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異女子  作者: 変わり身
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「雨の日」の話

さぁさぁ、さぁさぁ。

そんな細く柔らかな音が続く中、幾筋かの水滴が窓ガラスを伝っていく。


その向こう側に広がる雲は分厚く、そしてずっしりとした濃い色だった。

けれどそこから落ちる雨粒は音の通りにささやかで、風景を淡く包み込んでいる。


袖笠雨――というのだったか。

文字通り、袖を笠にすれば容易く防げてしまう程度の薄い雨。自室のベッドに転がる私は、ぼうっとそれを眺めていた。



「…………」



別に、面白くはない。


雨が好きという訳でもないし、どっちかと言えばむしろ嫌いな方だ。

濡れると服が張り付いて気持ち悪いし冷たいし、単純に動きづらくもなる。よく山の中を散策していた私にとっては、急な雨が一番めんどくさかった


……そうだ、雨にはろくな思い出がないんだ。

決して良い思い出が無いって訳じゃないけれど……眺めてたって、そんなに楽しいもんでもない。


まぁ……ただ、それでも。



「……はぁ」



その内、軽く息を吐き。

転がっていたベッドから起き上がると、外出用の上着を手に取った。







ここ数日、雨が降り続いていた。

六月も半ばを過ぎ、本格的に梅雨の時期に入ったのだ。


毎日毎日どんよりとした雲が広がり、雨音もほとんど途切れる事が無い。

じめじめとした重たい湿気が連日纏わりついてきて、いい加減ちょっと鬱陶しい。雨の匂い自体は結構好きなんだけど、なんだか酸素をうまく取り込めてない気がして、息苦しくもあった。


……そんなスッキリしない空気に傘を差し、私は雨に濡れる街中を歩いていた。



(……あんま、人いないな)



休日の昼前、大通りへと続く住宅街の道の一角。

普段ならそれなりの通行人で溢れているこの道も、連日の雨のせいか人も疎らで活気が無い。


休日とはいえ、わざわざ雨の日に散歩をするモノ好きはそんなに居ないって事だろう。

どうせ人が居ないならと、敢えて水溜まりをパチャパチャ跳ね散らしながら歩き――途中、引っ掛かった赤信号の柱に、人探しの張り紙がある事に気が付いた。


「…………」目を通せば、どうやらこの辺りの川辺で女性が一人行方不明になっているとの事だった。

張り紙は濡れないようビニールでしっかり覆われており、これを張った者の必死さが窺える。


……なんとなく、重なって。

青信号になった途端、逃げるように駆け出した。




――私の目的地は、この近くの自然公園内にある、とある広場だった。


雨の日になる度、私はなんとなくそこに行きたくなってしまう。

別に何をするとか、出来るとか、そんなものは無い。ただそこに行って、手持ち無沙汰にぶらつくだけ。


それに意味なんて無いって分かってる。でも、一度そんな気持ちになってしまうと、どうしても落ち着かなかった。



「…………」



そうして水溜まりを踏み越えながら大通りを通り過ぎると、やがて前方に小綺麗な鉄門が見えて来る。

下手なテーマパークや山なんかよりもずっと広い、通い慣れた自然公園の出入口だ。


入場料金なども特に無く、勝手知ったるなんとやら。入場して道なりに五分ほど歩き続けた先に、その広場はあった。


敷き詰められた大小様々の石畳に、蔓の巻き付く石柱の並んだどこか異国を思わせる広場。

雨に濡れるその場所は、何とも言えない落ち着いた雰囲気を漂わせていた。



(やっぱ、まだ見慣れないや)



