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異女子  作者: 変わり身
76/102

[手]の話(中②)




――うじうじと二の足を踏んでいる場合では無い。

一晩立って落ち着けば流石に俺もそう悟り、翌日早くにはインク瓶さんに助けを求める事にした。


とはいえ、(俺の認識では)一回スマホ越しに話しただけの縁である。

その時の感じでは、若干イヤミで話は長いものの、何だかんだと親身になってくれる大人という印象を持っていたが、詳しい人となりを知っている訳でも無い。


どうか断られませんように――そんな不安を抱えつつの連絡だったのだが、実際はただの杞憂であったようだ。

事情を話せばすぐに相談に乗ってくれ、適当に聞き流すような雰囲気も無く。その真剣に話を聞いてくれている様子に、俺はホッと胸を撫で下ろしたのだった。



『――君にはこっちの事情で色々助けて貰っているからね。こっちだって君の事情に付き合わなきゃ嘘だろう』



……何てこと無いように鼻を鳴らすインク瓶さんだったが、なるほど。タマがぐちぐちと言いつつも懐いている理由が分かる気がした。

ともあれそうして大体の経緯を伝えると、彼は暫く黙り込んだ末、ぽつりと零した。



『……タイムリミットが近いのかな、といった印象だね』


「……はぁ、タイムリミット」



意図が分からずオウム返し。

そんな俺にインク瓶さんは『君の話を軽く聞いた限りでの所感だけど』と付け加え、自らの考えを口にする。



『君の言う「手のお母さんさま」とやら。どういう性質なのかはまだ判断が難しいところだが……様子が変わったのは、ここ最近の事なんだろう?』


「……はい。それまでは手跡を付けたりとか、髪を引っ張ったりというような事は、何も……」


『一方で、君はそんな「手のお母さんさま」に対し、特に危機感や嫌な気配は感じていなかった。そうだね?』


「……少なくとも、俺にはずっと昔と同じように視えていたと思います」


『なら……その様子の変化は変質ではなく、何らかのサインだった可能性もある』



インク瓶さんの言葉が一度切れ、スマホの向こうで紙の擦れる音が鳴る。

……タマの話ではいつも革手帳を持っているらしいが、それだろうか。



『……君のお爺さんに付いた手跡は、腕にだけ残されていたそうだね。胴体など掴みやすい位置でも、首や顔などの命に係わる位置でも無く』


「そう、ですね……服の下とかは分かりませんが、見える部分で手跡があったのは腕だけでした」


『であれば――もしかしたら「手のお母さんさま」は、お爺さんを呼び止めたかったのかもしれないな』


「呼び……」



その予想外の一言に、ぱちくりと目が瞬いた。



『腕に幾つもの跡を残したというのは、何度も何度も腕を引こうとしていたんじゃないかな。廊下を通り過ぎるお爺さんに、何か伝えたい事でもあった。或いは、そもそも廊下を通らせたくなかった……とか、どうだろう』


「ど、どう……と言われても……。あの手跡自体は、善くないものという話では……?」


『だろうね。でも、それしか出来なかったとも取れないかい? それにこの説なら、君がこれまで受けていたという小さな乱暴にも、ある程度の察しが付けられる』


「…………わざと痛く撫でて、廊下から遠ざけようとした?」


『そういう受け取り方も出来るかもね』



恐る恐ると答えれば、玉虫色に返される。

その断定してくれない言い回しに、困った顔になるのが自分でも分かった。



「ええと……そうだ、それだと声は? 何か伝えたい事があるのなら、それで何かしらやり取りして来た筈なのでは……」



そう、酷く掠れていたとはいえ、手のお母さんさまはちゃんと声を発していた。

何を言っているのかも分からない程だったとはいえ、肯定か否定かの意思を示す事くらいは出来た筈なのだ。


……だが、手のお母さんさまは俺の問いかけに何も反応してくれない。

ただぶつぶつと聞こえない声を繰り返すばかりで、何かを伝えようという意思があるとはとても……。



『……疑問なんだが、それは本当に「手のお母さんさま」から聞こえたのかい』



そして続いたその問いかけに、俺は一瞬だけ呆けてしまった。



「……え、いや……そう、なんじゃないですか? だって他には何も……」


『その声は、あくまで隙間から流れて来たんだろう? 僕としては、君が隙間の奥に見たという顔からのものじゃないかとも思うけどね。手と顔なら、声を出すのは後者の方だ』


「……!」



ごもっとも。

目から鱗が落ちるというのは、この事だろうか。いつもの(オカルト)に慣れ過ぎて、思考が何でもあり寄りになってしまっていたようだ。



「そ、そうだ、考えてみれば、手には口も耳も無いんだった。話しかけて反応が無くともおかしくは……。なら、あの顔の方に話しかければ……もう少し、こっちの声が届く範囲にまで近付いていれば、ちゃんと答えてくれていたのか……?」


