付けられた傷で目につくのは最近の傷だ。
恐らく一生馴染むことのない傷の付いた皮鎧は長らくクルスが使っていた。
そろそろ変え時だろうが先ほどの説明では身の丈に合っていないというのは明白だ。
それほどの装備が手に入るかもしれない、そう思うと途端にオーガの皮が欲しくなる。
ジャイン曰く斬撃は生半可なものを通さず魔法にも耐性がある。
新調する物がその素材になるかもと思うと心が躍る。
「皮鎧を作るにはどれくらい必要だ」
クルスの問いにジャインは考え込み、クルスとオーガに視線を交互に向ける。
出来れば自分の取り分で済ませたいと思いつつそれを見守る。
やがて、結論を出したであろうジャインは顔を上げた。
「経験だからあまり当てにしないでもらいたいが、三分の一あれば十分だろうな。作るやつの腕にもよるが」
目を細めつつ話すジャインの声は呟くようだった。
そして、クルスの取り分では足りない。
クルスはマーシに向き直る。
「マーシ、オーガの皮はどうする」
内心祈るようにマーシを見る。
微かな緊張で心臓の音が少し早まった気がする。
「使わないよ」
その一言にクルスは安堵した。
そして、細く緊張の糸を解くように細く息を吐いた。
自身の望みを叶えられるという事にクルスは胸を躍らせていた。
その後は細かなことを決めていたが結果としてクルスは皮以外を、マーシはオーガの全ての素材を売ることになった。
「それじゃあ明日の朝、差し引いた分の報酬を受け取ってくれ」
「ああ」「了解」
二人はそれぞれの返答をすると解体小屋を後にしてギルドへと戻るのだった。
作業小屋を後にしたクルスとマーシは別れてそれぞれの事をしている……はずだった。
それはクルスの想像していた予定だがそれは想像上の予定、予定は未定……と下らない事を思っても笑みの一つも零れない。
何故なら目の前にはマーシが、そしてクルスが頼んだ葡萄酒が眼前に置かれていたからだ。
そして、既にあった黒パンと共に頼まれたステーキには黒い粒、胡椒が塗されていた。
胡椒は金と等価とすら言われる。
よく見ればかかっているとわかるくらいの量だがそれでもステーキと同等の価値があるかもしれない。
貴族が嗜むような料理にしか使われることのないそれがこんな安物の肉にかけられているのは不相応という感想を抱かない者はそういないだろう。
クルスもその一人だがマーシはあまり気にしていないのだろうか。
その考えを微塵も浮かべていない笑みを浮かべながらマーシは口を開く。
「今日のお詫びだから何でも頼んでいいよ」
そう、これはマーシが今日の、オーガの狩りへクルスをほぼ強制的に駆り出した事へのお詫びだ。
そう言われた以上クルスが遠慮するつもりはない。
しかし、クルスの頼んだただのステーキにマーシが胡椒を注文すると言う中々馬鹿げた注文に職員も聞き返していた。
クルスが胡椒を口にするというのは初めてだが、正直もっといい肉にかけて食べたかったという烏滸がましい思惑は口にしないよう噤む。
元々、胡椒というものには興味があった。
一口も口にすることなく死ぬと思っていた物に興味が湧かないはずがない。
クルスは肉の上に乗り損ねた胡椒を指でつまみ口に運ぶ。
「!!」
舌に広がる辛みと後から鼻に抜ける胡椒独特の香りに眉を顰めた。
とても金と同等の価値があるとは思えない。
だが、これはマーシの金で頼んだ物だ。
経験としては十分な価値があったと言えるだろう。
「胡椒はあんまり美味しいとは思わなかったんだよね、ただ高いだけ」
「ああ、同感だ」
相槌を打ちつつクルスはいつものように黒パンにステーキを挟む。
いつものように特製サンドイッチを作るとそれに齧りつく。
「…… 意外と悪くないな」
クルスは感想をぽつりと溢す。
いつものと比べて味には大した差はないが胡椒独特の香りと辛みが食欲を掻き立てる。
やはり価値には相変わらず疑念を抱くがそれでも貴族が求めるというのも納得だ。
そう考えながらクルスは僅かに残る胡椒の余韻を楽しんでいた。
「ねえ、質問」
クルスは視線を向け頷く。
葡萄酒で口を潤しその質問を待つ。
「身体変化ってどうやったの?」
