「怪談」の話(中⑮)
*
「……この先、どうなってんだろ」
小さな稼働音を響かせながら流れ続ける、エスカレーターの床。
私はそれが消えゆく薄暗闇の奥へと目を眇め、何となしにそう呟いた。
誰に問いかけるでもない独り言だったけど、思ったより響いたらしい。手帳でインク瓶と何やら話していた黒キノコが顔を上げ、同じくエスカレーターの先へと目を向けた。
「……オレの設定通りなら、処分場。流れの最後に圧砕機とか焼却炉とか、そういう機械が纏めて繋がってて……最終的に灰とか焦げカスになって、廃棄穴から下にバラ撒かれる感じ」
「えぇ……」
処分場の類とは私も予想はしていたものの、思ったより念入りな処分の仕方で若干引いた。
部屋の端を歩く傍ら、すぐ傍を流れ続ける床に怖気が走り、サッと足を下げておく。
「なんでそんな物騒な……ここ、元のシナリオで何か重要な場所だったりすんの……?」
「いや証拠隠滅とか失敗した改造人間の処分用とか、そんなフレーバーで……やっぱ病院ってなると、あからさまにヤバい設備は欲しいよね」
「いらんが???」
どうやら単にホラーとしての雰囲気出しという事のようだが、実際体験している身としては堪ったもんじゃない。
そうゲンナリしつつ、抱えるインク瓶の右腕へと目を落とす。
「つーかそうなると、あんたも危機一髪だったんだな……偶然センシティヴの身体で引っかかってなきゃ、今頃ミンチで灰だって」
『……偶然な訳ないだろ、あんなの』
すると黒キノコの手元の手帳が展開し、これ見よがしにそんな一文を並べ立てた。
筆跡からウンザリ加減がよーく伝わり、やれやれと首を振るように文字が揺れる。
『断言するけど、彼は間違いなくこうなる事が分かっていたよ。分かった上でああなったんだ』
「……は?」
文章の意味がすぐには呑み込めず、ぱちくりとする。
『霊侭坊さんの所で話したろ、彼は君をこの場に呼び込むために動いていたと。そんな奴がただ無意味に死体になると思うのかい。そもそも彼、このオカルトを回避する事だって出来た筈なのに』
「……で、でも、脳みそ取られるんだぞ……? それも分かってて……?」
『全部織り込み済みなんだよ。だからこそ、わざわざあんな変なポーズで死んでいるんだ。脳を取り除かれた身体がゴミとして捨てられた先、エスカレーターの途中でうまいこと引っかかるように。……同じく捨てられた僕の右腕が失われないよう、防波堤となるために』
思わず、センシティヴの死体の方を見た。
流石にずっとは持ち運べないという理由で放置したままにしていたが、電灯の真下にあるおかげでここからでもその姿は確認できる。
チカチカと明滅する細い灯りに照らされた彼の躯は、その表情とポーズのせいもあってかある種間抜けなものにも見えていたが……今の話を聞くと、背中に薄ら寒いものが這い上がってきた。
『そして、自分の抜け殻にそんな役割を持たせられたなら、残ったものもただの水分脂質タンパク質の塊のままである訳が無い。だから――』
「……だから、『当て』ね」
センシティヴの死体から目を引き剥がし、前方に目を戻す。
私と黒キノコが進む先、部屋の壁際にひっそりと佇む扉があった。
汚らしい赤錆の目立つ、片開きタイプの小さな扉。その隣には三角形の小さなボタンが一つあり、今にも消え入りそうな弱々しさで明滅している。
――エレベーター。
片腕の無い黒キノコを加えた今、二人揃って部屋から出られる唯一の道。
「…………」
……正直、また『何か』のひしめく階に戻るのは勘弁願いたくはある。
とはいえ今はそんな事を言っている場合でもなく、私は深い溜息を落としつつ胸の右腕を抱え直した。
――夢幻だというこの廃病院の異界から目覚め、脱出するための解決法。
インク瓶が言うには、その『当て』は抜き取られたセンシティヴ邦の脳の行方にあるとの事だった。
