「怪談」の話(中⑥)
*
ぽーん。
埃臭くて狭い空間に、ノイズがかった電子音が鳴り響く。
エレベーターが階に到着した音。表示盤に目をやれば、そこには6Fと灯っていた。
「…………」
少し待てば扉が軋み、開き始める。
その動きは非常に鈍く、幾度もつかえて頼りない。たぶん、さっき私が力任せにこじ開けたのが良くなかったのだろう。
若干いたたまれなくなりつつ、じっと扉の滑りを見守り……やがて完全に開放され、その階の光景が広がった。
「……『39号三番底』……?」
そこにあったのは最早見慣れた夕陽の差す廃病院の内装と、意味の分からない事が記された案内板。
『39号三番底』とあるそれは、きっとこの階の名前というか、呼び方なんだろう。
エレベーター内の表示盤は確かに6Fと出ているのに、六階じゃない。というか絶対マトモな階じゃない。どこだよここ。
見た感じでは、これまで私がウロウロしてた階……『四7ヱ』の階とほとんど変わらない感じなのだが……。
扉からは出ないまま、じろじろと周りの様子を確認し――しかしちゃんと把握をする前に、ギシギシと扉が閉じ始めた。
「――……」
チラ、と横を見る。
するとエレベーター内部の操作盤の前に女顔の青年が立ち、『閉』のボタンを押し込んでいた。
言うまでも無く、同乗している歪いびつである。
彼は何度も何度もボタンを連打し、何事かを呟きながらゆっくりと閉まる扉を注視し続けていた。
はやく、はやく――口の動きからしてそう言っているのだろうが、それが声となる事は無い。
代わりにぜぇぜぇと血痰混じりの吐息が漏れ、同時に喉元の包帯に赤黒い染みが広がってゆく。
――きっと、声帯を切り取られた時の傷が、開きかけている。
「……な、ぁ。あの、そろそろ落ち着いた方、が……」
「……っ……っ……っ……」
おずおずと手を伸ばすも、一瞬こっちを向くだけですぐにボタンへと向き直る。
そして扉が閉まり切った事を確認した瞬間、すぐに6Fのボタンを押して座り込んでしまった。
……扉の外は六階ではなさそうだったけど、エレベーター内の表示では6Fだ。
これで6Fのボタンを押しても、普通エレベーターは止まったままの筈なのだが、どうしてか問題なく動き始めた。
そうして少しの間の浮遊感を感じていると、やがてぽーんと音が鳴る。
(……『ゞ』……? なんて読むんだよ……)
時間をかけて開いた先は、先程とはまるで違う階だった。
光景としてはほぼ同じ廃病院のものなのだが、案内板の文字が変わっている以上、別の場所ではある筈だ。
そしてすぐに横でカチカチと『閉』が押し込まれ、扉が閉まればまた6F――私がエレベーターに乗ってからずっと、この繰り返しだった。
「……今、どこに居るんだろ、私――」
ぽーん。
その問いかけに応えるように、次の6Fが軋みを上げて開かれた。
――少し前、このエレベーター内に引っ張り込まれた直後。
今まさに現れようとした肌色の何かを遮るように扉が閉まり、無事に動き始めた箱の中、私は激しく歪いびつに詰め寄った。
何であんたがここに居る、今どういう状況なんだ、あの肌色のヤツは何、ここはやっぱりあの怪談の廃病院なのか。
あんたの他にも人が居るのか、インク瓶はどこ、そもそもこのエレベーターでどこ行くつもりだったんだ――その他諸々。
これまでが意味不明の連続だった上、直前が危うく肌色のヤツと鉢合わせかけた状況だった恐怖も相まって、次から次に疑問が口を突いて止まらなかった。
今の歪いびつが喋れないっぽい状態だってのも、完全に頭から抜けていた。
当然、歪いびつはそのどれにも答えを返さなかった。
喋れないんだからそりゃそうだという話だが、それだけじゃない。彼も彼で酷い恐慌状態に陥っており、まともにコミュニケーションが取れなかったのだ。
半ば掴みかかる勢いの私に声なき悲鳴を張り上げて、狭い箱の中をどたんばたんと逃げ惑う。そのくせ何故か階のボタンに執着し、折を見ては操作盤に嚙り付く。
そんな見苦しくも必死な様子に私の気勢も削がれていき、ぽーん、という音にハッとして表示盤を見れば6Fの文字。
そこでようやく、下階ではなく上階に移動していた事に気が付いた。
