[手]の話(下)
■
夢を見た。
空も地面も定まらない、ぼんやりと白んだ世界。
そんな場所をゆらゆらと漂いながら、誰かに頭を撫でられる。そんな夢。
俺の頭を撫でているのが誰かは分からない。
ただ、視界の端にぴかぴかの赤い爪がちらりと見えて、綺麗だなと思った事を覚えている。
そしてその誰かは、微笑みながら俺に何かを言っていたと思うのだが……よく、覚えていない。
いや、そもそも何も聞こえなかった気もする。とにかくそのまま暫く撫でられて、やがて穏やかに目が覚めた。
……昨夜あんな出来事があったにしては、良い気分で起きられた。それだけの話である。
*
「石屋というのは、実の所それなりに曰くと結び付きやすい職でして……」
一夜明け、次の日の朝。
店の入り口前に立つ痩せぎすの若い警察官が、ぽつりぽつりとそう言った。
「それは……やはり墓石などを扱うからですか?」
「まぁ……はい、それもあります。遺骨をお墓に収めるという事もしますから、その際に『何か』あったり、色々と……」
ぼそぼそと不穏な事を呟きつつ、警察官は店の前の石像に目を移す。
そこには地蔵やら有名キャラクターの像やら並んでいたが、彼の視線はその中に並ぶ大きめの庭石へと向いているようだった。
「……君達みたいな地域密着型だと、一般の個人的な依頼も進んで受けますよね。灯籠などの融通とか、反対に邪魔な庭石処理とか」
「……そうですね。近所の人からは石の事なら……と言われていると聞いています」
「そうなると、その……時たまあったりするんです、変な石が懐に入って来る事……」
警察官の言葉尻に苦々しさが滲み出し、やがて溜息として落ちる。
……ちょっと聞きたくなくなったが、黙って先を促した。
「庭石ひとつ取っても、亡くなったペットのお墓代わりにしていたとか、先祖代々大切に手入れして来たものだとか、籠るものは様々に」
「はぁ……」
「中には、極狭い地域で御神体として祀られていた大岩が、時代の動乱によって遺失。そこらに転がったまま百年以上経った後、何も知らないその土地の管理者が邪魔だからと処分を頼んで来た……なんて、救われないケースもままあって……」
「……何か、実感が籠っているような」
「はい、その……い、一応、石屋を営んでいたぼく達も居るので……」
嫌な思い出でもあるのだろうか。
警察官は疲れたように肩を落とし、何やら遠い目を浮かべ……そっと、店の看板を見上げた。
「髭擦くんの家って、ええと、かなりの老舗ですよね。それも、百年くらいは続いている感じの……」
「…………」
「……いつか、削り、砕いた石材の中に、あったんじゃないですか。かつて祀られ、打ち捨てられてしまった石が」
そしてゆっくり視線を下ろすと、俺をどこか無機質な瞳で見つめ、
「――あれは……あの狭い暗闇は、その結末に訪れてしまった亀裂のように、思えます」
警察官――『安中』はそれを最後に口を閉じ、静かに店の中へと目を向ける。
……店内、応接間の向こう側。
蝶番から扉が外れ、開けっ放しとなってしまった廊下の中に、ゆらゆらと揺れるものがある。
手だ。壁に走る隙間から手が伸びて、彷徨うように揺れていた。
俺にとっては、小さな頃から見慣れた光景――。
「――……」
……いや、違う。
今はもう、俺の見慣れたものじゃない。
ひとつだった手はふたつに増えて、どちらも浅黒い肌をした男のものになっている。
ぴかぴかの真っ赤な爪も、俺が好きだった柔らかくて優しい手つきも、どこを探したって見つからない。
――手のお母さんさまが、手のお母さんさまじゃなくなっている。
「…………」
代わりに揺れる誰かの手。
その片方の甲に刻まれた虫の刺青に、強く歯を噛み目を逸らした。
昨日の騒動の後、俺達はすぐに警察へと通報した。
と言っても、やったのは爺さんである。
その時の俺は手のお母さんさまが居なくなっていた事に呆然として、ただ突っ立っているだけだった。爺さんの呼びかけにもロクに返せず、心配させてしまったようだ。
そんな中、やがて幾人かの警察官が駆け付けて来たのだが――なんと、その全員が御魂雲さんだった。
おまけにその内の一人が『安中』。彼が最初に言っていた「いつでも力になれる」には、本当に何一つ嘘偽りが無かったらしい。
ともあれ、そうして御魂雲さん達による現場調査が開始。俺と爺さんに関しては時間も時間だったため、諸々の事は朝に回しひとまず休む事に。