心の中で呟き、広場の中央部――色鮮やかな芝生が敷き詰められたフィールドを見る。


青々しく雨粒を弾くその周囲には隠しきれない真新しさが見えたが、周囲の石畳とはよく調和しており、広場の空気によく馴染んでいた。

……けど、かつてを見慣れた私の目には、どうにも違和感が先に立つ。


――少し前まで、ここには芝生ではなく別の物があった。


白い石材で作られた、丸い形の大きな噴水池。

キラキラと輝く水のアーチが印象的だったそれは、人々の憩いとしてこの広場の真ん中にずっと鎮座し続けていた。


……今となっては、その痕跡は一つたりとも残っていない。

水から草へ。眺めて楽しむものが、入って楽しむものへ。まぁまぁ大きい転身だ。


私は少しの懐旧を抱きつつ……そっと、その芝生に踏み入った。



「――……」



柔らかな反発が靴底を押し返し、雨の匂いに青臭さが混じる。

足元に目をやれば、芝生の上に幾つかの水たまりが落ちていた。


それらは草の動きに合わせて流れ、ささやかな雨粒でも激しく波打ち、揺らめいている。

私はさっきとは正反対の慎重な脚運びで芝生を進み、その水たまり達を覗き込む。


小さいもの。大きめのもの。浅いもの。深めのもの。

一つ一つ、自分の顔が映るように、しっかりと。


……その中に、凪いだ鏡面のようなものが無いか、決して見逃さないために。



「……おーい、なんか映せー」



途中に声掛けしてみるけれど、当然返って来るものなんて無く。

私は暫くの間、そこで無意味な探索を続けていた。






元・噴水広場から少し歩くと、道沿いに休憩用の小屋がある。


木組みのベンチと机に、紙コップ式のジュース自動販売機。部屋の隅には鯉の餌の販売機が置いてあり、近くの池で餌やりが楽しめるようになっている。

私は濡れそぼる傘を入り口横の傘置きに立てかけて、あったかいコーヒーを購入した後適当なベンチに腰掛けた。


流石にこんな雨の日じゃ人も居らず、今ここに居るのは私だけ。

木材の湿った匂いと、くゆるコーヒーの香りが混ざり合い、独特の空気を醸し出している。

私は頬杖ついて寛ぎつつ、ゆったりと窓の外を眺めた。



「…………」



ぱらぱらと、屋根を叩く雨音が響く。


その勢いは少しだけ強くなっているようだった。

窓から見える雨粒も一回りほど大きくなって、風景に跳ねる水煙も濃くなっている。


そのせいか若干の肌寒さを感じ、コーヒーを両手で包みちびちびと啜る。

薄く粉っぽいインスタントだったけど、不満はない。喫茶店とかで出る本格的なものよりも、こういう安っぽい味の方が昔から好きだった。



「ほぅ……」



そうして一息ついて、また窓の外に目を戻す。


……なんだか、全身が酷く気怠かった。

腰は重たく、息は深く。何かを深く考えるのすら億劫で、心をぼんやり放してしまう。


今この状況の雰囲気がいい、というのはそうだろう。

しかしそれだけでもなく、諦観とか後悔とか、そういったものによる虚脱感がある事もまた、自覚していた



「……はーぁ」



どうせ他に人目も無い。

私は行儀悪くベンチに足を投げ出し、深く机に突っ伏した。頬に木屑のささくれが擦れ、チクチクとする。


いっそ、このまま昼寝でもしてしまおうか。

そして昔の……それこそ良い思い出の一つでも夢に見られれば、このジメっとした気分も幾分かはマシになるかもしれない。


そんな適当な事を考えて、私は軽いあくびをひとつ。

外の雨景色を眺めながら、徐々に重くなっていく瞼に抗わず――。



「……?」



眠りに落ちようとする間際、奇妙なものが目に留まった。


雨の中、小屋から少し離れた道の先。

その風景の一部分に降る雨粒が、変な挙動を見せていた。


何も無い場所。中空のある特定の位置で雨が弾け、地まで落ちずに飛沫と消え。

まるで、そこに見えない何かが在るかのように、雨の軌道が遮られている――。



(…………)



……身体に纏わりついていた気怠さや眠気は、既に無く。

私はごく自然な動作で身を起こし、紙コップをゴミ箱に投げ捨てそのまま小屋を後にした。






雨は弱まる様子は無く、反対に少しずつ強まり続けていた。


傘が鳴らす雨音も耳障りなものとなり、周囲の音を掻き消していく。

元々静かな公園だ。ただ雨に纏わる音だけが、私を包み込んでいた。



「…………」



ちらと、傘の隙間から背後を見る。


さっきまで私が休んでいた休憩小屋は既に遠く、水煙の中に消えている。

ただ雨に濡れた道だけが続いており……あの『みえないもの』も、見当たらない。



(……見間違い、じゃないよな)