『先程スミト君から聞き出した話では、僕達から抜き取られたパーツの中で御眼鏡に適ったものは、とある部屋に丁重に保管されるらしい。アレの脳の在り処ははおそらくそこだ。何がどう査定しているのかは知らないが、何であれまず間違いなく御眼鏡には適っているだろうからね』
黒キノコの設定上、私達が身体の一部を取られているのは、院長の亡くなった息子の身体を組み直すためだ。
それを思い出せばまぁ納得のいく話ではある。
センシティヴの脳みそという部分が激しく引っ掛かるが、予知能力を持ったヤツの脳みそなんて相当な貴重品だろうし、狙うのも分からなくはない。
……センシティヴの、ってのがホント心底から引っ掛かるけど。
とはいえ、それが何で現状における解決法の当てになるのか。
そう聞いた時にはちょっと意味が分からず、インク瓶も『とりあえずアレの脳がどんな状態なのかを見ないと何とも言えない』と言葉を濁していたため、まるでピンと来ていなかった。
でもまぁインク瓶の言う事だしと、流れで探しに動き始めたのだが――センシティヴの死体を示して根拠を聞かされた今、ピンと来ないなりに重たい説得力を感じざるを得なかった。
『――よし、じゃあエレベーターのボタンに、僕の手首を近付けてくれるかい』
そうこうする内にエレベーター前に辿り着き、さてどうすんだと思案した矢先、手帳にそんな指示が綴られた。
その理由が分からなくて少しだけ首を傾げたけれど、渋る意味もなし。彼の言う通り、ずっとインクを垂れ流し続けている手首をエレベーターのボタンに近付ける。
するとインクの一部が跳ねるように弾け、ボタンに付着。そのまま蠢き、隙間の中にずるりと入り込んで行った。きもちわる。
「うわ……なに、今の」
『ちょっとした干渉。これがただの機械であれば無理だけど、オカルトに類するものなら話は別だ。自由自在の好き勝手とまではいかないが……多少の融通くらいは利かせて貰おう』
それを最後に文章が崩れ、インクが何かを探るように不定形に蠢き始めた。
よく分からんが、何かしらハッキングめいた事を試みているらしい。
終わるまで待っていてくれとの事なので、私と黒キノコはどちらからともなくしゃがみ込み、手帳を挟んで息を吐く。
そして、インクの影響か明滅を激しくするボタンの光をぼんやり眺め――ついと、インク瓶の右腕に目を向ける。
「……こんな事できんのに、なんでゴミ扱いで捨てられてたんだ、これ……」
『ん? ああ、まぁオカルト側からしたらそんな扱いにはなるよ』
呟けば、紙上で蠢くインクの傍らに、小さくそんな文章が浮き出した。
どうやら干渉するのにかかりきりという訳でもなく、片手間で会話できるだけの余裕はあるらしい。
『いや、ゴミどころか有害危険物になるのかな。インクを取り込んだオカルトが激しい反応を起こすの、君も知っているだろ?』
「うん……それで助かってるのも多い、けど」
『このインクには、魔除けのようなものを粗方溶け込ませているからね。桜の花弁、お神酒、舞の音色、ブランド稲穂、刻の御髪……そして御魂雲の血液も。大抵のオカルトからしたら、そんなインクを垂れ流してる腕なんて、さっさと切り取って捨ててしまいたかった筈だ』
「お、『親』の血も混ぜてんの……!?」
思わずうげぇと顔を顰めたが、一方でストンと落ちるものもあった。
他の魔除けについては何も分からんものの、御魂雲の血がオカルトにとってどれだけの劇物となるのかはよーく知っている。
インク瓶のインクを取り込んだオカルトが酷い事になる理由に、これ以上なく納得いってしまった。
「……ま、まぁ、ゴミ扱いの理由とかは分かったけど……つーかそもそもどうなってんの、これ。何で手首からインク出てんの」
なんとなく聞くタイミングを逸していた疑問をぶつけてみれば、インクの文章がほんの一瞬ぎくりという風に固まった……ように見えた。
しかし次の瞬間には何事も無く滑り出し、続きを綴る。
