【私】の話(中④)
*
年季の入った見た目に反して、バスとしての乗り心地はそれなりに良いものだった。
車内に目だった汚れは見当たらず、座席のクッションもヘタってない。
壁を伝うエンジンの振動が多少激しくあったけど、苛立つ程でも無し。私はバスの窓際に敷かれた長座席の一角に腰掛け、ぼんやりとその振動に身を任せていた。
「…………」
正面向こうの窓から外を見れば、流れていくのは緑ばかり。
乗車してから結構な時間が経っているのに、未だビルの一つも見えてこない。次の停留所を確認しても街の中にはまだ遠く、思わずフードの奥であくびが漏れた。
(あー……くそ、すんごい眠い……)
昨夜から一睡もせず走り回っていた疲れがモロに出ている。
座席に座って一度気が緩んでしまった事もあり、ともすれば意識を持っていかれそうだ。
……まぁ、どうせ移動中は何も出来ない。
なら、これからのために少しでも眠っておいた方が良いんだろうけど――それもどうにも気が進まなかった。
こんな状況で寝こけているのも気が咎めるというのもある。でも、それとは別に、もうひとつ。
「…………」
(……見られてんだよなぁ)
私から見て、左方向。
バスの後部座席に座っている男性が、じっと私を見つめていた。
骨董品のようなゴツイ丸眼鏡がよく目立つ、なんだかやたらと神経質そうな雰囲気の青年だ。
このバスに乗り込む時に目が合ってから、ずっと彼の視線が離れてくれない。
私もジロジロ眺められるのには慣れちゃいるが、こうまで見られちゃ流石におちおち気も抜けなかった。
(寝てる間に変な事……みたいな雰囲気じゃないけど、ヤな感じだな。なんか)
どうも探られているというか、値踏みされているというか、そんな感じだ。
ねっとりとしたアレな視線や、『うちの人』が向けて来る冷たい視線よりはだいぶマシだけど、あんまり気分のいいもんではなかった。
(会った事とかも無い、よな? あんな眼鏡、一回見たら忘れないと思うし……)
フードを軽く引っ張り目線を隠しつつ、こっちからもこっそりと盗み見返してやる。
そうして改めて観察してみた感じ、二十台前半から半ばくらいだろうか。
あまり身長は高くなく、体つきもどこかひょろっこい。それなりに整っている顔立ちもどちらかと言えば童顔気味で、ぱっと見高校生くらいに見えなくも無い。
しかしその眉間にくっきり刻まれた深いシワの跡と、重ねた苦労と性格の悪さとを匂わせる擦れ切った目つきが、彼の纏う空気に幾らかの年かさを与えていた。
あの骨董品みたいなゴツ眼鏡が馴染んで見えるのもそのせいだろうか。少なくとも私よりは悪目立ちしていない。うるせぇ。
(……うん、やっぱ見た事無いな。じゃあほんとに物珍しさで見られてるだけ?)
