《それ》の、
■
『私が子なら!! あんたが親だってんなら――そうあれよぉ!!! バーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ!!!!』
「……予想より、ずっと溜まってたみたいだな」
御魂雲邸、その客間。
外から轟き室内を震わせる大絶叫に、特徴的な丸眼鏡をかけた青年が耳を抑えて呟いた。
「けどまぁ、なんとか収まるところには収まった気はするね。この家の空気も少しは良くなるんじゃないか?」
「う、うぅぅぅぅぅ~……!」
そう言って青年が目を向ける先には、頭を抱えてしゃがみ込む女性が一人。
十――そう名付けられた御魂雲の身体のひとつが、何とも情けない呻き声を上げていた。
「……君にとっては色んな意味で相当耳に痛かったようだね、今の癇癪」
「うぅぅぅ……な、なんでこんなことしたのぉ……」
含みを込めての言葉に、十は涙の滲んだ瞳で青年を――インク瓶と名乗っている彼を見上げた。
その何とも情けない表情に先程までの鉄仮面の残滓は無く、十としての人格に戻っているようだった。
インク瓶はそんな非難がましい彼女の視線にまるで悪びれる様子もなく、軽い調子で肩をすくめる。
「君達の拗れを少しだけ解しただけなんだから、そんな酷い事したように言われるのも心外だな。まぁ、多少酷い不意打ちをした自覚はあるけども」
「そうだよぉ……! いくら何でも――って違う、今そんな場合じゃ、えっと、えっと……!」
と、抗議を重ねようとした十だったが、その途中に突然慌て出したかと思えば、棚から救急箱を取り出し部屋の外へと駆け出した。
……おそらく、先程の叫びの主が卒倒でもしたのだろう。
そうしてぱたぱたと走り去る十を見送りつつ、インク瓶は苦笑交じりの溜息ひとつ。
座るソファに深く背中を預け、取り出したワインレッドの革手帳に目を落とした。
――先程までこの部屋で行われていた、御魂雲 異に関する様々な相談事。
当人の居ないまま、インク瓶と御魂雲の間だけで交わされたそれらだったが、しかし実際の所は異本人に筒抜けであった。
インク瓶があらかじめ異に渡していた緊急連絡用インクの『おまじない』により、会話の全てが彼女の手元で中継されていたためである。
そうして聞かされたそれがよほど腹に据えかねたようで、異は盛大に爆発。
怪我を負い満身創痍の状態であるにも関わらず派手に暴れ――そして今しがた、心の奥底からの叫びと共に、とうとう限界を迎えていた。
「――で、何でこんな事したの」
そうして暫く時が経ち、やがてむっすり顔の十が帰還する。
そこに怒りはあれど陰りは無く、インク瓶はほっとしたように口端を上げた。
「……その様子だと、あの子は大丈夫だったみたいだね。良かった」
「あ、うん、ちょっと失神しちゃってるだけみたい。打った頭も異常なかったし、他も……じゃなくって! だから何で異ちゃんに――」
「君がポンコツだったからに決まってるだろ」
「ぽっ」
いきなりの暴言に二の句が継げなくなった十に、インク瓶は先程とは逆に不機嫌な顔で鼻を鳴らす。
「君とあの子に必要なのは会話だった。あの子の方はその意思はあったみたいだけど……君の方は、それに応える事が出来なかったんだろ?」
「……えっと、はい」
「今となっては色々と難しかったっていうのは分かるよ。自分じゃどうしようも無かったんだっていうのもね。でも、だからってあの子が生まれてから今まで、虐待まがいの対応も環境もずっとそのまま変えなかったのは……流石にさ」
「や、だってね、あのね……」
「なら強引にでも何でも、君の言葉をあの子に聞かせなきゃいけないだろ。自覚は無いようだったが、君もあの子を拒絶だけしている訳じゃないのは察せていたからね。だからこうした」
「あうぅ……」