『――………………』



だってあの顔こそ、きっと手のお母さんさまの頭部なんだから――。


そう俺が納得している一方、インク瓶さんは何か言いたげに沈黙していた。

その空気に少しだけ違和感を持ったものの、特に深掘りする事も無く。



「……しかし結局のところ、手のお母さんさまはどうして俺達を遠ざけようと? さっきは、タイムリミットと言っていましたが……」


『……、……そんな風に感じたってだけさ。この場での話から即興で継ぎ接ぎした作り話なんだから、これが真実だと決めつけて欲しくはないかな。本当なら、もう少し詳しく調べてあげたいところだけど……』


「…………」



こちらを窺うような声音に、俺も返せず黙り込む。

無意識の内に額に手をやり、そこに残る小さな傷痕に指を這わせた。



『……さっきの話の中じゃぼかしていたけど、君、本当は昨日かなり手酷くやられたんじゃないか? 状況としてはあまり良くない段階になっているように思うよ』


「……爺さんには、絶対に廊下を使わないよう伝えました」


『そういう事じゃない……というか、お爺さんはそれで納得してくれるの?』



怪訝そうにするインク瓶さんだが、こういったいつもの(オカルト)絡みの出来事について、爺さんが俺の忠告を無視した事は一度も無い。


爺さんに霊感は無いし、その存在を詳しく話した事もない。

しかし昔から何故か理由も聞かずに俺の言葉を受け入れて、素直に従ってくれている。


どうしてだろうと疑問には思うも、尋ねるタイミングは遥か昔に逸していて、爺さんから何かを尋ねられた事も無い。

奇妙な暗黙の了解が今の今まで続いていて……だから今回も、爺さんが俺の言葉を破る事は無いだろう。そんな確信を持っていた。



『……まぁ、君がそう言うならそこはいい。だが、廊下を使ってはいけないのは君もだ。次に君が「手のお母さんさま」に近付いて、無事でいられる保証は無い。……分かっているんだろう?』


「…………」


『そして、今から僕がそっちに行って色々調べて対処をして……とやっていられる猶予も、おそらく無い。きっとその前に、何かが手遅れになっている』


「…………はい」


『……君が言い出し難いなら、僕の方から御魂雲に頼んでおくけど……そうするかい?』


「――――」



一瞬、頷きそうになった。

しかし堪えて、目を瞑る。



「いえ……いえ、御魂雲さんには、俺から連絡をします。それは、それくらいは、俺がやりたい……」


『……そう。じゃあちょっとしたおまじないを教えておくよ。君なら使えるだろうし、一日……いや、精々半日くらいが良い所だろうが、時間稼ぎは出来ると思う。……整理は、その内にね』


「……ありがとう、ございます」



おまじないとやらが何かは分からないが、助けになるものなのだろう。

向こうには見えていないというのに、自然と頭を下げていた。


それから幾つかやり取りをした後、通話を終了。

真っ暗になったスマホの画面を見つめつつ、俺は深い深い溜息を吐き……そっと、窓の前に立つ。


自宅。住居部分の二階にある、俺の部屋。

そこから見下ろす事が出来るのは、店舗部分と工房と――それから、件の廊下。



「……っ」



再びスマホに明かりを灯し、御魂雲さんへの番号を打ち込んでみるものの。

もう1タップがされないまま、画面は暗くなっていった







爺さんは今日も朝から仕事に出かけ、昼過ぎになってもまだ帰って来ていない。

店番をしていても客入りは無く、電話も未だ0件。昨日と同じく時間を持て余していた。


昨日の俺はその時間を夏休みの宿題に充てていたが――当然、今はそんな場合では無い。

店番などもフリだけで、とある作業を行っていた。


あまり慣れない……というかやった事のない作業に幾らか苦戦したものの、続けるうちにどうにか完成。一息ついて数歩下がり、離れた場所から俯瞰する。



「……これで、いいのか?」



応接間の奥から続く廊下の前。

今は閉められているその扉を横断するように、一本のビニール紐が張られていた。


白くて薄い、どこの家にもあるようなものだったが――よく見れば所々が赤黒く染まり、斑になっているのが分かるだろう。

……今しがた塗り付けたばかりの、俺の血だ。



(血、少なすぎるか……? いや、さっきもこのくらいだった筈……)