あんまりしっくり来なかったが、かと言って何ガンつけとんじゃとケンカしに行く気力も今は無い。一度だけ僅かにフードを上げて、青年をきつく睨み返すだけに留めた。
「……ふん」
それにビビッたってんじゃないんだろうけど、その睨みを受けた青年は小さく鼻を鳴らし、意外とあっさり視線を外した。はい勝ち。
そうして一度は息をついたけれど、私への興味が失せた訳では無いらしい。
その後も折を見ては短く視線を向けて来て、そんなに私の事好きなんかよとちょっと辟易。
まぁこれ以上過敏に反応するのもめんどくさく、私はフードを深く下げてそれっきり。視界と意識から彼の存在を外すよう努めた。
そうして気の誤魔化しがてらに、向かいの窓際で居眠りしている太ったお婆さんの様子も窺いながら、眠気と戦う事しばし。
やがて窓の外にぽつぽつと建物も増え始め、街中へと入り始めた事が窺えた。
次の到着地は私でも知らない場所だったけど、その次の地名は記憶にあった。
確か、住宅街エリア東にある街道のひとつだ。都会エリアからはまだ少し距離はあるものの、まぁまぁ人通りを期待できる地域……の筈だ。
(……どうすっかな。ここら辺でさっさと降りるか、街まで待つか……)
悩みがてら、こっそり丸眼鏡の青年の方を見る。
こちらに視線を向けていないタイミングだったようで、彼はワインレッドの革手帳に目を落とし、何やら考え込んでいた。何かしてきそうな気配はナシ。
……まぁ、この感じならまだ乗ってても大丈夫かな。
私は小さく溜息を吐き、バスの降車ボタンに伸ばしかけていた指を戻し――。
「ん?」
瞬間、その降車ボタンが二つにぶれた、気がした。
……あまりの眠気で目の焦点がズレたかな。
ぐしぐしと目を擦って改めてボタンを眺めるも、同じ現象は無く――丁度その時、これまで信号以外でノーストップだった車両にブレーキがかけられた。
「っとと……」
次のバス停で人が待っていたらしい。
腹筋に力を入れて、制動の煽りで身体が横に引っ張られるのに耐え……ふと車両後方で音がしたので見てみれば、バランスを崩した丸眼鏡の青年が手帳を落っことして慌てていた。何やってんだアイツ。
そうして呆れた目を向けている内にバスのドアが開き、乗客が二人乗り込んで来た。
赤いワイシャツの目立つサラリーマン風の男性と、長い黒髪をした大学生くらいの綺麗な女性。……どちらも『うちの人』では無いようで、また息をつく。
男性の方は乗車してそのまま前方座席に腰掛け、黒髪の女性は軽く車内を見渡した後、私の隣へと座った。
丸眼鏡の青年、赤Yサラリーマン、居眠り婆さん、そしてフードの私。それぞれが四方に散らばる中、誰の近くに座るかで私が選ばれた訳である。喜んでいいのこれ?
「わ……」
「…………」
その際、私のフードの中が見えたのか黒髪の女性の声が上がったが、聞こえなかったフリをする。
女性の方もそれきり反応する事は無く、お互い視線も絡まない単なる一乗客同士の距離に収まった。見てるかどっかの丸眼鏡。
(……匂い、大丈夫だよな)
ともかく、そうして他人の気配を近くに感じていると、自分の身だしなみが少し気になった。
何せ昨日の夜から汗だくになって走り回ったまま、風呂にすら入れていないのだ。
一応、雑木林から出る前にコンビニ袋の衣服に着替えてはいたが、近くに人が来られると流石に……なぁ?
不安になってそっと隣を窺えば、黒髪の女性は鼻歌混じりにスマホを弄っており、何か不快に思っている様子は見られなかった。
……まぁ、臭かったらもっと距離取るよな。念のためあまり動かないようにしながら、ホッと一息。
(つーか、そうじゃん。お風呂もだけど、ごはんも食べてない……)
思い返せば昨日の昼頃、病院での待ち時間に売店のおにぎり数個を食べたのが最後だろうか。
それから今まで飲み食いした覚えはなく、もう数時間もすれば丸一日断食の達成だ。
自覚すると途端に空腹感が湧いて来て、おなかが小さくクゥと鳴く。幸い、隣には聞こえなかったみたいだけど。
(……あー……)
全身から少しずつ力が抜け、呼吸が深く、そして遅くなっていくのが分かる。
いよいよ私の疲労がピークを迎え、抵抗虚しく睡魔に呑まれようとしているのだ
たぶん、近くに大人の女の人が来た事でちょっと安心したのもあるんだろう。