「余計なお世話と言われればそれまでだが、僕はそれを謝るつもりは一切無い。文句があるなら聞くけど、こっちも全力で言い返すからな。さぁ何かあるかい」
「……ないですぅ……ごめんなさいでしたぁ……」
……市外で暮らす御魂雲の身体のひとつ、十がこの街に戻ってきたのはつい最近の事だ。
異と実際に顔を合わせるのも今回が初めてであり、人格としては異についての責任は無いとも言えるが――彼女もまた、御魂雲としての意識と意思で行動する同一人物である事に変わりは無い。
当然何一つ言い返す事も出来ず、十はしわしわの顔で項垂れる。
インク瓶は親しい友人のそんな姿に溜息を吐き、そこで説教を打ち切って。
「……これからは、ちゃんと話せそうかい」
「――……」
少しの沈黙。
やがて、十の頭が頷くように僅かに下がる。
その顔には冷たい無表情が張り付いていたが、それ故にインク瓶は小さな笑みを浮かべた。
「そう、ならよかった。じゃあ――遅くなったが、さっきの話の続きに戻ろうか」
「え……」
空気を変えるようなその一言に、十の顔に感情が戻る。
……さっきの話。無論、説教の続きという意味ではない。
異の暴走により中断された、御魂雲の素顔が語ろうとしていたもの。
――彼女を宿した、母親となった身体についての事だ。
「もう子供の目も無くなったからね。どうせ、あの子には聞かせたくない話なんじゃないの? そう言った意味では、あの時に彼女が暴走したのはタイミングが良かったと言える」
「うん、まぁ、そうだけど……そうかなぁ……」
十はどこか腑に落ちないような顔をするも、元々話すつもりだった事もあってか、それ以上渋る事も無く。
気まずさを誤魔化すように髪先を弄りつつ、ぽつりぽつりと零し始めた。
「……その、私たちはね。私たちの身体を増やす時、どの身体同士で組み合わせたか、全部覚えてるの」
「……前に聞いた、血の濃度管理ってやつだろ」
「うん、それ」
十と同様、なんとも話し難そうに返すインク瓶に頷きが返る。
御魂雲という存在は、御魂雲しか産み出せない。
その性質上彼らは基本的に自分自身の身体同士でしか交わらず、それによる血の濃度の管理も徹底的に行っていた。
数百年ほど前、それを考慮せず血が濃くなりすぎた結果、身体の多くが悲惨な事態になってしまったためだ。
以降、御魂雲は無作為だった身体同士の交わりに計画性を持たせるようになり、明確に記憶し続けるようになっていた。
数百年の間に生きた身体達の軌跡、その全てを。
「誰と誰がその……とか、血のラインがどう繋がってるのか、みんなちゃんと覚えてる。昔みたいな大惨事には、もうしたくないもんね……」
「……どんな事になってたのかは話さなくていいよ。気にはなるけど、知りたくはない」
「それが良いよ……でね、異ちゃんのお母さんになった子もしっかり覚えてるんだけど――」
言葉の最中、再び十から表情が抜け落ちる。
しかしインク瓶の目には、先程とは違ってどこか剣呑さがあるようにも映り。
「――彼女がどういう経緯であの子を孕んだのか、我々には一切の記憶が存在しない」
……そうして完全に御魂雲となった彼女は、抑揚もなくそう告げた。
「……、……それは、どういう?」
「言葉の通りだ。我々の認識では、あの子の母体……『いちる』を繁殖に用いた事実は無い。その計画すらも立てていなかったというのに、本当にいつの間にか、あの子を胎に宿していたのだ」
そう続ける御魂雲に、インク瓶は困惑を隠さず細く唸る。
そして何か嫌な想像が浮かんだのか、渋い顔をして口元に添えていた手を外した。
「……あまりこういう事を聞きたくは無いが、一般の犯罪に巻き込まれでもしたのか? 何らかの原因で意識を失っている内に……とか」
「いいや。そもそも当時の『いちる』は初潮もまだ来ていない幼子だった。生物的に孕める状態には無かった筈なのだ」
「こっ……」