その質問にクルスは自身の腕を見た。
そして、以前と同じ要領で魔力を込めて石化させる。
「ただ、こう、魔力を込める感じ」
「そんな単純じゃないんだよ身体変化って」
そう言うといつの間にか頼んでいたエールを口に含んだ。
しかし、そうは言われてもクルスはそうやっている以上そういうことは理解できない。
「身体変化って身体強化の延長線で相応の魔力操作と練度が要求される。君は身体強化すら儘ならないのに身体変化を体得したとはとても思えないんだよね。もし、君の言っていることが本当ならそれは天才という他ないね」
「……それで何が言いたい、俺がその天才と言う可能性だって」
「ないね」
心に何か大きな一撃を食らった。
食い気味に才能を否定してくるのには流石のクルスもカチンと来る。
それを紛らわせるように葡萄酒を飲み、辛うじて爆発しない不服そうな態度を示すがマーシは気にする素振りすら見せない。
傷が抉られる気がしたが意識を話しに戻し集中する。
「なら、俺のは別物って言いたいのか」
「そうだね、君のは元々体に備わっていたっていう感じ」
「……体得したものとの差がわからないんだが」
「そうだね、君のはオーガみたいなのは生身の人間より強い生まれつきの能力だけど僕たちのはそれを真似て自身が体得して各々が扱っている身体強化っていうのが差かな」
正直クルスが聞きたかったものとはズレた回答だがマーシから見て自身の能力が生まれつきの能力に見えるとのこと。
しかし、クルスにとっては生まれつきどころか一週間もたっていない。
何なら扱えるようになったのは昨日だ。
とても生まれつきの能力とは言えないはずなのだ。
「生まれつきの能力と体得した能力の違いはどういう風に見えるんだ」
本来聞きたかった質問をマーシに問いかける。
「生まれつきは魔力が籠っているように見えるけど、体得したものはそれを纏ったように見える。」
クルスはまだ魔力が見えると言う領域に辿り着いてはいないが何となくはわかる。
今クルスが石化させているのは確かにマーシが言った通り魔力が籠るように込めたからだ。
……纏わせる
クルスはそう念じるように魔力を手へと伝わせる。
だが、それはすぐに霧散してしまう。
「君はその能力の原因はわかる?」
その質問に狼の記憶が重なる。
だが、そもそも言うつもりはない。
「……あったが詳細は言えない」
濁すようにクルスは答えた。
その時は三人、しかもストルであった時の事だ。
とても今は言えるような内容ではない。
「そう、何となくわかったよ」
幸いマーシはそれ以上踏み込むつもりはないようだ。
そのことに胸を撫で下ろしつつ突如思い浮かんだ新たな疑問に焦点を当てる。
しかし、今ので一体何がわかったのだろうか。
何か情報を得られるようなことは何も言っていない。
それなのにわかったということは既に何かしらの事を知っていたということだろうか。
クルスの知らない何かを。
「何がわかったんだ」
クルスの質問にマーシは笑みを浮かべるばかり。
どういうことかを理解できずに困惑しているクルスを余所にマーシはどこか納得したように頷き、そして立ち上がる。
それと同時に確信した。
マーシが何か隠していることを。
そして、それと同時に彼への疑念は決定的なものへと変わった。
既にクルスはマーシとは薄々合わない人間であるということに気付いてはいたが今回で確信した。
「明日、森で教えてあげるよ」
「あ、おい!」
そう言い残すとエールを一気に飲み干す。
慌ててクルスは呼び止めようとするがマーシは無視して出口へと歩いて行った。
追いかけることを諦めたクルスは残ったサンドイッチと葡萄酒で飲み流す。
勿体ない食べ方だが、それに気付いても早めに去ることを選んだ。
理由は特にないが、強いて言えば今日の疲労からだろうか。
ふと見つけたリイスの姿も今のクルスには話しかけに行く気力すらなかった。
夜の森というのは独特の不気味さがある。
夜には化け物が出て子供を食らうなんて御伽噺は子供達で知らない者はいないだろう。
しかし、実際に森にはそんな化け物がいる。
食らうのが子供から冒険者へと変わっただけの。