そして軋みを上げながら扉が開けば、そこには六階ではなく『ト卜22階』の表示。私は見える範囲に肌色が無かった事に安心した後、その表示にとある確信を深め……間もなくして、ぎこちなく扉が閉まり始めた。
見れば、歪いびつが『閉』のボタンを押している。
それに何かを言うより先に、彼はまた6Fのボタンを押し、頭を抱えて小さくなった。
私も恫喝じみた事をしてしまった負い目もあり、声を掛けるのを躊躇して……そうする内、またぽーんと音が鳴る。
それから今まで、私達は同じ階の違う6Fに延々と到着し続けていた。
(――『界せ新』……いや、新せ界? どっちにしろマトモじゃなさそー……)
新しく開かれた6Fを前に、ウンザリと溜息を吐く。
正直なところ、これまでとは別の方向に不安でしょうがない状況ではある。
でもだからって『39号三番底』だの『界せ新』だのへ飛び出した方が良いとも思えないし、むしろ肌色のアレに出くわさなくなった分、外をうろつくより危険度は下がっていると言って良い。歪いびつもそう思っているからこそ、ここに籠り続けているんだろう。
……いや、何で6Fにだけこんな執着してるのかはサッパリだけど。
(……何も起きないのは良いけど、いつまで籠城してりゃいいんだ)
どうせ最初から変な階スタートだ。どこに連れていかれるとかは考えてもしょうがないと流しているが、流石にずっとこのままでいられるとも思ってない。
といっても、行動を起こすタイミングなんて私に分かる筈も無い訳で。
どうしたもんかと悩みつつ、ぎしぎしと閉まる扉を見送って。そしてまたすぐに来る次の6Fに備え、膝をぎゅっと抱き寄せた。
「……?」
……のだが、これまでと違い、いつまで経っても浮遊感が訪れない。
そっと歪いびつの様子を窺えば、彼は『閉』のボタンを押した切り、横の壁に寄り掛かって動かなくなっていた。
「お、おい」慌てて様子を確かめるが、単純に疲弊しきってしまっただけのようだ。
私はホッと息を吐き……ふと、彼の身体のあちこちに幾つもの痣や擦り傷がある事に気が付いた。というか改めてまじまじ見ると、喉の傷を除いても結構な怪我人だぞこの人。
このエレベーターに辿り着く前に何かあったんだろうか。いや、あの恐慌状態を見るに、相当酷い目に遭ったんだろう事は窺えるけども……。
「っ……、こほ、っ……、っ……、…………」
「…………」
ともあれ、そうして完全な密室となったエレベーターの中に、痛々しい呼吸音だけが反響する。
しかしそれも時間と共に少しずつ、少しずつ、落ち着いていき……やがて完全に鎮まった。
……静寂。
「……あ、あの……歪いびつさん、ですよね……?」
「…………、」
今。
今ならば、少しは冷静にやり取りできるんじゃないか。
うっすら期待し、おずおずと声を掛ければ、怯えに揺れる目だけがこちらを向いた。
「その……さっきは、強く当たっちゃってすいませんでした。私、あー……あなたが出てたのイベントの参加者、いや観覧者? なんすけど……」
「…………」
「ちょっと前まで、会場の隅の方に立ってた筈で……けど、気付いたらこんなとこに居て――……」
とりあえず自己紹介がてら、私の方でのアレコレをひとつひとつ語りつつ、反応を窺う。
相手が喋れない状態であるのだから、当然返事も何もない。
しかし話の最中は考えるようにウロウロと視線を彷徨わせ、流れで同意を求めるような話運びになった際には、ほんの僅かながらに頷く素振りを見せている。
話自体はちゃんと聞いてくれているようだ。おなかに入っていた力が、少しだけ抜けた。
「ええと……歪さんは、今何が起こってるのか、分かります……か?」
「……っ」
そうして本題に一歩踏み込めば、彼は大きく首を振って激しく否定の意を示す。
何だろう。その必死さにちょっと引っ掛かるものはあったが、変に詰めてまた錯乱されるのも困る。
感じた疑問を口には出さず呑み込んで、話を進めた。
「……あの、ここ、ひゅどろんチって人らが話してた廃病院っぽくないですか。あの話と同じ目に遭ってる感じするんですけど」
「……、」
今度は同意するように小さく頷かれる。
どうやら彼も私と同じ見解ではあるらしい。
「じゃ、じゃあ、その……解決法っていうか、どうしたら助かるかな、みたいな……」
「……っ……っ」
先程以上の勢いで首を振られた。
