「水族館」の話(上)
校外学習という学校行事がある。
授業の一環として学外に繰り出し、そこでの体験をレポートとして纏め提出するというものだ。
言ってみれば、ちょっと堅苦しいだけの遠足である。
行く場所も動物園やら科学館やらのレジャー施設が主であり、どこぞの工場や会社を見に行く社会見学よりは気楽な雰囲気。
私の学校も、各学年で年に数回ほど校外学習を行っている。
レポートを書くのはちょっと面倒くさいけど、その日一日の授業と引き換えと考えればむしろウェルカムである。
まぁ行先は市内がほとんどだから、私が既に行った事のある場所になる事も多い。
とはいえ動物園などはそんな機会でなければ中々行く事も無いし、何より集団で色々見て回るというのは、一人きりでぶらぶらする時とはまた違う趣がある。
――今日は、そんな校外学習の日。
少し前に中間テストと追試で散々に苦しんだ分、私は今日という日を結構楽しみにしていた。
「――水族館か~。もしかすっとアタシ初めてかもしんないな~」
小刻みに揺れる、学校所有のバスの中。
隣席で水族館のパンフレットを眺めていた足フェチが、何の気なしにそう呟いた。
「あるのは知ってたけど、正直魚ってあんま興味無いし……タマ吉は行った事あるんだっけ、今から行くトコ」
「……まぁ、昔に一回だけな。でもあんまよく覚えてないや」
その問いかけにスマホから顔を上げ、足フェチの持つパンフレットをちらりと見やる。
さかまが水遊園――それが今私達が向かっている場所だ。
田舎エリアの比較的街に近い位置にあり、水族館の周囲には広場や釣り池の他、水産試験場やショッピングエリアなども併設されている総合公園施設でもある。
水族館としてはかなり大きな規模で、校外学習の場としてはうってつけだろう。
今から数年ほど前の事になるが、私は市内をぶらつきがてら、一度ふらっとそこに立ち寄ってみた事があった。
「あん時は……ちょっとあって中入ったらすぐ出ちゃったし、外のアスレチックでばっか遊んでたんだ。どんな生き物が居たとかは全然だよ」
「ほーん、じゃあアタシと同じくほぼ初見か。足生えてる魚居るかだけ聞きたかったけど」
「居たとしてあんたはそれをどーすんの???」
ともあれ。
最初に興味ないと言った割には、足フェチもそれなりにワクワクしているようだった。
他のクラスメイトも似たような感じで、無関心と期待とが混在したかのような空気が漂っている。
バスでの移動という苦手な時間をスマホ弄りで誤魔化してたけど、この空気ならイヤじゃない。私は素直にスマホをしまい、自分のパンフレットを取り出した。
「えーと……一階の水槽は午前中にみんなで見てくんだよな」
「そうそう。詳しくは分かんないけど、まぁメインどころは行くんじゃない?」
校外学習が始まってまず予定されているのは、スタッフさんに連れられての見学ツアーである。
そこで主要な水棲動物について学んだ後、園内の広場に飛び出し自然の生き物探し。カエルやら虫やらを捕まえつつスタッフさんの解説を聞き、そして昼食。
その後にようやく自由時間となり、三十分かそこら館内を好きに見て回る……というスケジュールだ。
自由時間が少なめなのが不満と言えば不満だが、その辺はまぁ曲がりなりにも学校行事だししょうがない。
まぁどうせ市内にある場所なんだから、気に入ったら次の休みにでもまた来りゃいいのだ。
「じゃあ見て回るならそれ以外か……つーかメインってどれなんだ。マグロとかか?」
「ここアシカとかって居ないんかな~。人生で一回はショーとか見てみたいよね」
「……確かにヒレあしとか言うけども……。お、見ろこれ、ショーはショーでもご当地ヒーローショーならやってるってよ」
「意外とそういうの好きだよね、タマ吉」
などなどつらつら駄弁る私達を乗せ、バスは水遊園への道を走り続けたのだった。
*
それから暫くして、バスは水遊園に到着。
担任教師に連れられ水族館へと移動し、館内をクラスごと番号順に整列してぞろぞろ進む。
それなりに歴史のある施設だから建物の外観は少し古臭いものだったけど、その内側は意外と綺麗なものだった。
やはり生物を扱う場所であるからか、そこら辺はきちんと整備しているらしい。
以前来た時は入ってすぐに引き返したから、館内の内装なんてまるで覚えていない。
私は周囲のクラスメイトと一緒になって、新鮮な気持ちで歩き進み――。
「――……」
……ふと視界の端にその姿を見つけ、私の眉がきゅっと寄る。
とある通路の影。そこに、さりげなくこちらを見つめる無表情の男性が一人居た。
言うまでも無く『親』だ。ここの水族館でスタッフとして働いているその身体のひとつが、私にじっと視線を向けている――。
(……これがなぁ)
数年前、まだ『親』が『うちの人』だった時。
水族館に入った途端にこの視線を向けられ、当時の私はとんぼ返りで水族館を後にしたのだ。
今はもうそこまででは無いとはいえ、やはり気分良くはない。
じろりと『親』をねめつければ、そそくさと無表情を引っ込めた。何がしたいんだアイツ。
「……どうしたの? 親の仇見るような顔して」
「えっ、あ、いや、ははは……」
するとその表情を見られたのか、すぐ隣を歩くクラスメイトに心配されてしまった。
それを愛想笑いで誤魔化してる内、やがて展示エリアの前に着く。
そしてそこで待機していたガイド役のスタッフさんに先導され、最初の予定の見学ツアー開始。順路に沿って歩きながら、色々な生き物達の入った水槽を観覧していく。
「まずは芦高川から関藍湖までに棲息している生き物達から見てみましょう。この辺りではイワナやアユ、下流の方ではニホンウナギなんかも棲んでいますね。珍しいところではカヤネズミといった――」
