[手]の話(中①)
*
――『手のお母さんさま』。
俺は、その手の事をそう呼んでいる。
それが誰の手なのか、どうしてそこに居るのか、詳しい事は何一つとして分からない。
ただ、俺が物心ついた時には既にあの廊下に居て、壁の隙間からゆらりゆらりと揺れていた。
怖いとか気持ち悪いとか、そういう風に思った事など全く無かった。
それは最初からずっと俺の世界にあり続けていたもので、極々自然に受け入れていたのである。
というか、もう一人の家族のようにも思っている部分もある。
小さかった頃は頭上で揺れる手指を掴もうとよく飛び跳ねたものだし、背が伸びてからは近付くと頭を撫でられていた。
昔から爺さんと二人暮らしも同然で、母さんに撫でられた事もあまり無かった俺だ。髪を梳くその柔らかな手つきに、どうしても母さんを重ねていた。
いつものという存在を知り、それらが人を傷つける場面を目の当たりにした後も、その気持ちは変わらなかった。
流石に件の手にも多少の畏れは持ったが、その手が俺を傷つけた事はこれまで一度だって無い。ずっと優しく頭を撫でてくれていて、俺はその温もりが大好きだった。
手だけで、母さんみたいで、しかし少しの畏れはある――だから、『手のお母さんさま』。
俺にとって、その手はそういう存在だった。
*
「……暑いな」
街中、雲一つ無い昼下がり。
じりじりと照り付ける太陽の光に手庇しつつ、顎に流れた汗を拭う。
こんなにも暑い日だ。街の人通りも疎らだと思っていたが、夏休みという事もあってか意外と人の姿は多かった。
何となく知った顔がないか探してみるものの、特に誰と会う事も無く。そうしてぶらぶらとする内、通りがかった公園に日陰のかかるベンチを発見。そろそろ喉が渇いていた事もあり、近くの自販機で飲み物を買って腰掛けた。
そうして喉を潤しつつふと向かいを見れば、少し離れた場所にある噴水の遊具で何組かの親子連れが遊んでいる。
その内のとある男児が、母親らしき女の人に頭を撫でられていて――「…………」そっと、その光景から視線を外した。
――店番が終わった後、俺は当てどなく街をぶらついていた。
どこに行きたい訳でも、誰に会いたい訳でも無く。
足の向くまま気の向くまま、だらだらと夏休みの午後を消費する。
どうせだらだらするならクーラーの効いた家で寝転がっていても良かったが……なんとなく、家に居るのは落ち着かなかった。
……工房で石を削っている爺さんの姿と、手のお母さんさま。
それらが目に映る度、あまり考えたくない事に意識が行ってしまうのだ。
なので、とりあえずの気分転換として外出をしてみた訳である。が。
(うーむ……やはり、考えてしまうか)
どこを歩いても、どれだけ頭をぼんやりとぼかしていても。
ふとした事で自然と思考が回ってしまい、胸に重たいものが重なっていく。
……まぁ、逃げずにちゃんと向き合っておけ、という事なんだろうな。
気が晴れるどころか逆に疲れが溜まってしまい、観念するように溜息を吐いた。
(……あの、爺さんの手跡。手のお母さんさまがやった……んだよな)
思い出すのは、爺さんの両腕にびっしりと刻まれた真っ黒な手の跡。
明らかに手のお母さんさまが付けたもので……たぶん、善くない意味も持っている。
ハッキリと言った確信がある訳じゃないが、アレを見て御魂雲さんが連絡をして来たというのはそういう事だろう。
……実を言えば、あの手跡を見たのはこれが初めてという訳では無い。
数か月ほど前からだろうか。爺さんが例の廊下を通る度、その腕に手跡が付いている事がままあった。
とはいえ、その時に付く手跡は非常にうっすらとしたもので、放っておけばやがて勝手に消えていた。
数も一つや二つ程度しかなく、手のお母さんさまの近くを通って引っかけたか何かしたのだろうと、どこか微笑ましく思っていたのだ。
だが……今回の手跡を見る限りでは、そんな悠長な事を言っている場合では無かったのかもしれない。
(爺さんは……何をされたんだろう。すぐにどうこうなる様子ではなかったが……)
一応、店番から外れて暫くは爺さんの様子を見ていたのだが、特に異変は無いように見えた。
腕の手跡はそのままだったが、いつものように元気に動き回っていて不調の気ぶりなども全く無い。
