「怪談」の話(中⑲)
*
「――あなたの事、ずぅっと探してたのよぉ」
どぽん、どぽん。
下手な櫓よりも大きな水槽の中に、幾つもの臓器が落ちてゆく。
「ある子から、あなたがこの階に居るって聞いてねぇ。ああいえ、言ってないのだけれど、聞いてね、それからずぅっと」
胃袋、肺、肝臓……あと、名前の分からない臓器が少し。
青く照らされた水中で真っ赤なそれらはよく目立ち、ゆっくりと沈みゆく様子がハッキリと分かった。
「綺麗なあなたのそうじゃない形、どうしても、どうしても見てみたくって……あの大きな手とか足とか、醜い形の子達がたぁくさん入って来られるように、いろんな所を開けて回って、うろうろうろうろ……」
そして臓器は水槽の真ん中あたりにまで落ちて行き――そこに漂う真っ赤な肉塊に次々と取り込まれていった。
まるで風呂敷のように広がった肉の中に臓器が収まり、その膨らみが表面に浮き上がる。
それが二度三度と続く内、肉塊が朧気ながらも人間の胴体の形に近付いて来ているように見えた。
……黒キノコの設定ではこの廃病院の院長の息子だったという、その肉塊。
他人の部位を継ぎ接ぎ、少しずつ、少しずつ、人間の形を組み上げてゆく――。
「本当はねぇ、私自身が醜い形になるのもそれはそれで興味があったの。だけど醜い形の子達、どうしてかやってくれなくて……そしたらその内、こうしてずっとずっと、奥にまで来ちゃって――」
「…………何、してんだ」
やっと絞り出せたその一言に、声が止まった。
そうして、水槽上方の足場に立つクソババァ――地圀幸は、臓器を注ぎ終え空っぽになった容器を床に置き、鼻の削がれた笑顔で私を見下ろした。
「うふ、これ? 何なのでしょうねぇ。分からないけれど、でも興味深いのよ。もうこんなにも醜い形になってしまっているのに、まだ絶えようとしないの。蠢いて、蠕動して、歪んで……虚しくって、みっともなくって……」
言葉こそ嘲っているみたいだったが、その表情には興奮と一緒に慈しみのようなものが滲んでいた。そして手元の紙切れか何かに肉塊の様子を書き留めては、うっとりと濃い溜息を吐いている。
……コイツという人間が理解できず、感じた事のない種の寒気が背中を昇った。
「だからね、あなたには悪いのだけれど、ちょっと浮気しちゃったのね。この子の事お手伝いして、応援してあげてたのよぉ」
「……てつ、だい」
「見てたでしょう。この子、お肉あげると大きくなっていくのよ。ええと、そうねぇ……」
ババァはそこで一度言葉を切ると、足場の端の方へと寄って行く。
そこにはさっきの内臓が入っていた容器と同じものが並べられていて、その内の一つの蓋が開かれる。
すると中から冷気のような靄が溢れたものの、ババァは一切の躊躇いなく手を突っ込み、雑にその中身を引き抜いた。
「ふぅん、男の人のかしらね」
……そうして現れたのは、丁寧に冷蔵保存された誰かの右腕。
きっとインク瓶達が言う、御眼鏡に適ったパーツ。
ババァはそれもまた興味深そうな目でしげしげ眺め――ぽい、と水槽へ投げ入れてしまった。
「あ――」
どぽん。
また水飛沫が上がり、右腕が水中を落ちてゆく。
それはまっすぐな軌道でたちまち肉塊の傍まで辿り着き、さっきの臓器と同じく取り込まれてしまった。
もっとも今回は臓器ではなく腕一本。肉塊の内には収まらず、肩口の断面あたりにくっつくような形となる。
……胴体から、右腕だけが生えている。これはきっと、そういう事だった。
「うふ、見て、どんどん整えられていくの。こんなひどいもの見た事ない……! ああ、ああ、まだいっぱいあるお肉、どういう順で落としましょうかしらね。やっぱり内臓から? でも先に手足とかを揃えてあげた方が人の崩れを感じられるし……あら、そういえば綺麗なあなたも右腕を携えているけれど、良かったらそれもこの中に入れてみない? 同じ部位を入れたらどうなるのか……あ、いえ、そうだわ、それだったら、いっそ、」
