「怪談」の話(中⑧)
*
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
裸足の足音が四つ、夕焼け色の廊下に響く。
それは隊列を成した肌色の何かが徘徊する音……ではなく、四人の人間が歩く音。
私。
インク瓶。
SUMITOとかいう黒キノコ。
そして――霊侭坊巖常こと剛拳おじさん。
そんな色んな意味で纏まりのない集団が、ぞろぞろと合わない歩幅で進んでいた。
「――よし、気配は無いようだな」
先頭。とある防火扉の先を覗いた剛拳おじさんが、私達へと手招きをする。
それに続いて覗いてみると、これまでと同じく病室エリアから離れるように細い通路が伸びている。その先は薄暗闇の中へ消え、どこに続いているのかまでは見通せず……。
「…………」
チラッ。剛拳おじさんに目をやった。
ニカッ。黒光りする笑顔が返される。まぶしっ。
「あの……この先に……?」
「うむ。こんな状況だ、不安に思う気持ちは分かるが、こちらできちんと合っているとも。さぁ諸君、臆せず進もうではないか」
恐る恐るの問いかけに力強く頷き、自ら進んで防火扉のくぐり戸を通り抜けた。
……自信に溢れるその背中を見ていると、なんとなく不安感が薄れてくるから不思議である。
その雰囲気に流されたのか、黒キノコも意外と素直に後に続き……私といえば、肩を支えるインク瓶の顔をそっと窺った。
「……まぁ、大丈夫だと思うよ。悪い人ではないからね、悪い人では」
「微妙に含み持たせんなや……」
とはいえ、インク瓶がそう言うのならそうなんだろう。
私は軽く息を吐いてインク瓶を支え直すと、腹をくくってくぐり戸の先に歩を進めた。
――現在、私達は剛拳おじさんに連れられ、とある場所へと向かっていた。
経緯としては、さっきの防火扉前での騒動の後にまで遡る。
なんやかんやとあり剛拳おじさんとの遭遇を果たした私は、彼をインク瓶達と引き合わせてみる事にした。
このまま廊下に棒立ちのままってのもアレだったし、纏っているテカテカとした雰囲気やイベント出演者側と言う立場的に、インク瓶達へ暴力を振るう事も無いだろうと判断したのである。
そしてその見立て通り、剛拳おじさんはインク瓶達の顔を見ても激昂せず、普通に互いの無事を喜んでいた。
一応、私もそれとなく警戒はしていたが、特に問題なさそうでホッと一息。とりあえず廊下に放り出したままの気絶した男を回収しに行き、ずるずる引きずり再び病室に戻った時には既に、剛拳おじさんの先導でどっかに向かうという話で纏まっていたのだ。は?
私の居ない内に勝手に決めんじゃねーよ……と思わなくも無かったが、なんでも私達の他にも無事だった人達が居るらしく、その人達が集まっている隠れ場所があるらしい。
おじさんはそこを拠点としながら、他にも生き残りが居ないか廃病院内を捜索していたようで、私達の事も案内してくれるとの事だった。
まぁそう言われれば私としては特に反対する理由も無く、インク瓶も『ひゅどろんチのヤツらを探す』という目的からして人の集まる場所に行くのには肯定的。
唯一、暴行の件を気にする黒キノコが「ほ、他の人が居る場所は……」と難色を示したものの、剛拳おじさんのこってりとした圧に負け――そうして、場面は冒頭に戻る訳である。
「――時にお嬢さん。彼、重たくはないかな?」
狭くて暗い通路を進んでいる最中、剛拳おじさんがくるりとこちらを振り向いた。
一瞬何のこっちゃと思ったが、私が支えているインク瓶の事を言っているようだった。
「インク瓶君も細いとはいえ大の男だ、お嬢さんも色々と大変だろう。よければ私の方で請け負うが、どうかね」
「や、別に……この人軽いんで全然だいじょぶです。ていうか、そんなん言うならおじさんの方こそ……」
インク瓶を支える腕にぎゅっと力を籠めつつ、剛拳おじさんの左肩を見る。
そこには意識の無い男性が米俵のように担がれ、ぐったりと伸びている。私がやった気絶男だ。
病室から移動するにあたり、コイツを放置していくのも気が咎めたので連れていく事になったのだが、全然起きやがらないため剛拳おじさんが運んでいく事となったのだ。
だいぶ体格の良い男性なので、重さ的にはインク瓶の三倍以上はあるだろう。
そんなのを担いだ剛拳おじさんこそ大変なんじゃないのか――その心配が顔に出ていたのか、おじさんはこっちを安心させるようにニッカリと笑顔を浮かべ、なんてことない風に男を軽々振り回す。
「ハッハッハ、何、私は霊侭坊除霊団の長として常日頃鍛えているからね。見ての通り人間の一人や二人造作も無いのだから、遠慮せず――ぬっ」
ぐらり。
男を振り回すうちにバランスが崩れ、剛拳おじさんの足元が僅かに揺らいだ。
造作もあるじゃねーか。思わず半眼を向ければ、流石のおじさんも気まずげな顔で咳払い。
男を担いでいない方の手で、右耳に当てられている血塗れのガーゼを軽く撫でた。彼の欠損部位である。
「ううむ、実はこの右耳、かなり深い部分までいっているようでね。ものが聞こえない事は見ての通りなのだが、平衡感覚も些か……」
「……え、いやそれ、だいぶマズい感じなのでは……?」
だって平衡感覚にまで支障をきたしてるって事は、アレだろ?