自然の様子を再現したジオラマ水槽は相当に作り込まれていて、それと合わせた解説も中々に面白いものだった。
私も日々野山を駆け回り様々な生き物と触れ合ってはいるが、自分から深く調べに行くような生き物博士って訳でも無かったのだ。
見覚えのある動物の知らない情報には興味が湧き、気付けば意外なほどに聞き入っていた。
光の絞られた部屋の中、静かに水草の揺れる水中の世界はどこか幻想的で、単純に水槽を眺めているだけでも楽しめた。
魚なんて見ても食欲しか湧かないだろうなと思っていたけど、こうした拵えで見てみると、美術品のような雰囲気がある。
特に魚群を成して水中を泳ぐ白い魚はまるで白絹が流れていくかのようで、思わず「ほえー」と大口を開けて眺めてしまい、それをまたクラスメイトに見られて笑われてしまった。はずかし。
そうして様々な水槽を堪能した後は、広場に移動しての生き物探しだ。
当然、こういった事は私の得意とするところ。
カエル、トカゲ、トンボ、アメンボ、あと何か迷い込んでた野良犬。手当たり次第に見つけては、掴んでも死にそうにない奴だけ捕まえていく。
それらの細かい名前までは知らなかったが、スタッフさんの所に持って行けば、それぞれ詳しく教えてくれた。
「この犬は?」
「う、うーん……ここは水の生き物の場所なんでぇ……」
はい。
野良犬はさておくとしても、昔から山川で慣れ親しんでたヤツらの正式名称を初めて知って、なんとなく感慨深くなった私であった。
昼食は敷地内にある食堂でとるらしい。
水族館らしく、河川の水系の水を使った蕎麦とかがウリらしいけど……この街の川における『見立て』の話を思い出すと、ちょっと食欲が失せた。
「何してんの? 早く席行こうぜ~」
そんな風に食堂入り口で足踏みしてると、後ろから来た足フェチにそう促された。
……まぁ、別に川の水そのものに『親』の骨のダシが出ている訳じゃない。
大体、前に川の水を引っ被った時に口に入ってるし、何より生まれてからずっと川の水が元になってる水道水をガブガブ飲みまくっているのである。
今更気にしたってしょうがないと割り切り、すごすご食堂へと足を踏み入れ――……、
「……あー、ごめん。先にちょっとトイレ行ってくる。自由席だったら席取りしといて」
「はいよ~、いってら~」
直前、そう断りを入れ食堂に背を向ける。
そして急ぎトイレへと走り……その扉を通り越し、廊下の角を曲がって立ち止まる。
「……何よ、いきなり」
「…………」
するとそこには、入館時にこちらをこっそり見て来た男性スタッフが――『親』が私を待ち構えていた。
先程足フェチと話している時、廊下の影で私を手招くコイツの姿が見えたのだ。
スルーするかどうか迷ったけど、コイツがこうして私にわざわざ接触を図って来る時は、無視しても良い事ないと既に骨身に染みている。
どうにも嫌な予感になりながら問い質すと、『親』はやはり無表情のまま静かに私を見つめた。
「校外学習。午後の予定に自由行動があるようだが、お前はどうするつもりだ」
「……別に、普通に友達と回る予定だけど」
伝えても無いのにこっちのスケジュールを把握されている事に一瞬身構えたけど、ここのスタッフならおかしな事でも無いかと自分で納得。
誤魔化さず素直に答えれば、少しだけの間が流れ。
「……それは、館内をか」
「そらまぁ、まだ見てないエリア結構あるし……」
「…………そうか」
『親』は目を伏せ、思い悩むように腕を組む。
その妙に煮え切らない態度に私が口を出すよりも早く、再び私に視線が上げられて、
「――知らない水槽を見たら、名前を見ないようにしなさい」
「はぁ?」
突然そう忠告され、思わず声が漏れた。
「……ええと……何? 意味分かんないんだけど」
「見知らぬ水槽に何が展示されているのかは確かめなくていい、という事だ」
「理解させる気ねーだろ」
コイツとの淡白な会話もそれなりに慣れたとは思うが、まだ上手くキャッチボールが出来ているとは言い難い。
どういう意味だと更に詳しく尋ねようとしたところ、廊下の奥から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「――はーい、今行きまーす!」
「うわ……」
きっと、この男性スタッフの身体の名前だったんだろう。
『親』は瞬時に好青年となってにこやかに返事をすると、またすぐに表情を落として私を見る。相変わらず気持ちわりーな。
「とにかく、妙と思った水槽には近づかないように。覚えておけ」
「あ、おいちょっと!」
『親』は私に忠告を重ね、足早に廊下の奥へと立ち去って行く。
そして私の視界から完全に消え去る寸前、最後に一度振り返り、
「――気を付けなさい」
……だから、何にだっつーの。
『親』の居なくなった廊下を忌々しげに眺めつつ、私は深い溜息を吐き出した。
*
「……何かトイレ行ってからテンション低いね。下痢った?」
「ちげーよ」
昼食後、自由時間に入る少し前。
午前中とは打って変わって盛り下がった様子の私に、足フェチが心配そうに声をかけてきた。
……内容が内容なので、嬉しさではなく青筋が出たけれど。
「そういうのじゃなくて、何つーか……ちょっとキライなヤツに会っただけ」
「ふーん? そんならいいや、体調悪かったら無理すんなよ~」
私の答えに足フェチはけろりと笑顔に変わり、うきうきとパンフレットに目を戻す。
どうやら、意外とこの水族館の事を気に入ったようだ。
……反対に私と言えば、今すぐにでも帰りたい気分になっている。
理由は勿論、さっきの『親』との会話だ。知らない水槽がどうのと要領を得ない内容だったが、それでも察せるものはあるのだ。
(――この水族館、オカルトか何か居んのか……?)