「――意味分かんねーんだよ!!」
いい加減、限界だった。
「マジで何考えてんだよあんた!! 今どんな状況か分かってんだろ!? なのにこんなよく分かんない、色々引っかき回して、足引っ張る事ばっかりして……ッ!!」
嫌悪感に背中を押されるように怒鳴りつけるけど、しかしババァは困ったようにうっすらと笑うだけ。
日常会話の延長線上にあるようなその態度が、私の目には酷く不気味なものに映っていた。
「ううん、申し訳なくは思うけれど……綺麗なあなたの醜い形を見てみたくなったのだから……ね?」
「ね? じゃねーんだよ!! 分かってんのか!? あんたのせいで、霊侭坊のおじさんとかたくさん人が……!!」
「ああ、あれねぇ。こっそり見てたけれど、中々いいものが見られたのよ。特にインク瓶君、彼が醜い形になった時、他と違って内側から泡立つように膨らんで動かなくなっちゃったのね。きっと土壇場で何かやったのだと思うのだけれど……あの子ああいう事も出来るのねぇ。心弾んだわ」
「――――」
額に深い青筋が走ったのが自分でも分かった。
もう駄目だコイツは。私はきつく拳を握り締め、勢いよく駆け出して――だがその寸前、後ろから小さく肩を引かれた。
振り向けば黒キノコが立っており、右手で私の肩を掴む傍ら、その指先にはインク瓶の革手帳が挟まれていた。
顔の横あたりで開かれたそのページには、『ちょっと話をさせてくれ』というインク瓶の一文が小さくあって……。
「…………」私は一度大きく息を吐き、ゆっくりと黒キノコの後ろへ足を引いた。
「あの、すいません、少しお話いいですか」
「あら……あなたは、ええと、誰だったかしら?」
「……ひゅ、ひゅどろんチのSUMITOで~す……。そんで、何と言いますか……オレ、この廃病院の怪談の作者っていうか、元ネタ書いた人的な……」
チラチラと手帳に目を落としつつも、この怪談に纏わる経緯を掻い摘んで説明してゆく。
するとあんまり興味なさげだったババァの目に、徐々に光が灯っていった。どうやらババァの中で好感度が上がったらしい。
「そうなのねぇ。ふふ、おかげで素晴らしい体験ができています、ありがとう」
「……ハ、ハハ。えっと、それでですね……オレもその、作者として今の状況にはちょーっと興味があると言いますかぁ……この白い子はアレですけど、オレとしては何が起きるか見てみたい気持ちもまぁ、若干、ありまして……」
「……は!? 何言ってんのあんた!?」
慌てて黒キノコに詰め寄ろうとすれば、その右腕がさっと背中に回され、また手帳を見せつける。
『僕が頼んだんだ。見ての通り、今の地圀さんに説得は全く期待できないどころか、会話自体が難しい。こうなったらもう白々しさ承知であっちの目線に合わせに行かないと、話し合いも何も無い』
(っ……そ、そんな事しなくたって、私が一発ぶん殴れば……!)
『この手術室を探していた理由を思い出しなよ。……おそらく、彼女の足元だ』
「は? ――あ」
……そうだ。私達がこの手術室を目的としていたのは、この異界から脱出するための『当て』になるかもしれないセンシティヴ邦の脳みそを探し出すためだ。
あのクソババァの言動のせいですっ飛んでいたが、この部屋のどこかにその脳みそはある筈で……そして順当に考えるのであれば、そのどこかとは、
(――水槽の足場に並んでる容器みたいの。そのどれかに、アイツの脳みそ入ってる……?)
『……可能性としては、極めて高いと言わざるを得ないね』
(んもぉぉぉ~~~……ッ!!)
