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異女子  作者: 変わり身
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【私】の話(中⑥)




例によって例のごとく、私はまたもあの夢に居た。


気付いた瞬間怒声を張り上げたけど、やっぱり身体は動かず声にもならず。

ただただ頭の中でキレ散らかす事しか出来なくて、苛立ちに気が狂いそうだった。


そうして見える夢の光景も最悪の一言だ。

あかねちゃんの歪んだ笑顔は輪をかけて酷い事になっていて、まるで整形どころか捏ねるのにすら失敗した粘土のよう。彼女の愛らしい顔立ちなんて、どこにも残っていなかった。


まぁ、完全にあかねちゃんの笑顔から離れた訳なので、ある意味では多少マシになったと言えなくもないけれど……その分純粋な不気味さが際立ち、怒りと悔しさに抑え込まれていた恐怖が、その鎌首をゆっくりともたげ始めていた。



(くそ……そうだよ、このクソ夢の事も、さっさと聞いとくべきだった……!)



バスと直接関係した出来事ではなかったから、インク瓶に相談するという選択肢がすぐに浮かんでこなかったのだ。


巻き戻る度に強制的に被害を受けるハメになるのだから、むしろ真っ先に話しておいても良かったのに。

徐々に大きくなっていく恐怖に煽られながら、私は心の中で歯噛みして――その最中、ふと気付く。



(……この夢、四回目だよな、見るの……)



その筈だ。記憶を振り返っても私の認識はそうだし、ループを重ねるごとに歪んでいくあかねちゃんの笑顔の段階も覚えている。四回目で間違いは無い、と思う。


……だが、それだと少し、おかしな事になるような。



(――私が寝てる間にしたループ分の夢、どうなったんだ?)



インク瓶の話では、私が居眠りしてる時にも二度ほどループが起こったらしい。

分裂失敗状態になった乗客が転がっていた以上、それは確かなのだろうが……私にはその二回分の夢の記憶が無かった。


おそらく三回目の夢の途中でそれらのループが挟まれたんだとは思うけど、夢が中断したり、はじめの方に巻き戻ったり、そういった出来事は起こっていなかった。私が目を覚ますまで、その夢を通しで見ていた筈なのだ。



(……いや、待てよ。バスの最初のループ、私たぶん寝たまま巻き戻ったんだよな? なら……そもそも最初に夢を見たのって、どのタイミングだったんだ……?)



バスのループが始まる前、寝付いてすぐの時か、それともループした後か。


……でも、このループが時間を巻き戻しているのなら、巻き戻った時点でこの夢を見ていたから、ループの度に今の状況になってるんじゃないのか?

じゃあやっぱりループが始まる前に夢を見てて、だからリスポーン時点でも夢見てて……ああいや、それも何かおかしい。一回ループしてから起きるまでに見てた夢が初めてだったんだから、ループしたんなら二回目の夢を見てなくちゃおかしくて……え? でも一回目の夢が、あれぇ……?



(あー、うー……だ、ダメだ。こんがらがる……!)



――ループ回数と夢を見た回数が合っていない。

そこまでは辛うじて分かるけど、そこからは私の脳みそじゃ無理そうだった。


とにかく、さっさと目を覚ましてインク瓶に丸投げしてしまおう。

私は早く目が覚めるよう強く念じながら、眼下のあかねちゃんモドキに意識を戻し、



(――?)



……口が、少しだけ開いていた。


端がこめかみに届くまで吊り上がり、人間の可動域を大きく超えて歪み切っても、変わらずぴったり結ばれていた真っ赤な唇。それにほんの僅かな隙間が生まれ、口内を覗かせている。

まぁここまで歪めばそうもなるだろ――最初はそう思って気にも留めなかったけど、私の常人離れした視力がその中身を捉えた時、一瞬だけ思考が止まった。



(……目ん玉……?)



唇の下に収められていたのは、人間の眼球だった。


それも一つや二つじゃない。大小様々な眼球が唇の隙間にぎっしりと並び、そこにある筈の歯や舌の姿は全く見えない。

そしてそれぞれの眼球がひとりでにぎょろぎょろ蠢いていて、それが作り物じゃない事が否応なしに伝わった。



(ああもう、今度は何なんだ……!)