驚き声を詰まらせるインク瓶をよそに、御魂雲は静かに眼を閉じた。
そのまま雲たる己の魂を辿り、かつて全うした『いちる』の生を振り返る。
「……彼女は、生まれた時から病弱な身体だった。よく風邪をひいて寝込んでいて、運動もあまり出来ない。設定した人格が暗めのものだった事もあり、人付き合いもほぼしていなかった」
「…………子供の方とは、あまり似ていないね。いや、人付き合いの点についてはそうとも言えないか」
「髪と目の色こそ異なるが、容姿としては面影があるように思う。黒髪黒目、色白、薄い身体つき。丁寧に拵えられた日本人形のようだと表現された事もあったか」
動揺を抑えてのイヤミに淡々と返し、御魂雲は眼を開く。
その瞳には僅かばかりの懐旧が浮かび、しかしすぐに消え去った。
「……『いちる』はその病弱さ故にあまり周囲と接点が作れず、孤立した生活を送っていた。だが八つになったある夏の日、彼女の住む家近くに極小さな『くも』の穴が開き――そこで『いちる』を遣った」
「は?」
唐突に訪れた『いちる』の終わりに、困惑の声が上がった。
「それは……『くも』の削りとして、穴に飛び込ませて死なせた……って事だよね?」
「そうだ。あの時は、穴を通れるサイズの身体が近くに『いちる』しか居なかったのだ。境遇上、その死に対するカモフラージュも容易であり、周囲には病死という形で処理をした」
「……なら、『いちる』はいつあの子を産んだんだ? 何もかも辻褄が合わない」
「…………」
子供を作れる身体でも無ければ、妊娠も出産も無く死んでいる。どう聞いても矛盾の塊だ。
問われた御魂雲は暫く黙って床を見つめた後、ゆらりとインク瓶へ視線を向けて、
「それからひと月後の九月六日。『いちる』の死体が、市街地エリアの一角で発見された」
そうして告げられた事実に、インク瓶はまた眉を寄せた。
「死体は腐敗と損壊が激しく、また目撃者もありそれなりの騒ぎに発展した。我々も当初はそれが『いちる』だとは思わず、多くの点で後手に回ってしまった……」
「……いや……『いちる』は穴の中で死んだんだろ……?」
「そうだ。あの身体での最後の記憶は、暗闇の中での頭部への衝撃。ほぼ確実に落下死による頭部破壊であり、実際の死体の状況もそうなっている。穴の中で死んだ事に間違いは無いだろう」
「じゃあ……何がどうしてそれが地上で発見されるんだ……? それも一か月の間を開けて……」
「分からない。疑問を抱いていたのは、我々も同じだった。死体の第一発見者の話では、まるで地面から飛び出してきたように見えたらしい。とにかく、そうして戻って来た『いちる』の死体を警察の身体を用いて強引に引き取り、調べた訳だが……」
「……まさか」
これまでの流れで、すぐに予想がついたのだろう。
悍ましさを隠さず顔を顰めたインク瓶が御魂雲を見つめれば、表情の無い頷きが返った。即ち、
「――戻った『いちる』は、孕んでいた」
……たったの一言。
しかしそれは空気を酷く重くして、言いようのない不気味さが室内を包み込む。
「先程も言ったが、『いちる』はまだ子を成すには早い身体であり、我々にその行為の記憶もない。しかし何より異様だったのは――胎の中の子供が、確かに生きていた事だ」
「……母体が死んでいたのに?」
「そうだ。『いちる』の死後ひと月しか経っていないというのに、妊娠九か月前後の胎児とほぼ同等。いつ生まれてもおかしくない状態で、明確に生命活動を行っていた……母体そのものを糧として」
「……糧、とは」
「損壊の激しかった身体だが、その全てが落下によるものではないのだ。その四肢は、先端から干からびるように朽ちていた。そして身体の腐敗も、胴体の中心部たる胎にまでは及んでおらず――」
「――母体の血肉そのものが栄養素として、胎児へと渡っていた。だから死ななかった……?」
途中で言葉を遮っての問いかけに、御魂雲は頷いた。