森の御伽噺すら可愛く思える醜悪な食物連鎖の頂点に君臨するのが誰なのか。
それは時により変わっていく。
そして、今夜は一人の冒険者だ。
赤髪に満月の光に照らされた表情は心を失ったかのように冷たい。
しかし、その足取りは何か目的があるかのようにしっかりとしていたものだった。
運悪く彼の闊歩する近くで寝ていた魔物は、飛び起きると本能に従い逃げる。
その光景すら彼にはありふれた光景なのだろうか見向きもしない。
冒険者の存在に気付いた多くの魔物は息を顰める。
もし、立ち向かえばどうなるかなど知能の低い魔物すら本能で分かっていた。
そして、様子を窺うようにその様子を見ていたリーダーの狼もそれは分かりきっていた。
近くに狼の仲間の群れがいて、それをどうするか判断するために来ていた。
狼が彼の真後ろを位置取れていたのは偶然だ。
しかし、所詮は人間、後ろから不意打ちで一撃だ。
狼が後ろを振り返れば十体もの冒険者を屠ってきた信頼できる仲間たちがそこにいた。
確信した。
彼も屠れると。
彼らは無謀な戦いはしない。
やれるのなら赴くまで。
そして、それが今なのだ。
リーダー狼の遠吠えすらせず駆け出し、彼を追うように仲間が駆け出す。
総勢十一匹、彼らは音すら出さない完璧な奇襲を男目掛けて仕掛ける。
「……」
男は満月を見上げる。
これから自身が行おうとしていることに痛痒も感じない。
頭ではわかっていても感情はそれに何の反応も示さない。
そのことにすら何も感じない。
分かりきっていたことだ。
彼は慣れた手つきで槍を持つと後ろを見ることなく槍の一撃を放つ。
重い手応えと共に何かが地面に落ちる。
後ろを見れば多くの狼が彼を見つめて狼狽していた。
さっきのがリーダーだったのだろう。
こいつらにもやれば何か変わるのだろうか。
一瞬そんな純粋な好奇心が湧き上がり刺した槍を抜き切っ先を狼に向ける。
しかし、彼が駆ける前に狼は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
何匹いたのか把握する暇もなかった。
彼は既に事切れている狼に視線を向ける。
「はあ、無駄死にか」
狼は無謀な戦いはしないのだが、どうやら今の彼は狼にとって狩れる獲物と思われているようだ。
無意味な殺しはしないというのが彼の信念……というよりは避けるようにしている。
別に大した意味があってこうしているのではない。
ただ良くないことだからやらないようにしているだけでそれを犯そうと何もない。
狼は素材として扱おうと思えば使えるだろう。
だが、それはするつもりはなかった。
後付けの理由は彼の本意ではないからだ。
狼から視線を外し再び歩き始める。
今度は哀れな奴が襲わないようにより魔力による威圧を少し強めながら。
森の周囲が少し開けた場所に出た。
別に何か特別なものがある訳でもない。
彼は適当な木に背を預けその時を待っていた。
上を見れば満月は傾き東から未だ姿の見えない太陽の光が零れる。
時が来た。
そう判断した彼は笑みを溢す。
「さて、始めるか」
次の瞬間、彼を中心に森がざわめいた。
ほぼ全ての魔物がこの場から逃げ出し、その足音は地震のようにすら聞こえた。
異常とすら言えるこの状態は非常に不味い状態の前触れだ。
スタンピード
魔物が殺到する現象だ。
ドラゴンのような強力な魔物が出現した時に起こる現象なのだが、この場にはそんな魔物はいない。
いるのはただ一人の冒険者。
そして、彼を見つめるもう一人がいた。
その者は姿こそ人型だが、頭部に黄金色の耳にどこから生えているのだろうか九本の尻尾を生やしていた。
人と呼ぶべきなのかその者はその光景をただ見守っていた。
彼の行動の一挙手一投足を見逃さないように。
冒険者が道を引き返すように歩き始める。
発する化け物の如き圧に動けば更に森に喧騒が響く。
彼の思惑通りに事が進むことにどことなく興奮を覚える。
もうすぐ夜明けだ。
ただ一つわかることはこれから忙しくなる事だ。
冒険者は速度を少し早めて戻る。
そして、その様子を見ていた者はただ笑みを浮かべてそれを見送った。