血を出すために針で刺した親指の腹を抑えつつ、点けっぱなしのスマホの画面を確かめる。


――そこにあるのは、インク瓶さんから受け取った『おまじない』のやり方だ。


俺の血を馴染ませた紐を用意し、いつもの(オカルト)から隠したいものの前に張る。

そしてそこに俺の意思をひとつ乗せれば、その紐がいつもの(オカルト)に対する隠れ蓑として作用するようになる……とか何とか。


つまりこのおまじないを使えば、この扉を手のお母さんさまから隠す事が出来るらしい。

そうすれば今後『タイムリミット』が来ても、その影響を廊下の中だけに閉じ込めておけるかもしれないとの事。どこかのキャンプで見たような光景だが、それと似たようなもののようだった。


無論、実行者が素人である以上、大きな効力を期待する物ではない。

手のお母さんさまがやらかす事によっては、おまじないは簡単に効力を失い……その影響が廊下の外に出てきてしまう可能性も高いという。


とはいえそうなっても半日程度の時間は稼げるだろうとの事なので、針でちくちくと親指から血を絞り出しては紐になびり、リビングと応接間の扉の前に張っていた。



「……やっぱり、これで大丈夫そうだな」



ともかく、そうしておまじないの方法に間違いがない事を確認し、ホッと一息。

スマホから目線を移し……改めて、紐とその奥の扉を見つめる。


……これを自分に巻き付ければ、危険なく手のお母さんさまに近付けるのでは。

そう思わなかったと言えば嘘になるが、その考えが頭によぎった瞬間、インク瓶さんから釘を刺されてしまっていた。


『そのおまじないは君の血を利用したステルス体質の劣化コピーだから、大本の君が身に付けても意味は無いよ。君の気持ちは察するが……行くなら御魂雲と一緒に、ね』


その諭すような声音に、俺は頷くしか無かった。

だから、ただこうして、閉ざされた廊下への扉を未練がましく見つめる事しか出来ず――。



「……っ、そうだ、仕上げ」



ふと手を伸ばしかけていた自分に気付き、咄嗟にその行く先を紐へと変えた。


このおまじないは、紐を扉の前に張ってそれで終わりという訳では無い。

張った紐に俺の意思を乗せるという、よく分からん工程が必要だった。


リビングの方で同じ事をした時は勝手が分からず相当苦戦したものの、二度目ともなればある程度のコツは掴めている。

俺は紐の端に指を置き、ゆっくりと反対側までなぞってゆく。



(視えない、視えない……)



イメージとしては、透明なカーテンを閉じるような感じだろうか。

そして扉をその透明に馴染ませ、溶かすように消してしまう。隠すでも誤魔化すでもなく、瞳に映らないようにしてしまう――。



「……っ」



パチン、と指先で火花が弾けたような音がした。

同時に紐が小さく揺れ、すぐに止まる。おそらく、おまじないが成立したという反応なのだろう。


俺の視点では扉の姿はしっかりと見えているが、廊下に居る手のお母さんさまには扉の姿が全く見えないようになっている……筈。

ちょっと不安な部分はあるが、さっきの小さな反応を思い出し、成功を信じた。



「とりあえず、これでよしか……後は……」



呟き、スマホをちらと見やる。


……残った俺のやるべき事は、御魂雲さんへの連絡だけ。

しかし今行ったおまじないは、その覚悟を決める時間を設けるためのものなんだ。


だから……だから、今じゃない。

奥歯を噛んでスマホから目を逸らし、また廊下への扉を見つめた。



『……み……うめ …… ……はなち …… ん ……』



そうして耳をすませば、うっすらと声が聞こえる。

手のお母さんさまの顔部分が、更に近付いて来ているのだろうか。扉越しでも声が聞こえるようになったという状況に、インク瓶さんの言う『タイムリミット』が強く思い出された。



「……っ」



……少し、扉から離れていた方が良いかもしれない。

あのまま手のお母さんさまの声が大きくなるのを聞いていたら、そのうち何か気の迷いを起こしてしまいそうだった。


俺は逃げるようにその場を離れ、店先まで戻ってようやく肩から力が抜けていく。



(……水、持ってくるか……)