その間、空き巣達の仲間が居た場合にも備え、御魂雲さんが家の周囲を警戒してくれるとの事だった。
……とはいえ、俺としては当然そんな事をしている場合では無かった。
手のお母さんさまが居なくなったショックで、寝付く事など出来そうもない精神状態だったのだが――俺もここ数日の懊悩からのこれで、いい加減疲れていたのだろう。
一度横になれば、自分でも意外なほどあっさりと眠りに落ち……そうして、何故かすっかりと落ち着いた気分で目覚めたのが、およそ十数分前の事であった。
「饌……って事なのかな……」
件の騒動でしっちゃかめっちゃかになった廊下の中。
隙間から響く声も無く、ただゆらゆらと揺れる二本の手を間近で眺め、『安中』はぽつりとそう呟いた。
「……せん、とは」
「え、あ、ええと……いわゆるお供え物、です。お地蔵様の前に置いてある、お饅頭とかお酒とか、そういうやつ……」
聞き慣れない言葉に尋ねればそんな答えが返ったが、聞いてもいまいちよく分からない。
そんな俺に『安中』は小さく考える間を作り、揺れる手の内、虫の刺青がある方を指さした。
「……この手。君の話からすると、昨夜入ったという空き巣達のもの……ですよね」
「……刺青に見覚えがあるのは確かですけど」
「たぶんですが、お供え物と見做されたんだと思いますよ。ねだり、探し、そこにあった。ああ、己へのものに違いない。そうして隙間に無理矢理引っ張り込まれ……こんな目に」
「…………それを、手のお母さんさま、が?」
震える声で、廊下の中を見回す。
改めて見ても酷い有様だった。
壁には至る所に何かをぶつけたようなへこみがあり、床には隙間へと続くように長い引っ掻き疵が刻まれている。
そしてその所々に血痕と思しきものもあり、昨夜この場で行われた暴力の激しさを伺わせていた。
それを、手のお母さんさまが、やった。
……そんな事は状況から分かり切ってはいたし、だろうなという気持ちもあった。
だがその理由が理解不能のものである事に、あの優しい手つきはやはり俺の幻想だったのだと突き付けられているようで――。
「――え、いや……やったのは、それとは別のものでは?」
……だから。すぐに続いたその一言に、思わず一拍呼吸が止まった。
「は……べ、別?」
「はい、ええと……君が『手のお母さんさま』と呼んでいたものも、目の前にあるこれらと似た姿形だったんでしょ?」
「は、はい……赤い爪の、女の人の手で……」
「なら、まぁ……単に同じく『饌』だったんじゃないですか。先代の……というか、一個前のお供え物……という」
『安中』は呆然とする俺にそう告げると、隙間の近く、揺れる手が届かない程度の位置にしゃがみ込み、何やら覗き込み始めた。
その体勢のまま、やがて独り言のようにぼそぼそと。
「……スパンとしては、数十年単位なのかな。家を替えてもついて開いて……生き物……まぁ、人間か。引っ張り込んで、一旦満足……でもその内、新しいものを欲しがって、その繰り返し……そんな感じ、でしょうか」
「……視た、だけで。そこまで……?」
「い、いえ……こういった贄じみた性質に関しては、些かばかりの自信があり……」
どんな自信だ。
よっぽど突っ込みたかったが、今の俺にそんな余裕は無かった。
「そして、何が、というのなら……君が隙間の奥に見たっていう、白い顔。たぶん、それが、じゃないですか」
「…………」
「……残っているのが、もう顔しか無いのかな。だからお供え物も手だけは残して、ぶら下げる。それを使って、次のお供え物を引っ張り込んで……手も、新しく入れ替える」
振り返った『安中』の目は、さっきと同じく無機質なものとなっていた。
……俺は、すぐには何も言えず。ゆるゆると、隙間から伸びる二本の手を見つめた。
「……前、の」
「はい?」
「前の、お供え物は。入れ替えられた後のそれは、どうなる……?」
そうして、辛うじて口に出来たのはそれだけだった。
それに『安中』は、また言葉を選ぶような間を置いて――結局何も言わず、別の場所へと目を向けた。
*
それから少しして、『安中』は警備に戻ると言って店の外へと戻って行った。
「やっぱり幾ら隙間に近付いても、手も顔も出して来る様子が無い……。入口が狭くて飛び込む事も出来ないし……このお供え物に飽きるまで、ぼ、ぼく達に出来る事は無い……かも……」