事をめんどくさくするにも程があんだろあのクソババァ。
いや、さっき言った通り、その気になれば腕力でどうにか出来るとは思うのだ。
だって水槽の高さは普通のビルにおける数階分くらい。私であればあっという間に這い登れるし、そんでババァの顔面を思い切りぶん殴ってやればそれで終わり。後はふん縛って部屋の隅にでも転がしとけばいい。
……だが、相手はこの異常な状況下で一切取り乱さず、私達にとって害になる事を的確に行い続け、挙句何ひとつ情報を持っていないにもかかわらず水槽に人体パーツを注ぎ込んでいた異常行動クソババァである。
ぶん殴りに行くまでのほんの僅かな間に、脳みその入った容器を高い足場の上から床に落とし、中身をぐしゃぐしゃにする……みたいな『最悪』をピンポイントに引き当てて来そうな怖さがあった。
インク瓶が警戒しているのも、たぶんそういう感じの理由だろう。考え過ぎ……と思いたいよ私も。
「――で、そんな訳でですね。今どのくらい人体パーツ揃ってるのかなとか、色々気になっちゃって。元のシナリオでは参加人数に合わせて変える部分だったんですけど、ここまでの大人数は想定外でしたし……どんなもんなんです? 実際」
そうして頭を抱えていると、一人頑張ってペラ回していた黒キノコがババァにそう問いかけた。
話している内に平静を取り戻してきたのだろう。顔色こそ青かったが言葉につまりは無くなり、それっぽい事をそれっぽく嘯いている。伊達に配信者やってる訳ではないらしい。
ババァはそんな黒キノコに微笑ましげに目を細めると、足元の容器をひとつひとつ指差し始めた。
「そうねぇ……さっき入れた、胃と、肺と、肝臓と……これは脾臓のでしょ。これは大腸ので、小腸の……あ、そうそう、気になっていたのだけれど、欠損部位ごとの範囲というか、パーツとして区切る基準ってどうなっているの?」
「え。き、基準……まぁ、ノリというか、その時その時の雰囲気でですかね……? やっぱプレイヤーもそのキャラでやりたい事があるんで、そこらへんに影響出なさそうな部分を臨機応変に切り分けるというか……」
「ああ、なるほど。小説じゃなくて人と遊ぶためのお話だものねぇ……でも物書きの先達として言うけれど、そのあたりのルールは臨機応変にしても大雑把にはせず、しっかり一本通して創った方がもっと空気感の厚みが出るのかなと思います。『細かく』ではなく『しっかり』」
「アハイ……スイマセン……直しときます……ハイ……」
……などなど何やら講評じみたものを挟みつつも、容器の確認は続いてゆく。
一方私はこの間ババァに投げつけられそうな瓦礫か何かが無いか探したけれど、あるのは精々床に散らばるカルテくらい。
手術室なんだからメスの一本くらい転がっててもいいだろうに……黒キノコの影に隠れ、こっそりと舌打ちを落とし、
「――この容器は、右眼の。とっても綺麗だから、水槽じゃなくて後で標本にするつもり……」
「……?」
その部位の時、他と反応が違った気がした。
見ればババァと目が合い、しかしすぐに次の容器へと視線が移る。……何だ?
「こっちは左眼。これは声帯、顎の、鼻の……これは左腕のね、ちょっとだけペンだこが出来てるけど……、……右腕はさっき入れちゃったでしょ、あとは――」
今度は左腕の時に間を作り、チラとほんの一瞬だけ黒キノコに視線を振る。
……何か、探られてる?
なんとなく嫌な予感がした私は、こっそりとインク瓶に話しかけ、
「――これは、脳」
――不意を打つようにその声が耳朶を打ち、思わずハッと顔を上げた。上げてしまった。
「ああ、これなのね」
するとババァはそう呟くと、すぐさまその容器を――脳みその容器を開封。その中に腕を突っ込んだ。
……行動ひとつ、起こす暇もなかった。
ババァは容器から脳みそを取り出すでもなく、そのままの姿勢で動きを止める。そして突然の事に呆然とする私達に、嬉しそうな笑みを落とした。
「うふふ、あなた達も面白いものを探していたのねぇ。どうして脳なんか探していたのかはさっぱり分からないけれど、ふふ、なんだか親近感が湧いてしまうわ」
「……な、んで……」
「分かるわよぉ。わざわざあの醜い形の子達の中を抜けるだなんて、私のように求めるものが無ければやらないでしょう? 予想では、自分の無くなっちゃった部位が欲しいのかしらと思っていたのだけれど……」
外れちゃったわねぇ。ババァは自由な方の手を頬に当て、のんびりと小首を傾げる。
やはりさっき感じた違和感通り、ババァも会話の中でこちらの目的を探っていたようだ。何で異常行動するヤツに限って無駄に頭の回りが早いんだ……!
