「眼」の話(中②)
3
トイレの出入口付近の汚れ方は、酷いものだった。
血と、肉と、骨と、臓腑の一部に、潰れた目玉。
細かな肉片として残るそれらが、床から壁、果ては天井にまでべったりと張り付き、吐き気を催す強い臭気を放っていた。
しかし一方で、出入口のドア自体は大した汚れもなく、小綺麗なままだった。
今は閉まっているけど、『こうなった』時はドアが開かれていたからだろう。タバコ女の直前の行動を思い出せば、たぶんそう。
――そして私は、そんなドアの隙間にメモ帳の一ページを差し込んでいた。
「……ま、まだ? 血だまりん中に立ってんの、かなりキツイんだけど……」
『ごめん、この角度だと廊下の奥がよく見えない。もう少しだけ右に捩る事は出来るかい?』
手元側の僅かな余白部分に黒いインクが走り、そんな文章を形作る。
言うまでも無く、インク瓶からだ。
どうも彼はメモ用紙を……というよりインクを通してこちらの景色が見えているようだが、今更一々突っ込まない。
その指示通りにメモ帳を持つ手を軽く捻れば、文字はやがて『大丈夫』の三文字に変化。それを見るや否や私は即座にその場から飛び退き、血肉に濡れた靴底をタイルでゴシゴシ擦った。もう履けないなこれ。
「ぐ……吐きそ……」
『嘔吐は意外と気力体力を消耗するから、この場を切り抜けてからにしときなよ。それよりも移動するなら今だ、早くした方が良い』
「……ここでじっとしてるの、ダメ?」
『ダメとは言わないが……そこに居て無事で居続けられる保証は無いよ。君達を襲ったという絶叫を上げる「何か」、いつ戻ってくるか分かったもんじゃないからね』
「う……」
ちなみに、私達に警察に頼るという選択肢は無い。
私もインク瓶も、無駄に犠牲を増やす趣味は無いという事である。
『危険があるというのは否定しないけど、僕としては即刻その場から離れ、建物からの脱出に動く事をオススメするよ。……ああいや、もしかして、どこかケガして動き辛いとかかい?』
「や、そういうワケじゃないけどさぁ……」
メモに浮かんだ文字列に私は小さく呻き、視線をトイレの奥、とある個室へと向ける。
「嘘……うそ、なのに。ほんとに……、……なんで……うそ……!」
その中から聞こえるのは、微かな嗚咽と呟きだ。
そっと覗いてみれば、そこでは黒髪女が酷く憔悴した様子で頭を抱え、震えていた。
声掛けしても反応は薄く、つい先程までの常に笑顔を浮かべていた様子が嘘のよう。
「……どうしたもんかな、こいつ」
私はインク瓶と繋がるメモ帳を胸に抱きつつ、音がしないよう溜息を吐いた。
――絶叫を上げる『何か』に、タバコ女がぶち撒けられた後。
すぐに小瓶とメモでインク瓶へと連絡した私とは対照的に、黒髪女は嘔吐した後しばらく呆然自失となっていた。
まぁ、起こった事がコトである。
こいつが望んだ事とはいえ、この惨状じゃこうなるのも仕方が無いとそっとしておき、私はインク瓶への状況説明を優先した。
そして彼の助けを借り、周囲の安全確認をしている最中。ふと彼女に意識を戻した時には、もう今の状態になっていたのだ。
最初は怖がっているのかとも思ったが、それにしてはどこか妙。
恐怖よりも、驚きや困惑の方が強く見える。
……幾ら私をここに無理やり連れて来た上スタンガンで脅してきたヤツとはいえ、流石にこんな状況に捨て置くのも、ねぇ。
私はチラチラとトイレの出入り口への警戒を続けつつ、再び個室の中へ声をかけた。
「なぁ、今なら近くにさっきの居ないっぽいからさ。戻ってこない内に早く逃げよ」
「そんな、どうして……ほんとに、こんな……うそだよ……」
「嘘じゃないって、この紙でちゃんと確かめて……いやこれたぶん違う事言ってんな。何なんだよこいつ……」