これまで立て続けに意味不明な光景を見て来たせいか、多少は慣れが出てきたようだ。

焦りはあれど取り乱すまでには行かず、目前で起こる変化をただ睨みつけた。



(……っ)



少しずつ、少しずつ。あかねちゃんモドキの上唇が持ち上がる。


Uどころか、最早Oに近い形になるまで歪んだそれが下方から開いていくさまは、まるで瞼が開かれていくようだった。


そうして唇の開きが大きくなるにつれ、より多くの眼球が外気に晒され、蠢き――その奥に、真っ赤に輝く何かが見えた。


手前側にある眼球の群れで隠されていて、全体像は分からない。けれど眼球よりは大きなそれが、口腔の奥で赤く紅く揺れている――。







『 みられちゃ だめ 』








(――――)



何かを聞いた。

同時に、抱く恐怖が破裂する。



(何……何だこれ、ダメだ。分かる、これ、ダメだ……!!)



――見られたら、終わる。


何に? 何処から?

何ひとつとして理解しないまま確信し、身体も無いのに総毛立つ。


咄嗟に逃げ出そうとするけど、当然ながら今の私に出来る筈がない。

ただ心の中でイヤだイヤだと駄々を捏ねるしか出来なくて、恐怖ともどかしさに気が変になりそうだった。



(起きろっ! 目ぇ覚めろよっ! 早く! 早く!!)



必死にそう念じても、夢は変わらず続いていく。

現実での私が多少魘されたかもしれないが、その程度じゃ意味がない。


早く目覚めて、この夢を途切れさせなければいけない――糸に囚われる、その前に。



(何でぇ……! 早起きは得意だろ! 早く覚めろ! 起きろよぉ……!!)



更に大きく唇が捲れ、その中身が零れ落ちる。

ぽとり、ぽとりと幾つもの眼球が床に転がり、その全てが私に瞳を向けている。


そうして詰まる眼球の数が減る度に、唇の奥にある真っ赤な何かが顕となっていく。


――それは血の色をした、大きな単眼に見えた。



(あ――)



ぽとり。

最後の眼球が転がり、血色の眼を遮る全てが除かれた。


そして、その顔面いっぱいにまで開かれた口腔の奥から、それが、私を、見、









「――大丈夫かい」


「っ!?」



小さく肩を揺さぶられ、目が覚めた。

反射的に振り向けば、すぐ近くにはインク瓶。丸眼鏡の奥から、私に心配そうな目を向けている――。



「……はぁぁぁ……!」



……どうやら、彼が起こしてくれたらしい。

イヤな暴れ方をする息と鼓動を抑えつつ、ぐったりと顔を覆って細長く息を吐き出した。



「……やっぱり悪夢か。巻き戻る度にだとしたら気の毒に――」



と、その途中、インク瓶が息を吞んだ気配がした。

疑問に思い指の隙間から目を向けると、どうしてか彼は険しい顔をしてまた私を見つめている。


……何だよその顔。

悪夢の動揺が抜け切らず色々と過敏になっていた私は、それに圧されて身を捩り――その時、視界の隅を何かがふわりと擽った。


小さく薄く漂っていたそれは、白い靄のようだった。

私の動きで撹拌されたのか、空気の動きに合わせてくるくると流れ、やがて空に溶けるようにして散っていく。



(……バスで、靄……?)



窓か空調から入り込みでもしたのだろうか。

あまり見ない光景に軽く気を取られたが、すぐにインク瓶へと目を戻し……しかしその視線が靄が消えた場所を追っているのを見て、力が抜けた。

どうも、さっきの顔は靄に対する驚きか何かだったみたいだ。紛らわしい。


……だけど、そのおかげで幾らか気も紛れた。

少しずつ鎮まりゆく心の内に浸りつつ――短い息をひとつ吐き、顔を上げた。



「――夢」


「……え? あ、ああ、何だい」


「変な夢、見るんだ。さっきあんたが言った通り、このバスが巻き戻る度に同じ夢をずっと見てる。最初はただの悪夢だと思ってて、でも、なんか違う……っていうか、ええと、おかしなとこあるって、気付いて――」