その筈だ。


今思い出しても確かに雨は遮られていたし、その飛沫が何かの形に沿って跳ねていた。間違いなく、あの場には何かが在った。

この私が幾ら目を凝らしても見えず、そして視えない何かが。


……少なくとも追っては来ていないようだったが、嫌な不気味さは拭えない。

私は何度も背後を振り返りながら、足早に来た道を引き返していた。



(くそ……今まで無かっただろ、あんなの)



そう、雨の日にあの小屋で過ごしたのは今日が初めてじゃない。

これまで数度訪れて同じように過ごしたけれど、あのような異常なんて無かった。


なのに何で、今回に限ってあんなものに気付いた。気付けてしまった――。



「……いや」



いや、もしかしたら、以前からあったのだろうか。

今までは雨足が弱くハッキリと認識出来なかっただけで、今回の強めの雨でやっと浮き彫りとなったとでもいうのだろうか。


分からない。他にも思考を巡らせてみたがそれと確信できる答えは出ず、頭を振って気を切り替える。



(ああもう。そんな事より早く帰るんだ。さっさと家に帰れば、それで終わ――……)



ぴたり。

辿り着いた鉄門から外に出した爪先が縫い留められ、ばしゃりと小さな飛沫を上げた。



「――……、」



……前方。大通りに続く道の、左側。

その風景の一部が、奇妙な事になっている。


降り注ぐ雨粒が遮られ、何かの形を縁取っている。

そこには何も無い。何も無いのに、それが在るのだと分かってしまう。


――帰り道を塞ぐように、『みえないもの』が立っていた。



「……っ」



ぶわりと肌が総毛立ち、反射的に一歩下がる。

そしてそのまま公園内に引き返そうと振り返り、



「――は?」



今まで歩いてきた道の途中。

少し離れた場所の石畳の上にもまた『みえないもの』が縁取られていて、僅かに呆けた。


慌てて公園の外に目を戻せば、そこには変わらず『みえないもの』が立っている。

前と後ろ。どちらに目を向けても、姿なき姿が消えてくれない。



(……増え……いや、一瞬で回り込んで……?)



