「怪談」の話(中⑱)
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それはたぶん、腸の『何か』なんだと思う。
「なぁにここおおおおお なぁぁぁにここおおおおおお」
腕や脚といった肢の部分が一切ない、ミミズのような紐状の身体。
表面もそれっぽいぬるぬるとしたピンク色で、全体にはびっしり毛細血管が這っている。
これまでの腕とか耳とかのとは違って、内臓のだからかな。色をはじめとして随分と雰囲気が違ってて……でも、その内側に人間一人分が詰め込まれているのには変わりないみたい。
頭、腕、腕、胴体、脚、脚――バラバラの人体パーツが順番の一本線に並んでいて、そのおぞましさに流石にうわぁってなった。
……何より、そんなのがよりにもよって隠し通路から現れた。その意味するところを考えると、ちょっと大変そうな気もした。
「どこおここおおおお どこおおここおおお、どこ……、…………」
やがて全身を病室内に出した腸の『何か』は、セリフ通り自分が今どこに居るのか分からないみたいだった。
この部屋の中を確認するように、いろんな体液を引きずりながらしばらく室内をズルズルとして……その内、はたと動きを止めた。
そして頭の部分――表面にうっすらと目鼻口の形が浮き出ているから、たぶんそう――をこっちに向けると、凝視するみたいにじっとして、
「――はあああい いまぁ むかいまああああす」
すると突然そう声を上げて、器用にドアを開けて病室の外へと這い出て行っちゃった。
……向かうって、どこにだろ?
疑問に思ったものの、腸の『何か』が曲がり角を左に曲がったのを視た時、その目的地にピンと来た。
だから、わたしはそそくさと瞼を下ろし、その裏側で振り返る。
――あはぁ。ごめーん、なんか視てるのバレちゃったみたーい。
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「――ふざけんなってぇ!!」
気付けば、私は床を蹴っていた。
ぽかんとしている黒キノコの首根っこを引っ掴み、ドアに体当たりする勢いで部屋を飛び出す。
当然けたたましい騒音が響くけど、そんな事を気にしていられる状況じゃないという確信があった。
正直自分でも意味が分からない。分からないのに、でも、分かる。
そしてそれをおかしいとも恐ろしいとも思えないまま、全力で廊下をひた走った。
「ぐえぇぇぇ……! ちょ、なに、何で――ひぃ!?」
引きずる黒キノコの悲鳴と共に、背後で粘ついた音がした。
首だけ振り向けば、少し遠い曲がり角から何か赤っぽいものが見えていた。
「こんにちはあああ なにかぁ ごようですかあああああ」
大きく、太い、毛細血管のびっしり張った巨大な臓器――腸の『何か』
さっき右瞼の裏で視た醜悪なそれが、明確に私達を目指して這っていた。
「うわ、うわあぁぁッ!? 何してんだよぉ!? みつ、見つかっちゃったじゃん!!」
「あのまま部屋居たら突撃されて終わってんだよ! いいから走れ!!」
不幸中の幸いというべきか、腸の『何か』のスピードはそれほどでも無いようだった。
身体から垂れる体液が邪魔をしているのだろう。『何か』は蛇のように滑らかなうねりを見せつつも、粘つく音だけが大きく響くばかりであんまり推進力になってない。
とはいえこっちもインク瓶の右腕を抱え、おまけに片腕の無い黒キノコを引っ張っている以上、『何か』をぶっちぎれる程速くも走れずにいる。
つかず離れずの距離から脱せないまま、一度エレベーターまで戻るべくただただ走り――。
――あ、前から来るよ。
「――っ!?」
視界の隅。前方に見える窓の外に、ちらりと肌色が見えた。
――窓の外から入ってこようとしているヤツが居る。
それを察した瞬間、私は反射的に通りがかった左折路に飛び込んで――すぐに自分の失敗を悟った。
(まずい、道外れた……!)