「……あまりにも異常な存在であったため、堕胎も検討した。だが胎児もまた我々である以上、その死には霊能が伴うとも考えた。その向かう先が何処かも分からない未知の状況であったが故、我々は『いちる』の胎を開くと決め――……」
……異を、取り上げた。
その呟きを最後に声は止まり、沈黙が落ちた。
御魂雲は反応を窺うかのようにインク瓶をただ見つめ、当の彼も掌で口元を覆い、静かに思考を巡らせる。
そうして互いに無言のまま、幾許かの時が過ぎ――やがて、上げられたインク瓶の瞳が、御魂雲のそれと噛み合った。
「……疑問には、思っていたんだ」
吐息混じりの、吐き出すような声だった。
「……何をだろうか」
「御魂雲異の怪我。あの子自身は大怪我と言っていたけど、君が治療した時の様子だとそこまでには見えなかった。確かにボロボロではあったが、さっきどたどた爆走出来るくらいではあったからね」
「…………」
「だから僕は、あの子が怪我の程度を見間違えただけだと思っていた」
御魂雲の無表情に揺れは無い。
先を促すように、黙り続ける。
「……あの子の話では、『くも』の靄が、傷口に吸い込まれるようにして入って来たそうだね」
「…………」
「それ、もしかして『入って来た』じゃなくて、『取り込んだ』、だったりしないか」
「…………」
やはり御魂雲は答えない。
しかしその様子に何かの答えを見たように、インク瓶の視線が床へと下がった。
「……傷を負い、そこから靄を取り込んで……おそらく、傷が癒えたんだ。つまり、そこに在るものを己が内に取り込み、血肉へと変えた――」
「…………」
「どこか……どこかで聞いた特徴だ。それに今君から聞いた話を合わせたら、それは――あの子は、本当は君の子では無く、」
「――我々の子だ」
紡がれようとした言葉が形となる前に、御魂雲が遮った。
やはりそこに抑揚は無かったが、少しばかり大きな声音でもあった。
「我々の身体が孕んだのだぞ。そしてつい先程、我々とあの子は親であり子であるとした。であれば、何がどうあれ、そうなのだ。それはあなたも聞いていた筈だが」
「……ああ、うん。そうだね、ごめんね……」
強めの剣幕に思わず謝った。
インク瓶の肩から力が抜け、部屋の空気も僅かながらに弛緩する。
……つい数刻前の彼らとは随分な変わりようだ。
苦笑と呆れの混ざる息を吐き、インク瓶は丸眼鏡の位置をそっと正した。
「……まぁでも、君達の関係に少しは納得いった気はするよ」
つくられた方法も贈られた理由も不明の、何もかもが異常としか言えない異の出生。
そのような背景があり、そしてたった今抱いた想像が事実であるのなら。御魂雲と異との関係が拒絶から始まり、距離を取っていた事も理解が出来なくはなかった。
(子供が生まれた喜びを自覚出来ないのも分からなくはないし、養子に出さなかったのもきっと監視って建前で……)
……インク瓶にとって、御魂雲――十は、長い付き合いの親友だ。
そんな大切な友人が、別の身体と人格とはいえ子供へ虐待まがいの事を行っていたという事実は、それなりにショックではあったのだ。
無論、委細を聞いた今でも思うところはある。
しかしそこに彼自身が理解できる理由があった事に。十の正体たる御魂雲の素顔が悪意を孕む存在でなかった事に、インク瓶は決して小さくはない安堵を抱いていた。
「――何なんだろうな、君達は」
……そうして、気が抜けたからだろうか。
ぼんやりと御魂雲を見つめながら、気付けばインク瓶はそう零していた。
「何がだろうか」
「いや……」
我に返って言い淀むも、もう散々好き放題言ったのだから今更だと思い直し。
特に言葉に掉ささず、感じたものをぽつりぽつりと口にする。
「……これは悪口じゃないんだが、僕は君の人間味が少し薄過ぎるように感じる」
「……悪口では……?」