それはいっそ喉元の傷に響くんじゃないかと心配になるレベルで、慌てて質問を取り消さざるを得ず。
(……うーん、否定の仕方が何か変なんだよなぁ)
なんというか、必死に何かを隠そうとしているような感じがする。
しかしここで籠城なんてしている以上、オカルトから逃げる方法を知らないのは本当なのだろうし……どう捉えたもんか。
会話が出来ないってのが本気で痛い。溜息を押し殺し、次。
「……他に人って、見てないですか。インク瓶――さんとか、探してるというか、会いたいんですけど……」
「――……」
瞬間、歪いびつの視線が揺れた。
そしてその首は横にも縦にも振られずに、やがて目だけが伏せられる。
「……えっ、あ、あの、それは、どういう……? もしかして、インク瓶になんか……」
「……、……、……」
「え、違う……? ……あ、居るかどうかも分かんない、的な……合ってる? はぁ……」
一瞬血の気が引いたものの、どうやら単にここまででインク瓶の姿を見てないだけらしい。紛らわしい反応すんなや。
私はイヤな感じに跳ねる胸を抑え、溜息。そのままぐったりと壁に背を預けた。
そこで一旦やり取りが途切れ、また沈黙が横たわり――。
「――やっぱ、そうだよなぁ。エレベーター……」
何気なく見上げた表示盤に映る6Fの文字を眺める内、ぽつりと零れた。
「っ!」すると歪いびつがビクリと跳ね、薄れかけていた怯えの色をまた滲ませる。
そんな様子に何かを間違えた事を察し咄嗟に口を噤んだが、しかし彼の警戒は消えず、その呼吸も段々と荒いものに戻って行く。
反応の意味はやはり分からない。
けれどこのまま黙り込んでいるのもマズい気がして、言葉を繋げる。
「や、あの……このエレベータってたぶん、アレですよね。会場で、歪さんが言ってたヤツ……」
そう、件のイベントの最中、歪いびつがステージで披露した怪談――異常な階にしか着かないという、異常なエレベーターの話。
それと今乗っているこのエレベーターの挙動が、私には同じものに思えて仕方ないのだ。
というか目の前の歪いびつの存在もあり、ほぼ確信として私の中にあった。
「変な階数表示とか、同じ階のボタン押しまくっても動いてるし、違うとこ着くし……そんで廃病院全体と混ざってるっていうか。上手く言えないすけど……」
「……っ、……っ!」
「……だからなんでそんな怯えんだって……」
するとまた歪いびつの様子が完全に手負いの獣モードに戻ってしまった。
話しても話さなくても同じだったらしく、いい加減にウンザリとする。
「……あんた、都市伝説収集家ってヤツじゃなかったでしたっけ。だったら慣れてるんじゃないんすか、こういうの」
「……っ! ……っ!!」
つい非難がましくそう零せば、冗談じゃねぇと言わんばかりに首が振られた。
いや意思をもってそういうの探してんなら何かしらはあんだろ。
今の私からすると、長年オカルト求めてて変な経験ひとつも無いとかそっちの方が信じられん。
「このエレベーターのオカルトだって、経験あるからこうやってんじゃないんですか?」
「っ……? ……??」
「……いや、籠って6Fだけ押しまくってるってヤツ。前に遭った時はそれでどうにかなったから、なぞってんじゃないの」
彼の語った怪談は、まず間違いなくこのエレベーターのオカルトが元ネタだろう。
きっと過去にこれと遭遇して、どうにか切り抜けた事があったのだ。
そして今回その体験を怪談として披露したまでは良かったものの、どういう訳か再び遭遇してしまい、慌てながらも以前の経験に則った行動を繰り返し続けている……。
似たような感じで動画を作ってた子を知ってるから、自然とそんな感じに受け止めていた。
歪いびつは、そう語る私を何故かアホを眺めるような生暖かい目で見つめ……やがて気が抜けたかのように身体の強張りを解いた。なんだよ。
「まぁ、実際は逃げられてないし、現状どうにかなってないのは分かりますけど……」
「…………」
「……あの、前に助かった時は、なんか他にやってなかったんすか。その6F以外」
よく分からんが落ち着いたっぽいので、とりあえず改めてそう問いかける。
すると歪いびつは何か言いたげな表情を浮かべた後、考え込むような間を開けた。
「……、……っ」