その際、酷くしおしおとした顔でそう言っていたが、つまり次のお供え物を欲しがる数十年後まで、廊下の隙間はこのままであるようだった。
……出て来ない白い顔はともかくとしても、この空き巣の手とはこれから一緒に暮らす事になるのか。
本音を言えば非常に遠慮したくはあったが……まぁ、これは早く連絡しなかった俺が悪い。
逆にこっちから謝りつつ、次に今回のような兆候が見えた時には絶対にすぐ連絡すると約束し、『安中』の薄い板切れのような背中を見送った。
「……はぁ」
そうして廊下に一人残された俺は、改めて件の空き巣の手達に目を向ける。
……まぁ、かわいそうだなとは思う。
思うがしかし、こっちは盗みに入られた側の立場である。それ以上の同情心はあまり湧かず、心もほとんど痛んでいない。
それどころか――むしろ。
(……そこ、お前らの席じゃないんだがな)
かといって、誰のものだとも言いたくはないが。
胸の中だけで吐き捨て、無意識に旋毛に手を当てる。
……インク瓶さんの考察では、手のお母さんさまは、俺と爺さんを廊下から遠ざけようとしていたらしい。
はじめにそれを聞いた時は、その理由など分からなかったが……今ならば、よく分かる。
(――俺達を、供え物にさせたくなかったのか、あなたは)
だから爺さんに手跡を付けて、俺に少しだけ痛い事をした。
ここに来るなと、危ないのだと。もう人では無い、手だけのものとなっているのに、それでも自分に出来る事を探し、必死になって俺達を守ろうとしてくれていた。
……俺の贔屓目。良いように美化し過ぎているだけといえば、それまでだ。
だが、俺はそうは思わない。
手のお母さんさまは、俺がずっと思っていた通りの――本当に、ずっとずっと大好きだった手のお母さんさまだった。安堵に震える腹底から、そう信じた。
(……あなたは、誰だったんだ? ああなる前、生きていた頃の、あなたは……)
全ては今更の話だったが、今だからこそ無性に気になって堪らない。
ゆらゆらと揺れるふたつの手の前で、俺はぼんやりと、あの優しい手つきの奥に思いを馳せ――その時、背後で床の軋む音がした。
「……おぅ、改めて見るとひでぇな、こりゃ」
振り返れば、そこに爺さんが立っていた。
いつも俺より早い爺さんにしては珍しく起き抜けのようで、どこかぼうっとした様子で廊下のあちこちに目をやっている。
「おはよう。今起きたのか」
「……ああ、何でか知らんが、よく眠れた」
「爺さんもか、俺もどうしてか夢見が良かった」
「おぅ……」
そう今朝の良い寝起きを思い出していると、爺さんも同意するようにあくびをひとつ。
身体をずらし、店の入り口側を見通した。
「……そこの警察、さっき話してたろ。説明か何か、あったのか」
「ああ……そ、そうだな、何と言ったらいいか――、と」
そうしてどう説明するべきか頭を悩ませていると、ポケットのスマホが短く鳴った。
爺さんに断りを入れて見てみれば、メールが一件届いており――その送り主に息を呑む。
「……どうした?」
「いや、その――母さんから、メール……」
あまりにも予想外からの相手に、軽く混乱する。
……何が起きた。母さんから俺に直接連絡来たのなんて、ここ十年で数度あったかどうかのレベルだぞ。
俺は半ば戦々恐々としつつ、スマホの画面をタップして……その内容に、思わずぱちくりと瞬いた。
――『げんき?』
「……んん?」
これだけ。
正真正銘、これだけだった。
重く構えていた分肩透かし……いや、というか、本当に何だこれ。
何と受け止めれば良いのかまるで分からず、更なる混乱に陥った。
「……何だ。また何かバカ言ったか、ホタのやつ」
「んんん……な、なん、だろうな、これ……?」
もはや途方にすら暮れ、スマホの画面を爺さんへと向ける。
爺さんはその短すぎるメールの一文を、やはりぼうっとしたまま眺め――。
「――……タマに、何かせっつかれたんじゃねぇか」
「え?」
ぽろりと零されるように知った名前が呟かれ、声が漏れた。
爺さんはそこで我に返ったようで、しまったといった風に黙り込む。
いつもは、こうなるともう何も話してくれなくなるのだが――しかし今回は何かしらを考え直したようで、低く唸りながらも口を開いた。
「……タマってのは、琥子……あー、お前の婆ちゃんの事だ」
「は……?」
そしていきなり聞いた事のない家族の話をされ、心の底から困惑した。