『ふん。大方、噓から実が出て焦ってるんだろうさ』
私の独り言にメモがカサリと反応し、どこかトゲトゲとした文章を表示する。
その意味がすぐには分からず、私の首が小さく傾いだ。
「えっ、と……?」
『君の話じゃこの子、自殺した友人の霊魂を視たんだろう。そしてそれを敢えて刺激して、自殺の原因となった奴らに復讐しようと考えて……で、その結果が今。合ってるよね?』
「う、うん……まぁ、はい……」
『それに関する説教は後に置いておくけれど――じゃあどうして、この子は無事なんだい』
「……と、言いますと……?」
文章の節々から馬鹿な真似した私達への怒りが滲んでいるのは分かるけど、何が言いたいのかは分からないままだ。
恐る恐ると問い重ねれば、インク瓶は『はああぁぁぁぁ……』とわざわざ文字での溜息を吐いた。ごめんなさい。
『おかしいだろう。こんな事を仕出かすくらいに自殺した友達を想っていたなら、霊魂を見かけた時点で接触しに行った筈だ。つまりさっきここに居たっていう「何か」と遭遇したんだ。なのに、全くの無事で済んでいるなんて事があるのかな』
「……あ」
確かにそうだ。
黒髪女の言い分に嘘が無ければ、もし友達の幽霊を見つけたら絶対会いに行った筈だ。
そして二階に居たアレが――タバコ女を惨殺したであろう『何か』がその友達の幽霊だったのなら、顔を合わせたその時点で、黒髪女は今ここに広がっているような血だまりになっていてもおかしくはない。
「……や、でも、友達同士だった訳だしさ。案外、その……」
『そういった関係が安全に繋がらない事は、君も分かってるだろ』
「っ」
――あはぁ。
いつか聞いた笑い声が脳裏をよぎり、目を伏せる。
『そもそも、絶叫を上げて人を惨殺したりするようなのに、友人を判別できる理性が残っていると思うのかい。今回の「何か」はまず間違いなく見境なしだ』
「私の体質……というか、あいつは関係ないんだよね……?」
『ああ。君は君の言うところのオカルトの呼び水にはなるけれど、その本質を変えてしまえるような存在じゃない。ただ見られているだけ。遭遇率は上がっても、起こる被害の内容自体は変えられない。忘れたの?』
「……や、その、念のため……」
怒っているせいか、いつもよりズバズバ来ている気がする。
メモから逃げるように、黒髪女へ目をやった。
「ええと……じゃあつまり、ここで友達の幽霊視たってのが嘘って事? いや、だったら何なんだよ、この人とか、さっき居たのとか……」
『まぁ予想は付くけど……とりあえず後にしよう。話の続きなら帰った後でも出来るだろ』
「話し始めたのあんたでしょうが……」
私はぶつくさ文句を垂れつつ、未だによく分からない事を呟き続ける黒髪女に溜息をひとつ。
そして僅かに迷った末、彼女の腕を引っ張りあげる。
抵抗や、ついさっきのように襲って来る事は、無かった。
*
恐る恐る、トイレのドアを開けてみる。
まず否応なく目に飛び込んだのは、べったりと血と肉片が塗りつけられたガラス窓。
その他廊下の壁と床もまぁそこそこに酷いもので、再び吐き気が昇って来る。
反射的に口元を抑えつつ左右を見るが、『何か』の影は無い。
インク瓶の言う通り、この近くには居ないようだった。
「……よし……」
酷い光景とはいえ、これなら窓ガラスに飛び散っている血肉が目隠しとなり、他の階から覗かれる心配は少ないだろう。
私と同じく吐き気を堪えている黒髪女を半ば引きずりながら、トイレから飛び出し――その時、足元に血を引きずった跡がある事に気が付いた。
「…………」
おそらくタバコ女の……身体というか残骸というか、そういった物を引きずった跡だろう。