調子が悪くてもむっつり黙って隠そうとするタイプの困った爺さんだが、隠し事が下手なのでそういう時は大体すぐに分かるのだ。
一方で、手のお母さんさまの方にも変わった様子は見られていない。
いつも通りふらふらと揺れていて、俺の頭を撫でる手つきだっておかしな所は――。
「…………」
……いや、まぁ、違和感という意味では心当たりは無くもない。
旋毛のあたりに手をやって、硬めに流れる髪を梳く。先程そこに感じた小さな痛みは、まだ鮮明に思い出せていた。
(……いつからだったか。撫で方、荒くなったの)
少し前までは、手のお母さんさまの撫で方はもっと優しいものだった。
さっきのように爪を立てたり髪を引っ張る事も無く、最初から最後までずっと柔らかな手つきのままで、粗雑さなど全く無かった。
だからこそ俺は、他のいつものと違って知らんぷりをしなかった。
たとえどれだけ物騒ないつものを目にしようが、手のお母さんさまだけは別物なのだと、よくないものでは無いのだと信じ、厭い離れはしなかったのだ。
……しかし、ここ最近になって、突然痛みを伴う手つきになってしまった。
俺の身長が伸びた事で撫でづらくなった……という風な動かし方でもなく、取るに足らない小さな痛みとはいえ、引っ掛かるものは胸にあった。
(それに……あの声もか)
壁の隙間から流れて来る、囁くような掠れ声。
おそらく、というか確実に手のお母さんさまの声なのだろうが、それも最近になって聞こえるようになったものだ。
掠れが酷く内容まではよく分からないものの、最初に聞いた時はとても驚いたものだった。
とはいえ何度声を返しても返事は無く、その内聞き流すようになってしまったのだが。
「…………」
で、それが一体何だという。
爺さんに付いた手跡との因果関係を考えてみるも、上手く繋がる答えは見つからず。
俺はもう何度目かも分からない溜息を吐き、飲み物の残りを呷った――と、その時、スマホが小さく震えた。
「……んん?」
見ればメッセージアプリに着信があり、川の中に立つ真っ白な少女の素足と、その隣に並ぶ女性の素足の写真が無言アップされていた。
その意味不明さに首を傾げていると、タマから『消しとけ!』のメッセージが飛来し、何となく色々察する。
(どこ行っても変わらんな、あいつら)
まぁ、キャンプを楽しんでいるなら何よりだが。
その気の抜けるアホなやり取りに、自然と笑みが零れ落ち……ほんの少しだけ、肩が下がった。
「……、」
一息。
スマホを手にしたまま、そっとポケットから一枚のメモを取り出した。
先ほど『安中』から伝えられた、御魂雲さんへの連絡先が書かれたものだ。
そして画面のメッセージアプリを脇に下げ、とりあえず『安中』の電話番号を打ち込んだ。
俺は暫くその番号を眺めた後、通話ボタンの上に指を置き、
「……っ」
しかし、どうしても踏ん切りがつかず。
そのまま固まっている内、今度は『成敗』の一文と共に川に沈んだ小麦肌と白いピースサインの写真が送られてきた。
「はは……はぁ」
また気が抜けた。
俺はベンチの背にぐったりと身を預け、メッセージアプリの裏に押しやられた『安中』の番号を消し去った。
結局は、素直に御魂雲さんを頼るのが一番良いのだろう。
きっと爺さんの手跡も消えるし、迫りつつあるのだろう善くない何かも解決する。疑いようのない、最良最善の選択肢。
それは分かっている。分かっているのだが――その場合、手のお母さんさまはどうなる?
「…………」
公園から離れ、来た道を戻りながらつらつらと考える。
爺さんに手跡を付けた犯人で、きっと善くない何かの原因になるものでもあって。
御魂雲さんの行う解決法は、そんな手のお母さんさまも助けてくれるものなのだろうか。
(……そうは、思えないんだよなぁ)
数か月前、タマと初めて知り合った時の事だ。
その中で俺は、御魂雲さんがタマに絡んでいたいつものを倒す光景を目の当たりにした。
御魂雲さんの身体の一人が死んだかと思うと、その唇の形をしたいつものは苦しそうに真っ黒な粘液を吐き出して、ねじくれるように死んで……いや、死んだという表現でいいのか? まぁとにかく死んで、問題は解決した。
なら――今回も、そうやって解決されてしまうのではないのか?
