「雲」の話(下)
*
「…………」
翌日。ゴールデンウィーク四日目。
私はどこにも出かける事は無く、自室で寝っ転がっていた。
居心地悪いし退屈だしでどうにも時間を持て余していたけど、これまでと違って外に出る気にもなれない。
スマホ弄りもすぐに飽き、ぼうっと天井を眺めたまま無為な時間をただただ過ごす。
「…………、」
ふと、窓の外へと視線が向いた。
意識した訳じゃない。無意識のうちに、自然とだ。
すぐ我に返って舌打ちを鳴らしたけど、目を逸らすより先に私はそれを見てしまった。
カーテンを閉め切った窓の隙間。
そこから見える天気の良い庭先に、大きめの影が落ちている。
――開かれた掌のような、雲の影。
「……っ」
窓に駆け寄り、カーテンを今度こそ隙間なく閉め、後退る。
とはいえ、それで何かが変わる訳でもない。
むしろ遮られた事で存在感が増した気がして、やたらとカーテンの向こう側が気になってしまう。
……朝から、ずっとだ。
家の外。空を見ないよう俯く先に、掌の影が落ちている。
太陽の位置によって多少は移動しているけど、家の周囲にずっと纏わり付いている。
私は理科の成績もあまり良くないから、光や像がどうこうといった事は詳しく分からない。
でも、あの雲が付近の上空に留まり続けているという事くらいは私にも分かる。そしてそれが、昨日より地上に近い場所に降りている、という事も。
「……くそ、キモいな……」
初日に感じていた面白さなんて、もうどこにも無かった。
ずっと変わらずそこに在り続ける雲が不気味で不気味でしょうがなく、粘ついた気持ち悪さが離れてくれない。
相手は、ただの雲なのに――。
「…………」
そう、ただの雲なんだ。
そもそも、別に大きな異常が起きている訳ではないのだ。
単に人間の腕の形に見える雲が、気流か何かで形を保ったまま降りて来ていて、それを私が一人で不気味がっているにすぎない。ただそれだけ。
……それだけ、だよな?
「…………」
少し迷った後、意を決してカーテンに僅かな隙間を作る。
恐る恐ると、空を見上げた。
「っ……」
あった。
腕の雲だ。
それはやはり昨日より地上に近い場所にあるようで、記憶にあるそれよりも数倍以上に大きくなっていた。
二の腕部分も更に長く伸びていて、糸のように細まりながら空高くへと続いている。
存在感も昨日と比較にならないくらい増しており、眺めているだけで妙な圧を感じてしまう。
……でも、雲はそこにあるだけだ。
目的も意思も何一つなく、現象として存在しているだけのもの。
私が感じている圧も不気味さも、全ては思い込みであり――と、
「……?」
ふと、違和感。
雲の形が、また少しだけ変わっている気がした。
いや、形というより角度だろうか。
指を広げた掌はそのままに、また若干の傾きが付いているような。
そう、まるで――地上そのものではなく、私個人に掌を向けて、
――コン、コン。
「!」
唐突に部屋のドアがノックされ、思考が散る。考えるまでも無く、『親』の呼び出しである。
「…………」私は少しの間だけ雲とドアとを見比べて、すぐにカーテンを閉めた。
そして渋々感を取り繕ってドアを開けば、そこにあるのはやっぱり『親』の鉄面皮。
「……な、なんだよ」
「そろそろ昼食の時間だ。外出していないという事は、今日は家で食べるのだろう?」
「え? あー……」
言われて意識すれば、確かにそこそこお腹が減っていた。
平日は学校での給食だし、休日は大体外に出て適当に済ますため、何も考えていなかった。
正直、昼ご飯までまずいものを食べたくなかったけど、今から外に出るのも億劫だ。
今度こそ本心からの渋々感で頷けば、『親』はどこか肩の力を抜いたように見えた。
「そうか。では早いところ下に来なさい。準備はもう出来ている」
「……ん、どーも」
いつも通りの高圧的な物言いにイラっとしたが、今日は反発する気にもなれず。
そうして『親』の後に続いてリビングに降りれば、言われた通り既に昼食が並んでいた。
これもまたいつも通り、冷えてて質素なそんなに美味しくないヤツ……と、思っていたのだが。
「……唐揚げとコロッケ? 珍しいじゃん、いつも精進料理みたいのしか出さないのに」
「……そういった日もある。いいから、食べなさい」
「へいへい」
初めてこの食卓で好物が出たかもしれない。
多少は上向きの気分で席に着き、『親』の着席を待たず箸を取る。
料理は普段のものと違ってまだ温かく、味付けも濃い目で普通においしい。
『親』一体と私一人。雑談の一つも無い乾いた食事風景である事に変わりはなかったが、その時の私の箸は少しだけ早く動いていた。
「……今日は、フリーマーケットだ」
すると突然、『親』がぽつりとそう呟いた。