鼓膜の奥の方の、何かぐるぐるしてる大切なヤツまでゴッソリ抜かれてるかもって事だろ……?
前に教科書で見た人間の頭部図解が脳裏をよぎり、おなかの底から吐き気と怖気が湧き上がる。
「あの、だったらその男の人、担いでんのキツいんじゃ……」
「なぁに心配ご無用。彼の重さでバランスが取れている部分もあるからね、むしろ丁度良い塩梅さ! ハッハッハ!」
「えぇ……」
何で笑ってられんのこの人。
おろおろと傍らのインク瓶を見やるけど、軽く左肩をすくめるだけ。そして引いている私に代わり、剛拳おじさんに声を掛けた。
「……霊侭坊さん。その担いでいる彼なのですが、共に行動していた男性が居りまして。状況からして、おそらくあなたが出て来たという防火扉の向こうに走って行ったと思うのですが……どうなったのか分かりますか?」
「……うむ、確かにそれらしきものは見かけたな。ああ、見かけたのだが……」
話の流れに乗じた質問に、剛拳おじさんは難しい顔を浮かべて顎を擦る。
インク瓶が言っているのは、彼自身に暴行を加えていた内の一人、私にぶん投げられて逃げていったヤツの事だろう。
そういえばアイツ、遠くから叫び声が聞こえたきり行方不明だった。正直いい印象は全く無いが、言われてみれば確かに気になるところではあった。
インク瓶と同様に暴行を受けていたっぽい黒キノコもそのあたりは気になっているのか、おなかのあたりを抑えつつチラチラとやり取りを窺っている。
「やれ、何と言ったものか……その者は、諸君とは親しかったのかな?」
「……そこで伸びている彼がどうなのかは分かりませんが、私とこの子は名前も知りませんね。スミト君は?」
「え、あ、ええと……お、起きた時に居合わせてただけで、それから皆ずっとグダグダで……」
水を向けられた黒キノコがおっかなびっくり答えれば、剛拳おじさんは暫く何かを考えた後、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「……諸君も知っているとは思うが、この場には数多の悪霊が徘徊している。私が偶然その者を発見した時、彼は既にとある悪霊に捕らえられていたのだ」
悪霊――まぁ、あの肌色の何かの事だろう。
半ば分かり切ってはいたが、やっぱり見つかったらダメなヤツだったようだ。
「私は霊侭坊除霊団団長として、彼を助け出すべくこの剛拳を振るったのだが……恥ずかしながら力及ばず、救出する事が出来なかった! そこのお嬢さんの助けが無ければ、私も彼奴に捕らわれていただろう。無念でならん」
「捕らわれた、とはつまり、件の男性は死んではいなかったと。生かしたまま、どこかへと運ばれたという事でしょうか」
「……ん? もしや諸君、あれら悪霊の姿をこれまで見ていないのかね?」
インク瓶の言葉の何が引っ掛かったのか、剛拳おじさんが怪訝な顔で首を傾げた。
……その意図するところは分からなかったが、おっしゃる通りではある。
私は未だ一部分しか見ていないし、インク瓶も今の眼鏡ナシ状態じゃどうやったって見える訳が無い。
となれば残るは黒キノコだが、彼もおなかを抑えたまま黙りこくっている。全滅。
「そうか、一目すれば察するものはあると思うのだが……ううむ、どう説明したものか……」
「……いえ、なるほど。多少の予想は付きました」
「えっ」
今のなんもないやり取りで何をどう予想付けたんだよ。
思わずインク瓶に目を向けるものの、また左肩をすくめて鼻を鳴らした。まだ彼の中では語れるほどのものじゃないらしい。めんどくせ。
「うむ、まぁひとまずはアレに遭遇すれば捕らえられ、おぞましい目に遭うとだけ肝に銘じておくと良い。そう、彼奴はこの私ですらこれまでに見た事のない、いわば新種の悪霊なのだよ」
「……これまでて……」
エセ霊能力者が何か言ってる、とジト目になってしまったが、剛拳おじさんは私の声をポジティブに捉えたようで朗らかに笑った。