夢の中で決めた通り、そこでの出来事を片っ端からインク瓶に伝えていく。


私も考えをちゃんと整理出来ている訳ではないから、説明するにもたどたどしいものになってしまうけれど、今はしっかり熟考している余裕はない。


だって次にバスが巻き戻ったら、きっとあの夢の続きを見てしまう。

それまでにバスをどうにかしなきゃいけなくて、もうインク瓶にツンケンしている場合じゃないんだ。



「…………」



そうして、何度もつっかえ何度も詰まり、どうにかこうにか夢の詳細を伝えると、彼はみるみるうちに眉間に深いシワを寄せ……やがてちらりと私の右隣を窺った。


それにつられて顔を向ければ、そこには座席端の仕切りに力なく寄りかかる黒髪の女性の姿があった。


血の気が無く、呼吸も荒く、随分と苦しそう。さっきと同じく静かに震えているのだと思っていたから、私はギョッとし助けに動き――しかしインク瓶に止められた。



「大方、いっぱいいいっぱいになっての貧血か失神だろう。例のチェックがある以上、横たえさせるのも不安が残る。暫くはあのままそっとしておいてあげた方がいい」


「で、でもさ……」


「それに……正直、人の耳が無い方がありがたくはあるんだ。個人情報になるからね」


「は?」



個人情報? 誰の?

首を傾げてインク瓶に向き直れば、彼はどうしてか片手を右の袖口の中に入れ、



「――君は今、『異常』に目をかけられている状態だ」



唐突に、そう告げられた。

エンジン音の響く車内に沈黙が下り、私の首が更に傾く。



「え、っと……?」


「今は時間が無いから多くは省くが……君の血統は少々特殊なものなんだ。普通の人には無い性質を持っている」


「……はい?」


「いわゆる、君には霊能力や超能力があるって事さ。僕らは前者の方で呼んでいる」


「……、…………、………………、」




インク瓶も焦っているらしく、早口でそう続けるけど……何だろう、言葉が上滑りしてあんまり耳に入らない。


霊能力に、超能力?

何バカな事言ってんだ――思わずそう鼻で笑いかけ、しかしそんな自分をねじ伏せた。

オカルトをくだらないと切り捨てる私は、昨日の夜に死んだのだ。



「……あー、ええとあの、とりあえずそれが本当だとして……何でそんなん、知ってんの……?」


「さっき少し触れたが、僕は君の親御さん――君の『親』に頼まれてこの街に来た。何も知らない自分の娘に、その血に関する説明と対処をしてやってくれとね。流石にこんな所で出くわすとは思っていなかったけれど」


「……だから、その『親』ってのが分かんないんだよ……」



生まれてこの方、私に『親』というものは存在しない。

そんな虚無に頼まれたとか言われても、到底信じる事は出来なかった。


するとインク瓶の方も溜息を吐き、意味不明とばかりに首を振る。



「……僕だって『何も知らない』が本当に何一つ把握していないって意味だとは思わなかったよ。まぁそれはいい、今は君の血に宿る霊能力の事だ」


「…………」


「手っ取り早く今作用している性質だけを言えば、君には『異常』を――君の言うところのオカルトという存在を、その身に誘引させる力がある」


「はぁ?」



思わず大きな声が出た。

右隣で黒髪の女性が身動ぎをしたのに気付き、慌てて口を塞いでおく。



「オバケを惹きつける体質、って言った方が分かりやすいかい? おそらくそれが強まった状態になっている。君がそこに居るだけで、君の言うオカルト達はそちらを向く。このバスもそうだ。乗り込んだ君が刺激となり、こうして動き出したのだと思う」


「……な、なんだよ、それ。このバス、このループしてんの、私のせいだって……?」


「決して君のせいではないが、きっかけとなったのは確かだろうね」


「――……」



そう強く断言され、二の句が継げなくなった。

だって、そんな事あるもんかと言い張るには、私は昨夜の間にオカルトと出遭い過ぎていたから。


「……あかねちゃん、知ったら大喜びじゃん」代わりに逃避気味に呟いたけど、当然笑えもしなかった。



「……これまでの君がそれに無自覚かつ無知で居られたのは、その血が、その霊能が目覚めていなかったからだろう。だが、どうしてか今になってそれが目覚め――そして、厄介なものも惹きつけた」


「……?」



その物言いには、それまでのものより力が籠っていた。

忌々しげに顔を歪め、虚空をじっとりと睨む。ちょうど、さっきの白い靄の消えたあたり。



「君が見たという悪夢。そこに出ていたという君の親友を模った何かは、おそらくバスとは別口のものだ。もっとタチの悪いものに、君は目を付けられつつあるらしい」


「……え」



あの夢とこのバスのオカルトが別のもの?