「え、いや……ば、婆さん? 居た、のか? え、母さんの所に? 俺、知らない……というか、そんな人、見た事も無いんだが……?」
そう、俺は婆さんの事なんて何一つ知らない。
俺の家族は爺さんと母さんだけで、父親は知らない。親戚も爺さんの兄弟って人を数人知ってるだけで、それが全てだ。
婆さんという家族が俺の人生の中で登場した事なんて、今まで一度だって無かった筈だ。
すると爺さんは酷く言い難そうに口籠り、しかし黙り込む事だけは無く、ぽつぽつと続く。
「…………まぁ、そうだな。あいつは、お前が生まれるずっと前に……ホタがガキの頃に居なくなっちまったからなぁ」
「はぁ……?」
じゃあ母さんの所にも居ないんじゃないのか。
言っている事が何も分からず眉間に皺が寄るが、反対に爺さんは昔を思い出しているのか、穏やかな顔つきとなっていた。
「……何つうか、そうだな。お前ほどじゃねえが、かなり黒目の小さなやつでよ。猫みてぇな愛嬌があって、そんでとっても気が利くやつだった。何が視えてたのか、変な忠告もよくしてきたが……お前の目ん玉は、間違いなくあいつからのだな」
「お、おぉ……」
「ホタもあいつが大好きでなぁ。俺の言う事なんざちっとも聞きやしねぇのに、あいつの言う事だったらちゃんとやる。まぁ……あれだ、俺なんかにゃ勿体ない、良い嫁さんだったよ」
初めて聞く爺さんの惚気話にたじろいだものの、その声音に籠る温かさは確かで、本当に良い人だったのだろうとは感じた。
しかしすぐに爺さんの目が悲しげなものとなり、溜息と共にその肩が落ちる。
「……ホタが中学に上がるくらいの頃か。突然、あいつがどこにも居なくなっちまった。事故とか、病気とかじゃねぇ。本当に、ある朝起きたら綺麗さっぱり……」
「……それは、行方不明って事か?」
「ああ……そんな気配なんて全然無くてよ。俺もホタも何が何だか分からなかった。警察なりビラなり探偵なり、出来る事は全部やって探したが……見つからずじまいだ」
「…………」
何を言ったら良いか分からず、黙り込む。
そんな俺をちらりと見やり、爺さんは軽く肩をすくめた。
「……んで、ホタと二人家族になった訳だが……まぁ、俺もこんなだろ。思春期の女子供なんて叱り飛ばすくらいしか出来なくてなぁ。間違えちゃいけねぇ事を山ほど間違えて、高校に上がる頃には盛大にグレさしちまってた」
「え……」
「学校はサボるわ、悪いやつらとつるむわでまぁ大変でな。俺が叱っても当然逆効果で、何も出来なくて……そんで、とうとうやらかしやがった」
そして極めて気まずげな、しわくちゃになった顔で口髭を震わせて、一言。
「…………子供、こさえやがったんだよなぁ」
「…………」
俺? と自分の顔を自分で指差す。
お前。と頷かれた。
……えぇ?
「……ええと、高校生、だよな」
「ああ、そん時ゃ高2だった」
「……ち、父親は」
「分からねぇ。心当たりが多すぎんだとよ」
「う……うおぉ……」
これこそ、どう反応すれば良いんだ……?
母さんの恥部とも言える話に、落ち着かない気持ちで挙動不審になっていると、力が抜けたような溜息が落ちた。
「……まぁ、お前がここに居るのが結果だ。望まれてないって事は絶対にねぇが……それでもやっぱ、負い目みてぇなもんはあるみてぇでな。ホタのバカ、どうしてもお前の目を見らんねぇらしい。母親に責められてる気になるんだと」
「……それは……俺の目が、婆さんと似てるからか?」
「じゃねぇか? まったく、名前つけときながらなぁ……」
爺さんはぼやくように呟き、そこでひとまず話を切った。
俺も暫く自分の中で整理を付けるのに忙しかったが、はたと我に返るとそもそもの話を思い出し、首を傾げた。
「ま、まぁ、色々分かりはしたが……それで、どうして『婆さんにせっつかれた』になるんだ? 別に、婆さんが見つかったって訳じゃないんだろ……?」
発端である母さんからのメールを掲げて尋ねれば、爺さんは小さく鼻を鳴らした後、浸るように目を瞑り、
「――今日、初めて夢枕にあいつが立った」
どこか嬉しそうに、そう言った
「……その、婆さんが?」
「昔のままの姿だった。いまいち覚えちゃいねぇが、謝られたり逆に説教されたり、他にも色々話した気もして……ああ、いい夢だった」
「…………」
……行方不明扱いとはいえ、とっくの昔に諦めてしまっていたんだろう。