「…………」
……敢えて手のお母さんさまが御魂雲さんに危害を加える状況を作り、抵抗もせずに、いや、むしろ自分から進んで死にに行く。
そうなってしまえば後はもう、あの優しかった手は捻じれ、真っ黒な粘液を撒き散らし、そして――。
そんな光景がありありと目に浮かび、きつく奥歯を噛み締めた。
(い……嫌だ……! 嫌……なんだが……)
けれどその一方、放っておいたらほぼ間違いなく爺さんに何かが起こってしまう。
当然そっちも俺にとって決して受け入れる事の出来ないもので、だからこそ頭が痛かった。
(相談くらいなら……とは思うが、なぁ)
『安中』の様子であれば、相談すれば俺の意思も汲んでくれる可能性は高い。
だがそれで何も変わらず、俺の懸念通りになってしまったらと考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。
……あの唇の酷い最期が、ずっと頭から離れない。
(……いっそ、インク瓶さんの方に頼ってみるのもいいかもしれんが)
この前のキャンプの一件で、スマホにはインク瓶といういつものに詳しい人物の連絡先も入っている。
その時は俺もかなり助けられたし、彼と親しいらしいタマも相当に信頼している事が普段の様子から窺える。
現状心を砕いてくれているのは御魂雲さんとはいえ、心情的にはインク瓶さんの方に傾いている部分も無くはない。
……どうする。スマホにインク瓶さんの番号を映し、息を詰め。
「――……」
彼からされたとある話を思い出し、握るスマホが小さく軋む。
そのまま最後の1タップが出来ず、息を吐いてスマホをしまった。
……今の俺に出来る事は、他に無いと分かっているのに。
むしろこうしてうじうじ先延ばしをしている分、事態は悪化しているというのに、必要な一歩を踏み出す覚悟が、どうしても。
(……嫌な、気持ちだ)
爺さんか、手のお母さんさまか。二人を天秤にかけている図が脳裏に浮かび、酷く気分が悪くなり。足取りもアスファルトに沈み込むように重くなる。
そうして、こんなにも暑い中を時間をかけてのたのた歩き、しかしそれでも心はまるで決まらずに。
その内やがて家まで戻ってしまい、更に気が重くなって――。
「――……?」
ふと、家の周りに誰かが突っ立っているのが見えた。
中肉中背の若い男で……おそらく外国の人だろう。その彫りの深い顔立ちや肌色的に中東系かそこらの人に見えるが、ハッキリとは分からない。
男は家の横側から店先へと何やらスマホを向けており、動画か写真かを撮っているようだった。スマホを構える手の甲に何かの虫をモチーフにしたような刺青を入れていて、それがやたらと印象に残った。
(……石像の撮影か?)
店先にはディスプレイとして幾つかの石像や墓石などが置いてあり、通りすがりに撮っていく人もたまに居る。
この人もその類の人だろうか。そう思いつつ何となく眺めていると、男も俺の視線を感じたらしい。
突然こっちを振り向き、見られていると気付いた瞬間素早くスマホをしまい、そそくさと立ち去ってしまった。
「…………」
少し、嫌な感じはしたものの。
しかし声を上げて追いかけるには弱く、そのまますごすご店の中へと帰宅した。
*
「――磨きの仕事、入ったぞ」
その日の晩飯時。
俺の茹でた素麺を啜りつつ、爺さんが思い出したようにそう言った。
「……え、またか? ついこの間あったばかりだろ」
「前に言ってたのが上手くいったんだと。明日の夜までには来るそうだ」
「いや急すぎないか……?」
「どうせまた面倒くせぇトラブル起こしたんだろうよ……悪ぃが、準備してやっといてくれ」
爺さんはそう言って、不機嫌そうな溜息ひとつ。
八つ当たりのようにお椀のつけ汁を飲み干すと、食器を持って流し台へと消えていった。
――磨きの仕事。
何やら符丁めいた表現だが、別に怪しいアレソレという訳では無い。単に宝石のカットや研磨などの依頼が来たというだけの話である。
基本的に地に足付けた業務の多いウチの店だが、実は宝石に関する諸々も請け負っていたりする。
爺さんはこんな武骨な風体ながら宝石・鉱石まわりの資格も多く持っており、関係機材も揃い踏み。加工から鑑定まで、粗方何でも出来るのだ。
もっとも公にはしておらず、あくまで身内からの依頼を受けるに留めているようだ。
何でもあまり大っぴらに吹聴するとよからぬ輩に目を付けられやすくなるとの事で、実際俺が小さな頃にも何度か空き巣の被害に遭い、加工途中の宝石を盗まれた事があるらしい。俺はぼんやりとしか覚えていないが……。
……空き巣。何となく、さっきの外国人を思い出す。
「……なぁ、さっき俺が帰って来た時、店の前に外国の人居たんだが、あの人お客さんだったのか?」
「……いや、客なんて来ちゃいなかったが」
戻った爺さんに問いかければ、訝しげな顔を向けられる。
……うーむ。
「……警察、電話しとくか?」
「ううむ……まぁ、今はタイミングも悪ぃしな。一応、報せくらいは入れておくか……特徴は?」
問われたまま、さっきの男の容姿をそのまま伝える。