すぐに引き返したかったが、もう後ろには戻れず、進むしか道は無い。
いや、まだ道の修正は効く範囲だとは思うけど、それでも遠回りになるのは確実だ。『何か』に気付かれ追いかけられている現状、そのロスは痛いなんてもんじゃない。
ひとつひとつ、状況が悪くなっていく。私は湧き上がる焦りに強く歯噛みして――すると、後ろでヒィヒィ言っていた黒キノコが、突然前方にあるトイレを指して騒ぎ始めた。
「――あっ!? かっ、隠しィ! あった隠し通路ぉ! たぶんアレっ、ひとつだけ、ドアが緑のトイレんとこ――」
「無理に決まってんだろ! 後ろのアレ天井裏の通路通って来てんだぞ!!」
どうやら、進路上に見えるトイレのどっかに隠し通路があるらしいが、残念ながら今となっては意味が無い。
だって腸の『何か』が隠し通路から現れたんなら、絶対他の『何か』も入り込んでいる筈なのだ。
あんな真っ暗で中腰にならないと進めない場所じゃまともに逃げられる訳ないし、数を揃えて出口や分岐路で待ち伏せされたりしたらそこで詰み。
もはや隠し通路は安全なルートじゃない。むしろ私達を追い込む罠ルートと化しているのだ。あのクソババァ……!
「――つーかそれ、あんた道分かんじゃないの!? 隠し通路の位置気付けたんならここどこら辺かとかもさぁ! どこ走ってんだよ私はぁ!!」
「あっ!? そ、そうか、えーとえーと、あの入口がそこにあるんなら、えーと……!」
『落ち着いて。ほらマップ』
黒キノコの手元で突然手帳が展開し、ページにフロアの地図らしきものが描き出された。
限りのある広さと空白部分の少なさを見る限り、たぶん今このフロアの地図ではなく、黒キノコが伝えたかなんかした元シナリオの地図なんだろう。
正直現状では落書きみたいなもんだけど、それでも大体の方向くらいは掴めたようだ。黒キノコは手帳から顔を上げるとざっと周囲を見回して――すぐに左前の方向を指差した。
「あ、あっち! 道順はやっぱゴチャってるけど、方角だけなら……!」
「分か――、っ!?」
その指示に従い、丁度差し掛かった角を左に曲がろうとしたところ、その先に『何か』が居た。
「こんにちはああああ こんにちはああああ」
たぶん、肺の『何か』なのだろう。気管支に頭部と胴体が詰まっていて、左右の肺部にそれぞれ丸まった手足が詰め込まれているようだった。
腸のヤツと似たような悍ましさに思わず足を引きかけるけど、背後には当のソイツが迫っているし、直進方向の道先に他の曲がり角は無さそうだ。
ここを行かないとまた遠回りになる――私は仕方なく覚悟を決め、肺の『何か』に突っ込んだ。
「ちょっ!? ま、待って――」
そして黒キノコを置いて一息に駆け、『何か』が行動を起こす前に跳び蹴りを叩き込む。
以前と同じ感覚での一撃だったが、内臓なだけあってかその手応えは非常に柔らかく、蹴った右肺部分に足先がずぶずぶと埋まってゆく。
素足が肺組織に包まれる感覚にめちゃくちゃ吐き気が昇るものの、めちゃくちゃ我慢しインパクト。その巨体を思い切り壁に叩き付けてやる。
「ごんッ、に゛ぢいいいい――」
普通の臓器なら破裂必至の衝撃だったと思うのだが、そこは他の『何か』と同じくタフに作られているらしい。
『何か』は多少よろめきつつもすぐに身を起こし、こっちを睨むように気管支部分の頭部を向け――私は続けてその気管支を抱え込むように掴むと、背負い投げの要領で背後へと投げ飛ばした。
「端っこ寄っとけぇぇぇッ!!」
「は!? うおわああああああ!?」
肺の『何か』は咄嗟に跳び退く黒キノコの脇を抜け、その後方へとすっ飛んでゆく。
当然そこには私達を追う腸の『何か』が居る訳で、避ける間もなく激突。揃ってもんどりうって倒れ込んだ。
見れば腸の『何か』が肺の『何か』の気管支部分に絡まり、中々起き上がれないようだった。私は臓器の分泌物でベトつく両手を乱暴に拭い、また走り出す。
「……い、いや、おかしいでしょ……やっぱSTRバグっとる……!」
「いいから案内! このままずっとこの方向で良いの!?」
「うわっ、え、えーと……!」
何やら引いた顔でブツブツ言ってる黒キノコを引っ張り、その案内で更に廊下の先へと進んで行く。
途中何度も背後を振り向いたが、腸の『何か』はそれきり姿を見せなくなった。
撒いたか――と一瞬思うも、しかし代わりに天井裏を大きくて長い何かが這い進む音がひっきりなしに聞こえ始め、どうにかして回り込もうとして来ているのだとイヤでも察した。
(……これ、他の『何か』を躱しながら、天井裏の動きまで考えて立ち回れって?)