とりあえず、冷たい物でも飲んで落ち着こう。

俺は若干ふら付きながら、店の外側から居住部分へと回り込み――丁度その時、駐車場に大型のトラックが入って来るのが見えた。


仕事関係でよく来る配達業者だ。慌ててハンコを取りに戻っていると、その間に配達員が荷物を持って店先に立っていた。



「毎度お世話様で~す。荷物の受け取りよろしくお願いします~」


「あ、はい、ありがとうございま……う」



そして渡された荷物の梱包を見た瞬間、思わず固まる。


……かなり大きな箱に、ずっしりとした重量。そして箱の隅に印字された、海外業者のロゴマーク。

覚えのあるそれらに容易く中身の想像がつき、自然と腰が引けてしまう。



「はい、ハンコ確かに。では、ありがとうございました~」



配達員はそんな俺の様子を気にする事もなく、ニコニコと手続きを済ませさっさと立ち去って行ってしまった。

残された俺は暫くその場に立ち竦み――ふと、どこからか視線のようなものを感じ、振り返る。


するとそこには、昨日も見かけた中東系の外国人の男が立っていた。

男は俺が視線に気付いた事に勘付くと、昨日と同じくそそくさと逃げ去ってしまった。手の甲にあった虫の刺青が、やけにくっきり目に残る。



「…………」



……そっと、抱えた荷物の送り状に目を下ろす。


ご依頼主、【髭擦蛍子(ほたるこ)】――俺の母さん。

品名、【天然石】――これは宝石。


――この大きな箱の中には、母さんから送られて来た宝石類が入っている。



「うーーーーん……」



俺は呻くように絞り出し……すぐに店内へ引っ込み、しっかり戸締りしたのであった。本日これにて閉店なり。







小さな頃から爺さんと二人暮らし同然の俺だが、それは両親と死別しているという事では無い。

父親こそ居ないが母親は健在であり、仕事で滅多に家に返って来ないというだけだ。


何でも個人での宝石売買を行っているとの事で、日本のみならず世界各地を飛び回っているらしい。

そうして仕入れた宝石やその原石を爺さんに送っては、加工や鑑定などを頼んでいるそうな。石屋の娘としては、中々に『らしい』と言えるだろう。


……しかし爺さんとしては、そんな娘に思う所もあるようだ。

母さんから仕事の依頼が来る度に不機嫌そうな顔をして、あれこれと電話やメールで文句を付けている姿がよく見られていた。


――今回のような、うっすらとトラブルの匂いが漂っているような時は、特に。






「……ホタのやつ、やっぱ面倒起こしてやがった」



爺さんが帰宅し、荷物と外国人の事を伝えた後。

すぐに母さんへと連絡した爺さんは、スマホでの通話を終えるや否やとてつもなく大きな溜息を吐き出した。



「……と、いうと」


「……あのバカ、今中東の方に居るらしいんだが、また現地の競合連中と揉め事起こしたみてぇだ。何とかそいつら出し抜いて買い付けて、こっちに輸送できたのは良いが……どうも後ろ暗ぇ部分強いとこだったらしくて、今も結構強めにやり合ってんだとよ」