この黒髪の女性が近くに居れば、あの丸眼鏡の青年も私一人の時よりは視線を向け難くなるだろうし……変な事をしに来る事も、無い筈だから。
「……、…………、………………――」
かくん、かくんと首が落ち、その度に目が覚める。
けれど、それもやがて無くなって。
大きく傾いだきり動かなくなったフードの中で、私の意識は心地よい泥濘の中へと沈んで行った。
*
――夢を、見た。
白く、淡く、音の無い世界。
見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。
私はその中央にある机に腰掛け、一つ前の席に座るあかねちゃんと談笑していた。
私達の他に人は無く、教室の中にはただ空っぽの机だけがずらりと並んでいる。
いや、それどころか、窓から見える廊下や校庭、その外にある街中にも、人っ子一人存在しない。
……それはどこまでも不自然な二人きりで、とてもおかしな光景ではあったけれど――それでも、いつかどこかにあった、私達の時間だった。
「――、――?」
「――!? ――!」
あかねちゃんが意地悪な顔で何かを言って、私が憤慨しつつも笑って返す。
どちらも声は聞こえなかったけど、きっと私の成績か何かの事でからかわれたんだろう。ああいう顔をする時のあかねちゃんは、そんな感じだから。
(…………)
私はそこに居る筈なのに、その光景を俯瞰で見ている私が居る。
なんだか不思議な気分で、でもそれを不思議とも思わない。その矛盾と曖昧さすら、当たり前のものとして受け入れていた。
……すごく、穏やかな気分だった。
暖かくて、優しくて、愛おしくて。ずっとずっと、ここに居たかった。
私はあかねちゃんと笑い合いながら、或いはその光景を眺めながら。
そして、いつまでもこの時間が続いてくれと願いながら、ただ浸り続け――。
(……?)
いつの間にか、あかねちゃんの首が私の方に向いていた。
談笑している私の方にではない。顔を上げ、俯瞰で見ている私にまっすぐ視線を注いでいる。
その表情は先程までの意地悪顔ではなく、静かな笑顔を作っていた。
「――、――」
なのに、机の私は何も気にした様子は無く、ただただ雑談を重ねるまま。
あかねちゃんの口は閉じ、相槌すらも止まっているのに、どうしたのかと問いかけもしない。
――あかねちゃんの笑みが、ぐちゃりと歪んだ。
(……、っ)
見た事の無い笑顔だった。
口角がぐにゃりと曲がり、顔全体に幾つものシワが刻まれて。皮膚を滅茶苦茶に引っ張ったかのような、見ていると不安に駆られる笑い方――。
あかねちゃんのそんな顔、私は見たくなかった。
(……やめて、やめてよぉ……)
必死に懇願するけど、声が出ない。動けない。
机の私はずっと独り言で喋っていて、何の役にも立ちはしない。
何も、何も出来ないままだった。
あかねちゃんはじっと私を見つめ続けて、
どんどん笑顔を歪めて、曲げて、
なのに見ている事しか出来なくて、
そして、
そして、
そして――――
「――えっ?」
「っ!」
隣で上がった声に肩が跳ね、目が覚めた。
(……ゆ、め……?)
寝ぼけ頭が回り始めるにつれその内容を思い出し、イヤな気分を溜息として吐き出した。
(……きもちわる。何だよ、今の夢)
最初は凄くいい夢だったのに、最後あんなになるとか悪夢も良いとこだ。
特にあかねちゃんにヤバそうな変顔させるとことかほんと最悪。フードの奥でこめかみをぐりぐりし、あんな夢を見させてくれやがったボケ脳みそを虐めておく。
ついでにその痛みで抜け切らない眠気を散らす中、私は悪夢から覚まさせてくれた隣の女性へ感謝の視線をちらと投げ、
「え……あれ……?」
(……何だ?)
その酷く困惑したような表情に、首を傾げた。
そういや私が目覚めた時の声もそんな感じだったし、何かあったんだろうか。
疑問に思って女性の視線を追えばそこには行先表示器があり、次の到着地を示していた。
東稲つかさ通り前――何の変哲もない、住宅街の一般道。
どうやら私はそれほど長く眠っていた訳では無いらしい。
意識が落ちる直前の場所から、およそ十分くらい先の場所。表示器横のデジタル時計でもそれくらいで、遅れても早まってもいない。順調だ。
……どこに困惑する要素があるんだ?
乗り過ごしたとかそんな感じでもないよな。更に首を傾げつつ、私が寝ている間に乗り込んだのか、何人か増えてる他の乗客の様子も一応窺ってみる。と、
「あん?」
何故か、殆どの人が同じような表情を浮かべていた。
スマホと行先表示器を見比べている人。
首を傾げながら腕時計を見つめている人。
車窓にかぶりつくようにして、流れる外の景色を凝視している人――。
行動はそれぞれ様々だったけど、皆が皆困惑した様子を見せている。
(な、何だ、この空気……?)
私はそんな皆の様子にこそ困惑し、おろおろ視線を振り続け――そうして丸眼鏡の青年に目が向いた時、彼の反応だけ若干違う事に気が付いた。
「――、――……――……」
何やらブツブツ呟いている彼の顔には苛立ちが浮いていたが、そこに困惑の類は見られず、一人だけ冷静さを保っていた。
ずっと手元の革手帳を真剣な目を睨んでいて、私になんて一瞥もくれない。あれだけこっちを見つめていたのが嘘のよう。
それがまた今の状況に不穏なものを感じさせ、私の不安も大きくなっていく。
「……あの、すんません、何かあったん――」
「――ねぇ運転手さん、これどうなってんの?」
痺れを切らして隣の黒髪の女性に尋ねようとしたのと同時、それに被せて声が上がった。
見れば、前方席の赤Yサラリーマンが行先表示器を指差しつつ、運転手に声をかけている。
今まさに窓の外を東稲つかさ通り前のバス停が通り過ぎ、表示が次の到着地に変わっても、全く気にせず言い募った。
「え? な、何がで……?」
「だからこれだよ、これぇ、今のこれ。分かってんでしょ? 運転してんだからさァ」
「ええと……?」
それは軽薄かつ横柄な上に具体性を欠く、クソクレームの見本のようなものだった。
けれど赤Yサラリーマンの顔にはハッキリとした焦燥が浮かんでおり、とても無意味なイチャモンを付けている雰囲気ではない。
他の乗客もどこか同調するようにそれを見ていて、私も黙ってそちらを注視しておく。
「どこをどう通ったらここに出るの? 時間もさ、こんな……おかしいでしょ、色々」
「……はぁ、あのう、申し訳ないんですが、運転中なので……」
「あのねぇ……何でそんな落ち着いてられるワケ……? あり得ないでしょこれさァ!」
位置的に私から運転手の姿は見えなかったけど、迷惑そうな顔をしてるんだろうなと分かる声音だった。
その態度に赤Yは瞬時に激高し、席を立って運転手へと詰め寄り――。
「……っ」
瞬間、また景色が二つにぶれる。
さっきの降車ボタンの時と同じだ。今度は物だけではなく乗客まで、視界に映るもの全てが二重になり、左右にズレた。
今回もまた一瞬で元に戻ったけど、視界全体でのそれは流石にキッツイ。まっすぐ座っていられなくなり、背中のクッションに沈み込む。
「……だいじょーぶ?」
その様子に気付いたのか、黒髪の女性が心配そうに私を見る。黒髪の隙間で藍色のイヤリングが小さく揺れた。
……ちょうどいい、さっきの質問をしてしまおう。
私は返事の代わりに小さく手を振り、改めて私が寝ている間に何があったのかを問いかけようと口を開き、
何の前触れもなく、意識が途絶えた。
*
――夢を、見た。
白く、淡く、音の無い世界。
見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。
私はその中央にある机に腰掛け、一つ前の席に座るあかねちゃんと談笑していた――。
(……は?)
と、そこまで浸った時、それを俯瞰で見ていた私が我に返った。
……これ、さっきの悪夢だよな?
何でまた見てんの。いつの間に寝たんだよ、私。
さっきと違って、イヤに意識がハッキリしている。
明晰夢ってヤツだろうか。夢を夢だと明確に認識するのは、思っていたより気持ち悪いものだった。
(……くそ、何なんだ……?)
状況が把握できない。
いや、流れ的に何かが起こっているのは察せられるのだが、分かりやすい『異常』が視当たらず、不気味さだけが先行している。
真っ赤なぐしゃぐしゃとか雀モドキとか、バッチリ眼に視えるのもイヤだけど、オカルトなのかどうなのか判断に困るのがずっと続くのもイヤな気分。
粘つくような気持ち悪さが、絡みついたまま離れない。
(この夢もよく分かんないし……やめてよホント……)
意識を夢に戻せば、そこではやはりあかねちゃんが俯瞰の私を見上げていた。
前の時と同じ、不気味で目を逸らしたくなる笑顔。
あかねちゃんの笑顔はそんなのじゃない。もっと可愛くて、見てると元気になるような笑顔なのに。
何で、何でこんな夢を見なくちゃならないんだ。あかねちゃんを見下ろしながら、私は怖がるよりも悲しくなって、
(……?)
……ふと、あかねちゃんの悍ましい笑顔が、最初に見た夢のものよりも深くなっている気がした。
気のせいかと思ったけど、違う。大きく歪められた唇が、前よりも更にきつく上がっていた。
まるで出来の悪い粘土細工のよう。人間の表情筋では絶対に浮かべられない狂った笑顔が、しかし実際にそこにある。
もっと歪に。もっと醜悪に。
目を背けられない私を見つめたまま、彼女の笑顔は散々に穢され続け――。
「――っ!?」
また、目が覚めた。
さっき目覚めた時と同じ不快感が胸に澱み、すえた息が喉元をつく。
私はそのまま暫く呆けた後にぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、何本か纏めて引き抜いた。
「~~~っぁぁぁぁ……ッ」
何であんなのを夢に見る。
夢とは深層意識がどうのこうのと聞いた事もあるけど、だったら私は頭の奥で何を考えてんだ。あかねちゃんを心配し過ぎておかしくなったか?
食いしばった歯の隙間から軋んだ奇声を絞り出し――はたと我に返り、慌てて周囲に気をやった。
今の奇声もそうだが、さっきは突然意識を失ったのだ。確実に変な風に目立ってしまっている……と、思ったのだが。
(……すごい、静か?)
さっきと輪をかけて空気がおかしい。
車内は先程のざわめきが嘘のように静まり返っていて、バスのエンジン音だけがイヤに大きく響いている。
乗客も殆どが青褪めた表情で、平然としているのはまだ居眠りしたままのお婆さんと、革手帳に目を落とし続けている丸眼鏡の青年くらいだ。
誰もこっちに意識を向けていない事にはホッとしたが、相変わらず何が起きているのか分からないままだ。すぐにそれ以上の不安に包まれ、私も一緒に押し黙る。
ちらりと隣の女性を窺っても、やっぱり他と同じ。
彼女も酷く青褪めた顔になっていて、車内前方の行先表示器を見つめていて――それが示す次の到着地を認めた時、私はぱちくりと目を瞬かせた。
「……東稲つかさ通り前?」
さっき、通り過ぎたとこだよな?
一瞬記憶違いかとも思ったけど、赤Yが運転手にクレームを付けていた時に通り過ぎた筈だし、窓から見えた遠ざかるバス停の姿も覚えている。
いや……でもこうやって実際に表示されているのだから、私の間違い……なんだよな。
「……………………、」
……本当に?
唐突に、イヤな予感が噴き上がる。
乗客の一人と同じように窓の外を確認すれば、道の遠くにバス停が見え、やがて後方に過ぎ去っていく。
東稲つかさ通り前。それはやはり、既に一度見た筈の光景だった。
「…………」
運転手がルートを間違えて、道をぐるりと一回りした……とかだろうか。
まぁ公共交通機関としてはあり得ないとは思うが、それならば今の状況にも常識的な説明は付くだろう。
……だけど。
(……時間……)
行先表示器の横に取り付けられているデジタル時計と、スマホの時計を見比べる。
どちらの時間も同じでズレは無く、正確だ。
そしてそれらは、今しがた通り過ぎた、東稲つかさ通り前の到着時間とほぼ変わらない。
――最後に時計を見た時から、数分も経っていなかった。
「………………」
……私が最後に時間を確認したのは、赤Yが運転手にクレームを入れる少し前くらいだ。
あれから今までがたったの数分?
