【私】の話(中⑤)
*
――夢を、見た。
(…………)
白く、淡く、音の無い世界。
見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。
私はその中央に――。
(――もう、いいって)
少しだけ強くそう思えば、意識を包み込んでいた多幸感が綺麗さっぱり抜け落ちた。
代わりにうんざりとした気持ちが沸き上がり、心の中で溜息を吐く。
……またこの夢だ。
最初こそ浸れていたこの夢も、こう何度も見せられる内それも難しくなってくる。
何より私は、この先が悪夢に繋がる事を既に知っている。
ゆっくりと下方に意識を向ければ、そこにはやはり、歪な笑顔を浮かべるあかねちゃんの姿があった。
目を背けようとしても私の身体は指一本すら動かず、どうしようもない。
というか、今の私に肉体があるのかどうか。結果としてその笑顔から逃げる事も出来ず、強制的にイヤな気分にさせられる。
(……くそ、やっぱさっきより笑い方ヤバくなってる)
そうしてあかねちゃんを見続けている内、完全にそう確信した。
彼女の浮かべる歪な笑顔。
この夢を見る度、その歪み方がどんどん酷いものになっているのだ。
一つ前の夢の時も大概酷かったけど、今回のそれはその比じゃない。
唇はもうアルファベットのUのようにひん曲がり、皮膚が捩じ切れていないのが不思議なくらいだ。
(いい加減にしろよ……!)
心の底から気分が悪い。
怖さも悲しみも通り越し、悔しさだけが胸を灼く。
前にこの夢は私の深層心理が云々と難しい事を考えたけど、全く違うと断言する。
だってあかねちゃんがこんな風になるような夢、この私が見る訳無いんだ。
だからこの光景もオカルトの一部。そいつがあかねちゃんの姿を使って、何かをしてる――。
……根拠も何も無い妄想。けれど私は、そう決めつけて。
それから夢が終わるまでの間、私はあかねちゃんの姿をした『何か』を、ずっとずっと睨み続けていた。
「……う……」
最悪に近い目覚め方だった。
夢の中の感情を引きずったのか、意識はぼんやりしているクセに、頭の芯の所が熱を持ってて気持ち悪い。
深呼吸する内に多少はマシになったけど、何かイヤな痛みが脳みその中に残っている。眠りに失敗するってこういう事を言うんだろうなと、ぐったり思った。
「――随分と、夢見が悪かったみたいだね」
「っ!?」
そのまま細長く呻いていると、横合いからいきなり声をかけられ肩が跳ねた。
そして思わず叫びを上げ――そうになった口を慌てて塞いで振り向けば、少し離れた左隣に一人の男性が腰掛けていた。
骨董品のようなゴツイ丸眼鏡をかけた、神経質そうな青年――本人曰く、【インク瓶】。
開かれたワインレッドの革手帳へと落とされていた彼の目が、じろりと私に向けられた。
「……助かったよ、悲鳴を我慢してくれて。もし騒がれたら、僕か君のどっちかが引っ掛かったかもしれないからね」
「……何で居んだよ。てか、引っ掛かるって何に」
「マナーとか、ルールとか。おそらくは、そういったもの」
「……意味分かんない……」
霧がかった頭じゃまだ上手く咀嚼できない。
私は頭の痛みを溜息として吐き出しながら、インク瓶から出来る限りの距離を取り……はたと、バスの中がイヤに静まり返っている事に気が付いた。
「…………」
呼気が揺れる。
……私の記憶が正しければ、さっき車内で一騒動起こっていた筈だ。
異常な姿となった赤Yを見て錯乱した乗客が運転席に押し入り、無理矢理バスを停止させたのだ。
車体が大きく揺さぶられ、乗客もそれに振り回されて傷付いて。幸い大きな事故にはなってなかったと思うけど、あれから運行する事は不可能だったように思う
だが現実として、バスは正常に運行されているようだった。
私は普通に座席についてて、乗客が暴れてるなんて事も無く、運転手も普通に運転中で、対面の居眠り婆さんだってまだ寝てる。
静まり返った空気の中、ただエンジン音だけが喧しく響き続けている――。
(……なん、なんだ……)
やっぱり時間が巻き戻ってる?
赤Yは、他の人は今どうなってる?
つーか運転手は何で反応しないんだ……?
「……、……」
どう……すればいい?