その先を目で追えば、それは吹き抜け階段の方角へと続いていた。
「……ん」
ふと思い当たり、ガラス窓に張り付く血肉の隙間から、下階を覗き見る。
すると二階の例の扉、『何か』が頭を打ちつけていた扉が少しだけ開かれており、その隙間に血肉の線が伸びていた。
……あの部屋に、タバコ女を運び入れたという事だろうか。
何でだろ。想像するだに恐ろしい。
そうして慎重に視線を走らせるも、見える範囲内に『何か』の姿は無かった。
件の部屋にまだ居るのか、それとも既に部屋を出て建物内を動き回っているのか。足跡の類も無く、分からない。
『……ここから一番近い出口は?』
「窓……だけど、それ私だけしか無理だし。正攻法ならたぶん、来る時に使った受付前のエレベーター。血が続いてる方向とは逆」
『良かった、じゃあ経路はそっちだ。なるべく急ぎなよ』
インク瓶の文に頷き、血の筋に背を向けてそそくさと移動する。
この光景を見る限り、『何か』は吹き抜け階段をメインに使っていると見て良い。あっちに行けばバッタリ遭遇する可能性が非常に高く、そこから離れる足にも力が入った。
『ところで……ここには君達の他にもう三人、いや店員を含めればもっと居るようだが、彼らはどうするつもりだい』
「あ」
カサリと揺れたメモを見てみれば、思わず声が漏れた。
ヤバい、他のチャランポランどもの事完全に忘れてた。
今この状況でアイツらほっとけば、間違いなくタバコ女ルート直行だ。
だが正直に説明しても、絶対信じてはくれないだろう。
トイレの惨状を見せれば何とかなるだろうけど、連れてく途中で『何か』と鉢合わせれば、みんな仲良く全滅である。
というかヤツらのふしだらな目的からいって、私達が脱出の意思を見せた瞬間、妨害に走るんじゃなかろうか。説明する事すらリスキーだ。
どうしたらいいんだ、これ――そう頭を抱えていると、くいと弱々しく腕を引かれた。
振り返れば、黒髪女が青い顔でこちらを見つめていた。
「ね、ねぇ……もしかして、近くに居るの……?」
「え? ……あ、ああ、『何か』が? 今は居ないよ」
「……そう」
問いかけの意味が一瞬分からず虚を突かれたが、すぐに察して首を振る。
どうやら、さっきの私が零した「あ」を違う意味に捉えたらしい。
まぁインク瓶とのこの形での会話は、傍から見れば完全な独り言だ。
近くで聞いたら色々不安になるよな――と、そこまで考えて、違和感。
……黒髪女もオカルトが視えるヤツなんだから、居るか居ないかくらい自分で分かるよな?
私がメモ帳に話しかけてる事とかには触れず、最初に聞くのがそれなのか?
他にも幾つか引っ掛かるものがあり、じっと俯く黒髪女に目を眇める。
「……いや、今はそんなんじゃないな」
思考途中で首を振る。今はそんな事より、チャランポランどもの扱いについてだ。
とりあえず今の状態の黒髪女となら、少しは会話になるだろうか。私はダメ元で彼女に意見を求めるべく口を開き、
――がたん。
「!」
「っ――きゃ」
その時、廊下の先から音が鳴った。
私はすぐに手近にあった部屋へ黒髪女と一緒に飛び込んだ。そして音が出ないようドアを閉じ、さっきと同じくその隙間にメモの先を差し込んだ。
防音処理の施されたカラオケ部屋の中からでも、この方法なら問題なく外の様子を窺える。
特に示し合わせた行動でも無かったが、インク瓶も何も言わず、手元の余白に見えた景色を描写してくれた。「ありがと」と口の中だけで呟いておく。
『……廊下の突き当り、自動ドアから誰か出て来た。若い男が二人だ。一人はぐったりして、片方にもたれかかってる』
「えぇ……?」
どんな状況だそれ。新しい客か?