その可能性は考えておらず、また呆けた。



「見た夢の回数とループの回数が一致してないんだろう? つまり違うものが別々にやらかしているって事だ。しかも夢の方は時間の巻き戻りすら貫通している。その力の差は明確だろう」


「な、何だよそれ……じゃあどうすんだ、バスのやつ何とかしたって――」


「ちょっと待ってくれ――……よし、とりあえずこれを」


「えっ、わっ」



取り乱しかけた私を遮り、インク瓶は右の袖口に入れていた片手を引き抜くと、何かを差し出してきた。


反射的に受け取れば、それは私の掌に収まるくらいの小さな瓶だった。

中には真っ黒な液体が入っており、とろり、とろり、と揺らめいている。



「……や、何これ」


「僕のインクだ。おまじないのようなものだと思って、肌に一滴ほど垂らしてくれ」


「え、えぇ……?」



そのよく分からない指示にまた不信の目を向けたけど、インク瓶に「早く」と急かされ、仕方なく小瓶の封を開けて左手の甲に傾ける。

意外と粘性の高い真っ黒なインクが、私の真っ白な肌の上に落ち――直後、まるで意思を持っているかのように蠢いた。



「――――」



悲鳴を上げる間もなかった。

そのインクはほんの一瞬だけ<遮>と文字を形作ったかと思うと、すぐに形を崩して細い線となり、掌側をぐるりと回って円を繋げた。


髪を結ぶ時、手にゴムをかけている時みたい――なんて言ってる場合ではなく。



「へ? え、はぁっ? な、何これ、いやマジで何これ……!?」


「おまじないのようなものって言ったろ。とりあえず例の夢からの目を遮るためのものだけど……どこまで通用するか。向こうがループを無視している以上、一度見失わせれば巻き戻されても暫くはどうにかなるとは思うが……」


「そうじゃなくて、いやそれもだけど、これ、うごうごって……!」


「聞きたい事は分かるよ。でも全部あと」



必死に言い募るが適当にいなされ、話の筋を強引に元に戻される。

……霊能力。じわじわと、その言葉の重みが増していく。



「とにかく、そのおまじないも完全に君を守れるとは言い切れない。次に巻き戻った時に夢を見ない保証は無いんだから、早く今の状態をどうにかするに越した事はないよ」


「……でも、分かんないんだろ、その方法」


「……君が眠っている間、僕の方で観察し尽くした感はある。これ以上何かを調べるとなると、バスのチェックに引っ掛かる事を覚悟しなきゃならないだろうね」



そう言って、インク瓶の視線が分裂失敗状態の乗客を向く。

現状唯一頼る事の出来る彼がアレと同じ姿になるのは、私もあんまり見たくなかった。



「だから、残る希望は君だけだ。君が情報もヒントも何一つ出せなかった場合、君は悪夢の先を視て、僕は頭が二つに、手足が四本ずつになる。精々必死こいて絞り出しなよ」


「何で自分が酷い目に遭う瀬戸際で上から目線になれるんだ……!」



せめて「頼むよ」の一言くらい言えや。

そうは思うが、そこで揉めてる時間も惜しい。舌打ち一つを残しつつ、インク瓶の言う通り必死こいて脳みそを回す――けれど。



(――浮かぶ訳ねーだろ!)



バスに乗ってから今までの事を振り返ってみたけど、状況の打開に繋がるものは浮かばなかった。


というかそもそも、私はバスの中では結構な時間眠ってたんだぞ。あの夢がバスのオカルトと関係なかったんなら、他に出せるものなんてなんも無いに決まってる。

だけどインク瓶に「まぁこうなるとは思っていたよ」と分裂失敗チャレンジされるのも癪だった。


何か、何か引っ掛かるものは無いか。

せめてもの悪足掻きとして車内をきょろきょろ見回すも、やはり何も見つからず。そうする内に窓の外をバス停が流れ、行先表示機が東稲つかさ通り前へと切り替わる。


――それから間もなく、またも視界が二つにぶれた。



「う……」



インク瓶曰く、違反のチェック。

今回は一瞬で終わったが、どれだけ繰り返しても慣れは来ない。眩暈のような感覚に、私は一度目を閉じ頭を振って、



(……いや、待てよ)