『親』がああいう感じで絡んで来た時は、大体がオカルト絡みだ。
今回もその可能性は高く、午前中の楽しかった気分が嘘みたいにシナシナだ。ちくしょう。
(見知らぬ水槽っつったってなぁ……)
ここに来るのはほぼ初めてだというのに、見知るも見知らぬもあるもんかい。
どうせ忠告して来るならもう少し具体的にしろとは思うが、『親』の口出し手出しを嫌ったのは過去の私でもある。
そこらへんで文句を言うのも見苦しく、ぐぎぎと下唇を噛むしか出来ず。
「や~、意外と楽しいね水族館、ちょっとお魚さんの事ナメてましたわアタクシ」
「……口ん中生臭くなってそう」
そして目の前で楽しげに語る友人の笑顔を見れば、一人で行けとも言い出せない。
頼むから、見知らぬ水槽とやらがありませんように。
私は強くそう祈りつつ、教師の号令が来るのを待っていた。
そうして迎えた自由時間。
わいわいと歩く大勢の生徒達に混じり、私と足フェチも上階へ続くエスカレーターへと向かった。
水族館の二階エリアは、地元をはじめとする日本の生き物をテーマとした一階と違い、世界の生き物をテーマとしたエリアになっているとの事だった。
他にも体験イベントの会場やギャラリー・資料室などもあり、むしろこっちがメインエリアのようにも思えた。
「アマゾンの魚と深海魚か~……どっちの方が好き?」
「その二つを好き嫌いで考えた事ねーよ。まぁアマゾンの方でいいんでない、パノラマ大水槽ってのがあるんだろ」
パンフレットを確認すれば、360度パノラマのチューブ型トンネル水槽とやらがあり、そこにアマゾンゆかりの魚類が集められているらしい。
この水族館の目玉の一つとして大々的に載っており、ついさっきまでは私も結構楽しみにしていたエリアだった。
(……見知らぬ水槽って、私が初めて見る魚って意味じゃないよな……?)
ふと不安になったが、今更どうしようもない。
そうでない事を願いつつ、展示エリアへと足を踏み入れた。
「おお~……でっかい水槽ばっかりだね」
一階と同じように光の絞られた室内は、壁に埋め込まれた巨大な水槽ばかりが並べられていた。
これまでの部屋は大中小様々なサイズが入り混じっていたから、足フェチと一緒に少しだけ圧倒される。
まぁ世界の魚ってデカいの多そうだし、集めて展示するとなるとこうなるのだろうか。
水の反射で揺らめく床を歩みつつ、下から上までキョロキョロ忙しなく視線を振る。
「ええと……ディス、ディ……いやティコダス・デセ……? 魚のクセに長すぎだろ名前」
「あっはは、早口言葉じゃん」
そうして眺める魚たちは姿も名前も見知らぬものばかりで……正直、ちょっと気が気じゃない。
一応、微妙に視線を逸らしたりはしているけど、それもどこまで効果があるやら。
せっかくの機会なのに、なんでこんな精神すり減らさなきゃならんのだ。
私は名も知らぬ魚が優美に泳ぐ姿を見上げながら、今日何度目かも分からない溜息を吐き――。
「――?」
……ふと、周囲が静まり返っている事に気が付いた。
少し前を行く足フェチの声や、他の観覧者の賑やかな声がいつの間にか聞こえなくなっている。
咄嗟に辺りを見回し確かめれば――そこに居た筈の全ての人が、消えていた。
「……は?」
居ない。誰も居ない。
足フェチも、クラスメイトも、スタッフさんも。さっきまで周りを歩いていた全員が、影も残さず消えている――。
あまりにも突然だったその変化に、私はただ呆然と立ち竦む事しか出来なかった。