「あん? ……あー、回覧板であったやつ?」
「ああ。今日の予定が無いのであれば行ってみなさい……と、言いたいところだが……」
そこまで言って『親』は私の顔を見るが、それはそれは嫌っそ~な表情が浮かんでいる事だろう。
『親』はそれ以上言い募る事はせず、小さな溜息だけを落とした。
「……やはり行く気はなさそうだな。まぁ、分かってはいたが」
「そりゃそうだろ。わざわざフリマまで行くほど欲しいもん無いし、それに――……」
「それに?」
「……や、なんでも」
一瞬窓に向きかけた視線を強引に茶碗の中へと落とし、白米をかき込んだ。
変な形の雲が怖くておそと出たくないの……なんて言える訳ねーだろ。
「あー……てかさ、回覧板に載ってたイベントずっと擦って来るけど、なんなのそれ」
深く聞かれる前に話題を逸らそうと、適当な問いを投げ返す。
「強要しないとか言っといて毎度行かせようとして来るの、流石にうっさいんだけど」
「……言っただろう。こういったものには参加しておいた方が、後々お前のためになるからだ」
「今日のフリマも? そんなカチッとしたイベントじゃないでしょ」
「地域交流という観点では馬鹿に出来たものではない。品ではなく、顔を見つける場と考えなさい」
「……あっそ」
なんとなく詭弁めいたものを感じなくはなかったが、深く問い詰めるほどの興味がある訳でもない。
私は気の無い返事で会話を打ち切り――ふと思い出し、唐揚げに伸びた箸を止めた。
「そういや、明日は自衛隊のお祭りだっけ? それにも行けって言うつもり?」
「すぐそこの御魂橋駐屯地、開設五十周年記念行事だ。これもお前のためになるだろうから、その気があったら行ってみなさい」
「ハッ、流石に苦しすぎでしょ。どこが私のためだってのよ」
「お前の学力はともかくとして、その高い身体能力の活きる職は多い。自衛官もその一つという意味で雰囲気だけでも見ておけば、やがて訪れる進路選択の機会において、決して無駄ではない下地の一つとなるだろうと我々は考えており――」
「分かった分かりました私が浅はかでしたごめんなさいでした」
軽い気持ちでの問いかけだったのだが予想外に真面目な返しが長々と続き、ぱたぱた手を振り遮った。
……前の何を言っても無視される状況よりはマシかもしれないが、今も今でなんだかなぁ。
私は一転してむっつり黙り込んだ『親』に溜息を吐き、改めて唐揚げを頬張った。振れ幅極端すぎんかコイツ。
「…………」
そうして再びの沈黙が広がると、やはり少しずつ窓の外へと意識が逸れていく。
この位置からでは雲は見えない。
だが、地面に落ちる影がその存在を伝えている。実際にそれを見るより、ずっと強く。
……その光景を見ていると、食欲すらも失せてきそうだ。
そうなる前に食べ終えてしまおうと、私は箸を動かす手を速めた。
「…………」
向かいに座る『親』もまた、窓の外を眺めている。
快晴を見上げるその目は無感情のままで、やはり何を考えているのか分からない。
私が食事を終えるまで、『親』はそうしたままだった。
*
――次の日の朝。
私が目を覚ましたその時にはもう、外は大きな影で覆われていた。
「……うわ……」
微睡の余韻など楽しむ間もなく消え去り、胃の底が冷たくなっていく。
私の部屋のカーテンは遮光ではなく、ある程度光を通す材質だ。
普段ならば、適度に明るい朝日が部屋に差し込んでいる時間帯だが、それが弱まっている。
かといって悪天候という訳でもなく、外が晴天である事は気温と空気ですぐに分かった。
……それはつまり、ここ一帯が局所的な日陰の中に居るという事で。
「……っ」
一呼吸の間を置いて身を起こし、一息にカーテンを開けた。
途端、いつもより弱い光が一瞬私の目を眩ませて――次の瞬間、それが見えた。
「うっ――」
雲。
雲だ。
予想通りの、腕の雲。
しかし今私の目に映るそれは、昨日の比ではないくらい大きくなっていた。
より下方へ降りて、より地上に近づいて。そうして開かれた掌の影が、家の周囲一帯に広がっている。
――やはり、その手は私に向かって伸びていた。
「~~ッ!」
あんまりにも気味が悪すぎて、全身が総毛立つ。
当然、私はすぐにカーテンを閉めようとして――その寸前、それに気が付いた。
……雲の内側。白に覆われたその中に、僅かな赤みが混じっている。
光の加減だ。瞬時に自分へと言い聞かせるが、上手くいかない。
腕の形をしている事も合わせ、その赤みが何かを示しているかのように感じてしまう。
まるで雲が何かを内包していて、それが透過されているかのような。雲の中身が存在しているかのような。
そんな、酷く生々しい「らしさ」――。
「……いや、っていうか……」
そうだ、そもそもあれは本当に雲なのか?