流石にキツイって勘弁してくれってマジで。
元の乗り場でも違う乗り場でもどっちでもいい。早いとこエレベーターまで辿り着ける事を祈りつつ、ガタゴトうるさい天井を睨みつけ……ふと、いつの間にやらそこに黒い線が混じっている事に気が付いた。
(……電気のコード?)
照明の電線か何かだろうか。途中の曲がり角から這って来たそれは進路上に続いていて、先を見れば他の曲がり角からも合流しているようだった。
……まぁ、現状気にする程のものじゃないような気がしたけど、これまで進んで来た廊下には無かった変化ではある。
とりあえず手帳に目を落としていた黒キノコに天井のコードを指し示すと、その顔に探し物を見つけたような笑みが浮かんだ。
「あ、あった! あれ! ケーブル! も、元のマップなら、あれ辿ってけば手術室に行ける――」
「――これエレベーターへの道じゃねーの!?」
いきなり梯子を外され、流石に足を止めた。
そんな私に黒キノコはきょとんと呆け――次の瞬間「あっ」と口元に手を当てた。
「ぁ、ああっ!? そうじゃん! これ進むんじゃなくてエレベーターで良かったやつじゃん! いや何しとんの!?」
お前じゃい!!!
続けて叫ぼうとした時、それを留めるように手帳が展開。私と黒キノコの間で文章を綴った。
『いや、このまま手術室へと向かってしまおう。道標が見つかったのなら、これはこれでチャンスだ』
「はぁ!? で、でも、こんな追っかけられてる状況じゃ……!」
『一度戻って再アタックをかけたとして、今よりマシな状況になる保証は無いよ。……というか、ここまで来たらもう戻る方のが難しい――』
そこまで読み進めた時、天井裏を這いずり回る物音が、狙いを定めたかのように一方向へと移動していったのが分かった。
きっと、この近くに降りられる隠し通路の出入口でも見つけたのだろう。
そしてそこは間違いなく、既にどっかのババァの手によって仕掛けが解かれ、大きく開け放たれている――。
――後ろからも結構来てるよ。あとそこの病室、窓に登って来たのが居たりして。
「っ……!」
直後、真横にある病室の中から窓が開閉されるような音が響いた。
私と黒キノコは弾かれたように駆け出して、扉が開かれる前に急いでその場を後にした。
「っ……ホントに天井のコード追ってけば良いんだな!?」
「そ、そうだよ。そういうマップにしたの、オレは……!」
最後の念押しに返った声に揺らぎは少なく、こっちも仕方なく腹を決めた。
天井のコードの流れに沿ってルートを選び、その他の分岐路は全て無視。
進行方向の窓に肌色が見えても構わず進み、時には『何か』が窓を開ける寸前に適当な瓦礫を投げつけ、外に落とし戻してやる。
当然そんな事をすれば窓ガラスは割れ、鍵も何も無くなるけど……考えてみればどうせ元々開いてる訳だし、閉めてく余裕だって無い訳で。退路が無くなってる以上大した違いは無いと割り切り、遠慮なく粉々にしてやった。
「やめてくださああああい めいわくはああああ やめてえええええ」
「はぁっ、ひぃっ、い、言われてますけどぉ……!?」
「こっちは段違いの迷惑行為されてんだよ! 何か言われる筋合いは――」
――右の防火扉、腸の子がまた来るよ。
「……っ」
バン!