「……ん? え、なに? なんだって?」
無言で見守っていると、やがて口を大げさにパクパクし始めた。
声が出せないなりに、何かを伝えようとしているようだ。こちらも読唇術の心得が無いなりに、なんとなく読み取ってみる。
「……『インク』? さが、し……『さがしてる』? 『インク瓶探してるの』?」
(うん、うん)
「合ってた。……まぁ、さっきも言いましたけど、はい。こういう時はまずアイツなんで……」
暗にお前じゃ頼りにならんと言ってしまった気もするが、歪いびつは気にせず再びじっと考え込む。
そしてチラと私を見やったかと思うと、難しそうに声無く唸り――ついと、エレベーターの扉に目を向けた。
……何だろう。その意味は分からなかったが、暫く待つ内に彼の中で何かの結論が出たようだった。
そろそろとエレベーターの操作盤に指が伸び、3F、5F、1F、3F……と次々ボタンを押してゆく。
同じボタンを二度押す事になっても構う事なくそれは続き、最後に9Fのボタンのみを光らせようやく止まった。
「……え、っと……?」
「…………」
ごうん。
狭い箱が揺れ、おなかの浮く感覚がする。
9Fに向かっているのだ。これまでの6Fと違う階に行くという事に妙な緊張感が生まれ、今度はこっちの身が固くなる。
歪いびつもどこか緊張した様子で、どこに連れていかれるのかと不安が胸をざわめかせた。
しかしそれをどう口にしようか迷っている間に、エレベーターが到着。ぽーんと鳴って、9Fの光景が晒された。
「……『九224ヰ』……」
見えたのは、他のと大して変わらない妙ちきりんな階表示。
警戒していた肌色や他の人の姿は無く、詰まっていた息が自然と抜けた。
「な、なんだよ……さっきと同じじゃ――」
――そうしてエレベーター内に目を戻せば、歪いびつが扉の外を指さしていた。
しかも『開』のボタンもしっかり押して、扉が閉まらないようにもしている。
私はおろおろと彼と『九224ヰ』を見比べ、そのうち察した。
「……え、何。出てけって……?」
「……っ、……っ」
思ったよりも小さくなってしまった声に、歪いびつは罪悪感の色を浮かべるも、指は降ろさずまた口をパクパクとする。
『ひと、いる、かい』……人居るかい、階?
「あー……この階には、人が居る?」
(うん、うん)
「何でそんなの分かんの……って聞いても無理なのか。ええと、じゃあインク瓶も居る?」
直前までの話の流れ的にそう言う事かとも思ったのだが、返ってきたのは気まずそうな顔ひとつ。
……うーん、誰かは居るけど、インク瓶が居るか居ないかは分からないという感じだろうか。
この短時間で随分察し能力上がったなと思いつつ、改めて『九224ヰ』へと目を向ける。
夕暮れに染まる景色には、何の気配も感じられない。
「……あの、よく分かんない肌色のも、居る?」
「…………」
首は振られず、目が伏せられる。それも分からないらしい。
……私は、歪いびつがどういう人間なのかほとんど知らない。ロクな会話も出来ないのに、知るも知らんも無いのである。
どういう理屈でこの階に人が居ると言っているのかも定かじゃないし、あのボタンの押し方の意味も分かんない。
なんだったら彼の意思表示は全部ウソで、一人で助かるために私を厄介払いしようとしてるだけなんじゃないかと、ちょっぴり疑ってさえもいた。
(どうすっかな……)
確かにその内動かなきゃいけないタイミングが来るとは思っていたが、果たしてそれが今なのかどうか。
外と内とへ忙しなく視線を振りながら、私は小さく歯を噛んで、
「――?」
――ふと気付けば、首が『九224ヰ』の方を向いていた。
先の防火扉の時と同じだ。自分の意思とは関係なく、右側から押されるように、くるりと頭が回っている。
あれほど揺れ動いていた視線も固定され、『九224ヰ』の廊下の奥を見つめてしまう。
まるで、そっちに行った方が良いよと、誰かに囁かれているようだった。
「…………」
もう一度だけ、歪いびつを見る。
睨みつけるような勢いになってしまいまた怯えられてしまったが、指先は変わらず外を突いていた。
(……わかったよ)
無意識に右眼の縫い目を擦り、腰を上げる。
扉から顔を出し慎重に周囲を窺うも、やはり何の気配も無い。