何から疑問に思えばいいか迷い、どれも確かめるのに躊躇する。
とてもイヤな空気だ。
大きなフードで窄められた視界。向かいの居眠り婆さんだけを映すそれを、私は下手に動かせず――そうする内、右肩に人の気配が触れた。
黒髪の女性だ。左隣のインク瓶から距離を取れば、当然右隣の彼女には近づいている。
……ちょっとだけ、気が緩んだ。
「……っ……ぅ……」
けれど、女性はそうでもなかったようだ。
ゆっくりとそちらに顔を傾ければ、目に入った顔色は青褪めるというより真っ白で、その表情も何かに怯えるように強張って。
そしてじっと俯いたまま微動だにせず、肩の触れた私に見向きさえしない。
そっとこめかみに目をやれば、さっきの一騒動で負っていた切傷が、綺麗さっぱり消えている――。
「――君、御魂雲の娘さんで合ってるよね?」
「!」
気味の悪い空気を切り裂いて、インク瓶から私の名前が飛び出した。
息を呑み、反射的に振り返る
「……何で知ってんだ? 教えてないよな、私」
そう、私はまだコイツに名前を教えていない。
だって先程コイツがインク瓶と名乗った直後に、私の意識はまた落ちたのだ。
当然自己紹介なんてする暇も無く、他に名前を知る機会も無い。
状況が状況な事もあってか、警戒心が加速度的に膨れていく。
「もう一回聞くけどさ、あんた誰なんだよ。何で私に構うんだ。さっきの名乗りじゃ何も分かんねーよ」
「……親御さんから聞いてないのかい?」
「はぁ? 誰だよオヤゴって」
私が訝しげな顔を向ければ、インク瓶もまた私と同じ顔をする
そのまま少しの間見合わせて、やがて気を取り直すように丸眼鏡の位置が直された。
「……こっちの事情については長くなるからまた後にして、とりあえず不審者の類じゃないとだけ理解して欲しい。今はまず、この場をどうにかするのが先だろう」
「どうにか、って……」
インク瓶は抑えた声でそう言って、また革手帳に目を落とす。
正直言って怪しさ満載のまま変わりはないが、この状況が異常なのは私も分かっているので、口をつきかけた文句はひとまず引っ込めておく。
……ちらっと見えた手帳の文字が蠢いたように見間違え、驚いたのもあったけど。
「分かっているとは思うが、今現在このバスは少しおかしな事になっている。さっき君が呟いていたように、時間が繰り返されているようだ」
「……よくクソ真面目に断言出来るな、そんなバカみたいなオカルト」
「そうならざるを得ないんだ。君だってそうだろ?」
「…………」
その言葉の裏に複数の意味が見えた気がして、黙り込む。
……コイツも、オカルトが視える人なのか?
「どんなにバカらしい答えでも、それが視えたならちゃんと視つめていなきゃ酷い事になる。笑ってる内に取り返しがつかなくなって、何一つ気付けないままお終いだ」
「……んなの、言われなくても」
「それに、そういったものの中には、一見荒唐無稽に見えて手順や法則がしっかりしているものもある。このバスもそういうタイプのようだ」
口籠る私をスルーして、こっちに手元の手帳を開いて見せる。
そこにはこのバスに関しての気付きが分かりやすく纏められていて、彼の名乗ったオカルトライターの肩書が少しだけ真実味を増した。
「ループの始まりは、少し前の裁判所前あたり。終わりの方はまだ判断できないが、一度目の時は東稲つかさ通り前のバス停を過ぎて……古墳下のトンネルに入った直後に裁判所前の時点に巻き戻っていたから、僕らが何もしない場合はそこで巻き戻るのかもしれない」
「……何もしなければ?」
どことなく引っ掛かる物言いに問い返すと、インク瓶は手帳の一点を指差した。
『雑談○』、『大声×』『通話△?』『席移動○』『運転手への声かけ○、しかし過干渉×』――何だこの一覧。
「どうもこのバスは規則に中々厳しいようでね、そのチェックらしきものが行われている節がある。乗客が何かしらのルール違反をすると、その時点で最初まで巻き戻るんだよ。ループというより、やり直しの再試験をしているような雰囲気がある」
「……まだ大して繰り返してないだろ。なのにそんな詳しく分かるもんなのかよ」
「……ああそうか、気付きようが無かったね。僕が君に名乗った後、君が眠っている間にこのバスはもう二度ほど巻き戻されている」
「は?」
思ってもみなかった言葉に目を丸くする。
「一度巻き戻った直後。恐怖と混乱に駆られた乗客の一人が騒ぎ、窓を壊して走行中のバスから強引に降りようとしたんだ。しかしその途中で、また最初の時点に巻き戻った」