「このおミソ、キラキラしていて綺麗ねぇ。今、頭頂葉のあたりに掌を添わせているのよ。ちょっとバランスを崩したら、ずぶりといってしまいそう」
「っ……」
「……ねぇ、綺麗なあなた。良ければ、水槽の上にまで昇って来てくれる?」
良ければ、と言っているが、完全に脅迫である。
どうすんだよ、これ――目線だけでインク瓶に縋れば、走り書きのような筆跡が綴られた。
『おそらく必要な流れだ。ひとまず話に乗って。こっちも可能な事を行う。備えて』
(はぁ? どういう――、っ!?)
重ねて問いかけようとしたところ、ババァがわざとらしく容器の中をかき混ぜるような仕草をした。
流石にポーズだけのようだが、私の肝はぺったんこ。仕方なくそこで切り上げ、インク瓶を信じて指示に従った。
(くそ……でも、備えろって、何をどうしろって……!)
一歩一歩、ゆっくりと水槽へ向かう。
あからさまな時間稼ぎだったけど、ババァは特に急かす事はしなかった。
むしろ悪あがきする私の顔をニコニコしながら眺めていて、これはこれでアイツの餌になっている事を察した。クソが。
ともかく、そうしてのたのた水槽前まで歩を進めれば、そこにはババァの居る足場に直接繋がる梯子と、簡易的なリフトがあった。
リフトの方はたぶん、人体パーツの入った容器を運ぶための物だろう。
大きさ的に一応人も運べるようだったが……まぁ、操作の仕方なんて分からん。素直に梯子の方を使おうとして、
「――あ、あっ、オレ! オレ動かすから! うん!」
「え?」
すると突然、黒キノコが走って来た。
そしてリフト横の壁に飛びつくと、わたしに向けて手帳を大きく振った後、そこにあったボタンに指を添えた。
……リフトの操作盤か何かだろうか。私は戸惑いながらも、リフトの方に足を乗せ――。
「…………」
わたしは手帳からそっと眼を離し、瞼を上げる。
私は稼働を始めたリフトに運ばれ、水槽の上へと向かった。
リフトの動作は意外とスムーズなもので、進む速度もゆっくりだった。
とはいえ乗り心地が良いとまでは言えず、今の状況的にもそう思える筈も無い。
「…………」
真正面のガラス越し。
上から下に通り過ぎてゆく右腕のついた肉塊を睨み、胸の中の右腕を強く抱きしめた。
「――ふふ、いらっしゃい」
そうしてリフトが一番上まで到着すれば、ババァの穏やかな笑顔が出迎えた。
(……くそ、遠い……)
……ババァは、私の居るリフトの位置から最も遠く離れた反対側。足場の端っこで壁を背にして、相も変わらず脳みその容器に腕を入れている。
さっき下から見上げていた時にはもう少し近い位置に居たと思うのだが、どうやら私が上がってくるまでの間に離れた位置に陣取ったらしい。
口の中で舌打ちし、もし行けそうだったら爆発させるつもりだった力を、腿とふくらはぎから抜き去った。
「……何か、用」
「ううん、そうねぇ……とりあえずその黒いのが出てる右腕、床に置いてくれるかしらね」
「――……」
ババァの視線は、右腕の手首から垂れるインクに向いていた。
……黒インクの性質について何も知らない筈なのに、何かしらを感じ取ったとでもいうのだろうか。
本当にどうしてそう嫌な所ばっか突いて来られるんだ。私は今度は聞こえるように盛大に舌打ちを飛ばし、嫌々右腕をリフトの上に横たえた。
「……これで、いいんだろ」
「ありがとう。遠くからだと分からなかったけど、近くで見たらその腕、もし水槽に入っちゃったら、水が濁って見えなくなっちゃう気がして。さっきは自分で入れてみないって聞いておきながら、本当にごめんなさいねぇ……」
