「顔」の話(下)
3
「――最初から、居たよ。あの唇みたいな、アレ……」
そんなこんな、何とか裏道から這い出した後。
塀に縋りつき暫く吐き気と格闘していた髭擦くんは、やがて独り言のように呟き始めた。
「先週の、朝……学校に行く時だ。お前の真っ白な頭が目立ってて、見て……そしたら、肩の上にアレが居たのが見えたんだ。だが……その時は、その……知らんぷりを」
気まずそうに私を見て、ぎょっとするように目を瞠る。
たぶん、元に戻った私の顔に驚いたのだ。ある意味ではこれが初対面である。
どうだ美少女だろう――なんて嘯く気には、今はなれなかった。
「……もういーよ。正しいよあんた。それ系は人に話したって良い事無いってのは、私も知ってんだ」
「……あ、ああ……分かってくれる、のか」
髭擦くんは深々と溜息を吐くと、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「昔から、ああいうのが見える事が何度もあった。詳しい事なんて何も知らん。が、よくないものだとは察してたからいつも近づかないようにしていて、お前の時も……でも何日か経つうち、アレが少しずつお前の顔を崩してる事に気付いてゾッとした」
「……そんで、あの橋の上で声かけてきたの?」
「ぼうっとしてるお前の顔がどんどん溶けてく姿を見たら、咄嗟に」
あの時そんな事になってたんか。
当時の事を思い出したのか、それともつい先程の光景が蘇ったのか。髭擦くんは再び口元を抑えてえずいた。
まぁ、予想通り、彼は霊感持ちであったという訳だ。
昔からオカルトのある世界で暮らしていた事に同情し、そっと背中を撫でてやる。
「ぅぷ……そ、そうやって一回関わったら、また知らんぷりなんて出来なくて……。あの時は俺が声かけたら顔崩れるの止まったから、また顔が溶けても同じように止められるんじゃないかって、だから……」
「そんで休み時間中のストーカー? もっと何か無かったの……?」
「……あぁ、そうだな、もっと考えるべきだったんだ。だって結局、こんな――」
髭擦くんは言い返す事も無く、弱々しく裏道の入り口を見る。
きっとその視線の先には『親』の死体があるのだろう。もしかしたら変な罪悪感とか持っちゃったのかもしれない。
「……あんたのせいじゃないんだから気にすんなよ。私が助かったのは確かなんだからさ」
「だ、だが……お前のお母さんなんだろ、さっきの」
「母親じゃなくて、『親』。今死んだのが私を産んだヤツかは知んない」
「……? それは、どういう――」
と、髭擦くんが首を傾げた時、私達に近づく人影があった。
ちょうどいいや。私は口をへの字に曲げ、近づいてきた人物に対し髭擦くんを指差した。
「――どーすんの、あんたが死んだせいでトラウマになったってさ」
「そうか、悪い事をした」
ごく、自然に。
私の言葉に応えたその男は、全く知らない人だった。
顔も、声も、何もかもに覚えが無い。正真正銘の初対面で、真っ赤な他人としか言えない男。
『親』の一人だ。
私にはすぐにそうと分かるけど、髭擦くんは唐突に現れた不審人物に困惑し、私に縋るような目を向けて来る。
「……し、知り合いか?」
「『親』」
「え……お父さん?」
「違う。『親』」
「……父親は親だろ……?」
彼の表情が困惑から混乱へと変わるが、詳しく説明する気は無かった。
私は髭擦くんから視線を外し、『親』の男へと向き直る。
「で、結局なんでまたあんた出てきたんだよ。私の周りで起こるヤツには関与しないって――」
「都合の良い状況になったからだ」
『親』は遮るようにそう返し、近くにしゃがんで私の容態を確認し始める。
知らん男の身体に顔をぺたぺた触られるのは正直キモかったが、さっきまで自分がどんな状態だったのかを思い、仕方なく受け入れた。
「ずっと観察し、あの唇の性質を見極めていた。そして偶然、お前が助かる状況が整った」
「…………」
「我々は丁度良くこの場を通りすがり、そこの少年に質問をした。結果向こうからこちらに襲いかかり、こうなった。お前に直接関与した訳では無い」
「この前街中で話しかけてきたのは何なんだっつーの……」