その感覚に、思い出す。

……そういえば、私とインク瓶が初めて言葉を交わした時、少しだけおかしなものが無かったか。



「…………」



私の意識が落ちる間際、バスが巻き戻る寸前……だっただろうか。


さっきと同じく視界が二つにぶれていた最中、どこかで僅かな違和感を見た気がする。

あの時は疑問に思う間もなかったけれど、今考えると何かが引っ掛かっている、ような。



「……何か思い当たったかい?」



すると私の表情の変化に気が付いたのか、インク瓶がこちらを見る。

左側の眉だけを小さく上げた、少しの期待が混じった怪訝顔――。


……左側?



「――あっ」



違和感の正体に気が付いた。


そうだ。あの時視界が左右二つに分かれ、また一つに戻る直前――左側の彼だけしか、インク瓶だと名乗っていなかった。


右側に視えた彼は確かに左側と同じ表情をしていたけど、その口は閉じたまま、静止画のようにピクリともしていなかった……と思う。

短い間の事だったから断言はし難いものの、たぶんそう。


それが何になるのかは分からないし、この目ざとい丸眼鏡の事だから既に知っている情報だとも思うけど……きっと私の脳からはこれ以上の事は出て来ない。

夢の説明以上にたどたどしくインク瓶に伝えれば、予想と違い鋭い目つきになって、また革手帳を開きぶつぶつと何事かを呟き始めた。



「ええと、何か参考になったん? 正直、もう分かってる事かなって思ったんだけど……」


「……初耳だよ。僕は見ての通り目が悪いんだ。霊視能力に関してもおそらく君の半分以下。じっくり観察するならともかく、一瞬の変化や異常に気付けない事はそれなりにある」


「…………」



霊視だの半分以下だの色々聞きたい事はあったけど、手帳に忙しなく視線を滑らせるインク瓶の表情に鬼気迫るものが見え始め、やめた。


そうしてふと外を見れば、一連の出来事で既に見慣れた景色に入っていた

東稲つかさ通り前のバス停に続く道。このまま信号に引っ掛からなければ、おそらくもう数分もしない内に通り過ぎる事だろう。


……そしてその少し後に、きっとまた巻き戻る。



「……ぅ、……」



そっと、さっきインク瓶にされたおまじない――左手に巻かれた黒インクの線へと目を落とす。


本当に、こんなものに効果があるのだろうか。

もし効果なんて無く、変わらずにまたあの夢を見てしまったら……私はどうなる?


