「陽炎」の話
うだるように暑い日だった。
「……うあー」
早朝。デーデーポッポーとよく知らん鳥が囀っている時間帯。
カーテンの隙間から差し込む光の筋に瞼を灼かれ、私はのっそりと目を覚ました。
途端、部屋に籠った熱気と流れる汗を鮮やかに自覚し、また呻き声。
カーテンの隙間に見える空の色はまだ薄いのに、なんでもうこんなに暑いんだ。私は堪らずクーラーの電源を入れ、吹き出し口の下に転がった。
寝る時クーラー消す派だったけど、もう宗旨替えしますわこんなの。
「朝でこれって、昼どーなんの……うげー」
スマホで天気予報を見てみれば、最高気温はなんとびっくり38℃。アホかよ。
私も暑い日は嫌いじゃないし、そんな日に敢えて出歩くのだって好きな方だけど、体温以上の気温となると流石にしんどい。
つい一昨々日にやっと終わった期末テスト(と追試)の時も学校行くのが億劫だったが、今日は違う意味でおそと出たくない。
私は転がる床でクーラーの風に冷やされながら、そのまま暫くふて寝して――そのうち部屋のドアがノックされ、眠気が弾けた。
「んえっ……な、なに」
「おはよう。朝食だ、そろそろ起きなさい」
するとドアの向こうから不愛想な『親』の声が聞こえ、足音と共に去っていく。
再びスマホを見ればそこそこ時間が経っていて、どうやらモーニングコールをしに来てくれたらしい。
……そんな事、少し前なら絶対にやらなかったのにな。何とも言えないモヤモヤ感が湧き上がり、溜息。
まぁあんまり遅いと ちゃんを待たせる事にもなっちゃうか。
私はいい感じに冷やされた身体で起き上がり、あくびを一つ残して自分の部屋を後にした。
「……寝苦しいなら、クーラーを点けたまま寝なさい。誰も文句は言わないから」
「今日の夜からそーする。いただきます」
リビングに入るなり飛んできた小言を適当に流し、食卓につく。
並んでいたのは、ご飯と納豆とみそ汁、そしてベーコンエッグという朝食としてはスタンダードなメニューだった。
私的にはベーコン多めだし文句は無い。まだ湯気を上げているそれにおなかがグルグル動き始めたのを感じつつ、納豆もグルグルかき混ぜる。
その最中、流れていたテレビにぼんやり目を向けていると、『親』がそっとリモコンを差し出した。
「……何か、見たいものはあるか」
「んー? じゃあ6、ニュースつまんないし」
「6……今日は我々の身体がゲスト出演する日だが、平気か」
「何やってんだよ。いやほんとに何やってんだよ」
あんまりにも気になり過ぎたので自分でチャンネルを回せば、その瞬間にバラエティ番組に出演していたお笑いコンビの片割れが一瞬だけ無表情となり、正体を地上波で晒していた。マジかよ。
「うわ、私だって知ってるぞこの人ら……えっ、片っぽあんただったの……?」
「数多の身体を持っていれば、それぞれの人生の流れで芸人になる身体もそれなりに出るのだ。他にもニュースキャスターや役者、歌手やダンサーの身体も居る」
「ほ、本気でどこにでも居やがる……!」
などとダラダラ続ける内、意外と時間が経っていて。
ふと時計を見れば出発時刻が差し迫っており、慌てて残っていた朝食をかき込んだ。
すると『親』はそんな私の姿に首を傾げ、何故か怪訝そうな空気を向けて来る。
「……今日は学校で何かあるのか。普段はもう少し余裕があるだろう」
「は? いつもと同じじゃん、もうそろそろ来ちゃうだろ」
「……? 来るとは、誰が――」
――ピンポーン。
と、その時、玄関のチャイムが鳴った。
「やべ、ごちそうさま! あとごめんちょっと出といて!」
「待て、話は――」
私は慌てて席を立ち、身支度を整えるべく走り出す。
後ろで何か引き留められた気もしたけど、もう時間がない。とりあえず爆速で着替えと歯磨きだけ済ませ、鞄を掴み身支度終了。
そうして大急ぎで玄関に向かえば――玄関扉を軽く開いたまま黙り込んだ『親』と目が合った。
「どーも。バタバタして悪いけど、行ってくんね」
「……お前は……」
『親』は何か言いたそうに口籠り、やがて小さく首を振る。
憐れみ……だろうか。そんな風にも感じられる視線に私も首を傾げたけど、何かを問いかけるより先に『親』は「いや、いい」とだけ呟き、扉を開いた。
「……行ってきなさい」
「? う、うん……」
……やはり何かおかしい気もしたが、まぁ帰ったら聞けばいいか。
私は『親』に促されるまま玄関扉を潜り抜け――その先で待っていた彼女の姿に、自然と笑顔が零れた。
「――ごめん、 ちゃん! あっつい中待たした!」
「ううん、このくらいなら全然へっちゃらだよ――おはよう、コトちゃん」
あはぁ。
地面から立ち上る陽炎に紛れ、彼女もまた、柔らかな笑顔を浮かべていた。
*
「今週終わったら、もう夏休みだね」
じりじりと強い朝日が照り付ける通学路。
私の隣を歩く ちゃんは、汗ひとつない涼やかな顔でそう言った。
「あはぁ、いよいよ待ち遠しいねぇ。どうしようかなぁって今から楽しみだよ」
「そうだなー、去年はすげー楽しかったし……今年は何すっかな」
朝だってのに既に流れ出て来る汗を拭いつつ、一年前の夏休みに思いを馳せる。
毎日のように ちゃんと一緒に遊んで、その家族と一緒にキャンプに行ったり、夏祭りだって楽しんだ。
ホラースポット巡りだけはアレだったけど……今振り返っても、人生で一番楽しい夏休みだったと自信を持って言える。
そんな幸せだった思い出を振り返っていると、 ちゃんは意地悪そうな表情でくすりと笑い、
「ちゃんと宿題の方も早めに終わらせようね。去年はどうなったんだっけぇ?」
「う、うるさいな。ちゃんと終わったんだから良いだろ! 今度はやるよちゃんと!」
「ほんとかなぁ」
私は楽しい記憶に水を差して来る ちゃんに言い返しつつ、そのニヤニヤとした笑みから逃げるように足を速め――「お」ふと前方に知ったデカい背中を見つけ、声が出た。
「髭擦くんだ。ここで一緒になんの珍しいな」
「……? んーと……あ、ほんとだ。おーい」
じっと目を細めた ちゃんもやがて気付いたようで、手を振りながら呼びかける。
それを受けた髭擦くんはすぐにこちらを振り返り、ぱちくりと白目を瞬かせた。
「おはよう、偶然だねこんなとこで」
「……あ、ああ、おはよう……? ええと、タマも……」
「はよー。なんかぼーっとしてんな、寝不足?」
「いや……そういう訳じゃない、んだが……」
「……?」
白目だからあんまりハッキリしないが、髭擦くんは何故か動揺した様子で ちゃんを見つめ続けている。
その意味がよく分からず首を傾げていると、彼はおずおずと私の耳元に口を寄せ――しかし何かを言われる前に ちゃんの声が上がった。
「わたし達、夏休みの予定について話してたんだけど、髭擦くんはどんな感じ?」
「は、な、夏休み……? いや、特には……知り合いとキャンプ行くくらい……」
「へー、いいなぁ。去年はわたしも家族で行ったけど、今年はまだ予定無いや。あの川辺の山に近いところ?」
「ああ、そう聞いてはいるが……そうだタマ。そのキャンプお前も一緒に来るって本当か? あの人ウキウキで言ってたぞ」
「知り合いってあのアゴかよ。行かねーよ」
そういや以前アゴ男に会った時、そんな話になってたな。
あの時に明確に否定してなかったからか、どうも参加の方向で話が進んでいるらしい。
呆れながら首を振っていると、気付けば ちゃんがキラキラと目を輝かせていた。あ、ヤな予感。
「……ねぇ、あそこのキャンプ場って、自然公園の所に比べて料金安いと思わない?」
「え? ……ま、まぁ、俺の小遣いでも月に何度かは行けそうだなとは思ったな」
「実はね――あそこの山の辺り、ちょっとしたウワサがあるとこなんだ」
「うげ」
その嬉しそうな様子にウワサの中身がオカルト関連である事を察し、苦い顔になった。
一方で何の事か分からず困惑している髭擦くんに、 ちゃんは朗らかな笑顔を向けて、
「そのキャンプ、コトちゃんが行くならわたしも一緒に行きたいなーって思うんだけど……いい?」
「あ、ああ……誘いたい人が居れば誘っていいとの事だったし、構わんとは思うが……」
「いやさっき行かねーって言ったよな私な」
「えー、でもみんなで行くか後でわたしと二人で行くかの違いだよ?」
「選択肢をくれよぉ……!」
うんざりと拒否の意を示すけど、こういう時の ちゃんに抵抗するのは難しい。
特に今回は直近の期末テストで勉強を教えて頂いた弱みもあり、断り切れる余地が無かった。
まぁいつもの事と言えばいつもの事だし、去年の夏休みも似たようなもんだったとはいえ、今年はもうちょいホラースポット巡りを少なめに――……。
「っ……?」
ざり、と。
思考に何か、ノイズのようなものが混じった……気がした。
違和感というか、不協和音というか。
そのような痒みにも似た感覚が意識の片隅に生まれ、かりかりと頭の裏側を引っかいている。
……何だろう。何か、何かがおかしいような、ええと……。
「……どうしたの、コトちゃん?」
「!」
声をかけられ、我に返る。
ぼやけていた目の焦点を合わせれば、少し離れた先に ちゃんと髭擦くんが立ち、怪訝そうな表情で私の方を見つめていた。
どうやら、いつの間にか立ち止まってぼーっとしていたらしい。
この暑さでちょっと茹だったかな。何でもないと返しつつ、足早に二人を追いかけた。
「あ、そうだ知ってる? 何か最近ね、界隈で有名なサイキックカウンセラーが近くに相談室開いたらしくてね、せっかくだし一緒に……」
「いい、いい、いい、いい」
「首振りすぎて頭白い塊みたいになってるが大丈夫かそれ」
そうして談笑する内に、やがては先の違和感も忘れ。
私達三人は揺らめく陽炎に包まれながら、学校への道を歩いて行った。
*
私達の通う第二神庭学園は、中高一貫校だけあってそこそこお金持ちの学校だ。
高等部・中等部共に校舎はどこも綺麗で、設備も生徒が欲しいと思うものは大体完備。
冷暖房も全教室にきっちり配備されていて、夏でも冬でも快適な学校生活を送る事が出来るのだ。
当然私のクラスもクーラーがよく効いていて、教室の扉を開けた途端流れた冷気に息を吐く。
「あー……すずしー……」
「……うーん、わたしはちょっと寒いくらいかも」
「あそう? ベストあるけど貸そっか?」
「ううん、そこまでじゃないから」
そうして席で雑談していると、少しして足フェチが扉を開けるのが見えた。
すぐに私達と目が合い、にこやかに手を振って来る。
「はよー。今日早いね、何かあった?」
「おっす~……いや~朝からこの暑さでしょ~、朝練ヤバすぎて中止になっちった。この分じゃ今日はもう一日練習禁止かな~……」
足フェチは残念そうに首を振り、勝手に座った向かいの席から私の机にべったりともたれかかる。
普段がアレな分忘れがちだが、コイツの持つ陸上への情熱には一切の嘘偽りがない。
まぁ性癖と地続きという事もあるのだろうが、純粋に走る事も好きなんだろう。少なくとも、こんなクソ暑い中でも走りたがるくらいには。
そんなぶすくれる彼女に ちゃんは苦笑を浮かべ、よしよしと頭を撫でた。
「まぁしょうがないよ、熱中症になって倒れちゃったら大変だし、もう少し涼しくなるまで……」
「それは分かってるんだけどさ~……でもやっぱ、こんなにも暑い中を走っていつも以上に汗にまみれて赤らんだ足も見たくってさ~……」
「…………」
足フェチの頭に置かれていた手がスッと離れた。そりゃそうだ。
ともあれそんなこんな、いつもの三人でバカ話をする内に時は過ぎ、やがてホームルーム前の予鈴が鳴った。
ので、とりあえず突っ伏したままの足フェチを引っぺがし、尻を叩いて自分の席へと送り出す。
「あいた~……やれやれ、タマ吉のおしり好きにも困ったもんだ」
「蹴ると喜ぶから叩いてんだよいっつも! 人聞き悪い事言うなや!」
「まぁまぁ、じゃあまた後でね」
よっぽど望み通り蹴っ飛ばしてやろうかとも思ったが、それより先に担任教師が到着。
私は渋々腰を下ろし、離れていく ちゃんに手を振って……。
「…………」
ふと、クラスメイトの全員が揃った教室を見渡した。
当然、机は教壇含めて全て埋まり、空きは無い。
振り返る。彼女の姿は、どこにも無かった。
その後も、何の変哲もない一日が流れていく。
毎度の授業をひいこら言って乗り切り、休み時間になる度に溜息を吐いて突っ伏し、待ちに待った給食でおなかいっぱいになって眠くなり。
そしてその合間合間に ちゃんや足フェチと駄弁って笑う、穏やかで心地の良いいつもの時間。
そこにおかしな所は一つも無いし、違和感の類もありはしない。いつかの私が夢に見た、今の私の日常だ。
……そう、その筈、なんだけど。
(……なんだろ、なんか……)
その日常の節々で、時折ノイズのようなさざ波が意識を揺らす。
ふとした瞬間に脳みその中にズレのようなものを感じ、酷く落ち着かなくなるのだ。
やっぱり何かがおかしいような、大切な前提が間違っているような。そういった妙な気分になってしまう。
……この暑さで、流石の私も夏バテとかになってんのかな。
なんかメンタルもおかしくなるとは聞くけれど、これまで一度もなった事が無いから症状としての実感が湧かず、判断に困る。
迎えた昼休み、私は窓の外を眺めながらどこか他人事のように考えて――最中、そっと両肩に手を置かれた。
のろのろと振り返ると、いつの間にか ちゃんが背後に立っており、私の視線を追って窓を覗き込んでいた。
「ね、さっきからずっとあっち見てるけど……変な形の雲とかあった?」
「……や、そういうのじゃないんだけど……」
両肩越しに寄り掛かる ちゃんは、羽のように軽かった。
そのぬくもりと柔らかさは確かに伝わる。なのに、重さの感覚だけがやけに薄い。
置かれた指先が衣服に沈む気配すらなく、ともすれば触れられている事すら忘れてしまいそうになる。
(……ごはん、ちゃんと食べてるのかな)
あまりの軽さに、なんとなく心配になってしまう。
私はぼんやりとした心持ちのまま、自然とさっきの給食の時間を思い出し……、
(……?)
居ない。
昼食時の私の記憶に、 ちゃんの姿が無い。
どうしてだろう。
いつものように足フェチと一緒に机を突き合わせ、喋りながら食べたんじゃなかったっけ。
そんで私が茹で野菜見てしょっぱい顔してたら、何を勘違いしたのか足フェチが「嫌いなら食べたげるよ~ん」と手ぇ出してこようとして、それで、
「……あ、あれ……?」
ダメだ、何をどう思い出しても、どこにも ちゃんが居ない。
あるのは足フェチとのやり取りばかりで、 ちゃんと何を話したのかも、彼女が給食を食べている姿も――いいや、今日までこの教室で過ごした時間の全てに ちゃんが見つからなくって。
「――……」
……ふと、視線を上げれば。
こちらをじっと見降ろす ちゃんと目が合った。
「どうしたの? コトちゃん」
「……ううん……」
……私は。
私は何かを問えもせず、力なく首を振る事しか出来なかった。
*
「はー……夕方近いのに、まだ暑いねぇ」
「……うん」
五時限目の授業が終わり、迎えた放課後。
私と ちゃんは、二人揃っていつもの帰り道を歩いていた。
朝の時点で既に暑かったのに、スマホで見れば今や33℃と来た。
天気予報にあったピークは過ぎていたけれど、それでも暑い事には変わりない。私は額に流れる汗を拭いつつ、ぼうっと ちゃんを見つめていた。
「陸上部、これでも部活やるって本気かな……」
「……体育館、借りられたらしいよ。クーラーキンキンでやるんだと」
「あ、それなら安心だね。……あの子の思惑的には残念そうだけど……」
にこにこと楽し気に歩く彼女は、汗の一つもかいていない。
炎天下、真っ白な陽光に晒し上げられる景色の中、涼やかに咲くその笑顔にはどこか現実感が無く、陽炎の揺らぎに浮かぶただの幻にも見えた。
ゆらゆら、ゆらゆら。滲む道先と共に、 ちゃんの後ろ姿もまた揺蕩う。
……少しでも目を離せば、その瞬間にも消えてしまいそうで。視界の縁から、少しずつ、少しずつ、景色の滲みが大きくなって、
「――懐かしいね」
そして、それが零れる寸前。 ちゃんが何気なくこちらを振り向いた。
「……何を?」
「あの橋。お友達になったばかりの頃、よく歩いてたよねって」
「え、あぁ……」
そう指差す先を追ってみれば、川を挟んだ遠くの方に、一年生の頃よく通学路にしていた橋が見えた。
まぁ、確かに懐かしくはある。足を止めて眺める ちゃんの横に私も並び、滲んだ視界を拭い去る。
「そういえば、あそこで呼び方とか決め合ったんだよね。結局は名前呼びになっちゃったけど……」
「私らはな。その他にキュートな『タマちゃん』があの橋の上で生まれてんだよ」
「あれ、それわたしから? みんないつの間にかそう呼んでたから分かんなかった」
「こっちからそう呼ばせてんだっつーの。まったく、無駄に可愛いのにしてくれちゃってさぁ」
「えー……だったら別に、無理して使ってくれなくても……」
「……や、むしろ気に入ってるって。だって、これもさ――」
―― ちゃんが遺してくれた、ひとつだもん。
「――………………」
会話が止まった。
互いに示し合わせたように黙り込み、無言の時が流れていく。
この暑さのせいか、却って少なくなってしまったセミの声だけが喧しく響き――やがて、 ちゃんがゆっくりと離れて、先に行った。
「あの橋、今は使わなくなっちゃったけど、何でだっけ」
「……キツかったから。一人だと」
私も少しの間を置いた後彼女に続き、小さく返す。
前を歩くその背中が、陽炎の中で揺らめいた。
「あはぁ。いつも一緒だったじゃん、わたし達」
「そう……だなぁ。そうだったら、なぁ……」
でも、そうなっていたら、今の私になってない。
いい加減、気付くよ。
もし ちゃんとずっと一緒だったら、私は『親』と話が出来るようになんてなってないし、髭擦くんと友達にもなってないし、オカルトの事だって笑ってバカにしているままだし……きっと、今よりもっと幸せな私であれた。
でも、今の私はそうじゃない。
そうじゃないから――私達は、一緒じゃなかった。
「……あの、さ」
「なぁに?」
足を止めて呼びかければ、 ちゃんも立ち止まって振り返る。
その笑顔はやっぱりよく見知ったもので、けれど全く知らないものだった。
……中学二年生になった彼女の笑顔を、私は目にした事が無いんだから。
――そうだ。今目の前に居るこの ちゃんは、あの子じゃない。
姿、仕草、性格、言葉。全部が記憶にある彼女と同じだ。
いつの間にか隣に居て。笑って、喋って……でも、やっぱりそれは。
「…………」
陽炎に滲む ちゃんは、未だ何をするでもなく微笑んでいる。
……息が詰まり。喉が震えた。
熱に浮かされた頭がぐるぐる回り、思考すらもおぼつかない。
私は穴が開くほどに彼女を見つめ、生ぬるい空気を深く吸い、何度も声を出すのに失敗し――そして、
「――……、……ありがとう、な」
ただ一言だけ、そう告げた。
「――――」
それを受けた ちゃんは、そこで初めて笑顔を崩し、目を丸くした。
予想だにしなかった言葉をかけられたような様子で、おろおろと戸惑いながら視線を散らし……やがて、照れたように大きく歯を見せて笑う。
……私の知ってる ちゃんが絶対にしない、笑い方。
「…………」
瞬き。
一秒にも満たない暗闇を挟んだそこには、もう誰も居なかった。
穏やかな笑顔も私を呼ぶ声も無く、ただ陽炎に揺らめく景色が続くだけ。
まるで最初から何も存在しなかったみたいに、彼女の全てが夢幻と消えている。
「……………………」
日差しに伸びる影は、今は一つ。
私は暫くの間佇んで……そのうち、足を引きずって歩き出す。
……本当はもう慣れ切っていた筈の、一人きりの帰り道。
その歩き方を思い出すのに、ほんの少し、かかった。
■
翌日にはもう、 ちゃんはどこにも居なくなっていた。
朝に私を迎えに来なかったし、学校にも現れない。それどころか皆の記憶からも消えていて、誰に聞いても何も覚えていなかった。
彼女に直接頭を撫でられてた足フェチだってあの時の事の全てを忘れ、呑気にへらへら笑っていた。
その様子を見ていると、昨日の事は陽炎が見せた幻覚か、いっそ全部が夢だったんじゃないかとすら思った程で。
……結局アレが何だったのか、何が目的だったのかは分からない。
けれどもう、おかしくなっていた記憶も思い出も元に戻って、違和感も全部無くなっている。
ならもう、それでいいじゃないか。
これが正しい現実なんだから。だから、憂いも何も残ってない……筈、なんだけど、なぁ。
「……はぁ」
放課後の帰り道。
橋の上を一人とぼとぼ歩きつつ、私は小さな溜息を吐いた。
「…………」
頭がぼーっとする。
昨日の出来事のせいか、それとも変わらないこのクソ暑さのせいか。
一日中、どうにも意識が定まらず、気も散漫になりがちだった。
そしてふと気が付けば、昨日 ちゃんと話した場所に突っ立っていた。
何をするでもなく、何を想うでもなく。
じりじりと陽に肌を炙られながら、私はただ揺らめく陽炎を見つめ続けて――。
「タマ? 何やってるんだ?」
「!」
背後から声をかけられた。
振り向くとそこには髭擦くんが立っており、怪訝な顔を向けている。
「熱中症……になる訳ないなお前が。昼寝でもしてたか」
「んな器用な事出来んのあんただけだっつーの」
立ったまま気絶してたの忘れてねーぞ。
さっきとは別の意味での溜息を落としつつ、そのまま一緒に歩き出す。
それはこの数か月で慣れ切った流れで、私も特に疑問は無かったが――今日は何故か、髭擦くんの様子がちょっとおかしかった。
固いというか何というか。歩き方もどこかぎこちないもので、今度はこっちから怪訝な顔を向けてやる。
「……なによ。美少女の横で緊張してんの?」
「? いや……まぁなんだ、昨日の朝、偶然会ってキャンプの話とか色々したろ」
最初に挟まれた本気の「?」に手が出かけたけど、続く言葉にピタリと止まった。
「……え、お、覚えて、る……?」
「流石に昨日の今日で忘れないぞ。で、その時……お前の友達、というか……そんな感じの子が居たよな……それでだな、ええと……」
――髭擦くんは、 ちゃんを忘れていない。
それに思わず固まる私をよそに、彼は「あー」だの「うー」だの口籠ったままハッキリしない。
……よくよく見れば、他にも軽く貧乏ゆすりをしていたり、軽く頬が赤くなっていたり、妙にそわそわとしているようにも見えて、
「――あ、あの子、名前なんていうんだ……?」
――そんな、明らかに気がある風な問いかけに、思わずぽかんと口を開けた。
「……は?」
「い、いや、やましい意味じゃなくてだな……ほら、キャンプついて来たいって言ってただろ? 本気だったら色々聞いておきたいというか、な?」
髭擦くんは言い訳を重ねるが、まともに耳に入って来ない。
私は暫くの間、あわあわとする彼を呆然と眺め――「っく、ふ」やがて堪え切れずに噴き出した。
「く……いひ、はは、あはははははははははっ! ま、マジかあんた! ほん、ほんと、いひあはははははははっ!」
「なっ、ち、違う、そういうんじゃない! 昨日は流れで話してたから、名前すら聞きそびれてて……!」
「はは、あんたすげー見る目あんなぁ! そう、そう思うよなやっぱ!! あは、あははははははははははははっ……!!」
「……タマ?」
次から次に笑いが溢れて止まらない。
心の底からおかしくって、嬉しくって、全然我慢できなくて。
髭擦くんに寄り掛かってもまだ収まらず、息が出来ずにヒィヒィ喘ぐ。
「はははははは!! あははっ、あっははははははははは――」
そのうち涙も零れ出し、橋の上に小さな染みが滲んでいく。
ぽろぽろと、ぽろぽろと。
幾つもの涙粒を落とし、私はいつまでも、いつまでも、ずっと笑い続けていた。
主人公:どれだけ太陽の下に居ても肌が焼けないため、小麦肌の足フェチにちょっぴり憧れがある。
髭擦くん:好みのタイプは素朴な子。アゴ男と交流する内、若干影響を受けつつある。
足フェチ:クーラー効いた体育館での練習は何か違うな~って……。
『親』:帰宅した主人公に感謝されたが、これで良かったのか悩んでいる。