頬を触る『親』の指から逃れつつツッコミを入れるが、それを無視。
そして私の顔に異常が無いと分かると、次に髭擦くんを診始めた。
しかし当の彼は未だ混乱した様子のままで、縋るように『親』へと詰め寄った。
「あ、あのっ。そこの道入ってすぐ、死体があるんです! たぶんそれ、そこに居るやつの母親、いや、あんたの奥さん……その、だから――」
「落ち着きなさい、分かっているから」
必死ともいえる訴えを遮り、『親』は髭擦くんを優しく宥める。私の時とはえらい違いだ。
しかし髭擦くんもいい加減いっぱいいっぱいになっていたのか、逆に興奮して言い募る。
「お、おかしいだろ!? 人が、あんたらの家族が死んだんだぞ!? だったらもっと何かあるんじゃないのか!?」
ごもっともである。
今この場においてまともなのは髭擦くんの方であり、私と『親』の反応は相当におかしい。私もそれは自覚している。
『親』はそんな髭擦くんに小さく頷くと、彼の肩に手を置きしっかりと視線を合わせ、
「無事だよ」
……そう答えたのは、『親』の男ではない。
その横合いから突然に見知らぬ少女が現れ、自然に会話に混ざり込んだのだ。
「……は?」
「だから、無事なんだ」「確かにあの身体は死んだ」「だが、厳密にはこの場に死人は居ないんだよ」
「え、えぇ?」
そのまま見知らぬ少女は『親』の男と交互に言葉を紡ぎ始めた。
当然髭擦くんは酷く混乱したようだったが、しかし『親』達は気にも留めない。
更に道を歩く人々の中からまた幾人かが現れ、言葉を繋いだ。
「見なさい」「まだ、こんなにも居る」「確かに損失はある」「が、全体としては無傷に等しい」「分かっただろうか」
「ひ、なに、なんっ……!」
「ああ」「まだ安心できないか」「なら――」「これで」「どうか」「な」
一人、また一人と。
どこからか人が集まり始め、人の壁となって髭擦くんを囲い込む。
そして彼らは皆が皆うっすらとした微笑みを浮かべ、髭擦くんをじっと見つめるのだ。
数多の瞳、それぞれの視線に乗るのは、たったひとりだけの意識。
――私の『親』は、身体をたくさん持っている。事実だけを言えば、そういう事になっていた。
「どうだろう」「これで」「君の心」「配は杞憂」「だと理」「解できた」「かな」「いきなり呑み込」「むの」「は難しいかもし」「れないが、理解して欲」「しい」「我々」「はこういう」「存在」「なのだと」
男が居た。
女が居た。
子供が居た。
中年が居た。
老人が居た。
そして、赤ん坊さえも――。
髭擦くんを囲む大量の人々が順繰りに言葉を放ち、多種多様の声音が明確なひとつなぎの文章を織りなしていく。
なんて異常で、不気味な姿なんだろう。
全身に走る気持ちの悪い怖気に、唇を噛んで耐え忍んだ。
……『親』の子である私でもそうなのだから、その中心に居る髭擦くんの恐怖たるや。
私は憐れみと共に、恐る恐ると『親』の人垣の中を覗き見て……、……。
「……ねぇ」
「故に」「我々の」「死に対し」「ても」「そういうもの」「と思って、」
「ねぇってば」
「何だ」
「そいつ、気絶してない?」
「何?」
私の言葉に『親』の一人が髭擦くんに近寄るが、何も反応が無い。
そう、アホみたいに分かり難いが、彼は正真正銘白目を剥いて立ったまま失神していた。体幹どうなってんのこいつ。
「……確かに」「何故だ」
「いや、こんだけ意味分からんのに囲まれたらそりゃ怖いでしょうよ……」
「だが彼は」「昔から霊視」「できたのだろう?」「ならば、様々な奇怪なものが寄って来ていた筈」「我々は人間と同じ姿だ」「多少数が多いが、その程度で……」
「ずっとオカルトには近づかないようにしてたんだってさ。なら慣れも何も無いんでしょ」
たぶん、今回において彼の内面はずっとパニックだったに違いない。
だからこそ、髭擦くんもストーキングやらの極端な行動に走ったのだ。
いつも白目で表情がよく分からんため、若干の落ち着きがあるように見えただけだ。紛らわしい。
「しかし……」「ああいや」「確かに、我々も」「彼の気絶に気付けなかった」「なら、納得が行くか」
すると髭擦くんを介抱していた『親』達が、何やら得心がいったように小さく頷く。