どちらであるかは知らないが、私が目を付けられているのは間違いない。


追われているとは思っていなかったから、油断していた。

動揺に揺らぐ視線を努めて抑え、慎重に公園外へと向き直る。


……『みえないもの』は、動かない。塞ぐ道も一つだけで、右側の道は開いている。

私はもう一度だけ背後を振り返り……暫くの逡巡の後、ゆっくりと公園の外へと踏み出した。



「…………」



やはり、動きは無い。

私は『みえないもの』から決して目を逸らさないまま、そしてやがては小走りになりながら、右の道へと入っていった。







この付近一帯は私の庭のようなものだった。


小さな頃から御魂橋中をぶらぶら歩き回っていたし、特にこの自然公園まわりは、数か月前のあの事件の際に隅々まで駆けずり回っていたのだ。

頭の記憶力はともかく、身体で覚えた事はそう易々と忘れない。


今進んでいるこの道も、このまま進めば住宅街に近い川辺沿いに出ると分かっていた。

そしてその少し前に左に曲がる道があり、そちらに入ればまた帰り道に戻る。


遠回りになる事は避けられないが、仕方ない。さっきと同じく度々振り返りながら、水たまりを跳ね散らす。


……何度背後を確認していても、『みえないもの』の縁取りは無い。

追って来ていないのは確かな筈だが……そう思った途端、裏切られたのがさっきだった。



「……は……は」



浅く、短い呼吸がやけに大きく耳につく。


前にも後ろにも何もみえない、何も居ない。

そう忙しなく周囲に目を走らせ続ける中、ようやく横道が見えてきた。


私は更に激しく飛沫を蹴り上げ、一息にそこへと身を滑り込ませて、



「っ」



また、足を止める。


人気のない、細い雨道。

遠くに大通りの風景を繋ぐその半ばに『みえないもの』が在り、先を塞いでいた。


雨とはいえ大通りへと続く道である以上、通行人――残念ながら『親』ではなかった――だって少しは居る。

しかし、その誰もがその存在に気付かず、雨の遮られている空間を素通りしていた。


何事も無く、異常も無く。

本当に、そこに遮るものなんて存在していないかのように――。



「…………」



それを見た私は、ゆっくりと歩みを再開させた。


人が触れても無事なのであれば、強引に突破出来そうな気がした。

慎重に、一歩ずつ、『みえないもの』を睨んだまま、緩慢に足を運び――次の瞬間、雨の遮られている空間がほんの僅かに移動した。



「っ」



こちらに向かって数歩分。

咄嗟に足を止めれば、それの動きも同じようにぴたりと止まる。


……跳ねる心臓を抑えつけ、一歩踏み出した倍の時間をかけて足を引く。

『みえないもの』は動かず、数歩分進んだ場所に佇んだまま。元の位置には戻らない。



「……なんなんだよ」



後退りながら恐る恐る振り向けば、やはり今来た道にも『みえないもの』が立っている。

そしてその位置は、気のせいじゃなければ、少しだけ近づいているような気がする。だが一方で、川沿いに向かう道にはその気配は無く……。



「…………」



引っ掛かるものはあったが、アレに追い付かれたくないという思いが上回り。

私は速足に横道を通り過ぎ、川沿いへの道へと進路を変えた。


それに、この先にも左に曲がる道はある、無理をする必要はない――そう自分に言い聞かせていたけど、残念ながら次の横道にも『みえないもの』は立っていた。

しかも今度は左の方角だけではなく、右に行く道の先にも。


……歩きながら後ろを見ても、何も無い。

しかし引き返そうとしたその瞬間にそれが現れ、長く立ち止まっていると焦れたように近寄って来る。


やはりそうだ。明らかに、川の方角から外れないよう誘導されている――。



(でも、この先って何も無い……よな)



この行先にある川も、ごく小規模な細い川だ。


上流の大きな川から分かれる派川のひとつで、この街のそこら中に同じような川がある。

その周辺に曰くのあるスポットがある訳でも無く、誘導されるような理由がまるで思い当たらない。


私は胸元の小瓶に手を添えつつも、無理して抗う事もせず……そうする内、道の終わりに辿り着く。


その先に現れたのは、やはり何の変哲もないただの川だ。

雨で普段よりは増水していたが、氾濫する程でもない。ごうごうと流れる水面から森の中でよく嗅ぐ水の臭いが漂い、雨の匂いを上書きしていた。


その土手近くで立ち止まれば、上流側の道に『みえないもの』が立っているのが見えた。

私は少しずつこちらに近寄って来るそれから逃げ、下流に沿って歩き出す。



「…………」



……今、私は危険な状況なのか?


張り詰めてはいる。

しかしどうしてか、これまでに何度も感じたような、おなかの底がずっしりと冷え込むまでの危機感は無かった。


ただ、嫌な不気味さと怖気がある。

どう判断するか迷い、懐に添えた手をウロウロと彷徨わせ――その時、鼻先を妙な臭いが擽った。



「うぇ……」



例えるなら、数か月放置した水槽の臭い。なんとなく、覚えがあるような悪臭だ。


私の鼻が良すぎるというのもあるのだろうが、青臭さと生臭さを混ぜ合わせたようなそれは、川の匂いに紛れてもなおハッキリと漂っている。

軽く周囲を見回したけど、大本らしきものは見当たらない。ただ、道を進むごとに臭気が濃くなっている気はした。


そうして徐々に強まっていく悪臭の中、やがて小さな橋が右に見え……そこで私は、足を止めた。


……橋の手前。一本道の真ん中に、『みえないもの』が立っている。



「……は」



振り返る。

そこにはやはり『みえないもの』が立ち、ゆっくりと近付いて来ていた。


また前を見る。

『みえないもの』は消えないままだ。


前も後ろも、塞がれていた。



(……こ、ここまで来て、梯子外すの……!?)