思ったよりもシンプルな理由だった。
とはいえ、右腕と離されてしまったのには変わりない。
心の中で急速に不安が膨らんでゆく中、ババァは私の頬や腕……たぶん付着しているインクをジロジロと眺め、やがて頷きをひとつ。
「……まぁ、そのくらいの汚れなら大丈夫でしょう。じゃあ、どうぞ?」
「……………………」
……何がだよ。とは、口にしない。
だって、察しはついている。
私に何をさせたいのか、何を見たがっているのか。クソババァの行動原理を考えれば、ここまで来いと言われた時点で、とっくに。
でも、だからって物分かりよく頷ける訳がない。
察せないフリですっとぼけ、歯を食いしばってだんまりとして……するとババァは片手を水槽の方に向け、ハッキリと言い直した。即ち、
「――水槽、入ってちょうだい?」
………………ほら、これだ。
私は鼓膜の裏で血の気の引く音を聞きながら、得体のしれない液体で満たされた水槽を見やる。
青く照らし出されるその中では、変わらず肉塊が蠢いている。
右腕と内臓だけの人間未満。捏ねられる粘土のように伸び縮みを繰り返すそれは、己に足りないものを求め、確かな叫びを上げていた。
……そんなものの領域に飛び込めばどうなるか。考えるまでも無い。
「……ふざ、けんなよ。出来る訳ないだろ、そんなの……!」
「ううん、本当は服も全部脱いでほしいのだけれど……男の子の目もあるものねぇ。まぁすぐに関係なくなるだろうから、大丈夫よ」
「だからッ!! そんな自殺みたいな事誰がやるかって――」
ず、と。
脳みその容器に入れられた腕が大きく沈み込み、私の反発を押し潰した。
「……私ね、これまで四十年とちょっと生きて来たけれど、こんな奇妙な……夢みたいな出来事に巡り逢えたのなんて初めてなのね。もしかしたら、もう二度と無い出逢いなのかもしれない。だから……」
「……それで好き勝手やったって、帰れなくなったら意味ないだろ……!」
「学びなく帰れても意味が無いの。……さ、そろそろ、ね?」
ババァの瞳が強くギラつき、改めて入水を促して来る。
これ以上は我慢できないというその様子に、私は唸り声を漏らしつつ足を進めた。
震える足先にまた牛歩を重ね、ゆっくりゆっくり動かして……しかし狭い足場じゃ時間稼ぎにもならず、すぐに水槽の縁に着いてしまった。
そうして水面を見下ろせば、中身の液体がそれなりの粘性を帯びているのが見て取れた。
やはりただの水ではなく、培養液的なものなのだろう。反射的に一歩引きかけたが、ババァの視線を感じ踏みとどまった。
「……はっ、はっ……う、ぐ……っ……」
まだか、まだ、どうにかならないのか。
恐怖と焦燥で乱れる呼吸を必死に抑え、インク瓶と黒キノコに視線で縋った――のだが、そこには誰も居なかった。
……え?
(……えぇ!? ちょ、嘘――あ、居た……!)
慌てて視線を散らせばすぐに見つかり、ホッと一息。
どうやら私とババァが気付かない内にこっそり移動していたらしく、ババァの居る真下あたりの壁を何やら弄っている黒キノコの姿があった。
位置的にはババァの死角にあり、すぐに気取られる事は無さそうだったが、右腕一本という事もあってか酷くやり難そうだ。
(な、何やってんだアイツ……いや、何でもいい。早く、何かやるんなら、早くっ――、……っ?)
――パラ。パラ。
強く祈ったその直後、鼻の頭に何かが落ちた。
(……埃?)