「だって君が御魂雲の素顔って事は……霊能で増えていく前、最初の一人目の人格って事だろ? 一人の人間として赤ちゃんから成長して、大人になって、そして親にまでなった……」
そうでなければ、御魂雲は今ここに居ない。
例え生まれた子供が自分自身で、親にはなれなかったのだとしても――そこに至る過程で、大なり小なり人として成熟していた筈である。
「なのに……今目の前に居る君は、どうもそういう感じがしないんだ」
「…………」
「理由があったとはいえ、子供の気持ちを想像出来ず、また自分の気持ちにも気付かない。他の人格と違って、感情を理解しきれてないというか、どこか空の上の人みたいというか……」
「……、……」
「……ああいや、でも、そうか。増えた身体に別々の人格を配していたのなら、最初の一人の人格は……素顔の君は、長い間埋もれていたのか」
もしかしたら長い年月の間に別の身体に配されていた可能性もあるが、これまで見た限りではそんな事も無さそうだった。
数百年も前に消えていた筈のものが、今無理矢理表に晒されている……酷いブランクがある状態だと考えれば、この妙な人間味の薄さにも納得がいく。
そう自己完結したインク瓶は、変な話をしてしまったと御魂雲へと手を振って、
「――……」
しかし、止まる。
御魂雲はインク瓶から視線を外し、窓の外を見上げていた。
僅かに白雲のかかる青空を見上げるその姿に、インク瓶はどうしてか一抹の寂しさのようなものを感じ取り――。
「白曇の宮神社」
彼に視線を向ける事無く、そう呟いた。
「……は、神社……?」
「あなたは、白曇の宮神社という場所を知っているだろうか」
続いて返された質問に、インク瓶は戸惑いつつも記憶を探る。
「……この近くにある神社だよね。実際に訪れた事は無いが、この付近の地理を確認してる時に見て、一応軽く検索はしたかな」
「では、そこに伝わる民話は」
「雲と夫婦のやつかい? 確か……子が生まれずに悲しむ夫婦に、見かねた白雲が自分の切れ端を食わせ――……多くの、子供が……産ま、れ……、…………」
……その最中、何かに気付いたかのようにインク瓶の声が途切れた。
そして丸眼鏡の奥の瞳を困惑に揺らし、御魂雲をただ見つめる。
「……この御魂橋という土地は、その名が付けられる遥か以前より、よく雲のおりる地であった」
変わらず空を見上げながら、彼女は言う。
その瞳の中には、白い雲がゆったりと流れていた。
「空の奥より、遠くに見える大地に向かう。それらは何日も何日も、ゆっくりと時間をかけて沈んでゆく」
「…………」
「高く飛ぶものが鳥以外になく、空が広かった時代はより多かった。幾つもの雲が崩される事無く空をおり……やがて、求めた地の上へと辿り着く」
沈黙しか返らない中、御魂雲は懐かしむように目を細める。
そしてゆっくりと視線をおろし、黙り込むインク瓶へと目を向けて。
「――そこに転がっていたのが、互いの喉を突いた夫婦か、干からびた蜘蛛か。我らの違いなど、それだけでしか無かった。そういう話だ」
無表情。
しかし誰も見た事のない貌で、そう告げた。
「――……」
……差し込む日差しを、雲が遮る。
どうにも奇妙な張り詰め方だった。
重苦しくも、気まずくもない筈なのに、互いに身動ぎ一つせず――やがて雲の影が去り、再び部屋に光が差し込んだ時、ふっと御魂雲から力が抜けた。
「……ね。今日の夜、一緒にご飯食べに行かない?」
「え?」
そうして次の瞬間には御魂雲は十に戻り、柔らかな笑みでそう誘う。
その突然の変わりように、インク瓶は思わず呆け――ふと、膝で重ねられたその両手が、小さく握り締められている事に気が付いた。
「……はぁ」それを見た瞬間、彼もまた知らぬ内に強張っていた身体の力を抜き、溜息。
いつもと変わらない声音で、呆れたように首を振る。
「……別にいいけど、ご執心の愛娘はほっといてもいいのかい」