咄嗟に左右を見るけど、左方に掘られた側溝の向こう側にも『みえないもの』。

反対に右方には『みえないもの』こそ無かったが、ごうごうと濁流が音を立てている。


逃げ場がない。

どこを向いても視界の中心に陣取る『みえないもの』に頬を引きつらせ、私は唯一その気配の無い川の方へと身を寄せて、



「っ……?」



――その瞬間、『みえないもの』はぴたりとその動きを止めた。


と言っても、ほんの一瞬だけだ。

立ち止まった瞬間にまた『みえないもの』は動き出し――私がまた一歩川の方へと後退ると、再び動きを止める。



「……こっち、か?」



立ち止まらないよう緩慢に足を動かしながら、ごうごう流れる川を見る。

急な角度の土手に囲われた、その気になれば泳いで渡れるだろう小さな川。やはり何度見ても変わった所は見当たらない。


私は何をどうすれば分からないまま土手を滑り降り……途端、一気に悪臭が強まった。



(……ほんと何の臭いなんだ、これ……)



川からではなかった。

飛沫を上げて流れるそこからは変わらず水の匂いが立ち上り、ほんの少しだけ悪臭を紛らわせてくれている。


とはいえ酷い臭いである事に変わりは無く、私は鼻をつまみながらぐるりと周囲を見回した。



(ここでどうしろってんだよ……何したいんだ、アレは……!)



緩慢な動作での時間稼ぎにも限界はある。

私はいい加減小瓶とメモ帳を取り出しながらも、何か目に見える異常や変化がないかを必死に探す。



「――?」



……そして、ふとそれが目についた。


土手の中ほど。コンクリートで固められ、段々となっている部分の一か所に、私がギリギリ通れるかどうかくらいの穴がひっそりと開いている。

それは伸び放題の雑草に覆われていたが、よくよく見れば上流からの排水口である事が窺えた。


しかしそこから水は出ていない。こんな雨で、対岸に見える排水口からは勢いよく水が吐き出されているのに――。


そんな疑問を頭の片隅に留め、嵩張る傘に苦労しながらやっと小瓶の蓋を開け、



「……………………………………………………」



そして、それを垂らすメモ帳を開く寸前、私は動けなくなった。



――背後。差す傘の中に、誰か居る。



「――――」



ぽたぽたと、水滴が肩や首筋を生ぬるく濡らしている。

私の背中にぴったりと張り付いた、びしょ濡れの何かの身体を伝って落ちたもの。


……振り向けない。指の一本も動かせない。

瞳を微細に揺らし、浅い呼吸を繰り返す。


幽かで、酷い臭いの吐息が、私のうなじを撫で上げた。



「っ」



吐き気を催す感覚に思わずメモ帳を取り落とした瞬間、気配が更に近付いて、反射的に前に出た。


しまった、と肝を冷やしたけど、特に何も起こらなかった。

ただ一歩進んだだけじゃそれは止まらず、私は追い立てられるように歩き続ける。


その向かう先は――さっき目にした排水口。

背後に下がれない状況の中、私は死ぬような思いで雨に濡れた土手を登った。



「……っは……っは……」



滑りかけ、息が切れ、どうにか堪えて排水口の前に立つ。


……そうして正面から眺めてみれば、そこから水が流れていない理由もよく分かった。

排水口の中は、土砂や岩で一杯だった。僅かに通った隙間から少しの水が漏れ出るだけで、とても排水なんて出来る状態じゃなくなっている。


誰かの悪戯か、それとも自然とこうなったのか。

ほんの一瞬気になりかけ、しかし強烈なまでに強まった悪臭がその疑問を吹き飛ばす。



「ぐっ……!?」



ここだ。

ここが、この臭いの大本だ。


あまりの臭いに足を引きかけたけど、それを咎めるように背後の何かは気配を背中に押し付けて来た。


……そんな動きをされれば、ここで何をすればいいのか、嫌でも分かった。



「――ああ、くそっ!」



私は僅かな時間片手に残った小瓶と排水口を見比べて、舌打ちと共に小瓶をポケットに突っ込んだ。


排水口に詰まっている土砂は固く、まるでセメントのようだった。

私でも掻き出すのには苦労して、手だけじゃなく傘の先っぽも使って突き崩しながら、強引に掘り起こしていく。

そうやって土砂を取り除く度に排水口からの悪臭は酷くなり、何度も嘔吐いて唾を吐いた。


臭い。汚い。冷たい。怖い。

何で、何で私がこんな事をやらなきゃいけないんだ。背中側に引っ付いたままの気配に悪態をつき、詰まっていた岩を八つ当たりのように引き抜いた。



「あ?」



……するとその岩の影から、ボロキレのようなものが顔を出した。


青と白のストライプ柄のリボンタイ……だろうか。

泥で酷く汚れてはいたが、全部引き抜いてみればそうと分かる。


上流から流れてきたゴミが混じったのだろう。私は特に気にする事なく岩と一緒に投げ捨てて、土砂の掻き出しを再開し――「え、うわっ」直後、詰まっていた土砂が大きく崩れた。