逃げられなくて。どうにも出来なくて。

あかねちゃんモドキに、その中に居る血の色をした単眼に見つかってしまったら、今度こそ――。



「――今、どの辺りだ?」



イヤな想像に呑まれそうになったその時、インク瓶が顔を上げた。

そして行先表示機を睨んだかと思うと、すぐに窓の外を……バス停が近付きつつある景色を見て、焦ったように舌打ちをする。



「……どうしたの」


「ひとつ、思いついた事がある。だけど時間というか距離的に、それを行える余裕がない。巻き戻りを挟めばそんな事もないんだが……」



そう言って私を見る。

いや、正確にはさっき私に刻んだおまじないだ。どうやら、今私がしていたイヤな想像を懸念しているようだった。


…………。



「……それ余裕がないだけ? やろうと思えば今やれる?」


「……一応、まだ間に合うかもしれない。だが強引に行う事になるから、失敗した時は間違いなくチェックに引っ掛かる――」


「じゃあ一人でやるから教えて。次があるか分かんないんだろ、私」


「…………」



現状、私が次のループ時に無事でいられる確証はない。

もしかしたらあの血の色をした単眼によって、分裂失敗状態よりも更にイヤな状態にされている可能性だって十分にあるのだ。


ならば無事である今の内に、出来る事は全部やっておきたい――そう伝えれば、インク瓶は少しだけ迷った様子を見せ、しかしすぐに頷いた。



「……分かった。だがやるなら本当にもう時間が無い。あの最後のバス停を過ぎたらアウトだ。だから君が行う事だけを言っておく――」




――視界が二つにぶれたら、一つに戻る前に降車ボタンを押してくれ。


インク瓶がそう口にした瞬間、けたたましい騒音がエンジン音を搔き消した。




「なっ……!?」



それは、いつの間にかインク瓶の手に握られていたスマホから流れていた。


適当な音楽を最大音量で流しているらしく、音割れすらも伴い車内を反響し――更に何を血迷ったのか、彼はそのスマホを思い切り向かいの窓に投げつけた。

腕力が無かったのか割れはしなかったが、ガラスがたわみ、また騒音が鳴る。



「はぁ!? いきなり何して――」


「いいから集中するんだ! すぐにぶれるぞ!」



いきなりの事に思わず怒鳴ったが、返った言葉に意図を悟った。

インク瓶は自ら車内で暴れる事で、視界のぶれを――バスのチェックを誘発させようとしているのだ。自分が分裂失敗状態になるのも厭わずに。



(ああ、もう……!)



私一人でやるという言葉を無視された形になるが、その段取り調整する暇も無いのだろう。

歯噛みしながらも背後を向き、車窓横に取り付けられた降車ボタンに集中する。


インク瓶が何をしたいのかさっぱり分からないけど、彼自身が身体を張ったのは確かだ。

ならば、私はそれに応えなければ――と、



「っ、来た――」



視界が左右に分かれ、二つにぶれる。バスのチェックが始まった。


誰もが動けぬ一瞬だ。けれど、私の身体能力であればよく動く。

限界まで意識を引き延ばし、片手を勢いよく降車ボタンに突き出した。


やはり左の視界の腕だけが動き、右側は微動だにしない。

そうして二つの視界が戻り始める中、左側の腕が降車ボタンに伸びていく、けれど、



(――っやば、ズレ――)



二つにぶれた視界では、想像以上に目測が難しかった。

突き出した腕が僅かに逸れ、ボタンを掠めて強烈に窓を叩き――チェックに引っ掛かったのが、分かった。



「あ――」



二つの視界が一つに戻る。

窓が、座席が、ボタンが、私が。全て元通りに重なり始めた。


いや、私は元に戻れない。『間違い』の私は、ズレたまま重なってしまう。


肉が増え、肌が引き攣る。

骨が接ぎ、臓器が膨らむ。


痛みは無い。

ただ痒みにも似た強烈な感覚が身体中を搔き毟り、意識が泡立ち思考が濁り――。



「――ん、があぁああああああ!!」



まともに物が考えられなくなっていく中、私は思いっ切り足を跳ねさせ、全身で降車ボタンにぶつかった。


いわゆるタックル。或いは単に体当たり。

とはいえ私の全力である以上その衝撃は凄まじく、周囲の窓枠は軋み、ガラスにはクモの巣状のヒビが刻まれた。



(ど、うだぁ!? ごぉれ、間に゛、合っ……!?)



これなら、確実にボタンは押せた筈。


だが何も変わらない。

視界が、物も肉も臓器も脳も意識も全部全部が繋がって。


世界がとろけ、脳が混ざる。引き延ばされた時間の中、全てが一つに重なり合い、そして、



「……っ」



――そうなる間際、それが止まった。


視界が完全に重なり切るまで、残り数センチ。

二つのぶれは収まり切らずそのままに、ただ留まって――やがて、再び大きく離れ始めた。



(……ぁ、え……?)



今度は左右ではなく、前と後ろに。


左側の視界が速度を落として後ろに下がり、右側だけがそのまま前へと進み。二つの視界が離れていく。

それだけじゃない。一つに重なりかけていた私の身体も、前後二つに引き剝がされていく――。



「……左側が僕達で、右側が『それ』なんだ」



隣から、どこか朦朧としたインク瓶の声が聞こえた。



「『それ』は基本的にバスと、僕達と一つに重なっている。そしてチェックの時に一度分かれ、離れる。僕達は左、『それ』は右。だからその瞬間だけ、右側の僕達は動かなくなる、中身が入っていないから……」



ぶち、ぶちり。

重なりかけていた二つの身体が完全に引き剥がされ、分かたれた。


痛みも抵抗も全く感じず、濁った意識が透き通る。

でも完全に何もないって訳じゃなく、張り付けられたシールやガムを剝がされたかのような、そんなベタついた感覚が身体の内にも外にもこびり付いていた。……ものすごく、気持ち悪い。