私が眠って起きてをして。そんでぐるっと道を回ったとして。色々あった上で、こんだけ?
(無理、あんだろ……?)
流れている時間と体感時間がズレている。
それはきっと他の乗客も同じで、だから皆困惑したり赤Yがクレームを入れたりしていて……いや、違う、たぶんまだズレてる。
オカルトを差し込んで考えるんだ。
普段ならあり得ないと切り捨てている思考に舵を切り、鼻で笑っちゃうようなバカな答えを出さないといけない。
本気であかねちゃんを見つける気なら――私はもう、そうならなきゃダメなんだ。
(…………)
……で、あれば、どうなる。
これまでバスの中で見た色々を振り返り、そうして出せるバカみたいな結論とは、つまり――。
「――時間が、繰り返してる……?」
ぽつり。
無意識に零れ落ちたその声は、静まり返った車内によく響いた。
――ガタン。
「っ?」
その時、車内の前方で物音がした。
車内の視線が一斉にそこへ注がれ、皆が『それ』を見た。見てしまった。
「……は?」
『それ』は赤Yだった。
彼は座席から転げ落ち、頭から床に倒れ込んでいた。
「あ、あ」と呻き、ビクビクと小刻みに痙攣していて、酷く苦しんでいる事は明らかだ。
……だけど、誰も助けに近寄らない。
この場の全員が冷たいとかそういった理由じゃない。
のたうち回る赤Yの形貌があまりにも『異常』で、誰の頭も回っていなかったからだ。
――彼の身体は、二つに分裂し、しかし分かれ切らずに重なり合っているような、そんな奇妙な姿になっていた。
頭は二つ、胴体も二つ、そして手足が四つずつ。
それぞれが滅茶苦茶にくっつき合い、自由に動く事も出来ず。肌と肉の引き攣る不気味な音を立てながら、身体を床に擦りつけていた。
いつかテレビで見た、互いの身体がくっついた状態で産まれる結合双生児を思わせる姿。
でも目の前にある『それ』はそうじゃない。そもそも双子ですらなくて、間違いなく一人の人間が二人に増えて、それが変な風にくっついている――。
(あー……、……?)
上手く頭が働かない。
目の前の『それ』は先の真っ赤なぐしゃぐしゃよりも現実感が無く、意味不明で……たとえオカルトの実在が頭にあっても全く呑み込めなかった。
そうしてどこかぼんやりとした思考の中、私はなんとなく、これまでに何度かあった視界のぶれを思い出した。
……ああ、そう、そうかも。
あんな風に二つに分かれて、そして一つに戻るのに失敗したら、たぶんこんな――。
「――うわあああああああ!?」
「!」
突然絶叫が響き、我に返る。
同時に一人の乗客が座席の上部分を無理矢理渡り、床の赤Yを躱してバスの運転手へと詰め寄った。
「お、おい、おいっ!! とめ、止めろバス!! 早く!!」
「え? な、何がで――」
「いいから降ろせよぉ! 耐えらんねぇよこんな意味分かんねぇの!!」
酷く錯乱した様子のその乗客は、運転手の言葉を待たずに身を乗り出し――突然、急ブレーキが車内を襲った。
「きゃ、っちょおぉぉおッ!?」
「えぇっ!? あぐっ……!」
私の位置からは見えなかったが、きっと強引に運転席へ割り込んだのだろう。
車体が左右前後に大きく振られ、車内のあちこちから悲鳴が上がる。
路線バスである以上、シートベルトをした者なんて殆ど居ない。乗客の多くが座席から転がり落ち、私も踏ん張り切れず車内前方に投げ出された。
隣の黒髪の女性が咄嗟に受け止めてくれたけど、勢い自体は止まらない。二人揃ってそのまま倒れ、座席端の仕切り板へと激突。「んがぁッ!?」目の中に星が散る。