多くの土砂を取り除いた事で、詰まりが解消されつつあるのだろう。

一層酷い臭いの水と一緒に流れ出した大量の土砂に、私は反射的に飛びのいた。



「っ!?」



――そして、その瞬間。

背中の何かが、入れ替わるように排水口の中へ入ったのが分かった。


相変わらずその姿はみえなかったけど、臭いで分かる。

うなじに当たっていた腐敗臭のようなそれが、帯を引くように排水口の闇の中へと吸い込まれていった。



「……は……」



私はそのまま暫く、排水口から溢れ出す濁った水流を眺め続け……どぷ、と粘ついた音がその奥から響いた。


……排水口から流れ出る水が、どんどん黒ずんで来ている。

同時に悪臭も酷くなり、どぷん、どぽん、と音の粘つきも増していく……。


「…………」一歩、また一歩と、排水口から距離を取る。

それを妨げるものは既に無い。けれど一息に走ってしまったら、また追われてしまう気がした。


どぽ、どぽん。どぷん、どぷん。


排水口の奥から、何かが流れ出ようとしている。

水はとうとう泥のように濁り切り、とろりと粘性すら帯びた。


どぷん、どぷ――ごぽ、ごぷ、ごぽん。


酷い臭いだった。生き物がふやけ、腐って溶けた臭い。

流れる汚水の中に黒く絡んだものが混じり、黄ばみ砕けたものが混じり、そして、



「――――」



駆け出した。

泥だらけの手でボロボロの傘を握ったままに、全力で。


足を滑らせながら土手を登り、雨に打たれる事も厭わない。

ただ一秒でも早くそこから離れたかった。それを直視したくなんてなかったから。



――やがて、後ろで水っぽいものが落ちたような音がしたけれど。

私は決して、振り返る事なんてしなかった。







「…………」



後日。雨の日。


今日もまた自然公園に向かう道すがら、私は引っ掛かった赤信号の柱に張り付けられた、人探しの張り紙を眺めていた。


それは先日も目にした、この辺りの川辺で行方不明になったという女性の情報提供を求めるビラだ。


しかし以前とは違い、その写真の上には一枚の紙が留められていた。


ビラと同じくビニール袋に入れられたそれには、たった一行だけが記されていた。

少し震えた筆跡で、感情を無理やりに押し殺したような、そんな文章。



――みつかりました。



「…………」



そっと紙を捲り、改めてその下の写真を見る。


長く雨に打たれていたせいか、ビニール袋の中にも水が染み、女性の顔部分はふやけてよく分からなくなっていた。

けれどその下、服装部分はまだ無事で、どんな格好をしていたのかはハッキリと分かる。


赤を基調とした上着、それと合わせた明るい色のスカート。私には分からないけど、きっとオシャレなんだろうネックレスに、小さめのかわいいバッグ。


そして――青と白のストライプ柄の、どこかで見たリボンタイ。



「――…………………………」



……上流のどこかで、落ちたのだろうか。

そしてそのまま溺れてしまい、流れる内に崩れて、詰まって。土砂で塞がれてたから、あの狭い中から出る事もできず、それで……。



「――はぁ」



首を振り、思考停止。


こんなの、今更考えたって詮無い事だ。

そう思いつつ信号機を見上げれば、ちょうど青に変わろうとするところ。私はビラから手を放し、雨に濡れる横断歩道へ向き直る。



「……よかったな」



振り返らないまま、そう残し。

私はさぁさぁと降る雨の中、自然公園へと歩いて行った。


……見つからないって、知っているのに。


主人公:雨の日になると、つい探しものをしてしまうようだ。

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