「そして、チェックをするほどルールに厳しくあるのなら……『それ』自身もそうなんだろうと踏んだ。一つに重なるっていうのは、そういう事だから」



左側のバスは急ブレーキ気味に停車し、扉が開く。

東稲つかさ通り前のバス停――少し過ぎてはいたけど、通り過ぎはしなかった。



「なら、重なっていない時に降車ボタンを押されたら、『それ』はどうする? 君にボタンを押された左側では乗客を降ろすためにバス停に停車し、君が押さなかった右側ではそのまま無人のバス停を通過するんだ。これまで通りに」



一方、右側のバスはこれまでのループと同じく、無人のバス停を一応の減速をしつつも通り過ぎ――しかし、つっかえたように途中で止まり、車内が大きく震え始めた。


……バスの前方/後方から、肉が千切れていくような音が、聞こえる。



「そうなると右側の『それ』は大変だ。たとえチェックで左側に『間違い』を見つけても、もう重なれない。バス停に停まる左側に追随する理由もないんだから、普通にアクセルを踏み続けなければいけない――」



ギチ、ギチ。

ミチ、ミチ。

ブチ、ブチリ――。



「――まぁ、破綻するよね」



――ブチン。


左の前方、右の後方。

一際大きな音が二つのバスに響き渡り、右の視界が掻き消えた。







「――……あぁ、あら? 寝ちゃってたわ……」



停車したバスの中。

窓際の座席で居眠りをしていたお婆さんが、大きなあくびを一つ漏らした。



「今どこ……あらやだ、過ぎちゃってる」



お婆さんは行先表示器を確認すると、慌てた様子で席を立つ。

寝ぼけているのか、それとも自分と同じく居眠りをしていると思っているのか。周りの席に転がる他の乗客には目もくれず、バスの降り口へと向かった。



「はい、降りますからねぇ……えっと、小銭が……ごめんなさいねぇ、寝過ごしちゃってて……」



そうして財布から整理券と乗車賃を探す間の繋ぎとして、運転手へと喋りかけた。


相手が何も反応を返さないにも関わらず、お婆さんはにこやかだ。

背もたれに身体を預け、白目を剥いたまま動かない運転手をまるで気にせず、笑って続ける。



「それがねぇ、このバスで事故起こる夢見ちゃったのよぉ。いきなりキーって停まってねぇ、わたし、椅子からぽーんって飛んじゃって。夢なのに痛くって痛くって、もう大変で大変で――……」


「…………はぁ」



――そんな様子をバス停横の縁石に腰掛け眺めつつ、私は小さく溜息を吐いた。


あの居眠り婆さん、あんな状況でよく最後まで何も気付かずにいられたよな。

まぁそれはそれで良かったんだろうけど、色々と大変だったこっちとしては呆れるやら感心するやら。


そうして未だ一人で話し続けるお婆さんから意識を外し……ゆっくりと、バスの前方に目を向ける。



「――……」



そこには、真っ黒な粘液が引きずられ、道の先へと延びていた。


轍と呼ぶには穢れ過ぎ、舗装汚れと呼ぶには端然とし過ぎている

まるで、バスから引き千切られた『何か』が、体液を撒き散らしながらそのまま進んでいってしまった跡のよう。


……これはきっと、少し先の古墳トンネルまで続いているのだろう。

視ているだけで怖気の走る不気味極まりないその光景に、私はもう一度深い深い溜息を吐き出した。





――結果から言えば、私達はこの奇妙なバスからの脱出に成功していた。


死者も無く、怪我人も無く。

全員無事にループから脱出し、こうしてバスの外にも降りられている。


……正直、赤Yのような分裂失敗状態になったヤツが出ていながら無傷って言うのもどうかと思うけど、彼らも私と同じく元の一つの身体に戻っており、気絶はしているものの死んではいなかったのだ。