「! え、えっと、今は落ち着いているし、ちゃんと他の身体でみておくから……!」
「身体が幾つもあるってほんと便利だよな……」
どうやら、今度はちゃんと自分で娘の様子を診ている事にしたらしい。
急速に親としての自覚を芽生えさせている彼女達に鼻を鳴らし、インク瓶は立ち上がる。
「じゃあまぁ、どこに行くかは地元民に……地元民? いやまぁ、任せるよ。僕はそれまで、少し資料を整理してくる」
「大変だね、八代目査山の大先生くんは」
「君らなんだよ面倒くさくしたのは。ともかく、後はよろしく」
そしてそれを最後に部屋を立ち去り……その寸前、インク瓶はちらりと十を振り返る。
「――変わんないよ、今更」
そう零し、今度こそ扉が閉められた。
「……えへへ」
一人残された室内。
十は嬉しそうな笑みを浮かべ、小さく握っていた両の手を解いた。
……過去、御魂雲の生態を晒した時も、何ひとつ変わらなかった彼との時間。
それは今回の件を経ても同じように、自身の傍を流れ続けてくれるらしい。
上機嫌に頬を赤らめた十は、足をパタパタ振りながら上半身を机にもたれ――唐突に動きを止め、首だけをぐるんと『そこ』に向けた。
「――――」
壁と天井の中間、何もない中空。
赤らんだ微笑みの下から無表情が浮き上がり、その冷たい瞳がとある一点に注がれる。
そこに何が浮いている訳でも、現れる訳でも無い。
本当に、本当に、何も存在しないその場所を、彼女はただただ見つめ返して、
「――……」
無表情が消え、十が戻る。
すると彼女は何事もなかったかのように、鼻歌混じりに席を立つ。
「お店、どこにしようかな。異ちゃんにお土産買える所がいいかなぁ……」
などとつらつら今夜の予定を検討しつつ、そのまま部屋を後にする。
室内にはもう一瞥もくれず、気にする様子は欠片も無く。
まるで――誰かの瞼をそっと閉じてあげるように、優しく部屋の扉が閉められた。
■
――時は流れ、五月。
ゴールデンウィークもとうに過ぎ、梅雨の湿った香りが近づき始めたとある日の夜。
御魂雲 異は、寂れた駅舎前のベンチに腰掛け、夜空の星々を眺めていた。
「んー……分かんねーな、星座……」
その視力の良さを活かし、人差し指で星をなぞってみるものの。
どの星同士が繋がっているのかもさっぱり見当がつかず、やがては飽きてぶん投げる。
(……まだかな、迎え。渋滞してんのか?)
そうしてスマホをちらと見やるが、連絡の類は来ていない。
いっそ徒歩で帰ってしまいたくもあったが、そうするとまた小言を挟まれる事だろう。
後でグチグチ絡まれるくらいなら、ここで待っていた方がまだマシだ。異は溜息と共に、ベンチへごろんと寝転がった。
――今現在、異は御魂雲からの迎えを待つ最中であった。
発端は昨日深夜。
異が黒髪女と呼ぶ女性から、とある頼みを受けた事だった。
結果として今日一日を彼女と共に歩き回る事となり、ひと騒動を経た後(半ば強引に)食事に誘われ、解放された時には日も落ちていた。
異としては一人で帰るつもりだったのだが、やけに懐いてきた黒髪女が夜道の一人歩きをやたらと心配したために、渋々『親』である御魂雲を迎えに呼ぶ事となってしまったのである。
周囲に隠れて様子を窺っていた御魂雲は居たものの、それを正直に説明するのも憚られ。
そうして黒髪女を駅に送り届けたついでにそこを合流場所として、異は何となく流れのまま、最寄りの御魂雲が車を持ってくるまで暇をぷちぷち潰していたのだった。
(……にしても、色々話しちゃったな……)
ベンチの上で仰向けになって星を眺めつつ、思う。
黒髪女からの頼みが彼女の親友絡みだった事もあり、食事の話題は異の親友であった査山銅の話が主だった。
無論、その顛末については省いたものの……大人が行くような店の雰囲気に緊張し、あれこれと無駄に多くの思い出話をしてしまったような気がする。