妙な含みのあるその様子を胡乱な目で眺めていると、何を勘違いしたのか聞いてもないのに説明を始めた。めんどくせ。
「お前がオカルトと呼ぶものは」「大抵の人の瞳には映らない」「だからこそ」「それを映す瞳はよく目立つ」「故に」「それに気付けば」「それに気付かれ」「結果」「接近して、」
「どうでもいいけど、こんだけ人数居るとその話し方すげーウザい」
「……そうか」
好き勝手に喋っていた『親』達が、代表となる一人を除いて口を閉じた。
なんとなく、しょんぼりしている気がしなくもない。
「……つまり、オカルトが視えるのであれば、必ずそれに巻き込まれる。例え近寄らないよう策を弄したとて、その瞳を抉らぬ限り全て無意味なのだ」
自然と今回の唇が脳裏に浮かぶ。
振り返れば、あれは私に気付かれないよう近づき、こっそり顔を盗ろうとしていたようだ。
確かに、ああいったタチの悪いタイプを意識的に回避するのは不可能に思えた。
「え、じゃあ何で髭擦くんは今までオカルト回避できてたん……?」
半ば独り言じみたその疑問に、『親』はどこか気まずそうに視線を落とした。
「……単純に、分からなかったのだろう。この子の視界に、己が映っているかどうかが……」
「はぁ? なにそれ、どういう――」
そこまで言って気付いた。
思わず髭擦くんを振り返り、その顔を凝視する。
いや、正確には、ギョロッと剥かれたその白目。
「……いやいや、冗談でしょ?」
「少なくとも、視線がどこにあるかは分からん。その瞳に何が映っているのかも分からん。感情の揺れもイマイチ分からん。そして我々もまた、彼の気絶が分からなかった」
「ぐぅ」
という事は、あれか。
私が髭擦くんを常に白目を剥いているヤツと思っていたように、オカルト側にもそういう風に見えていたと。
瞳があんまりにも小さすぎて、視線も感情も読み難いもんだから、オカルトが視えているヤツなのかどうか向こうも判別し難かったと。
あの唇も困って動きが止まっていた、と……。
「――いやクソボケすぎんだろバッカじゃねーの!?」
「そういうものだよ、アレらは」
「限度があんだろ!」
いっつもあれこれ悩んでるこっちこそがバカみたいじゃねーか!
そうやって頭をぐしゃぐしゃやっていると、道の先から一台の乗用車が現れた。
『親』の一人が運転しているらしきそれは、ごく自然に私達のすぐ傍に停車。
後部座席のドアが開くと、髭擦くんをおぶった『親』が黙々と彼を車内へ運び始めた。
「乗りなさい。あんな事があったのだ、お前達は今日は家に帰って一日休んだ方が良い」
「……髭擦くんは? 送るったって、住所とか……」
と、その時、遠くから学生鞄を持った『親』が駆けつけてきた。
その手には鞄から抜き取ったらしき学生証が握られている。髭擦くんの物だ。
どうやら、彼が私の助けに入った時にぶん投げていたものを拾って来たらしい。
こなれてんな。呆れた私はもうそれ以上何も言わず、車の助手席へと乗り込んだ。
「……はぁ」
……ちらりと見た運転席には、壮年男性の『親』が乗っている。
バックミラーに目をやれば、後部座席に気絶した髭擦くんと、その面倒を見る『親』が二人。
うんざりと窓の外を眺めても、そこにはまだ大量の『親』達が屯し、裏道にある『親』の死体の事後処理に動き回っている――。
「…………」
「……何をしている」
「白目剥いてんの」
「お前がそれをした所で何の意味も無い。その気持ちの悪い顔に下品を上塗りするだけだからやめておけ」
「あんた私の『親』やめろ」
そんな私の罵倒を置いて、車はその場を後にする。
暫く耳を澄ませてみたが、もう舌打ちの音は聞こえない。
まぁ、当たり前だ。ほうと小さく息を吐き、座席に深く背を預けて……。
「――……」
……気付かなかっただけ、とかじゃないよね。
私は少しの不安を感じつつ、自分の顔を上から順になぞっていった。
――あはぁ。
主人公:一人しか居ない。唇の正体に心当たりがあるようだ。
髭擦くん:一人しか居ない。白目に見える目つきのおかげでオカルトに対するステルス値が高いようだ。
『親』:たくさん居る。登場時の容姿の描写が毎回違う。
盛り盛りした思わせぶり描写の回収はそのうちのんびりやってきます。
気長にお付き合い頂けると幸いです。