運転手も似たような状態になっていて、精神的にはどうか知らんが少なくとも全員無傷であるのは確かではあった。


例の悪夢の方はまだ解決出来ていないけれど、とりあえずは一難去ったと言ったところだろうか。

座っているのは硬い縁石の上なのに、バスの座席より座り心地がいい気がした。



「――すまない、待たせたね」



そうして疲労と安堵でげっそりとしていると、東稲つかさ通りの先からインク瓶が戻って来ていた。


つい先ほどまで「電話してくる」と言って離れたきりだったのだが、終わったらしい。

さっきの直後でよく普通に動けるなコイツ……。



「今、君の親御さんに連絡した。迎えに来てくれるって事だけど……ついて来てくれるとありがたいな」


「……いや、警察とか救急じゃなかったのかよ、電話」


「今回のような件はこっちで良いのさ。バスも乗客達も、悪くならないよう後処理してくれるそうだよ」


「…………その、私の『親』ってのが?」


「ああ、君の『親』が」



インク瓶はそう頷くと、「それに……」と目を細める。



「君の悪夢の件については、まだどうにも出来ていないからね。ついでに君と君の『親』との間にある様々な齟齬も気になるし、一度全員交えて話しておきたい」


「…………」



……ハッキリ言って、胡散臭いにも程がある。


頑なに本名言わないし、親がどうのこうのと言いつつ警察を呼ぶのを避けるとか、女児誘拐を目論む不審者のそれだ。

あの悪夢の事は不安だけど、このままついて行ったら、それはそれで変なとこ連れて行かれるんじゃないかという疑念は拭い切れない。

……でも、



(……悪いヤツじゃ、ないんだよな)



こっそりと、左手のおまじないに目を落とす。


このバスの中で、コイツは私を助けてくれた。

態度こそイヤミなものだったが、私の質問にも出来る範囲で答え、最後には身体だって張っていた。


だから、まぁ……少しくらいは信じてやる気になっていなくもない。みたいな。

そうやって暫く悩んだフリで、また溜息。



「……分かったよ。夢の事もそうだけど、『親』とかあんたの事とか、私も聞きたい事かなりあるし、今は……ついてってやる」


「よかった。不審者の手口に近いから、君の方で通報されるかなと思っていたよ」



自覚しとんのかい。

ともかく、歩き出したインク瓶をふらふらの膝を引きずり追いかける。



「…………」



……最後に。まだあのバスの中で横になっているだろう黒髪の女性が気がかりだったけど、今の私に出来る事は無い。

少しの間だけバスを眺め、それきりその場を後にした。






「…………」


「…………」



道中は静かなものだった。


疲労困憊状態という事もあり、質問も雑談も何もなくただ黙々と歩くだけ。

何とも気まずい沈黙が続き、吸い込む酸素もなんか重たい気がしてしまう。



「……聞きたい事、あるんじゃなかったのかい」



すると、インク瓶の方から話を振ってきた。

顔を上げれば、こちらを案じるような視線と目が合った。



「君、さっきそう言っていただろ。だから僕から何か言うのを控えてるんだが」



どうやらコイツもコイツで気を遣っていたらしい。

その一言でなんとなく気が抜け、小さく笑った。



「まぁ、後でいいよ。今ヘトヘトで頭に入んねーってのもあるけど……聞きたいの、あんただけにじゃないし」


「親御さんが来たら一緒に聞くって?」


「……そんな感じに、なったらいいよな」



少し俯き呟いて、口を閉じる。

インク瓶もそれ以上何を問いかけてくる事も無く、また沈黙が横たわった。

今度は、あんまり気まずくもなかったけれど。



「…………」



……何となく、察しているのだ。


さっきのインク瓶との会話の中で、バスや乗客の後処理をしてくれると聞いた時。

彼の言う『親』とは何なのか、ぼんやりとだけど分かってしまった。


だって、この街でそんな事をしているヤツなんて、私にはアレらしか思い浮かばなかったから。



「……ああ、居た」


「!」



インク瓶の足が止まる。


その向こうには一軒のコンビニがあり、駐車場には幾台かの乗用車が停まっていた。

……そして、そのうちの一台の傍に、一人の男性が立っている。


――その顔に浮かぶのは、感情の見えない無表情。



「……何が『親』だよ。全然違うだろ」



私の独り言に、インク瓶はどうしてか困ったように唸るけれど、気にしている余裕はなかった。


肩が震える。息が詰まる。

腹の底が重くなって、ともすれば背中を向けて逃げ出しそうになってしまう。


しかし、必死に歯を食いしばってそこに立ち、その冷たい視線を真正面から受け止める。



――『うちの人』。

今一番遭いたくて、一番見たくなかった顔が、そこに居た。



黒髪の女性:朦朧とした意識の中、「知ったら大喜びじゃん」という一言がやけに大きく聞こえていた。


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