夢枕に立つという迷信の意味を、どこかホッとしながら受け止めているようだった。
「……で、俺のとこに出てくれたんなら、ホタのとこにも出てやったんじゃねぇか……ってよ。ホタも大好きなあいつに思いっきり尻蹴っ飛ばされたら、まぁこんな具合にもなんだろ」
そして、改めて母さんからの『げんき?』を見やり、優しく目を眇める。
……その話を聞くと、この短い一文にも色々感じるようになるから不思議だ。
夢で婆さんに怒られて、しょんぼりしながら俺と向き合う気になって。でもいきなり電話するのは怖かったから、まずメールにして。しかし文面を迷いに迷い、最終的に色々な葛藤を押し込めた『げんき?』となり、震える指で送信ボタンをタップする――。
母さんの性格すらそんなに知らないのに、何故だかその画が容易く浮かんだ。
(……夢枕)
……そうして、同時にひとつ思う事があった。
もし、爺さんの夢枕に婆さんが立って、母さんの所にも立ったというのであれば。
俺だって、そうだったんじゃないか。俺の夢にも、婆さんが出て来ていたのではないか。
――夢の中。髪を柔らかく梳いてくれた赤い爪が、鮮やかによぎった。
「……なぁ、爺さん」
「何だ」
「婆さんって、爪、綺麗だったか」
その質問に爺さんは片眉を上げ、しかし何を聞き返すでもなく口髭に手をやった。
「……ああ、綺麗だった。爪の手入れが趣味でな、いつもぴかぴかにして真っ赤に塗ってたよ。おまじないでもあるとか何とか言ってたな」
「――そう、か」
……俺は。
俺は大きく息を吐き出して、廊下の隙間に目を向ける。
そこには変わらず空き巣の手達が揺れていたが、俺が見ているのはそれらじゃない。
目に浮かぶのは、白くて細い、綺麗な赤い爪がぴかぴか輝く、女の人の優しい手――。
「――……手の、お婆さんさま、だったかぁ」
呟くと、目の奥側が熱を持った。
それに浸るように、俺は静かに目を瞑り……今日見た夢を、大切に、大切に、宝箱へとしまい込み――。
「――琥多郎」
突然、名前を呼ばれた。
振り向けば、爺さんが神妙な顔を向けている。
「……何だ?」
「コタの……琥多郎の字は、琥子の字から取った。婆ちゃんの字から男孫にってのは、珍しいかもしれんがな」
「……そう、なのか」
いきなりの話に戸惑ったが、名前の由来については素直に嬉しかった。
……そうか。婆さんと、一緒か。
「……それで、そうしようって言ったのは、俺じゃねぇ。ホタのやつだ」
「母さんが?」
「おぅ。大好きだった母ちゃんの名前を、お前に入れようって言ったんだ。……自分から、誰に言われるでもなくだ。分かるか?」
「お、おぉ……?」
念を押されるような言い方に気圧され、数歩下がる。
「だから、まぁ……ホタのバカもお前が嫌いって訳でもねぇから、そのだな……」
「……分かった、分かった」
どうも、母さんのメールに一向に返信しようとしない俺に、その気が無いとでも勘違いしたらしい。
俺はそんな爺さんに小さく笑い、改めて『げんき?』に目を落とす。
(さて、何と返したもんか)
言いたい事はまぁ、色々とあるのだが――とりあえずは、こいつらについての文句から言ってやろうか。
俺は視界の隅で揺れるふたつの手達をちらと見やり、この空き巣達の恨み言も代弁してやる気持ちで、つらつら手指を動かした。
髭擦くん:名前は琥多郎。一度空き巣の手達に頭を差し出してみたが、思い切りぶっ叩かれたため心を砕くのはやめたようだ。
髭擦巌:髭擦くんのお爺ちゃん。娘とは色々あったが今は和解している。霊感は無いが、琥子の瞳が何かを映していた事は疑っていなかった。
髭擦蛍子:髭擦くんのお母さん。父とは何だかんだあったが今は和解している。メールを送った後、暫くスマホの前で正座していた。
髭擦琥子:髭擦くんのお婆ちゃん。暗闇の中で過ごす間、指先に感じる温もりが支えだったようだ。もう、よく眠れる。
空き巣達:以前から空き巣を繰り返してきたチンピラ達。市内の中東コミュニティを通し、蛍子と揉めたバイヤー勢力からの悪だくみを受けてしまったようだ。今後は長い間『手の空き巣さま達』としてゆらゆらし続ける事だろう。
『親』:安中が様々な気苦労を抱えた一方、二山は娘とのキャンプを満喫していた。
主人公:絵日記には「めちゃくちゃ楽しかったです」と書いたようだ。よかったね。
足フェチ:絵日記には「めちゃくちゃ昂りました」と書いたようだ。よかったね。