『……いわゆる霊障だよ。この界隈に触れはじめた頃、危険を何も理解しないまま馬鹿をやってね。結果として、オカルトに手首をドロドロに溶かされたんだ』
「えぇ……大丈夫だったの、それ」
『一応、後で病院やら霊能力者やらに診せはしたんだが……どうにも治らなさそうだったから、開き直って限界まで有効利用する方向に舵を切った。その試行錯誤の果てがその手首であり、このインクという訳だ』
その文章に、視線が自然と彼の手首に吸い込まれてゆく。
……見た目からして明らかではあったが、今の話で確定した。そう、これはつまり、
「――やっぱ見た通り、あんたの血とか肉とかなんだな、このインク……」
今度は答えは返らなかった。
代わりに、どこか硬い筆跡の文章がズラズラと浮き上がる。
『これに関しては、申し訳ないが仕方ないと割り切って欲しい。このインクが君に必要だという僕の考えはやはり変わらないからね。無論意図的に原材料の情報を伏せていたのは確かだから、それに関する誹りは全て受け止める。……だが、それでも、そのインクがどうしても気持ち悪くて耐えられなくなったのであれば、その時は他の方法を考える事も――』
「……え? いや、そこらへんはいいよ。あんたのだし、別に」
「ごっほ」
その時、こっそり私とインク瓶のやり取りを盗み見ていた黒キノコが咳き込んだ。
んだコラと視線をやれば、彼は「な、何でもないっす……」と非常に気まずそうな顔でそっぽを向いた。……え、何?
『……気にならないのかい? 一応、人間の血と肉のペースト……さらに悪い言い方をすれば、僕の分泌物なんだけど』
「ん……その言い方はアレだけど、もう散々触ってるしなぁ……」
初対面時、手にインクのおまじないをかけて貰ったのを皮切りに、あれやこれやとべったべた。
こうしている今も、インク瓶の右腕を抱えているおかげで身体のあちこちがインクで真っ黒の有様だ。うーん今更。
というか、こちとら蜘蛛の地下で『親』の腐肉、腐汁、腐敗ガスを全身に浴びた女である。
アレに比べたら何でもマシってのもあるし、こっちは臭いも感触も普通のインク。その正体が何であれ、これまで持っていた『インク』の認識を覆すには至らなかった。
「大体、これが無きゃ私とっくに死んでるだろ。今になって掌返すのも違うし、それに……」
『……それに?』
「『インク瓶』から『インク』が出てくんの、当たり前じゃん」
言葉にすれば存外にしっくりと来て、僅かにあった引っ掛かりも消えた。
そのぴたりと収まった感覚に思わず一人頷いていると、インク瓶は一拍の間をおいた後、ページの端を微かに揺らした。
それは小さく笑ったようにも、馬鹿にするように鼻を鳴らしたようにも取れるもの。
……何となく据わりが悪くなった気がして、私は手帳の角を軽く弾き――ふと、新しい疑問が頭をよぎる。
「……インクの事は分かったけど、この手帳は? 持ち物、全部無くなってんだよな……?」
この廃病院に連れて来られた全員は、衣服を含めた全ての持ち物を失っている。
インク瓶もそれは同じで、この手帳も無くなっていると言っていた筈だ。
なのに実際はここで右腕と一緒に捨てられていた。もしや他にも没収されたものが捨てられているのかと周囲に目を凝らしたが、それらしき物も無い。
まぁ『ゴミ』は全部エスカレーターで流されバラバラの灰にされているらしいから、手帳だけがセンシティヴの死体に引っ掛かっただけなのかもしれないけど……。
そう考えていると、その手帳に言葉を選ぶような筆の遅さの文が浮かんだ。
『……この手帳、少し特別な代物でね。右手首のインクを導にしてついて来ていたみたいだ』
「特別?」
『そう、ちょっとした曰く付きだから、この子』
「え゛っ」
曰く付き。
その単語が出た途端、手帳を持っていた黒キノコが勢いよく身を引いた。
指先でつままれ、ばっちぃもの扱いされる手帳の中で苦笑するようにインクが揺れる。