見上げれば、高い高い手術室の天井から、細かい埃がチラチラと舞い落ちている。
部屋が広い分それは広範囲に渡り、ババァも僅かに気になった風な様子を見せ――やがて小さく天井が揺れ始め、妙な物音まで伴った。
ガタン、ガゴン、ズルリ、ズズ。
それはまるで、天井裏を何か大きく長いものが這い進んでいるような音で、
――八代目さんに言われた通り、また視てるのバレてつれて来たよ。
「――――」
――わたしが囁いた瞬間、私は水槽の反対側、足場の外へと身を投げていた。
当然そこに疑問なんて何ひとつ無い。
時間が引き延ばされ、ゆっくりと上方に流れてゆく景色の中。突然の事にきょとんとしているババァの顔が目に映り――その背後の壁が、長方形状に浮き上がったのが見えた。
(隠し、通路の――)
その開き方に、黒キノコと金髪男を発見した部屋で見た床の機構が頭をよぎった。
ハッとして足場の下に目を向ければ、黒キノコが壁の中から飛び出したレバーを押し下げていて、
「――パーツ扱うとこなんだから、ダストシュートは『しっかり』設定したに決まってんでしょ……!」
――直後、天井の揺れが件の隠し扉の位置に向かって移動した。
そして滑り落ちるような速さであっという間に辿り着くと、そのまま激突。
派手に吹き飛んだ扉の中から、大きく長いものが飛び出した。
「――はあああああい なんですかああああああ」
ピンク色の身体に、びっしりと這った毛細血管。
紐状の体躯の下には人間一人分のパーツが詰められ、表面にはぬらぬらとした分泌物が滲んでいる。
腸の『何か』――わたしの視線に釣り出されたそれが、出て来た勢いのまま水槽へと突っ込んでいった。
「え――あぁっ!?」
ババァの悲鳴。ガラスに大きなヒビが入り、腸の『何か』の巨躯がたわむ。
そうして跳ねた腸の尾が足場を下側から弾き上げ、そこに乗っていたもの全てを宙へバラ撒いた。
当然、そんなんでババァも無事で済む訳が無い。脳みその容器を手放し、水槽の上へ投げ出された姿が下からハッキリと見え――。
「――って、まずッ……!?」
私はそこでやっと着地。軽い足の痺れを無視して視線を宙に戻し、脳みその容器の行方を必死に追う。
ババァはもうどうなったって構わないが、センシティヴ邦の脳みそだけは無事でいて貰わなければ、何のためにここまで来たのか分からなくなる。
せめて水槽側ではなくこっち側に容器が落ちてくれれば、どうにか受け止めて、それで……!
「……っ、くそぉ!」
そう縋って構えたものの、しかしこっち側に落ちて来る容器は一つも無かった。
代わりに水槽から外れた足場が『何か』ごと墜落し、私は慌てて横っ飛び。床に叩き付けられた『何か』は続いて落ちて来た足場に潰され、ただ身動ぎを繰り返すだけとなり――その時、激しい水飛沫の音が、上の方で連続した。
「あ――」
――見れば、青い水槽の中に大量のものが沈んでいた。
放り出された幾つもの容器と、一人の人間。
それらは大きさや重さ関係なく、どれも一定の速度で下へ下へと……例の肉塊の下へと落ちてゆく。
「――っ、――っ……!」
そんな中にあって人間――ババァの表情は恐怖や苦しみではなく、興奮で染まっていた。
鼻のあった位置や口からたくさんの泡を吐き出しながら暴れもせず、瞳をギラギラと輝かせ。
息が出来なくて苦しい筈なのに、これから自分がどうなるのかだって知っている筈なのに。これはこれで良いとでもいう風に、明らかにそれを楽しんでいる。
「――♪」
そして下方に例の肉塊の姿を認めると、鼻の削がれた顔に笑顔を咲かせ、自分から泳ぎ近付き手を伸ばし……。
「っ……」
……水槽の中の音が外に漏れて来なくて、よかった。
口を抑えて半ば無理矢理視線を剥がし、他へと移す。
容器は元々封が甘い造りなのか、全ての物の蓋が外れ、その中身が零れ出ていた。
幾つもの人体パーツが水族館の魚のように液体の中を漂っていて……脳みその姿も、そこにすぐ見つけ出せた。
「あ、あった……!」
……何か妙にキラキラ光っている気もしたが、他に脳みそは無いし、アレで間違いないだろう。
肉塊からは届かないだろう水槽の端っこ。特に損傷した部分も無いようで、私は小さく息を吐き――途端、下方から紐のようなものが伸び、脳みそを絡め捕った。
「――はぁ!?」
反射的にその根元を見れば、肉塊から伸びていた。
いや、脳みそだけじゃない。その他のパーツにも紐状の肉を伸ばし、自分から取り込もうと動いている。
何で、なんて疑問を抱くまでも無い。どう考えてもさっきのババァが悪さをしている。
本人が終わってもなお付き纏う厄介さに、もう頭を抱えるしかなく、
「――――」
――そして、その肉の紐の一本が、とある眼球を絡め捕った時。
わたしが、ごろりと身動ぎをした。
「っ……?」
……その眼球は、真っ赤な虹彩を持っていた。
青の中でも鮮やかに輝く、血の色のような赤。
一般的には珍しいそれは私が毎日鏡の中で見ているもので、だからこそ元の持ち主が誰かすぐに分かった。
(――私の、右眼?)