「……私は、ずっと起きらんなかったまま?」
「ああ。そして次に、今度はまた別の乗客が降車ボタンを押して、普通に降りようと試みた。バスは次のバス停で問題なく停車し、その人は真っ当に脱出した訳だけど――すぐにまた巻き戻り、降りた筈のその人も車内に……まぁ、戻っていたと言って良いかな。厳しいことに、途中下車も許してくれないようだね」
「……降りた人……」
その話を聞いた時、無理矢理バスを停めた錯乱乗客の事が頭に浮かび、自然とそいつが居た筈の座席に目をやった。
バスの扉を壊して凄い勢いで走り去って行ったのに、あいつも戻ったのだろうか――そう、少し気になっただけだった、んだけれ、ど、
「――あぇ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
……錯乱乗客は、前にインク瓶が座っていた場所の近くの座席についていた。
いや、ついていたというより、置かれていたというのが正しいのかもしれない。
――その姿が赤Yと同じ、分裂に失敗したような奇妙な状態になっていた。
「……――」
頭が二つ、手足がそれぞれ四つずつ。時折無意味に呻き、小刻みに痙攣している。
いや、それは錯乱乗客だけじゃない。もう二人ほど、同様の状態になった乗客が増えていた。
座席の背や乗客に遮られていたり、分裂部分が身体の影になっていたりで分かり難かったけれど……よくよく観察するとそうなっている。
……無事な乗客は、運転手を除けば、私、インク瓶、黒髪の女性、居眠り婆さんの四人だけ。
赤Yの時には呑み込めなかった現実感と恐怖心が、ゆっくりと臓腑に落ちてゆく。
「……バスを無理矢理停車させた人は分かると思うけど、残り二人はさっきの話の中で窓を壊そうとした人と、降車ボタンで下車した人だ。暴れるのは勿論、降りてもアウトと見做され、ああなるようだね。巻き戻りを経た後にはもう彼らは今の状態になっていて、何度か巻き戻った今も見ての通り元に戻れてはいない。赤シャツの彼も含めてね」
「え……は……な、何で……?」
「これまでに幾度もあった視界のぶれ――いや、実際に空間が分裂しているのかもしれないが、おそらくそれがチェックの……間違い探しの時間なんじゃないかな。その際『間違い』として見咎められてしまうと、二つのぶれから元の一つに戻る時、間違ったまま重なってああなってしまう。そんな説を唱えてみるよ」
「――……」
つらつらと並べ立てられる情報に呆気にとられ、間抜け面を晒してしまう。
……いや、ほんと何なんだよコイツ。
それが合ってるか合ってないかはともかく、何でそこまで細かく観察し、考えられる。何で恐怖も混乱もせず、平気な顔して語れるんだ。
幾らオカルトライターだとしても、流石に順応し過ぎだろ。感心とか頼りになるとか、そう思うよりも先にちょっと引いた。
「……で、君はどう思う」
「……、え?」
そう思う中、いきなり話を振られ、反応するのに間が開いた。
「現状についての推測は大体話した訳だけど、君の方から何か聞きたい事や、気付いた事は無いかな」
「い、いや……何で私に言うんだよ。意味なくねー……?」
一人でこれだけ現状の推測が出来ているのなら、私みたいなバカの意見なんてノイズにしかならないだろ――。
そう思っての返事だったけど、インク瓶はやれやれといった様子で首を振る。
「ふん……今の時点でどうにか出来るのなら、君がぐっすり寝こけている間にさっさと解決しているさ。だけどそれがまだ出来そうにないから、こうして相談しているんじゃないか」
「イヤミに頼りねーこと言うなし……」
どこか落ち着きつつあった心中が、また荒れ気味になるのを感じた。
もしかしたら無意識の内に、この変な丸眼鏡へと寄りかかりかけていたのかもしれない。
何となくそんな自分にさぶいぼを立てていると、インク瓶はどこか難しい顔をして、
「それに……現状においては、君の影響はかなり大きいと見ている。気付きでも、疑問でも、君の言葉は聞いておきたい」
「……影響?」
引っ掛かる物言いに疑問の目を向けたが、インク瓶はそれきりむっつり黙り込み、私を見る目を僅かに細める。
こんな状況になる前、遠くからじろじろ見られていた時の目だ。それに圧されてって訳じゃないけど、ひとまずは彼の言葉に従って、さっきから気になっていた事を問いかけた。
「……じゃあ、あの、運転手は何やってんの……? こんな状況なってんのに、何か、あんまりにも普通っていうか……」
ちらと運転席を見るが、私の位置からでは前方座席と仕切りに遮られ、運転手の姿がよく見えない。
……こんな事になっても普通に運転しているというのは、やっぱり不自然に過ぎる。
いや、向こうの様子もそうだが、インク瓶がそっちに行かないのも気にかかる。この状況を何とかしたいなら、明らかに私よりも重要な筈だろう。
私が寝ている間に何かしらやり取りをしたのかもしれないが……もしそうなら、そこの説明も欲しいところだった。
そう伝えると、インク瓶は眉間に深いシワを作り、溜息を吐いた。
「……ああ……まぁ、そうだね……実際に視た方が早いんじゃないかな。一応、口は塞いでおきなよ」
「は? 何でそんな――」
と、そこまで言った時、ちょうど赤信号でバスが停まり――それを見計らったように、彼は「すみません」と運転席へと声をかけた。
大きくも小さくもない、静かな声音。しかしそれは、静まり返った車内によく通り――。
「――はい、何です?」
「っ……」
――そうして、座席から身を乗り出して振り返った運転手の姿を視た時。
私は言いつけ通り手で口を塞いでいた事に感謝した。
「いえ、このバスに両替機があるかどうかお聞きしたくて……」
「ああ、ありますよ。ただまぁ旧型ですんで、新しい五百円玉とかはちょっと――」
そう語る運転手の輪郭は常にぶれ、そして幾重にも重なっていた。
赤Yや錯乱乗客達のような、分裂に失敗した状態じゃない。
何人も何人も何人も何人も、無数の運転手の身体が同時に一つ所に存在し、それぞれが少しの時間差をつけて同じ動きを取っている。
……一見すると単なる残像のようにも視える。
しかし目や口といった顔のパーツも同様に幾つも重なっていて、運転手の顔面は無数の目鼻口で埋め尽くされた酷く不気味なものに変わり果てていた。
視覚的にも感覚的にも直視出来たものではなく、私は吐き気を堪えて深くフードを引き下げる。
「……分かったろ、色々と」
信号が青になると同時、インク瓶は運転手との会話を手早く切り上げ、息を整えている私に気遣わしげな目を向けた。
「明らかにまともな状態じゃない。クレームをつけただけの赤シャツの彼がどうなったかを考えると、本当に手詰まりになるまでは放置しておきたいのが本音だ。勿論、向こうが何もしてこない限りは」
「あ、あれ……いつから、あんな……?」
「さぁ。少なくとも君が乗り込んだ時には普通だったんだろう? なら……その後の事ではあるんじゃないかな」
その含むような言葉と共に、向けられる目が僅かに細まる。
……まただ。また、この観察されているような目。
さっきの影響がどうのこうのという言葉も合わせ、まるで今の状況は私に原因があるとでも言われているように感じてしまう。
心当たりなんて、無い。
「……なぁ、さっきから何なんだよ」
いい加減に焦れて、ささくれ立った心のままインク瓶を睨んだ。
「ずっとっこっち見て来たってのもそうだけど、その目、何か観察っていうか……探ってる、よな。何かあんの、私に」
「…………」
「……無視は、嫌い」
しかし彼は何も答えないまま、静かに視線を彷徨わせた。
その主な行先は私ではなく、隣の黒髪の女性に向かっている。彼女を気にして、何かを躊躇しているようにも見えた。
そのまましばらく無言の時が過ぎ――やがて、東稲つかさ通り前のバス停が、窓の外を過ぎ去ってゆく。
「……君は」
ぽつり。
インク瓶の口から零れるようにそれが漏れ、すぐまた沈黙。
そうして、喧しいエンジン音がその静寂を揺らす中、道路の先にトンネルが見えた。
小さな古墳の真下を潜るように通った、短めの古墳トンネル。初めにインク瓶が言っていた、ループの終点かもしれない場所。
……もう少しで、また巻き戻る。
「君は、自分の事について、どの程度把握しているのかな」
すると、インク瓶が小さな声でそう切り出した。
自分の事――それはきっと、汗臭いとかおなか減ってるとか、そういう事じゃないんだろう。私だってそれくらいは分かってる。
……かといって、何と答えればいいのかも分からない。
親の顔や、生まれに、この身体……私は私自身について、知らない事が多すぎるから。
「――――」
そうして答えあぐねている内に、バスはトンネルの中へと進む。
窓の外が一瞬で真っ暗になり――直後、私の意識も途絶えて消えた。
……暗転。