私にとっては雲にしか見えなかったけど、本当にそうなのか?
人間の腕の形をずっと保っているあれは、
空の果てから少しずつ降りてきているあれは、
明確に私を捉え、そして手を伸ばし続けている、あれは、
――あれは一体、何だろう?
「――起きているか?」
「!」
その時、部屋の外から声がかけられた。
そして私が反応するより先にドアが開かれ、『親』が顔を覗かせる。
私は咄嗟にカーテンを閉め、努めて平静さを装った。
「……な、何か用? つーか、勝手に開けんなし……」
「それはすまなかった。そろそろ時間だったのでな、準備を急かしに来た」
「は?」
何の話だ。
突然の言葉に一瞬雲の事も忘れて首をかしげた私に、『親』は一枚のプリントを掲げた。
それはつい先日にも見た、町内イベントの予定表。つまり、
「――自衛隊の記念行事だ。会場の開放自体は早い、混まない内に出ておこう」
「…………」
まだ言ってんのか、コイツ。
私は呆れるやらうんざりするやらで頭を抑え、深い溜息を吐き出した。
「……あのさぁ、今私そんな気分じゃないんだ。そもそも行くなんて一言も言ってないし、いい加減――」
「イベントの詳細だが、航空機の展示や滑走体験などがある。野外売店も幾つか出るようだから、食べ歩きも出来るな」
『親』は私の言葉を無視し、話を続ける。
……やっぱり少し変だ。その強引ともいえる誘い方に尚更の違和感が強まった時、『親』はちらりとカーテンの閉まった窓へと目を向けた。
普段と変わらぬ冷たい視線。
『親』はどこか白々しさを滲ませて、ぽつりと告げた。
「何より――ヘリコプターでの航空ショーがある。興味、あるのではないか」
「だから無いって何度も言って、ん……、…………」
言葉が止まった。
直後私は振り返り、『親』と同じく窓を見る。
当然、カーテンに遮られ外の光景は見えない。見えないが、しかし。
「…………」
「……あるだろう?」
『親』を見る。
その何を考えているのか分からない冷たい瞳に、私はややあってから、ほんの僅かに頷いた。
■
航空ショーとはいっても、何か派手な事をする訳ではなかった。
駐屯地から飛び立った数機のヘリコプターが編隊を組み、付近の空を往復する。それだけ。
私には何が面白いのか分からなかったが、喜んでいる観客達の様子を見るに、分かる人には分かる良さがあるようだった。
ともかく、そうしてヘリコプター達はそれなりの高度に上がり、駐屯地から見失わない程度の距離を飛ぶ。
バタバタと空を裂くプロペラの風音を響かせながら、町内の空をゆっくり周るのだ。
――そして、ごく近所にある私の家の上空も、その進路上に含まれていた。
「あーあーあー……」
思わずそんな声が出た。
私の視線の先にあるのは、今まさに私の家の上空を飛んでいるヘリコプター達だ。
この駐屯地からは、その光景がよく見えた。
そう、青空の中、綺麗に整列して飛行するその雄姿が。
そして――そのプロペラによって千々に裂かれる、腕の雲の惨状もだ。
「あー……」
いや、裂かれるというより、拡販されるといった方が正しいだろうか。
プロペラが巻き起こした乱気流によって雲が蹴散らされたのだ。
自然による強風には耐えられても、複数のプロペラによるミキサーには耐え切れなかったらしい。
あんな低空に降りて来なけりゃ……と、さっきまで感じていた雲への不気味さも忘れ、どこか残念にすら思ってしまった。
「……どうした、そんな声を出して」
「あ?」
そうしていると、隣に立つ『親』がそう声をかけてきた。
今回は小さな男の子の身体だ。あどけない顔つきとそこに張り付く無表情が絶望的に合ってない。こわ。
「やはり、あまり気に召さなかっただろうか。普通の女の子にはつまらない場かもしれないが、お前であればと思ったのだが」
「や……ある意味では楽しいかもだけど……」
バラバラに散っていく腕の雲を眺めつつそう答えれば、『親』はまた肩の力を僅かに抜いたように見えた。
そしてそのまま互いに口を閉じ、揃ってヘリコプターを眺め続ける。
……あの雲は、何だったんだろう。
ただの雲だったのか、それとも。
いっそ『親』に聞いてみようかとも思い目を向けると、ちょうど視線がかち合った。向こうも私を見ていたらしい。
『親』はすぐに目を逸らしたが、「……何だよ」と聞き直せば、やがてぽつぽつと零し始めた。