バスが縁石にでも擦ったのか、どこからかガリガリと騒音が響き――そうしてようやく停まった時には、乗客の多くが床に倒れ、か細い呻き声を上げていた。
バス自体が横転したり、どこかに衝突しなかっただけまだマシなのだろうが、それでも結構な有様だ。
「……ぐ、くそ、いきなりバカか――いや、ってか、だ、大丈夫ですか!?」
「う、うぅぅ……」
そんな中、持ち前の頑丈さでいち早く復帰した私は、慌てて黒髪の女性を介抱する。
こめかみを軽く切ってはいたものの、それ以外に大きな怪我をしている様子もなく、私はホッと息を吐き、
「――ドア開けろおぉぉ!!」
また絶叫が響き渡り、同時に何かが壊れる音が聞こえた。
見るとさっき勝手にブレーキを踏みやがったのであろう錯乱乗客が、バスの扉を破って外へと飛び出していく所だった。いくらなんでも暴れ過ぎだろ。
(い、いや、それより今は……ええと、そうだ、警察とか救急車――)
一度外に出るかは迷ったが、黒髪の女性を放っておくのも気が咎めた。
私は頭を抑えて呻く女性の様子を窺いつつも、スマホで救急へと電話をかけて、
「――待つんだ」
「っ!?」
119の最初の1へと指がかかった時、横合いから声をかけられた。
反射的に振り向けば、いつの間にやら丸眼鏡の青年が背後に立ち、私に鋭い目を向けている――。
「ぇ、あ、何……」
「このバス、ネットかメッセージのやり取りくらいであれば問題ないようだが、通話となれば違反と見做される可能性は高い。たとえ緊急時だとしても、よしておいた方が良い」
青年は不意の接触に固まる私を無視してまくし立てると、近くの座席にぐったりと腰を下ろす。
どうやら彼も、先程の急ブレーキでどこかしらを打ちつけたらしい。脇腹あたりを痛そうに擦りつつ、ズレた丸眼鏡の位置を直していて――じゃなくって。
「……は? いきなり何言ってんの……? 違反って、何の話――」
「あんまり目立つ行動はしない方が良いって話さ。まぁ、どうせすぐまた巻き戻る。詳しい話はその後にしよう」
「――……」
話を遮り、疲れたように吐き捨てるけど、当然理解も納得も出来る筈が無い。
だが言葉の中にあった『巻き戻る』という単語が、やたらと耳に引っ掛かった。
「……この状況は、君が寝ている最中に始まった。だから、次も君は夢の中から始まるだろうね」
「え……」
「あの魘され方からすると悪夢なのかな。起きるまでには君の近くに行ってるから、悲鳴を上げるのだけはやめてくれよ」
丸眼鏡の青年はイヤミったらしく鼻を鳴らし、痛みを堪えるように深く息を吐き出した。
……言葉、態度、おまけに変な丸眼鏡。コイツの全部が胡散臭く、真正面からの会話は正直あんまりしたくない。
けれど話す内容は私や今の状況を理解しているようでもあり、無下にする事も憚られ。
――だから私は、苦し紛れにお前は誰だとだけ問いかけた。
「……ふん」
また、不機嫌そうに鼻が鳴る。
彼は暫く丸眼鏡に指を添え、難しい顔をして――その最中、また見える世界が左右にぶれた。
「う、ぐ……っ」
これまで幾度もあった視界のズレ。
しかし今度は一瞬では終わらず、長く、大きく、深く続いた。
丸眼鏡の青年も同じ感覚を味わっているらしい。
ゆっくりと一つに戻り始めた景色の中、二つの顔が気分悪げに歪んでいて……やがて左側の彼だけが、うんざりとそれを呟いた――。
「――【インク瓶】。華も付かないオカルトライターもどきだよ」