今まさに通りがかった防火扉が勢いよく開かれ、中から腸の『何か』が飛び出した。
――が、しかし私は咄嗟に黒キノコの襟首を掴むと、ヤツがこちらの姿を認識する前に前方へと投げ飛ばす。
「……ぇ――うごぉっ!?」黒キノコは腸の『何か』の上側をすり抜け、頭から墜落。私もすぐに下側を滑り潜って、転がっている黒キノコを引きずり離脱する。
「はああああい おまたせしいぃ……?」
そして背後で私達を見失った『何か』が困惑した気配を感じながら、天井のコードを追って角の向こうへ飛び込んだ。
腸の『何か』はすぐに追ってくる気配は無かったが……どうせまた隠し通路を這って来るのは目に見えている。今の内に距離を稼ぐべく、足を速めた。
「あっぶねー……あんがとな」
――いえいえ。
「……い、今のでお礼……? ゴメンじゃなくて……??」
『…………』
ともかく、そうして廊下を進んでいる内、段々と天井のコードがその数を増してゆく。
分岐路を越える度、その向こうから伸びるコードが一本、また一本と合流し、やがては天井全体を蔦のように覆い尽くすまでになっていた。
そして気付けば廊下も長い長い一本道へと変わり、窓も部屋の扉も消えた。ただ、打ちっぱなしのコンクリート壁だけがずっと続いている。
……私達を追いかけていた『何か』の気配も、いつの間にやら居なくなっていた。
「…………」
「ぜぇっ、はぁっ、はぁっ……く、ぅ……」
夕陽も届かず、電灯もコードの束の下に埋もれて消えた。
その隙間から差し込む微かな明かりしか無い薄暗闇の中、おなかを抑えた黒キノコの荒い息だけがやたらと響く。
自然と走る速度も落ちていき、私は周囲への警戒を一層深め――パチ、といきなり前方が明るくなった。腹痛の収まったらしい黒キノコが、持っていた懐中電灯を点けたのだ。
「だ、大丈夫……今んとこ、合ってる。たぶん……」
「……分かってる」
明らかに異質な雰囲気だし、そこらへんはもう疑ってはいなかった。
そしてここからは黒キノコが先頭に立ち、私は後方で警戒しながら歩いてゆく。
ここまで騒々しく走っていた分、歩きの遅さにジリジリとした不安感が募った。
「……このケーブル、蘇生装置のやつなんだ」
すると黒キノコも同じ不安感を抱えていたのか、誤魔化すように零し始めた。
「院長の息子、ミンチになったって言ったじゃん。普通の手術じゃどうにもなんないから、その肉塊を水槽みたいのに入れて培養的なやつしてんのね。ケーブルはその機械の電気系統とか、それっぽいの」
「……『みたいの』、『的なやつ』、『それっぽいの』」
「こ、こういうやつのディテールはそんなんでも良いの。雰囲気作りも大切なの……!」
さておき。
「……で、その息子の肉塊も実験とか外法とかでだいぶ変質起こしてて、今まで見て来た人造人間みたいになってる。水槽の中に人体パーツを放り込めば、それを取り込んで組み上がっていくんだ。だから、ここに……」
黒キノコはそこで言葉を切り、懐中電灯を小さく揺らす。
その先には、伸びる無数のコードが挟まり、開きっぱなしとなった自動ドアがあった。
扉としての機能を失ったその横には、掠れたプレートがかけられており――辛うじて、手術室とだけ読み取れる。
……私と黒キノコは一度だけ目を見合わせて、ゆっくりとその中に足を踏み入れた。
「――……」
青。
青の揺蕩う、部屋だった。
器具類は無く、天井を這う無数のコードの隙間から物々しい照明が吊られ、床には患者カルテらしき書類が大量に並べられている。
たぶん、会場でひゅどろんチが流していた映像と、ほとんど同じ光景の筈だ。
……けど、そこから奥に目をやるにつれ、記憶の中のそれからどんどん乖離していった。
天井は急激に高くなり、間取りも不自然に広く拡張され、やがてはどこぞの体育館のような大きな空間へと変貌してゆく。
――そして、その最奥に件の水槽はあった。
部屋の外から伸びて来たコードを全て吸い込んだ、機械仕掛けのガラス塊。
内側はよく分からない液体でいっぱいに満たされ、青いバックライトで照らされている。
その青い世界の中央に、赤いものがひとつ、浮いていた。
「…………」
それは、正しく肉の塊だった。
筋肉と、骨と、脂肪と、内臓と。そういったものがぐちゃぐちゃに混ざり合った赤色が、ゆらゆらと揺れ、ぼこりぼこりと泡を吹き、忙しなく蠢いては捏ねられるようにその形を変えている。
ゆっくりと、そして確実に人間の形に整えられていくその肉塊に、私は酷い悍ましさと嫌悪感を抱いた。
「――ふん、ふん、ふーん……♪」
…………そんな、光景に。
そんないっそ冒涜的とも言えるであろう光景の中に、ひとつの人影があった。
それは水槽の上部、開かれている蓋の縁に沿うよう設置された足場に立っていて、楽し気に鼻歌なんて唄っていた。
そして、何かラベルの張られた寸胴鍋のような容器を抱え、水槽の中へと傾けている――。
「……あら? あららぁ? ちょっと、ねぇ、ちょっと。やっと逢えたわぁ、綺麗なあなた……!」
――地圀幸。
私に気付いたそのクソババァは、水槽に容器の中身を――おそらく人間の臓器類をどぽどぽ注ぎ込みながら、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべていた。