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異女子  作者: 変わり身
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「水族館」の話(中②)


それから長い事歩き続けたけど、やはり館内の様子は変わらなかった。


どこまでも通路は続くし、壁の水槽は途切れる事なく並んでいる。

さっき引き返した場所にまで戻れているのか、それともとっくに追い越して先に進んでいるのか。景色がずっと同じだからそれすらも分からなくて、閉塞感のようなものがずっと喉元を圧し潰していた。


私は意識して深呼吸を繰り返しながら、少し先で揺れる犬の尻尾を目で追った。



「……どこまで行くんだよ、お前……」


「……ゥゥ」



それは小さな独り言だったが、犬の耳には届いたようだ。

ピクリと耳を動かしこちらを振り向き、唸り声だけ上げてすぐ前を向く。当然ながら、何を言っているのかなんて分からない。


なんとなく成り行きでコイツの後をついてってるけど、果たしてこのままで良いんだろうか。

とはいえ抱きかかえようとすると暴れて逃げ出すし、繋ぐためのリードも無い。本調子じゃないだろうしすぐにまた休み出すと思っていたが、そんな様子も無し。


……流石に、そろそろ本気で捕まえとくべきなのでは。



(でも、アイツ抑えたところでな……)



懐から折り畳んだメモ紙を取り出し、慎重に開く。


そこでは未だインクが蠢き続けるばかりで、文章が浮かぶ気配は無い。

インク瓶からの助言はやっぱり受けられず、例え犬を捕まえても、次にどうすべきかは不透明。少し前の立ち往生の状態に戻るだけだ。



(だったら……動き続けてるだけ今の方が……いや、でもなぁ)



どうすんのが正解なんだよ、これ。

何度考えても答えの出ない問題にまた頭を抱えつつ、私はただ足を動かす事しか出来なくて、


――どぽん。



「っ」



その時、突然水の音がした。


同時に視界の隅にある水槽に泡が生まれ、水中にゆっくりと何かが沈んでいくのが見えた。

……私は一度強く目を瞑ると、恐る恐るとその正体を確かめる。



「……本……」



するとその水槽に沈んでいたのは、分厚い一冊の本だった。


横のパネルに目を移せば、そこに書かれていたのは『やまのいきものずかん』。

水族館の水槽に入れるにしては何一つとしてそぐわない物が、そこに展示されていた。


……生き物では、ない。



「……はぁ……」



その事に肩の力を抜きながら、少し遠ざかっていた犬に速足で追いついた。



――「見知らぬ水槽を見るな」という『親』からの忠告を守る余裕は、既に無い。


その理由は、ついさっきも聞こえた水の音。

通路を歩く最中にあちこちの水槽からその音が聞こえ、その度につい視線を向けてしまうのだ。


前を歩くこの犬と同じように、生きてる動物が入れられたんじゃないか。

そのイヤな光景が浮かんでしまい、毎回どうしても確認せざるを得なかった。


……それにまぁ、そもそもの話として。

ここに迷い込んだ初っ端から幾つもの水槽を見てしまったし、さっきなんか犬の入っていた水槽にとんでもない狼藉すら働いている。

今更忠告に従ったって、きっともう遅いんだ。脳裏に浮かぶ無表情どもにそう言い訳し、渋々ながら腹をくくった部分もあった。



(くそ……ほんと意味分かんねー……)



苛立ち混じりに舌打ちし、開き直って今まさに通り過ぎる水槽を睨みつける。


一見すると何も入っていないように見えたが、よくよく見れば数本だけの鉛筆がぷかぷかと浮いている。水中の広さに対して全く釣り合っておらず、なんとももの寂しい有様だ。

パネルを見れば、これもまたヘタクソな字で『くろえんぴつ あかえんぴつ』……展示としては現代アートとかのジャンルで、水族館に展示するもんじゃない。


この場所にある水槽は、こんなのばっかりだった。

こういう訳の分からない物が入った水槽と、空っぽの水槽が入り混じっているのだ。


そして空っぽの水槽は時々水の音を立て、目の前の犬やさっきの『やまのいきものずかん』の時のように、突然その中身が現れる。

おそらく、外から捕まえているのだとは思うが……どうしてそのチョイスになるのかが全くの謎。


どれもこれも、水の生き物とは無関係の物ばかりが水槽に入れられていて――その中には、見ていて気分の良くないものも多々あった。



「……鳩……」



差し掛かった水槽の中に、鳥らしき動物の水死体が浮いていた。


パネルを見れば、『とばと』とあった。

事切れて相当の時間が経っているらしく、腐敗して膨らみ切り、破けた腹からはぐずぐずになった内臓が溶け漏れている。


酷い、姿だ。


「……ごめんな」



犬の時のように、パネルの名前を消せば水槽の外に出せるんだろうけど……流石に残り少ないインクを使う気にはなれない。

物凄く嫌な気分になりながら、ただ謝罪だけを残して水槽の前を通り過ぎる。


……この他にも、猫やカラス、果てはモグラの水槽なんかもあって。

そういったもの達のぐちゃぐちゃになった姿を見る度、より一層水の音に敏感になって行くのだ。



「水槽なら普通に魚入れとけよ、趣味わりー……」


「…………」


「……お前はお前でちょっとは動じろや……」



そうしていちいち狼狽えている私に対し、前を歩く犬は周囲の水槽にはまるで興味を向ける様子がない。

不意に響く水の音すら意に介さずに、のっしのっしと進んで行く。


……こういうのって、野生動物の方が敏感に反応するもんじゃないのか。

首を傾げる一方、やけに豪胆な犬の様子にいっそ頼もしさすら感じながら、私は胸に溜まったイヤな気分をそっと吐き――。



「っ、え」



とある通路の角を曲がった先を見た瞬間、思わず足を止めた。



「……ド、ドア?」



そこにあったのは、これまでのような水槽と通路では無く、一つの自動ドアだった。


一階の展示エリアと同様の、展示テーマの区間分けだ。

横の壁には古びた木の板が雑に立てかけられており、『あんまりみないの』というヘタクソな一文と、これまたヘタクソな矢印が記されている。



(……順路、やっぱこっちって事? なら最初に戻ったのは間違い……いや、でもこれ、ほんとに進んでいいヤツか……?)



そもそも『あんまりみないの』とは、何の事だろう。


状況に変化があったのは確かだが、さりとて喜ぶのも躊躇する。

私は無意識にメモ紙を握り締めながら、その場でおろおろ足踏みをして――そうする内、犬がさっさとドアを開けて行ってしまった。



「だっ、おまっ……いい加減にしろって……!」


「……ゥ」



慌てて捕まえようとするけど、犬は私の腕をするりと抜けて、変わらぬ速度で歩き去る。


……まぁ、どうせそれ以外の選択肢が無い事なんて分かってる。

大きな深呼吸を一つ置き、意を決してドアを潜って――、



「……そういや」



ふと気になり、ドアを越えた先で振り返る。

するとこちら側からも壁に板が立てかけられていて、同じく文字と矢印が記されていた。

おそらく、それが私達がこれまで歩いていたエリアのテーマなのだろう。



「『そんなに』……?」



……いや、どんなテーマ?

なんか『あんまりみないの』よりランク下っぽいけど……。


気にはなったが、眺めていても思い当たる事は無く。すぐに前へ向き直った。







ドアの先は、細長い通路が延々と続いていた。


見える範囲に水槽は見当たらなかったけれど、遠くで蒼い薄明かりが揺らめき、水の気配を感じさせる。

……歩みを鈍らせれば先を行く犬の背が遠のき、渋々と速度を戻した。



「お前、あんな目に遭っといてよく行けんな。水怖くなったとか無いの……?」


「…………」



犬に話しかけても、もう相手にもされない。

ただ黙って奥へと導かれ――やがて、そこに足を踏み入れた。



「…………」



その部屋は、パッと見『そんなに』のエリアとほとんど同じ構造だった。


壁に埋め込まれた巨大な水槽も、蒼暗く揺らめく床も、これまで散々通って来たもの。

色々と身構えていた分その変化の無さに張っていた気が少し抜け、軽く笑ってしまいそうになり――ふと目の行った水槽の中身に、笑みの気配が引っ込んだ。



「……炊飯器?」



その水底に沈んでいたのは、一台の古びた炊飯器だった。


雰囲気的にたぶん昭和とかその時代の型だろう。

今となってはチープさすら感じるそのフォルムが水中にぽつんと佇んでいる姿には哀愁さえ感じられ、そういった現代アートだぞと言われれば信じてしまうようなシュールさがあった。


とはいえ、既に様々な水槽を見てきた身だ。今更首を傾げるほどのものでもない光景ではあったのだが……一点だけ、どうしても気になる箇所があった。



(蒸気が、出てる……?)



そう、その炊飯器は水の中にあるにもかかわらず、ご飯を炊いている時に出る真っ白な蒸気を噴き上げていた。


泡でも、温度によって周囲に生まれる水流を見間違えた訳でも無い。

間違いなく水中であるにもかかわらず、気体という状態を保ったままの蒸気が渦を巻いている。


いや、よくよく見れば、電源コードが何処かに繋がっている様子も無い。

その炊飯器は何もかもが異常な状況にありながら、一切を無視してただただ正常に稼働していた。



「え、っと……」



横のパネル曰く、『たかれつづけてるやつ』という名前らしい。


つまり――炊かれ続けてるやつ。

このパネルが指しているものは炊飯器自体じゃなく、その中身という事だろうか。


……何を、炊いているんだろう?



「…………」



敢えて視線を外した。


分厚い強化ガラス越しじゃ蓋を開ける方法も無いし、その必要もない。

何か変な炊飯器があったなぁ、でおしまい。理解を放棄し、そのまま犬と一緒に水槽を通り過ぎ、


――かぱん。



「っ……」



……背後で、何かが開くような音がしたけれど。

また反射的に振り返りかけた身体を押し留め、まっすぐに歩き続けた。






次に通りがかった水槽には、壁掛け時計が浮いていた。


いや、浮いているというより、掛けられていると言った方が正しいのだろう。

水槽の中央、水以外の何も無い場所にそれはぴったりと固定されていて、揺れの一つもしていなかった。


その盤面には1から47までの数字がぐちゃぐちゃに散りばめられていて、長針も短針も、そして秒針すらも見当たらない。

なのに、カチ、コチと時を刻む音だけが、やけに明瞭に聞こえていた。普通なら水と分厚いガラスに遮られ、届かない筈の小さな音が。



「『かぞえまちがっている』……」



パネルにある名前はそうなっていたが、何が何を数えているのか、どこが間違っているのか、全く分からない。

数える……というところからなんとなく盤面の数字を数えてみたけど、さっき見た通り4157896542482476935444から87546の数字が散らばってるだけで、数え間違える事も無かった。



「……うーん……?」



釈然としない。

けれど眺めていても何も変わらず、ずっと鳴り続けているカチコチ音を背にして、先へ進んだ。






次の水槽には、黒い人影のようなものが立っていた。


一瞬人間の水死体かと身構えたけど、そうじゃない。

黒一色で真っ平らな、本当に人の影としか呼べないようなものが水底の一角にあり、直立不動の姿勢で佇んでいたのだ。



「…………」



……立ち止まり、暫くそれを眺めていたけど、先を行く犬が前を通っても動く様子は無い。

私は暫く迷った末、一歩足を踏み出して――次の瞬間、その黒い人影は至近距離まで移動していた。



「――は」



足音も聞こえず、動く予兆も見えなかった。

気付けばガラス越しに私の真横に立っていて、べったりとガラスに張り付いていた。


――視線を感じる。


どこもかしこも真っ黒で、眼球なんて無いのに、それは私に視線を注いでいる。

障害物があるから届いていないだけで、それは明確に私を求めていた。



(犬は無視だっただろうが……!)



顔も視線も動かせず、息だけが乱れていく。

視界の端っこに黒いものがずっと陣取り続けていて、酷く気持ち悪かった。


とはいえ、黒い影もガラスを抜ける事まではしてこない。それを支えにどうにか足を動かし、水槽の前を歩き渡る。



「……っ」



すると人影もそれに合わせ、ガラスの向こう側を移動し始めた。


直立不動の姿勢のまま、まるでスライドするように。

どこかシュールさを感じさせる挙動の筈なのに、逆に言いようのない怖気が這いまわる。


足を速めれば早めるだけ影もまた速度を増し、私の傍から離れようとしない。

総毛立った私はなりふり構わず駆けだして、一息に水槽を通過。疲労とは別の意味で呼吸を荒らげながら振り返れば、人影は水槽の隅にその身を押し付け、そのままプレスされるようにガラス面へと広がった。


……そのままパネルに目をやれば、『うつみげんじろうだったもの』。



「――……」



あんな風にぺちゃんこになっても、まだ、まだ追いかけているのだ。

水槽のガラスにべっとりと張り付き、未だにじわじわ広がり続けている黒い影が気色悪くて堪らず、喉奥で悲鳴を殺しながら走り去る。


もうダメだ。

なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど、あそこまでモロだと確定だ。何の誤魔化しも効かない。


――この『あんまりみないの』のエリアは間違いなく、オカルトの展示エリアだ。



「勘弁してくれってぇ……!」 



さっきの人影だったものは勿論、あの訳の分からん炊飯器や時計もきっとそう。

このエリアにあと幾つ水槽があるのかを思うと、おなかの底がとんでもなく重くなり、腰から地面に沈んでしまいそうだ。


今からでも逃げなきゃ――そう引き返しかけるけど、戻ったところで意味は無い事も分かっている。

だけど意気揚々と進んで行ける訳も無く、私はそこから動けなくなった。



(なんでわざわざ水に沈めて飾ってんだよ……!)



『うつみげんじろうだったもの』を見る限りでは、オカルトは水槽内から出られないようだが、この先もそうとは限らない。

あの硬いガラスを突き破って襲ってくるヤバいのが居ないとも言えないし、もしそうなったら、この閉ざされた空間じゃ逃げ切る事なんて不可能だろう。


どうする。どうしよう。どうしたら――。

ぐるぐると思考が回るが答えを出せず、やがて吐き気すら込み上げて――不意に服の裾を強く引かれ、つんのめる。



「うわぁ!? な、何だよお前っ」


「ゥ ゥ ゥ」



見れば、いつの間にか近寄っていた犬が短パンの裾を咥え、私を前へ進ませようとしていた。


といっても私にとってはささやかな力であり、ちょっと足を突っ張れば容易く抵抗できた。

……が、犬も諦め悪く引っ張り続け、短パンがずり落ちその下の薄青色の布っきれがまろび出る。流石の私もこれには慌て、短パンを引き上げながらわたわた歩いた。



「ちょっ、まっ、わかった行く、行くって! だから離せバカ犬っ」


「……ゥ」



そう怒鳴り付ければ、犬は意外なほど従順に口を離す。


どうも人間の言葉が分かっているような感じではあるが、元は飼い犬とかなんだろうか。

私は短パンについた涎を払いながら、渋々と犬の横に並んだ。



「お前、何でそんな先に行かせたがんだよぉ……」


「…………」



恨めしさを隠さず問いかけるけど、当然返答は無し。

そうこうする間にも次の水槽が近づき、足が止まりかけ――途端、犬がまた短パンに噛みついた。



「わかったわかったわかりました! ああもう……!」



やけっぱちに叫び、足を動かす。マジでなんなのコイツ。


ともあれ、そうして引っ張られた先の水槽にも、よく分からないものが沈んでいた。

水底の砂に埋もれてハッキリ判別出来ないが、きっとあれもオカルトなのだろう。幸い大人しい部類のものだったようで、特に何事も無くガラスの前を通り過ぎる。


おそるおそるとパネルを見てみれば、『もぐりつづけてるやつ』……そのまんま過ぎて、やっぱり何も分からなかった。



「……なぁ、この先、出口があんのか?」



おそらくオカルトとはいえ、ある種間抜けなその姿に少しだけ気が抜けて、そんな問いかけが漏れた。

それを受けた犬は反応しなかったが、どうせ独り言だと構わず続けた。



「なんか、全然迷いなく進んでるけどさ……分かんの、この先の事」


「…………」


「つーかそもそも、お前なんで水槽に放り込まれたんだ。スタッフさんに預けてたろ」


「…………」


「……助けたお礼に案内してくれてんの? 犬ってそういうのあるって聞くけど、ほんとなんかな」


「…………」



何を言っても無視されるけど、それでよかった。

思い付いた事をつらつらと並べ立て、周りの水槽への恐怖を誤魔化し続ける。



「何なんだろうな、この場所。出られないし、変なもんばっか展示してるし」


「…………」


「……たぶん、魚とか、そういうのだけ無いよな。水族館なのに、肝心の水族が……」


「…………」



水中いっぱいに風船の詰まった水槽があった。

ガラスの前を通ればその全てが割れて、中の水が青いドロドロしたものに変わる。


パネルの名前は『とかすの』……出来るだけガラスから離れ、足早に通り過ぎた。



「あー……私、御魂雲異ってんだけど……お前は?」


「……ゥ?」


「まぁ、分かんねーよな……いや反応したあたり分かってんの? うーん……?」



水以外、何も入っていないように見える水槽があった。

しかしよく見れば水中に幾つか空間の歪みのようなものがあり、小さく泡を吹いている。


パネルには『あと28ねん』とあるが、何の事だろう。不穏なものは感じるが、その意味を推し量る事は出来なかった。



「……いつまで進めばいいんだ、これ」


「…………」


「流石にちょっと、疲れてきたな……」


「…………」



……どこかで見た、真っ赤なぐしゃぐしゃしたものが入った水槽が、あった。


真っ赤なクレヨンでぐしゃぐしゃに書きなぐった線の集まりのようなそれは、私が水槽の前に身を晒すや否や近寄って、しかし外には出られずガラス越しに広がった。


パネルの名前は、『なりそこない』。

このぐしゃぐしゃは何になりそこなって、何になってしまったのだろう。考えたけど、答えは出ない。



「……まだ?」


「…………」


「……ああ、そう……」


「…………」



その後も様々な水槽を通り過ぎ、様々な展示物を見た。


どれもこれも意味不明なものばっかりで、見ているだけで頭がおかしくなりそうだった。

その中にガラスを破って来るようなものは無かったけれど、警戒と恐怖で精神が削られ、口数も少なくなっていく。


そしてやがては犬に独り言をかけるのすらも億劫になり、一人と一匹の足音が響くだけになっていた。



「……あ」



……そうして、どのくらい進み続けただろうか。

延々と並んでいた水槽がいきなり途切れ、細い通路に辿り着いた。


このエリアに入った当初に歩いたものと同じような雰囲気だったが、その距離は短く、少し先に小部屋への入口がある事が見て取れる。

また展示テーマの区間分けか――そう思ったけど、近くにテーマを書いた木の板も無く、さっきとは雰囲気が違うようにも思えた。


僅かに躊躇したものの、この水槽だらけのゾーンから抜けられるという安堵が勝つ。

犬を追い越し通路へ駆け込み、そこでやっと重たい息を吐き出せた。



「はー、キッツ……で、こっちは……」



壁にもたれかかりつつ、目だけで小部屋の方を見る。


その部屋には扉が無く、ここからでも室内の様子はある程度は窺えた。

どうも見た通りの小部屋のようで、部屋の奥にはこれまでと同じく壁に埋め込まれた巨大な水槽が見えていた。


しかしあるのはそれ一つだけで、他には無いようだった。

別の場所に繋がる扉や通路のなども見当たらず、行き止まりとなっている。


……となると、この部屋が終着点という事か?

追い付いてきた犬に合わせ、そろそろと部屋の方へと向かっていく。



「出口……じゃなさそうだけど。お前が連れてきたかったの、ここ……?」


「…………」



犬はやっぱり無視をして、無遠慮に部屋の中へと入っていった。

私は、暫く部屋の入口で立ち止まり……小さく息を吐いて、一歩足を踏み出した。



(やっぱ、行き止まりだよな……)



狭いという程では無かったが、広くもない部屋だった。


さっき見た通り扉や通路も無く、水槽も奥の壁に一つだけ。

その水槽も中には何も入っておらず、その蒼い揺らめきを床に映し続けていた。


犬は水槽の前まで歩くと、そこに腰を下ろして私を見つめ始める。

ここまで来い――そう言っているかのように。



「……この水槽が、どうかしたのか?」


「ゥ」



正直気は進まなかったが、ここまでついて来たのだからと意を決し、水槽のすぐ近くに立つ。


そうして改めて間近で眺めてみても、水中には何も居ないように見えた。

少なくとも肉眼では捉えられるものは無く、私は水槽から一歩離れ、横のパネルの名前を確認し、


『みたまぐも こ 』



――バン。最後の一文字を読む寸前、パネルに手を叩き付け遮った。



「――……っ…………っ………………」



突発的に息が乱れ、心臓が嫌な風に跳ねまわる。

俯き下がった顎先から冷や汗が流れ、蒼暗い床に落ちてゆく。


……いま。今、なんて書いてあった?


もう一度確かめたい衝動に駆られるけど、どうしてか身体が動かない。

とても嫌な予感が胸に渦巻き、おなかの底が酷く冷え込んでいた。



「ゥ ゥ」


「…………」



横合いから、犬の声が聞こえた。

震える視線を向ければ、犬は変わらぬ様子で私の事を見つめている。


……なのに、今となってはどうしてか、その顔が不気味なものに思えてならなくて。



「……な、ぁ。お前なんで、ここ、来たの」


「ゥ ゥ ゥ」


「なんで、私、ここに連れて」


「ゥ ゥ ゥ ゥ」



犬はこれまでの無反応が何だったのかというくらいに声を上げ、パタパタと尻尾を振った。


何かを催促するようなその様子に、強い怖気が走る。

咄嗟に水槽の前から逃げ出しかけるものの、パネルの上から手を動かす事が出来ない。

ここに記されている名前が完全に晒された時、良くない事が起きる気がしてならなかった。



「く、そう、だ。インク――!」



犬を助けた時の事を思い出し、懐から折ったメモ紙を取り出した


開けば、未だ形を成さない黒インクが蠢いている。

これで名前部分を塗り潰せば――そう思ってメモ紙ごとパネルに押し付けようとした時、その手が何かに弾かれた。



「は? ――うぁっ!?」


「ゥ」



犬だ。

突然飛びついてきた犬がメモ紙を咥え、奪い取っていった。


しかもご丁寧にもう片方の手も蹴り飛ばして行き、パネルの上から跳ね上げて、




『みたまぐも こと』




――どぽん。

耳元で、水の弾ける音がした。



「――が、ごぼっ!?」



直後、全身を詰めたいものが包み込み、耳や鼻、口の中に冷たいものが流れ込む。

反射的に咳込めば口と鼻から大量の泡が吐き出され、そこで呼吸が出来ない事に気が付いた。

咄嗟に鼻と口を覆って息を止めるけど、気管に水が入って咳が止まらず、気泡が次々と指の隙間から漏れていく。


――私は今、水中に居る。

そうと自覚するまで、あまり時間はかからなかった。



(――や、ば。息、できな……っ!!)



さっきの一瞬で、ほとんどの酸素を吐き出してしまっていた。


息が苦しい。水の冷たさで一気に体温が奪われて、肺が変な風に痙攣する。

震える瞼を強引に開けば蒼い世界が広がって、纏わりつく気泡が眼球の粘膜を滑って浮き上がる。


それに釣られて見上げた先に出口や空気だまりは無く、隙間なくぴったりと塞がれていた。

これまで散々眺めてきた、密閉された水槽に放り込まれた――それを悟った瞬間、鼓膜の裏で血の気が勢いよく引く音がした。



(まずい、まずいまずいまずい……!)



このままじゃ間違いなく溺れ死ぬ。

酸素不足で視界すら霞んでくる中、私は必死に手足を振り回し、周囲を探る。


すると背後に分厚いガラスを隔てた外が見え、さっきまで私が居た小部屋の景色が広がっていた。

私は酷く無様な泳ぎ方でガラスに近付き殴ってみるけど、平地で壊せなかったものが水中で壊せる訳がない。

ばん、ばんと小さくガラスを揺らすだけに終わり、激しく動いたせいで更に息が苦しくなった。


そうして、徐々に暗くなり始めた視界に一層恐怖が湧き上がり――ガラスに縋りつくように、メモ紙を咥えたままパネルの前に座る犬を睨みつけた。



(このっ……お前っ、バカ犬!! なんで、なんでこんな……っ!!)



あの時、コイツが邪魔をしていなければ。

きっと、あのパネルに名前を書かれたら、それを見たら、こうなるんだ。だから塗り潰せれば、こんな事にはならなかったのに。

なのに、なんで邪魔した。どうして私を殺すんだ。なんで、なんで……!


ガラスを叩いて怒りと恐怖を伝えるけど、届く筈も無く。

犬はこれから溺れ死ぬ私に何の反応もせず、ただパネルを眺め続けていて……。



(――?)



いや、少しだけ様子がおかしかった。


よくよく見ればどこか困ったような雰囲気で、小さく首を傾げているように見えた。

ガラスが分厚くてハッキリとは見えなかったけど、どうしてかそれが分かり――。



「――が、ぼ」



考える事が出来たのは、そこまでだった。


とうとう苦しさが我慢できなくなり、空気を求めた肺が大きく震えた。

そして残っていた気泡が吐き出され、空気の代わりに水が吸い込まれていく。


自分の意思では止められなかった。

何度も咳き込んでは水を吸い込み、身体の中が水で満たされていく。


苦しい。

冷たい。

暗い。

沈む。


最早指先すらも動かせなくなり、私の全身が弛緩した。



(……ごめ、ん……)



誰に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。


ただ、強い罪悪感だけが胸の中に広がって、色々な人の顔が見えた気がした。

だけど、その全ては意識と共にぱちんと弾け、淡く細かな泡となって消え去った――。












「ゥ」



――低い呻きが、耳朶を揺らした。



「ぐ――が、ごぼっ!? げほっ、がふっ、ぇ、は? げ、ぇっ――」



同時、気道に大量の空気が流れ込む。

潰れかけていた肺が膨らみ、ポンプのように口から水が溢れ出る。


何度も何度も咳き込んで、水どころかお昼の蕎麦まで吐き出して。げぇげぇと、美少女とは程遠い音でどうにか呼吸を繰り返す。



(な、なに……? なんで、息……?)



そうして朦朧とする頭を振って身を起こせば、そこはさっきの小部屋のようだった。

その水槽の前に、私は全身びしょ濡れのまま転がっていたようだ。



(……何、起きたんだっけ)



咄嗟の状況判断が出来ず、私は耳から水を抜きながらぼうっと考え――「っ!」瞬間、何があったか思い出し、パネルの前に目をやった。



「ゥ」


「……お、おま……おまっ……!」



するとやはりそこには犬が居り、どこか満足そうな空気を漂わせていた。

そのさっきと変わらん態度に私は瞬間的に沸騰し、まだ力の入らん身体で無理矢理そっちに這いずった。



「このっ、バカ犬がよぉぉぉ……! よくもやってくれたなぁぁぁ……!」


「ゥ」


「う、じゃねーんだよボケ! くそっ、よくも名前消すの邪魔――……を……?」



……あれ、そういや何で私、助かってんだ?

この犬のせいで水槽に放り込まれたのは確かだが、放り出された方の理由が分からない。恨み言を吐く最中、ようやくそこに疑問を持った。


そして僅かな間怒りを忘れ、困惑したまま自然とパネルに目が向かう。



「……えぇ?」



『みたまぐも こと』――おそらく、そう書かれていただろうパネル。

その『こと』の部分だけが、黒インクでべったりと塗り潰されていた。


近くの床には私のメモ紙が落ちており、その中で蠢いていたインクを使ったのだろう。

それは察する……のだが。



「……えっと、お前がやった……のか?」


「ゥ」



どっちだよ。

その呻きが肯定か否定かは分からないが、他に候補が居ないのは確かだった。


……この犬、『こと』だけを狙って消した?

なんでわざわざ……いや、例え偶然にしたって、どうしてそれで私は出て来れたんだ。

この犬の時は、パネルの名前全部消した筈だけど。つーかこの犬何を考えてんだ。


意味が分からない事が多すぎて、酸素不足とは別種の頭痛がズキズキと――。



「……ん?」



そうする内、はたと気付き、またパネルを見つめる。


『みたまぐも』――私の名前が潰され、残った文字。

……これがパネルに書かれているのなら、もしかして、



――どぽん。



「っ!?」



その瞬間、横合いから水の音が響いた。


反射的に振り返れば、水槽の中に大量の気泡が生まれていた。

その中心にはひとつの人影のようなものがあり……やがて気泡が晴れれば、それが誰かをすぐ理解する。


そこに浮いていたのは、この水族館の男性スタッフ――『親』の身体のひとつだった。



「っ……や、やっぱり……!」



今まさに予想した通りの光景だった。


私はよろめきながらも立ち上がり、まだインクの残っている筈のメモ紙を拾おうと走る。

当然、パネルの文字を完全に塗り潰すためだ。



「――うわっ!?」



しかし、それに指が届こうかという時に背中を引っ張られ、たたらを踏む。

見れば犬がまた衣服の裾を引っ張り、私を行かせまいと妨害していた。



「ゥ ゥ」


「ちょ、またお前……っぐぅぅ……!!」



流石に疲れ果てた今の状態ではバランスを崩してしまい、尻もちをつく。

私は大きく舌打ちを鳴らしながら、仕方なく全力で犬を殴り飛ばし――その寸前、大量の気泡が吐き出される音が響いた。



「な……」



見れば、水槽の中の『親』が大きく口を開け、自ら酸素を吐き出していた。

苦しいはずなのにその顔はやはり無表情で、じっとこちらを見つめている。私と……何故か犬の方も見て、小さく首を振っている。

何もするなと、そう言っている気がした。



「お、おい……」


「…………」



私は最早どうする事も出来ず、ただ『親』の姿を見つめ……やがて全ての気泡が吐き出され切った後、その身体は弛緩した。

……溺死、した。



「……、……」



ゆらゆらと水槽内を漂う『親』の死体に、私は何も言えなくなった。


アイツが死ぬ姿なんて何度も見ている筈なのに、どうしてか、気持ちが乱れる。

もう犬を殴ろうとしていた事すらも忘れ、私はただ呆然と立ち竦み、


――ピシリ。



「……え」



突然、妙な音が鳴った。


何かにヒビが入ったような、不吉な音。

思わずその元を探せば……目の前の水槽のガラスの端に、深い亀裂が走っていた。



「え……いや、ちょっと……?」


「……ゥゥ……」



ピシ、ピシリ。

それは音が鳴る度に大きく深くなっていき、やがては水槽全体を覆う程となり。

私と犬はどちらからともなく後退り、顔を水槽からの光に負けないくらい蒼くさせ、



――直後、ガラスが音を立てて砕け散り。

私と犬は声を上げる間もなく、流れ出た大津波に飲まれていった。


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