おそらく中東系の外国人、中肉中背、若者、そして――手の甲にある、虫の刺青。
聞いた爺さんは小さく頷くと、スマホを取り出しながら部屋を出る。どうやらさっさと通報を済ませてしまうつもりのようだった。
俺は何を言うでもなく、爺さんの背中を見送り――「…………」その腕に未だ薄れもせずに残る真っ黒な手跡が目に入り、視線を逸らした。
「 うめ ちャ ん 」
「…………」
例の廊下を覗けば、手のお母さんさまは昼と変わらず揺れていた。
ゆらゆら、ゆらゆら。
何かを求めているかのように、或いはただただ惰性のままに、不規則に宙を掻いている。
そのいつも通りの光景に、俺はどこかホッとして――同時に腹の底が重くなった。
(こんな呑気な風なのに……爺さんにあんな手跡、付けたのか?)
……正直なところ、まだ疑っている部分はある。
やはり何かの間違いなんじゃないのか。他に別のいつものが居て、本当はそいつの仕業なんじゃないのか。
などとぐだぐだ考えながら廊下の中を見回すものの、当然手のお母さんさまの他にいつものは無し。
俺は肩を落としてまた溜息を吐き……俺はゆっくりと手のお母さんさまの前へと進み出た。
「 うめ ちャ ん き たわ 」
手のお母さんさまは、また何かを呟いていた。
……何かを呼んでいるような気もしなくはないが、幾ら耳を澄ませても聞き取れない。
そうしている内に俺の頭に手が伸びて、いつものように撫でてくれる――。
(……本当に?)
まるで、差し込まれるように。重たい腹底からとある疑念が顔を出す。
……前の、キャンプの時。
インク瓶さんと通話しながらの森林探索中、俺の霊的な体質について軽く触れられた事があった。
俺の体質――つまり、いつものに絡まれにくいステルス体質。
いつものは己を瞳に映す者へと近寄っていくが、俺の三白眼は小さすぎてその姿が映っているかどうかが非常に不明瞭であるらしい。
そしていつものどもも判断に迷い、最終的に俺をスルーする結果となっているのだそうだ。
それは以前に御魂雲さんからも聞いていた事であり、インク瓶さんも同じ見解だったが……彼はそれに加え、俺の血筋にも影響するものがあるのではないか、という考察もしているようだった。
『――千里眼、という霊能がある。その名の通り、千里を見通す事さえ出来ると言われる「視る」力だ』
山の中、指示の合間に聞かせてくれた話を思い出す。
『三百年近く前かな。その霊能を以てそこそこ名を馳せていた一族が居たんだが、色々あって断絶してしまってね。とはいえ完全に血が絶えたという訳では無く、傍系だのその隠し子だの、そういった形で細々残りはしていたらしい』
『は、はぁ』
『そして本家が無くなったのをいい事に、その傍系達が幾つかの地域で我こそが後継だと言い張った。まぁその多くが実力不足で勝手に潰れていったらしいけど……この御魂橋にも、それらしき家の記録があった』
『……俺には、その血が入っていると?』
『可能性は低くないと思うよ。千里眼の霊能は、己の眼に怪異の姿を映すかどうかを選べる力でもあるようだからね。君には霊能を自在に扱う器用さは無いようだが、その血とその小さすぎる瞳とで、君だけのユニークな見立てが偶然にも成立してしまっているのかもしれない。瞳を閉じる事無く、閉じた性質を得られている――なんて説を唱えてみるけど、どう思う?』
……まぁ全てを理解したとは言い難いが、つまり俺はそもそもいつものに存在自体を認識されていない場合も多いらしい。
もし、それが本当なら――手のお母さんさまも、同じなのでは無いだろうか。
「…………」
俺はこれまで、手のお母さんさまは俺を俺として認識し、その上で撫でてくれているのだと思っていた。
俺だからこそ優しく、母さんのように撫でてくれているのだと、そう思っていた。
だが……もしかすると、全て勘違いだったのだろうか。
手のお母さんさまは俺を認識しておらず、ただ手を振った先に認識できない何かがあったから、これは一体何だろうと手を這わせていただけだったんじゃないか。
俺の事なんて何も分からず、ただの反応として手を動かしていただけだったんじゃないのか――。
「……違う、よな?」
「 うめ ちャ ん 」
問いかけても、肯定も否定もしてくれない。
いつのまにか俺のものより小さくなった掌が、ゆっくりと旋毛の上を滑っていく。
その指先にどうしてか冷たささえ感じながら、俺の視線は自然と下へと落ちて行き……。
「……?」
その先。床近くの隙間の中。
真っ暗な暗闇の続くそこに、何かが見えた。
「何だ……?」
手のお母さんさまが出てきているこの隙間は、覗いてみても基本的には暗闇に覆われていて、そこにある筈の手のお母さんさまの身体も、暗闇がどこに続いているのかも、何一つとして見通せない。
そして家の壁より奥行があるように見えるのに、外の壁には何も無い。明らかにおかしい事になっている。
とはいえ明確な害も無いので、いつしか『そういうもの』として気にする事も無くなっていたのだが――その暗闇の中に、ぽつんと何かが浮いていた。
(……人の、顔……?)