ぺたぺたという足音や、誰かを呼ぶような声もせず、今んとこは大丈夫そうだ。
「……あんたは?」
「……っ! ……っ!!」
一緒に行くの? と聞けば、ぶんぶかぶんぶか首を振られた。
どうやら、まだまだここで籠城し続けるつもりであるらしい。
……置いてっていいのかな。
若干不安には思ったが、私にだって決して余裕がある訳じゃない。もし今後あの肌色のヤツと出くわして逃走劇になった時、他に気を配れる自信も無いのだ。
だったら、このまま6Fを延々ポチポチし続けてくれていた方がまだいい……のだろうか。
「……うーん、じゃあ……行きます、けど……」
「…………」
とりあえず一歩外に出てみれば、途端に扉がぎしぎし閉じる。
アイツ速攻で『閉』のボタンを押しやがった。
その躊躇の無さにいっそ引いていると、軋む扉の隙間から、親指を立てる歪いびつが見えた。
……なんかあんまり腑に落ちなかったけれど、こっちも「どもでした」とだけ小さく会釈。
ひらひらと手を振る女顔が、扉の向こうに消えていった。
この階の光景も、他とあまり変わり映えしないものだった。
夕陽は色濃く、それを受ける埃は輝き、胸を引っかく寂しさがある。
先の見えない廊下も、ずらりと並ぶ病室もほとんど同じ。今度は最初から防火扉の存在を把握しているから見落とす事は無いけれど……そのくぐり戸を通る事もまた、しなかった。
(こっちじゃない、か)
今まさに興味の向きかけた防火扉から目を離し、更にまっすぐ廊下を進む。
くぐり戸が半開きになっていたから軽く覗いてみたかったのだが、どうしてか足が向かない。
よしといた方が良いんじゃないかなぁ――頭の中にそんな囁きが生まれては、それがすとんと落ちてしまう。
そしてそんな自分に違和感がなく、どうにも不思議な感覚だった。
(……人、まだ見えないな)
また無意識に右眼に指を這わせ、ぼんやりと進む先に意識を向ける。
歪いびつ曰くこの階に人が居るとの事だけど、今の所影も形も見えはしない。
そろそろ騙されたかと疑い始めてもいい頃合いなのかもしれないが、その心配すら浮かばなかった。
この先に、誰か居るよ。
その囁きに従って、定められた順路を歩くように、黙々と足を動かし続け――。
『――、――!!』
「っ」
廊下の奥、曲がり角の先から声がした。
それは遠く微かなもので、何を言っているかまでは分からない。
しかし男性のそれだという事だけは確かで、私は弾かれるようにその声のもとへと駆け出した。
『――ってん……だ! ――れ、…………、って!』
その声はどうも怒鳴り声であるようだった。
そして近付くにつれ暴れるような物音まで聞こえ始め、酷く取り乱している事が窺える。
……まさか、肌色のヤツに追いかけられてたりしないだろうな。
若干不安になったが、その声はずっと同じ方向から聞こえていて、逃げているような様子は無かった。
とはいえ、あまり穏やかでない状況なのも間違いない。声のする曲がり角の手前で足を止め、こっそりと様子を窺った。
「――お、お前らのせいなんだろうが……! こうなったのも、う、腕、俺の……くそっ! くそぉ!!」
そこに立って居たのは、二人組の男性だった。
私のような患者衣を着て、その内の一人は片腕が欠けている。
パンフレットで見た記憶が無いので、おそらく観客側の人だろう。まず間違いなく私と同じ境遇の人達――なのは、良いんだけども。
(……なんだ? 何か、蹴ってる……?)
彼らは二人揃って、誰かに暴力を振るっているようだった。
廊下の壁際にもう一人別の男性が身を丸めており、二人は彼に対して口々に罵声を浴びせかけ、何度も何度も蹴りつけているのだ。
紛う事なき暴行現場。あまりにも唐突に現れたその光景に戸惑い、思わず呆然としてしまう。
(……え、えぇ? こんな時に何して、いや、んな事より止め――)
困惑から抜けきらないまま、とりあえず止めに行こうとしたその時。
暴行を受ける男性に一際強い蹴りが叩き込まれ、呻き声と共に廊下の真ん中へと転がった。
そして丸まっていた身体が投げ出され、苦痛に歪む顔が一瞬こっちの方を向き、
――それが、右腕を失くしたインク瓶だと気付いた瞬間。
私は勢いよく飛び出し、彼を蹴りつけてるボケ共へ全力の跳び蹴りを放っていた。