「え……」



その物騒な説明に一瞬言葉を失うものの、慣れた様子で呆れているだけの爺さんに多少落ち着きを取り戻す。


……俺の母さんはどうもトラブルメーカー気質のようで、行く先々で色々と喧嘩じみた騒ぎを起こしているらしい。

爺さん的にはいつもの事のようだが、俺としては毎回トラブルと聞く度に肝を冷やされていた。



「ええと……母さん、大丈夫なのか?」


「……電話じゃピンピンしてたがな。それより、今は……」



爺さんはそこで言葉を切り、窓の外に目をやった。

その視線の先には何も居ないが……何の事を言っているのかはすぐに察する。



「俺の見た外国人、やっぱり母さん関係の……?」


「……断定はしねぇが、今この状況で中東系ってなぁ……」



どちらからともなく、宝石の入った荷物を見る。

タイミング的に色々と一致するものが多く、どうしても嫌な予感が止まらない。



「……警察、昨日は何だって?」


「……見回りはしてくれるそうだが、それくらいしか無理だとよ」


「そ、そうか……まぁ、してくれるだけ有難いよな……」



とはいえ、安心できる程のものでは無く。

二人揃って黙り込み、どんよりとした沈黙が横たわる。


しかし爺さんは気合を入れるように膝を叩くと、宝石の荷物を持って立ち上がった。



「……うじうじしててもしょうがねぇ。とりあえず、お前は家中の鍵閉めて大人しく寝てろ」


「あ、あぁ……それ、どうするんだ?」


「こんなもんそこらにぶん投げてらんねぇからな、仕事場の金庫に――ん?」



そうして廊下への扉に目を向けて、そこでようやくビニール紐の存在に気が付いたようだ。


爺さんはちらりと俺を見たが、それ以上は何も無く。

あからさまに怪しい紐には全く触れずにリビングの窓から外に出て、店舗部分へと向かって行き――。



「なぁ、爺さん」



その寸前、爺さんを呼び止める。

外で爺さんが立ち止まる気配がしたが、そちらを見ずにぼそぼそと続ける。



「その……母さん、他には何か……」


「…………」



爺さんは何も返さず、立ち去った。

……きっと、よく聞こえなかったんだろう。そっちを見ないのを良い事に、そう決めつけた。






「…………」



午後九時過ぎ。俺は自室のベッドに寝転んでいた。


ぼんやりと天井を眺めたまま、片手のスマホを弄ぶ。

そこにはやはり『安中』の番号が表示されていて、しかし発信される事は無く。画面の明かりが無意味に点いたり消えたりを繰り返す。



「はぁ……」



考えるのは、当然手のお母さんさまの事……と、本当の母さんの事だ。


……俺は、小さな頃から母さんに避けられている。


直接そうと言われた事は無い。

しかしここ十年で母さんが家に帰って来た事なんて数える程で、むしろ自分から離れたがっているかのように寄り付こうとしない。

連絡もほとんどが爺さん宛であり、会話の機会も数か月に一度あればいい程だ。


何より……今のキナ臭い状況で、息子に一言すらもかけてくれないというのは、母さんの胸中をこれ以上なく表しているんじゃないかと思ってしまう。



「……何で、なんだろうな」



俺としては、見た事のない父親周りが怪しいと思っているが……爺さんに聞いても黙り込んで誤魔化されるだけだし、本当の所は不明である。


ともあれ、母さんとはそんな関係だったものだから――手のお母さんさまが頭を撫でてくれた時、俺は本当に嬉しくて、



「――っ」



スマホと部屋の明かりを消し、タオルケットを頭から被る。


何というか、今日はもう駄目だ。まだ冷静になれていない。

また明日、一度眠ってから考えよう。明日の俺にぶん投げよう。


やけくそ混じりにそう決めて、俺は眠りへと落ちて行く――。



「…………」



……つもりだったのだが、どうにも目が冴えて眠れなかった。


瞼の裏の暗闇に手のお母さんさまとの思い出が幾つも浮かび、旋毛にその感触が蘇る。

御魂雲さんを呼んだとしても、絶対にそれが別れになると決まった訳ではないだろう――そう強く言い聞かせても、今度はねじくれた唇の姿が浮かび酷く気分が悪くなった。


何度も寝返りを打ち、深く長い呼吸を繰り返した。

しかしそれでも一向に睡魔は訪れず……ふと時間を確認すれば、いつの間にかすっかりと日を跨いでしまっていた。


……三時間以上ずっと寝転んでいて眠れないなら、もう無理か。

降参だと白旗代わりに瞼を開き、諦める。


とはいえ、こんな時間では爺さんはとっくの昔に寝付いているだろう。

下手に物音を立てて起こしてしまうのも忍びなく、寝転んだまま何か気晴らし出来るものでも探そうとスマホを手に取り、



――がたん。



「――……」



その時、外から物音がした。


それも道路や近所からではなく、おそらくはウチの庭の中から。

耳を澄ましてももうその音は聞こえず、やかましい虫の鳴き声だけが耳を打つ。


「…………」俺は少しの間考え、こっそりとベッドから抜け出し、カーテンの端を少し捲って庭の中を見下ろした。


夜空に月の光は無かったが、幾つかの街灯があり真っ暗という程でもない。

窓から俺の姿が見えないように気を払いつつ、じっと夜闇に目を眇め――。



「……?」



――店舗部分の入口。

しっかりと鍵の閉まったその付近に、何やら影のようなものが蠢いた気がした。


しかしそれも一瞬で、目を眇めた時には消えていた。視点を変えようにも、この位置からでは家の壁が影になり、その向こう側を見通す事は難しく……。



(……まさか、な)