「……我々とお前が、親であり子であるとしてから少し経つ。だがやはり、『少し』程度の時間ではあまり上手くは出来ないな」
「何の話?」
「この連休だ。結局、大半を個別に過ごしてしまった」
最初何を言っているのか分からなかったが、話す内に何となく察した。
どうやらこいつは、ゴールデンウィーク中に私と何かしら家族っぽい事をしようとしていたらしい。
いや、だったら旅行に誘うとかもっと色々あっただろ……と思ったけど、正直普通に何か誘われても「行く訳ねーだろ」鼻で笑っていた自信がある。
回覧板のチラシにかこつけてあーだこーだ言って来たのは、『親』なりに悩んだ結果だったのかもしれない。
……どっちにしろ、断った訳だけど。
「……どうせ連休中の街中にも沢山あんた居たんだろ。実質同伴してたみたいなモンなのに、何言ってんだ」
「それでは何も変わらないのだ。ただそこに居るだけでは、親と子の姿だとは……」
何やら呟き始めたが、正直言ってめんどくさい。
どうも親と子の在り方について色々考えているようだけど、この十四年近くの間に育まれたクソ長い距離感とド深い溝がそう簡単に埋まってたまるか。
そもそも親子がどうこうと言うのなら、今のような小さな男の子の姿で来ちゃダメだろ。親と見たくても見らんねーわ。
こういうところがイヤというかたぶん何かしら配慮的なのしたんだろうけどいつもズレててほんとイライラするっつーかうんぬんかんぬん。
考える内にどうにも気分がトゲトゲし始め、私は深く大きな溜息をひとつ。
ちょうど帰って来たヘリコプターから視線を逸らし……ふと、出店のスペースに目が行った。
様々な屋台が並び、色とりどりの看板がよく目立つ。
焼きそば、お好み焼き、フライドポテト、いかぽっぽ……。
「……あー、じゃあせっかくだし親らしいことやってよ。ねーあれ買ってー」
「この身体にたかるのか……?」
「どうせ近くに大人の身体居るんでしょ。全種類よろしく」
「……夕飯が食べられなくなるから、どれか一つにしておきなさい」
「んだよケチ」
『親』は最後まで口うるさい事を言うと、私と同じく出店スペースへと目を向ける。
何てことない普通の屋台しか無いが、人はそれなりに多く繁盛しているようだ。
……あそこに居る客の内、いったい何人が『親』の身体なのだろうか。私でもぱっと見じゃ分からない。
やはり、気味の悪い生態だ。
そんなのと、そんなのから産まれた私が、普通の親子らしくなる日なんて来るのだろうか。
私は鼻白みつつその光景を想像し……考えるだけ馬鹿馬鹿しいとすぐ投げ出した。
「さ、何食べよっかな」
ともあれ、今は屋台飯だ。
昼ご飯時もそろそろ近く、お腹の空き容量もそこそこ大きくなっている。
帰還したヘリコプター達のプロペラ音が響く中、私は今の自分が何の腹になっているのかを見定めるべく、屋台の看板をじっと眺めたのであった。
――ぽた。
「ん?」
頬に冷たいものが落ちたのは、その時だった。
にわか雨だろうか。
私は今まさにヘリコプターの通り過ぎた頭上を見上げつつ、親指の腹で頬を拭い、
「――……え」
ぬるり。
その指に、ねっとりとした感触が伝わった。
確実に雨粒のものではない。
反射的に親指を見れば、そこには赤黒い液体がべっとりとこびり付いていた。
――血だ。瞬間的に、そう悟る。
「……は? ぁ、え――」
しかしあまりにも突然の光景に、思考が追い付かない。
驚くでも、悲鳴を上げるでもなく、私は只々困惑し――そうする内に、少しずつこびり付いた血が薄れ始めた。
まるで蒸発するように、或いは溶けるように。
粘ついた赤黒い色合いが薄くなり、やがて白い靄と浮かび。ふわりとそこに漂ったかと思うと、私の吐息に散っていく。
再び頬に触れても何も違和感はなく、後には何も残っていない。
全てが、夢幻と消え去っていた。
「…………………………」
何一つとして、意味が分からなかった。
分からなかったが、しかし、未だ動かぬ思考にじわりと滲む気付きがあった。
……そうだ、さっきの靄。
あれはたぶん、靄というより、きっと――。
「――雲?」
呟いた瞬間、背後に何かが落ちる音がした。
「っ……」
ぼったり、という、柔らかくて、重たいものが落ちる音。
……鳥か何かが落ちて来た? それとも、人が倒れた?