間違えようが無い。あの容器の中に入っていたらしい。
思い返せば、あのババァが水槽に入れず標本にするとまで言っていたものだ。きっと、インク瓶の言う御眼鏡にも適ってしまっていたんだろう。
……ああ、そうだ、そうだった。あれこそが私の、わたしじゃない、私の本当の、右眼で――。
――繋いだな?
「っ!?」
頭の奥、脳みそとは違う場所で、声がした。
――彩度無き腐れ墨壺ごときが右腕一つで成せた術、絢爛たる彩の私に不可能である道理なし。そう、だからこそ、今この場に成立する脳と眼球の接続を私は識った。
「……え、せ、せつぞ……?」
意味が分からないまま、思わず水槽の脳みそと眼球を見比べる。
紐の肉で絡め捕られた二つは、確かに肉塊を通して繋がっていた。
――本来、貴様の低すぎるステージでは私の彩度に耐え切れん。だがその右眼に重なるもののステージであれば……フ、ひとつ異なれどこれも識のアセンション。いいだろう、アカシックレコードの一端を垣間見よ。
――……えっ? えっえっ、
――セェェェェンシティィィィィヴッッ!!!!
何故かわたしがゴロンゴロンと激しく暴れ出す。
慌てて私の片手で右眼を抑えてあげていると、声が突然不機嫌そうな色に変わった。
――……腐れ墨壺が繋げられる機を私は識った。故に私はそうなる前に自壊しよう。
「……は?」
――間もなくだ。そら、行け。
それを最後に言葉は止まり……同時に、水槽の中の脳みそが溶けるように崩れ去った。
キラキラと光る組織が液状化し、青の中に溶けて消える。残った紐の肉もするりと解け、迷子のようにゆらりと揺れる。
「……え? え??」
いや、何……?
本当に、何一つ、これっっっぽっちも意味が分からなかった。
頼みの綱だった脳みそが失われてしまった筈なのに、絶望ではなくむしろ安堵感すら湧き上がる。
未だのたうち回っているわたしに手をやりながら、私は呆然と水槽を眺め――。
「……?」
ふと、水槽の端に黒いものがけぶるのが見えた。
視線を移すと、そこにはインク瓶の右腕が漂い、水中に黒インクを溶かし込んでいた。
どうやらさっきの『何か』の衝突で、一緒に水槽に落ちてしまったらしい。
他のパーツと同じく紐の肉に絡め捕られたそれは、瞬く間に肉塊の下へと引き寄せられ――私が声を上げるよりも早く、肉塊へと取り込まれてしまった。
「…………え」
……あの、黒インクがずっと溢れ続けてる、右腕を?