胸騒ぎ。

その焦燥に煽られるまま、窓から離れ音を殺して部屋を出る。


真っ暗で、じっとりとした暑さが肌に纏わりつく中、一歩一歩慎重に。

決して床を軋ませないよう酷く気を遣いながら、ゆっくりと一階へ通りてゆく。


見間違い、取り越し苦労ならそれで良い。それが良い。

だが、もし何かが――いや、誰かが家の前に居たとしたら。その予想に緊張が走り、片手のスマホに110と入れておく。



(……誰も居ない。やっぱり、爺さんが何かしてるって訳でもないか……)



そうしてリビングまで降り部屋の中を伺うも、人の気配は無かった。

とりあえず爺さんを起こさなければ。俺は階段の影から身を出して、リビングの向こうにある爺さんの部屋へそそくさと渡り、



『みゐぞうめりゥば あァはなちャ ん』



――足が、止まった。



「……………………」



微細に揺れる視界を、廊下に繋がる例の扉へ向ける。


おまじないの紐が張られたその扉はやはりしっかり閉じられていて、どこにも隙間は見当たらない。

昼の頃から変わった所は全く無い……筈なのに、はっきりとそれが聞こえて来る。


――きっと手のお母さんさまの頭部だろう、あの白い顔からの声だった。



『しきまァき ひィつ たわみてゑ』


「……っ」



その意味は相変わらず分からない。

しかし声の掠れは綺麗に消え去り、声量も少し離れたこの場所からでも聞こえるくらいに大きなものとなっていた。


……手のお母さんさまのものなんだから、本当なら安心するべきものの筈なのに。

しかしどうしてか聞いているだけで腹の底が冷たくなり、口の中が干上がってゆく。


いつの間にか、目も足も金縛りのように動かなくなっていた。

棒立ちのままただ扉を見つめ、声を聞き続ける事しか出来ず――そうする内に、声の奥から別の物音が聞こえる事に気が付いた。



『みゐぞうめりゥば あァはなちャ ん しきまァき ひィつ たわみてゑ……』


『※※※? ※※、※※※?』


『※※……※、※※』



何かを漁るような小さな音と……何だろうか、誰か、二人くらいの男の囁き声だ。

こちらもこちらで何を言っているのか分からないが、手のお母さんさまの声とは違い、発音からして聞き取れない外国語のように思えた。



(……あの外国人か? 仲間を連れて、店の中に入っている……?)



明らかな不法侵入。

もう疑いようもない、完全な空き巣だ。


暑さとは別の理由の汗が滲み、危機感が跳ね上がるものの……どうしたらいいんだ、これ。

普通に考えればさっさと通報してしまうべきなのだが、廊下から聞こえる手のお母さんさまの声が、その判断をして大丈夫なのかとブレーキをかけていた。


いや、それより金縛り状態なんだから、通報も何も無かった。

俺はせめてここから離れる事くらいは出来ないかと、必死になって身を捩る。



『――みゐぞうめりゥば ()ァ放ち()ン』


(……?)



突然、手のお母さんさまの声のトーンが変わった。

声量がまた大きくなり、芯が通って揺らぎが失せる。



『――(しき)()ァき (ひつ) (たわ)みてゑ……』


(……何だ、これ、何かが――)



ふわりと、扉の前の紐が揺れた。


風も吹いていなければ、地震が起きている訳でも無い。

何一つとしてこの場に変化は無いというのに紐はひとりでに揺れ、少しずつその激しさを増してゆく。



『――溝埋めりうば、畔放ち已む。頻蒔き進めじ、櫃は撓みて、』



……何か、何がまずい気がする。


紐はもはや振り回されるように暴れまわり、決して小さくない音を立てていた。

そして廊下を挟んだ向こう側でも同じ事が起こっているようで――きっと、空き巣達もそれに気付いたのだろう。


慌てたような外国語と足音がこっちの方へと近づいて来て、そして、



『――※※※……!』


『溝埋めりうば、畔放、』



――ぶちり。

何かを引き千切るような音が微かに聞こえ、手のお母さんさまの声が、止まった。



「……、……」



ぽたり、ぽたりと、顎先から伝った冷や汗が雫となって床に落ちる。


……店舗側で何が起こったのか、考えるまでも無く察した。


空き巣が息を潜めて家探しをする最中、突然扉の紐が暴れ出し、物音を立て始めたのだ。

当然、空き巣達は慌て、それを止めようと動いて……そして手っ取り早く紐を千切り、物理的に動きを止めた。


普通なら、それで済んだ事だろう。

だが……この紐は違う、飾りで付けている訳じゃない。


手のお母さんさまに扉を視えなくして、廊下の外に干渉できなくするおまじないだ。

千切られれば、おそらくその効力は失われる。扉の存在に気付かれてしまう筈で。


――そうなれば、どうなる?