分からない。
呼吸が浅い。振り向けない。
背中から伝わる存在感が、私の身体を抑えつけていた。
「…………」
どうしてか、朝に見た腕の雲を思い出す。
白の中に赤みを差した、それ。
まるで中身があるような、雲という皮の中に血肉を持っているような、それ。
……さっき、頭上を通ったヘリコプターのプロペラにズタズタにされた、それ――。
――機体にこびり付いていたそれが、今、剥がれ落ちて来た?
「…………」
「!」
嫌な想像が像を結ぼうとした間際、視界の端に私の背後をじっと見つめる『親』の姿が映った。
それも一人や二人じゃない。
小さな男の子の身体はもちろん、その周囲、ショーを見る観客や出店スペースに居る人達の中にも、同じ方向を見ている身体が何人も混じっていた。
『親』は何も言わず、何もしない。
ただ無言のまま、私の背後に視線を集中させている。
「――……」
突然、その視線の全てが背後から外れた。
同時に身体を抑えつけていた存在感も消え、肺が柔らかさを取り戻す。
「はっ、……ふ、ぅー……」浅くなっていた呼吸も戻り、心臓がどくどくと暴れ始めた。
いつの間にか冷たくなっていた指先が、痛みにも似た痺れを発している。
「……、……」
暫く息を整えた後、ゆっくりと背後を振り返った。
集中し、お腹に力を込め、いつでも走り出せるよう足裏で地面を噛んで。
けれどあんまり意味は無かった。
振り返ったそこにあったのは、何かが落ちたかのような痕跡を残す地面と、そして――僅かな白い靄。
……いや、それは確かに雲だった。
さっき私が見たような、生まれた瞬間に吹き散らされて消えかけている、何かの残滓。
――何か、とは。
「――出店の方に、行こうか」
「っぅえ!?」
いきなり隣から声をかけられ、身が跳ねた。
慌てて見れば小さな男の子の『親』がこちらを見上げ、出店スペースを指差している。
「我々が選ぶより、お前が好きなものを選んだ方が良いだろう。ほら」
「えっ、あ、う……うん……」
言い返す言葉も咄嗟には浮かばず、大人しく腕を引かれる。
子供の身体の癖にその力は少しだけ強くて、なんとなく私をこの場から離そうとしているようにも錯覚した。
「……な、ぁ。今、何見てたんだ……?」
絞り出すようにそれだけを聞くが、『親』はこちらを見つめるだけで何も言わない。
冷たい瞳。私はそれ以上言い募れずに黙り込み、後はそのまま親に連れていかれるだけだった。
……今落ちて来たものは何か。雲に替わった血は何だったのか。
『親』はどうして何も言わないのか。そもそも、あの腕の雲は何だったのか。
明らかになったものは何一つ無く、全てが有耶無耶のまま終わる。
――それこそ、雲を掴むような出来事だった訳である。
主人公:しばらく空見るの嫌だな……と、一週間くらい下を向いて歩くようになった。
『親』:最終日だけとはいえ、休日を娘と共に過ごせた事に一定の手応えを感じた。
犬山くん:いろんな事にチャレンジ中。町内の大人からとても可愛がられている様子。