嘆きより先に、イヤな予感が湧き上がる。
そうしてじりじりと後退りをする内に、肉塊が一度ピタリと動きを止めた。
伸びる紐の肉も、繰り返していた蠕動も、全てが沈黙。
酷く不気味な静寂が少しの間続き……やがて、肉塊の一部がぼこりと膨らむ。
そしてそれはすぐに全体へと広がって、肉塊はどんどんと膨張を続けてゆく――。
「……お、おい、ヤバいよな、これ……?」
インク瓶の黒インクは、取り込んだオカルトに激しい反応を引き起こす。
その性質にはこれまで何度も助けられてきたけれど、逆にそのせいでとんでもない目に遭った事も何度かあった。
しかも今回のこれは、その源泉たる右腕。私は脳裏で激しい警鐘の音を聞きながら、インク瓶達に声をかけ……。
「……あれ?」
いつの間にか彼らの気配が消えていた事に、やっと気が付いた。
足場から飛び降りた時は居た筈なのに、黒キノコの姿もインク瓶の手帳も見当たらない。
どこ行った。今更ながら私はきょろきょろ辺りを探し、
「――なっ!?」
遠くで、黒キノコがぐったりと横たわっていた。
おそらく、あっきの足場と腸の『何か』の墜落時に回避し損ねてしまっていたのだろう。
幸い足場にも『何か』にも挟み潰されてはいなかったが、振り回された腸の先端にでも吹き飛ばされたようで、壁の端で動かなくなっている。
(気付けや私も……!!)
脳みそばかり気にして注意が疎かになっていた自分自身に毒づきつつ、慌てて彼に駆け寄ろうとして――その時、水槽ガラスの一部が砕け飛んだ。
「は、うわっ!?」
腸の『何か』が入れたヒビが、今になって限界を迎えたのだ。
割れた範囲は非常に広く、中身の液体が私と黒キノコとを分断するように放出される。
おまけに膨張を続ける肉塊までもが溢れ出し、部屋の中をあっという間に埋め尽くしていった。
「やめてえええ やめてえええええ やめ――ぇえ……ぇぇぇ……、……」
それは進路上にあるもの全てを肉の中に呑み込んで、腸の『何か』も沈んで溶けた。
どうやら性質は肉塊そのままである事が窺える。下手に上を走り渡る事も出来ず、舌打ちが漏れた。
「く、くそっ! おい! 起きろ! おいって!!」
「……う」
肉の川越し、何度も必死に呼びかければ、やがて小さな呻きを上げて黒キノコの顔が上がった。
その顔は最初こそぼんやりとしたものだったが、すぐに周囲の状況を見て青くなる。
「ひぃっ!? え、な、何これ!? へぇ!? どうなってんの!?」
「いいから落ち着け! そんで早くインク瓶に聞け! そしたら何とかしてくれる!」
「い、インク瓶さん……で、でもこれ、もう――うわぁっ!?」
ガシャン、と水槽ガラスの割れが更に大きくなり、流れ出る肉塊の量が増す。
私と黒キノコを隔てる肉の川は、もうどうしようもない程広がっていて、これ以上は退路すら塞がれてしまいそうだった。
「……う、うぁぁ……」
「ぐ……な、何か棒とか、ロープとか無いのかよぉ、くそぉ……!」
「…………」
そうして私が使えそうなものが無いかと探し始めた一方、黒キノコは手帳に目を落として黙り込む。
インク瓶に相談しているのだろう。早く名案を出してくれと祈りつつ、私は目に付く棚やら何やらを片っ端からひっくり返し――。
「――……ねぇ、これ……っ!!」
「っ、何か方法見つかっ――うぁっ」
黒キノコに呼ばれて振り返れば、額に何かがぶつかった。
大した勢いでもなく、軽くキャッチし見てみれば、それはもはや見慣れてしまった赤い革手帳で――。
「――あ?」
顔を上げる。
肉の川の向こう。もうどうやっても辿り着けない対岸で、彼はおなかを抑えて立っていた。
その顔は蒼白に染まり切り、涙や鼻水で情けなく歪み、引き攣っていた。
しかしそれでも必死になって、どうにか、無理矢理、笑みの形を張り付けて、
「は、はは……オレさぁ、起きた時、まだ――」
――直後。
水槽から溢れ出した肉の津波が、黒キノコを――スミトを頭から呑み込んでいった。