『――(せん)んんんんんあああああああああああああああ』


                (ああ よかった)


                       (こたくんたち に)      ( ならなく て)


――廊下の向こうで、扉の破られる音がした。



『※※!?』


『※※ッ、※※※――ァアアアアアッ!?』



驚くような声が上がり、しかしそれもすぐに叫びへと変わった。


廊下で何が起きているのか、何一つとして分からなかった。

扉に遮られた先で何かが暴れまわる騒音が響き、ガタガタとこちら側の扉を震わせる。


それは壁や床、天井にまで伝わって、家全体が軋みを上げているかのようだった。



『アアッ、※※ッ!? ※※ァアア!? ッギ、ィ、ィィィゥゥゥ……!』


『※※※※※※※ッ!? ――ァァァァアアアッ!!』



……何度も。何度も。何度も。何度も。

何か柔らかいものを叩き、そして引きずる鈍い音が繰り返され、それと一緒に男達の悲痛な絶叫が延々と続く。


扉を開けて助けに行く、などとは露ほども浮かばなかった。

俺の思考は混乱と恐怖に埋め尽くされ、ただ立ち竦む他は無く――。



「――どうした!?」



すると、リビングの奥の寝室から爺さんが飛び出してきた。


流石にこの騒音と絶叫で跳び起きたらしい。

その手には仕事道具のトンカチが握られていて、俺が居る事に気付くと一瞬だけ目を丸くし、しかしすぐに絶叫の続く扉へと向き直る。



「何だ、空き巣――にしちゃどうも……くそっ」



そして少しの間躊躇った後、爺さんは店の方へ向かうべく扉を塞ぐ紐へと手を伸ばし、



               (こたくん だめ だめ)



「――っ!」



何かが。聞こえない何かが耳朶を打つ。

ふっと金縛りが解け、身体が動くようになり――咄嗟に爺さんへ組み付き羽交い絞め、全力で動きを封じる。



「ぐぅっ……!? おま、何を……!?」


「駄目だ爺さん! 開けちゃ駄目なんだよ、今はっ!!」


「……っ、だ、だがよ、こりゃ尋常なもんじゃ――」



――う、ぎゅぶ、んぐぃ、ぎ、ぃ、ィィィィィィィィィィ……ッ!!!



……それは最早、獣の咆哮のようだった。

男達の絶叫がより酷く、鮮烈に、そして悍ましいものとなり。気圧された俺は爺さんを羽交い絞めにしたまま、思わず数歩後退る。



「……な、ん」



ぼりゅ、ぐち、みち、ごりん。

絶叫の合間に、酷い異音が差し込んだ。


何かが軋み、外れるような。

大きくて硬いものを、細く狭いところへ無理矢理に通していくような、そのような音――。



「――――」



……敢えて、思考を鈍らせた。


扉の先で何が行われているのかを察さず、気付かないフリをして。

少しずつ小さくなっていく叫びを、瞬きもせず聞き届けてゆく。


――ごちゅん。

そんな、一際聞き苦しい音が響いた後。全ての声が途絶えて消えた。



「…………」


「…………」



そこには虫の鳴き声すらも無く、不気味な沈黙だけがあった。

俺も爺さんも身動の一つ無いまま、ただただ無為な時間が過ぎていき、



「……っ」



ふつり。扉の前の紐が切れ、床に落ちた。


あれだけ派手に揺れていた以上はおかしくは無いのだろうが、今の状況では洒落にもならない。

そして先の振動で扉にも相当の負担がかかっていたらしく、手も触れていないというのにひとりでに開き始めた。


ゆっくりと、細長い唸りのような音を立て、廊下の中が顕わになっていく。


何故か、目を背ける気にはなれなかった。

ひたすらに浅い息を繰り返し、その闇の向こうを静かに見据え――。



「…………………………………………」



……手が。

()()()が、そこに、揺れていた。




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