「えっと……そいつら、ピアスとかツーブロックとかアゴとかしてる?」
『アゴ……? まぁ確かに、ぐったりしてる方は長いアゴが特徴的だね。支えてる方は腰元に前掛けしてるし、店員なんじゃないか』
エプロンを前掛けと呼ぶジジイ臭はさておき、その報告に私は小さく安堵の息を吐く。
どういう経緯かは知らないが、アゴ男が店員に介抱されているらしい。
あのアゴはダメなアゴだが、ピアス男やツーブロ男とかち合うよりはまだマシだろう。
というか店員が居るのが大きい。
客である私達の言葉も無下にはしないだろうし、ピアス男達も店員の言葉であれば一応は聞く筈だ。
是非とも助けを求め、彼らの相手を押し付けたいところではあった。
「……ねぇ、店員の人さ、トイレのアレに気付いてる感じする?」
『いや、見たところ焦っている様子は無い。おそらく、まだ把握してないね』
ここからトイレまでには、幾つかの曲がり角がある。
位置が悪ければあの血だまりも視認する事は無いし、防音の効いた室内に居れば件の絶叫も聞こえ難かったに違いない。
ピアス男達が未だに駆け付けて来る様子が無いのも、おそらくそれが原因だろう。
「よし……じゃあちょっと行ってくる。パパっと言い包めて、逃げんの手伝って貰って――」
『待ってくれ。少し、動きが妙だ』
意を決してドアノブを僅かに引いた時、インク瓶がそう制止した。
その意味を問いかけるよりも先に、開いたドアの隙間から店員のものと思しき声が流れ込む。
「――……んでトイレと逆いってんだ、こいつ……」
それは到底客にかけるものとは思えない、酷く醒めた声だった。
こっそり頭を出してみれば、店員が廊下の角にアゴ男を放り投げている所だった。
「ごげっ」と壁に頭を打ち付けたアゴ男の悲鳴が響き、そのまま角の向こう側、私の死角に転がった。
『……僕はカラオケ店にはあまり明るくないんだけど、その店員ってああいうのが基本なのかい?』
「んな訳ないだろ。や、まぁ、こんないかにもな店のモラル的なのは私も分からんけど……」
「――あの人、たぶん先輩らとグルだよ」
店員の暴挙にインク瓶と一緒になって引いていると、いつの間にか私の頭上から頭を出していた黒髪女がそう呟いた。私の疑問を察したらしい。
……少しだけ迷った後、彼女を見上げる。
「……グルって?」
「あの子に乱暴した一人。ここの店員面して、飲み物用意する時に何か入れる役じゃないかな」
「え? でもあんた下手人は四人って言ってたろ。ピアス、ツーブロ、タバコ、アゴで……」
「……そのアゴ君はたぶん、何も知らないスケープゴートだよ。もしやった事がバレちゃった時に、こいつがやったんですって突き出される役」
黒髪女は私の彼らに対する呼称に微妙な顔をして、そんな事をのたまった。
「えぇ……?」
「アゴ君、ベロベロでしょ。でも見てた限りじゃ、彼もお酒飲んでないの。ワタシ達と同じで何か盛られて、朦朧にされてる。あんな状態で店員含めた皆に口裏合わせられたら、自分でもホントの事なんて分かんないよ」
「でも襲われた人が……あ、そうか、写真撮られて、脅されたら……」
「……あの子の時は、アゴ君の位置に違う男の子が居たみたい。メールに書いてあった」
静かに呟く黒髪女は、それなりに落ち着いたようだった。
店員を睨む瞳は変わらず濁り、顔色だって酷いままだったけど、これまでと違って会話はちゃんと成立している。なんか逆に変な気分だ――と、
(っと、やべ)
そうこう話をしている内に店員がいきなりこちらに振り向き、咄嗟に黒髪女と共に頭を引っ込めた。
開いたドアはそのままだったけど、幸い彼は私達に気付かなかったらしく、気だるげな足音が遠ざかる。