相当深い所にあるようで目鼻立ちはハッキリとはしなかったが、どことなくそんな気はした。
……女の人のものだろうか。白く、ふくよかで、丸い輪郭のそれは、少しずつこちらに近付いているようで、段々と大きくなっている。
俺はその正体を見極めようと、隙間の奥へと目を眇め、
「 みゐぞ うめりゥば ちャ ん」
――瞬間、頭に激痛が走った。
「、っぐ、が……!?」
手のお母さんさまの指が、俺の髪を強く握り締めていた。
そして頭皮ごと強く引っ張られ、壁の方へと倒れ込む。隙間の両側、硬い壁の部分に顔面を強打し、一瞬意識が飛びかけた。
しかし手のお母さんさまは力を緩める事は無く、そのまま隙間の向こう側へと髪を引き続ける。
無論、入っていける訳が無い。隙間からはみ出た部分が壁につっかえ、頭蓋が軋む。
ぎちぎちと頭皮が嫌な音を立て、顔面の皮が引き攣った。
「ぁが、ぎ、ぃ……!?」
「しき まァき たわ てゑ 」
顔の形が歪んで行くのが自分でも分かった。
満足に悲鳴を上げる事も出来ないまま、必死に壁に手足を突っ張って抵抗するも、俺では全く歯が立たない。
(やめて、くれ……やめてくれっ……!!)
何度懇願したところで、声にならない以上は何の意味も無い。
額の中央から、隙間の中に入っていく。
耳が、こめかみが、頭の両側が壁でこそがれ、ゆっくりと絞り出されていくようだった。
肉が削れる。息が出来ない。目が潰れる。視界が赤い。
あまりの痛みに思考すらおぼつかなくなり、真っ赤だった視界も白く霞み、そして、
「――ッガ!?」
突然背中に衝撃が走り、沈みかけていた意識が浮上した。
いつの間にか息も出来るようになっていて、大きく咳き込みながらも酸素を求めて何度も喘ぐ。
「は、っぐ、はぁっ……は――?」
ズキズキと痛む頭を上げれば、どうやら隙間の反対側の壁に投げ出されていたようだった。
何が起こった。俺は苦痛と混乱にかき乱されながら、恐る恐ると手のお母さんさまの方を見上げた。
「 ゐ う ……」
手のお母さんさまは、まだそこに居た。
しかしさっきのようには揺れもせず、隙間の縁に指をかけた形で固まっている。
それは隙間を閉じようとしている姿にも、暗闇に引き込まれまいと耐えている姿にも見えた。
よく手入れされた真っ赤な爪が壁に突き立ち、相当な力が込められているのか嫌な音を立てている。
――そして、その向こう。暗闇の奥には、白い顔がまだ、あっ、て。
「――――」
ぱき、と。
手のお母さんさまのよく手入れされた赤い爪が、音を立てて剥がれ跳ぶ。
それが何かの合図にも聞こえ、俺は弾かれるように駆け出した。
廊下を飛び出し、扉を閉めて。そのまま一歩二歩と後退り、リビングの椅子に足を引っかけ尻もちをついた。
だが視線だけはどうしても扉から動かせないまま、ただ荒い呼吸を繰り返す。
――ぱき、ぱき。扉の向こうで小さな音が幾度か続き、やがて、止まった。