「そうとも。我が霊侭坊除霊団は、これまで数多もの悪霊と拳を交えて来た。様々な場で、多種多様なものどもとね」
「……はぁ」
「流石にこのような奇怪な領域へと引き込んで来る悪霊は初めてではあるが……なに、安心したまえ。たとえどのような性質の悪霊が相手だとしても、必ず除霊は果たすとも。そう、私は『剛拳の除霊師・霊侭坊巖常』であるのだから! ハッハッハ!」
「……、……」
むん、とこれ見よがしに力こぶを作る剛拳おじさんだったけど……なんだろう、やっぱなんか変だよこの人。
右耳を中身ごとゴッソリいかれてるのに平然としてるのもそうだけど、インク瓶の話じゃこの人のオカルト経験ゼロだった筈だろ。
本当の意味で今が初めてオカルトに巻き込まれてる状態の筈なのに、全く取り乱しもせず、むしろベテランみたいに振る舞っている。幾らなんでも順応しすぎじゃないか……?
インク瓶を暴行してたヤツらとまでは言わんけども、もっと何かこう、錯乱とか混乱とか……。
(――いや、もしかして、そうなってのコレか……?)
そう、一見正気のように見えるけど、本当は現在進行形で錯乱中なのでは?
余裕たっぷりの振る舞いとかも、本当は『剛拳の除霊師・霊侭坊巖常』の設定というか自分の世界観というか、そういうのに入り込み過ぎてるヤバいアレなのでは……?
どうしよう、大丈夫かこれ。そう勝手にハラハラしていると、その不安が伝わったのか隣から小さな吐息が耳にかかった。インク瓶の苦笑だ。
「何か妙な心配してるみたいだけど、杞憂だよ。この人、これが素だから」
「……『剛拳の除霊師・霊侭坊巖常』が?」
「……この表現をすると霊侭坊さんへの酷い侮辱になってしまうから申し訳ないんだが、言ってみればどこぞの怪人青ルージュと同じジャンルなんだよ。自身が霊能力者だと心から信じていて、いつだって本気で『除霊』を行っているつもりなんだ」
「ジャンル:センシティヴはズルくない……?」
あんなの引き合いにしたら何でも通っちゃうでしょ!
ともあれ、このおじさんは今の振る舞いこそが正常で、現状に心を壊しているとかでは無いらしい。
いや、まぁ、それはそれでまた別の怖さがある気がするけども……。
ともあれひとまずホッとしていると、背後での内緒話が気になったのか剛拳おじさんが振り返る。
「うん? 何か気になるものでもあったかね。不安や恐れがあれば遠慮なく言いたまえ」
「え、い、いやー、別にそういったのでは――」
――その時、私の首が勝手に通路の先を向いた。
「――――」
……そこの角曲がるの、ちょっと待ってた方が良いかも。
え、そう? わかった。
「……あの、ちょっとストップいいですか」
私はひとつ頷くと、すぐに先を行く剛拳おじさんに制止をかけた。
何か相談事があると思ったのか、おじさんは快く立ち止まってくれて――直後、少し先の曲がり角の向こうから裸足の足音がした。
肌色の何かが、歩く音――。
「むぅっ……!?」
剛拳おじさんも足を引いて警戒するが、幸いその足音がこっちに来る事は無く、ゆっくりと遠ざかって行く。
誰も身動ぎせずに息を潜め、そうする内に足音は完全に消え去った。
それから更に数秒立ち、やがて誰からともなく息を吐く。
「……行ったか。ありがとうお嬢さん、よくこの距離で気付けたものだ……君には相当の除霊の素質があると見た」
「あ、あはぁ……や、まぁ、なんとなくなんでぇ……、?」
「…………」
ヤな褒め言葉に適当に返していると、インク瓶がまた私に険しい目つきを向けている事に気が付いた。
……眼鏡が無いからってのはもう分かってるし、その視線にもそこそこ慣れたが、やっぱりどうも落ち着かない。
どっかの受付台とかに貸眼鏡かなんか置いてないかな。彼の視線から逃れがてらに探しつつ、私達はさっきよりも慎重になった足取りで再び先へと進んで行った。