『……今から三百年くらい前、とある地域でそこそこ名を馳せていた霊能力者一族が居てね。その家所縁の代物なんだ』
「ふぅん……そんなボロッちく無い気するけど」
『オリジナルという訳じゃないからね。重刷というか重版というか……この子自身は、生まれてまだ十年かそこらさ』
「…………」
この子、とか。生まれて、とか。
表現が一々生きているものに対するそれなんだが、これ突っ込んでいいヤツだろうか。
手帳の表紙、重たい赤色をした革の光沢にどこかゾッとするものを感じてしまい、私も黒キノコに倣ってじりじりと後退り、
『――ちなみに、その霊能力者一族の家は、「査山」という』
――ごろり。縫われた右眼の下が、蠢いた。
「……え」
『千里眼という、その名の通り千里を見通す「視る」霊能を持つ一族だった。一族はみな名前に金属や鉱物の字を持ち、そしてその長は代々【鉄斎】の名を襲名し……まぁ細かくは省くとして、家自体は色々とあった末に断絶という扱いになった。けれどその血筋そのものは完全に途絶えず、傍系や隠し子という形で細々と残っていたらしい』
「ちょ……ま、待ってよ。その、査山、って……」
『そう、君の想像通り――査山銅のご先祖様だと、僕は見ている』
……話がいきなりすぎて、すぐに頭に入って来なかった。
視界の隅で困惑顔の黒キノコが声を掛けて来たけど、反応する余裕もなく。
代わりにその手から手帳をぶん取って、ページに顔を近付けた。
「ご、ご先祖……じゃあ、あの子の力、も」
『間違いなくそこからだろうね。事実、御魂橋にも査山の血を引く者が「千里眼」を喧伝していた時期があると、君の親御さんから聞いている。もっとも、詐欺まがいの事をしてお上に捕まってたらしいから、その力量については察するけど』
『だから……』インク瓶はそう続け、筆跡をどこか悲しげなものに揺らめかせた。
『先祖返り、だったんだろうね。査山の証たる千里眼の霊能を血統の川底から掬い上げ、そしてそれを受け継ぐに相応しい……いや、それ以上の才覚を具えていて……』
「…………」
『……僕が査山を――八代目査山鉄斎を名乗れているのは、本家末代である七代目の遺した手帳の管理を適切に行えているから、というのが大きい。僕個人は千里眼の霊能なんて無いし、そもそも霊視だってあまり得意じゃないんだ。……きっと本当なら、八代目の肩書は、彼女にこそ、』
――あはぁ、いちばんだったんだぁ……!
インク瓶はそこで突然文字を止めたかと思うと、すぐに崩して消し去った。
そのまま少しだけ間を開けて、おずおずといった速度でまた字が浮かぶ。
『すまない。余計な事まで語ってしまった。後半部はさっさと忘れてくれていいよ』
「……別に。あんたも一応『査山』ってんなら、思う所があるってだけだろ」
彼の気まずげな筆跡にちょっとだけ気が抜け、溜息と一緒に吐き出した。
そしてまっっったく話についていけてない黒キノコに手帳を突っ返し、エレベーターへと目を戻す。
「……ただ、ちょっと、いきなりすぎん……? しんどいってぇ私もぉ……」
『この先どうなるか分からないからね。話せる時に話しておかずに失敗するのは、さっきの一度で懲りたから――、っと』
ぐったりと文句をつける私にそんな文言が返ったかと思うと、眺めていたボタンがバチンと黒い火花を噴き上げた。
「うわぁっ!?」油断していた黒キノコがビビり散らす中、手帳の中でまた文字が躍った。
『――エレベーターを使うなら、やっぱり専門家に任せたいからね』
ビー、ビー。
鳴ったのは、これまでの階とは違い完全に業務用といった風な濁った電子音。
そして錆びた金属の擦れる聞き苦しい音が響き――エレベーターの扉がゆっくりと開かれた。
「――? ――??」
エレベーターの中に居たのは、膝を抱えて座る女顔の青年が一人。
――歪いびつ。
この廃病院に限っては最早エレベーターの主とも言っても過言では無い彼が、こちらをきょとんと見つめていた。