その時の気分を引きずっているのか、いつもは深く考えないようにしている銅の事が、自然と思い出されるようになっていた。
「はぁ……」
彼女と過ごした数多の記憶が脳裏を流れ、溜息をひとつ。
あれから少しばかりの時が経ち、思い出しては涙ぐむ段階はとうに越していたが、それでも痛むものはあった。
異は無意識の内に胸に手を当て、それに浸り――ふと、思い出す。
(……そういや、アレってどうくくればいいんだろ……)
ぺた、と。
忌々しい程に滑らかな頬の肌に触れながら、かつて己の顔を溶かし、そして御魂雲の死によって消え去ったオカルトの事を思い出す。
……Uの字にひん曲がった唇に、その内に潜む無数の眼球。そして――あの特徴的な笑い方。
全てどこかで見聞きしたもので、だからこそ異もどう受け止めればいいのか、未だに迷っている部分もあった。
「――……」
あのオカルトが、銅本人だったとは思ってはいない。
異が最後に見た彼女は真っ赤な単眼の姿で、真っ赤な唇では無かったのだから。
それはむしろバスでの騒動の際に見た悪夢での造形であり、それと同じような、視え方に己の記憶や認識が影響する類のオカルトだとも考えていた。
……だが絶対に無関係だと断言するには、少しばかり自信が足りない事も確かである
(でも、あの後『親』とか何も言ってこなかったしな……)
もしあの唇が本当に銅であり、御魂雲がそれに手を下したとするならば。
彼らが異に何も言わない筈が無く、仮に隠したとしても後ろめたさで挙動がおかしくなるだろう。少なくともここ数か月での生活で異が見た御魂雲は、そういう人間だった。
しかし実際の御魂雲にはそんな様子もなく、無表情にも崩れは無かった。
(……なら、違った……んだよな)
どことなく腑に落ちない気もするが、否定する根拠も無い。
そもそも今となっては終わった事で、蒸し返してあれこれ悩んだところで意味も無かった。
異は大きく溜息を吐き、一緒に胸に燻ったモヤモヤも力づくで吐き出した。
そうして何か飲んで気分を変えようと、近くの自販機に硬貨を入れ――。
「――いや、やっぱあかねちゃんじゃなかったわ、あれ」
呟き、小さく笑う。
そうだ。あの唇が査山銅じゃなかったという証明なら、簡単かつ確かなものが一つあった。
異は購入したコーヒーを手に取りつつ、あの唇の笑い声を思い出す。
特徴的で、どこかで聞いた事があり……しかし同時に粘着質で、糸を引いたような笑い声――。
「――あかねちゃんの笑い方、あんなんよりずっと可愛かったっつーの」
「照れちゃうな」
――――空白。
一瞬の後、異は勢いよく振り返った。
「――っ、?」
しかし、声が聞こえた方向には誰も無く。
駅舎周りの古びた街灯が、先程まで座っていた無人のベンチを照らすだけ。
本当に、誰の人影もありはしない。取り落としたコーヒー缶の転がる音が、やけに大きく響いていた。
「――……………………………………、」
異は呆然として、ただその場に立ち竦む。
そのまま暫くの時が過ぎ――そんな彼女の目の前に、一台のタクシーが停止した。
自動的に扉が開かれ、車内から御魂雲の無表情が出迎える。
「渋滞で予定より遅くなった。近くの車がこれしかなかったが、料金の心配は……どうした?」
「……、……いや……」
異は逡巡し、しかし何も言わず。
小さく首を振ると、緩慢な動きで車へと乗り込んだ。
運転手の御魂雲はそんな様子に首を傾げたが、今日一日の異の様子を思い出し、ただ疲れたのだろうと結論付けたようだった。
異が落としたコーヒー缶を他の身体から受け取りつつも、特に小言を言う事も無く。静かに車を発車させた。
異が立ち去れば、付近に潜む御魂雲の身体も三々五々に散っていく。
そうして誰も居なくなったその場所で――誰かの瞼が、下ろされた。
――あはぁ。