その方向からして、目的地は私達が借りている部屋だろう。ピアス男達と合流する気のようだ。
……ちらりと、黒髪女を見る。
「なぁ、どうする、あいつら」
「…………」
「あの店員もグルってんなら、助け求めてもダメっぽいよね。他の店員もいないっぽいし、正直逃げろって促すのすら無理そうなんだけど……」
私の問いかけに、黒髪女はだんまりだ。
まぁ彼女の目的ははじめから復讐だ。現状望んだ通りになっており、助けるなんて選択肢は無いだろう。
正直私も見捨ててやりたいところだけど、確実に死ぬと分かっててそうするのも……。
そうして互いに沈黙したまま、どこか冷たい空気が流れ――。
――びた。
「ッ!」
裸足で床を打ち鳴らすような、湿った音。
店員の居る反対、さっき私達が来たトイレの方角からその音が響いた。
――『何か』が、来た。
そう察した私は即座に身を跳ねさせ、ドアの隙間もそのままに黒髪女と横の壁へと張り付いた。
「ぅぐ、ちょ、な――」
「分かってんだろ、来てるんだよ……!」
「……っ」
黒髪女は気付かなかったらしく少しだけ暴れたが、耳元で呟けば大人しく息を潜めた。
そして先程のように、互いの息遣いが響き続ける間が出来上がる……が、今回はそこに男の声が混じり込む。
「あ~……どっちからいくかな~……」
「……!」
無論、店員の声だ。
鼻歌混じりのそれには緊迫感の欠片も無く、寒々しく上滑りしていく。
「上、下……どっちか一発目、欲しいなぁ……」
もう絶対ピアス男の仲間だアイツ。
おそらく最低の呟きをしているのだろうが、私達はそれどころではなかった。
びた、びたという足音は確実に大きくなっていて、下手に動けず、声も出せない。
どうする。このままでは店員のヤツも死ぬ。だが声掛けして『何か』に気付かれたら私達も……。
……いや、まだあの絶叫が上がってないって事は、彼は『何か』の視界に入っていない。まだ見えない位置に居るんだ。
なら間に合うかもしれない。今の内に、さっさと彼が部屋に入ってさえくれれば――。
「っ、いやアゴ男……!」
そうだった。あのアゴは廊下に放り捨てられたままだった。
しかも黒髪女の話が正しければ、彼はピアス男達の被害者の一人と言っていい。
店員に関しては最悪しょうがないとしか思えないけど、彼を見捨てるのは違う気がした。
私はすぐに黒髪女から身を離すと、再びドアの隙間にメモ帳を差し込んだ。
『おい君――ああいや、いい。「何か」はまだ曲がり角の向こうみたいだ、行くなら早く!』
礼を言ってる間も惜しく。
そのインク瓶の文章を見た瞬間、私は部屋を飛び出した。
店員はこちらに背を向けているが、バレれば非常に面倒な事になる事は分かっている。
気付かれないよう足音を殺し、しかし出来る限りの速度でアゴ男へと駆け寄った。
「んぐ……ふへへ、へへ……」
(のんきに寝てんじゃねーぞノータリン……!)
その空気を読まないニヤけた寝顔に殺意が沸いたが、ぐっと堪えて我慢の子。彼の肩口に身を滑り込ませ、無理矢理に身体を持ち上げる。
高めの身長の割に肉はあまり付いてないらしく、思ったよりも軽かった。私の膂力であれば余裕すらもって運べるだろう。
――びた、びた、びた。
「……ッ!!」
廊下の曲がり角、その奥。
すぐそこにまで迫った音に総毛立ちつつ、必死に元居た部屋へと走る。
その際アゴ男の色んな部分が床に擦れたが、店員は気付いた様子が無い。ピアス男たちの居る部屋まで、あと数歩の所まで行っている。
これなら私もあいつも間に合う。一足早い安堵に息を吐きながら、私はアゴ男を部屋に運び入れ、
――その時、部屋の中から大きな音が鳴った。
「んな――」
椅子か何かが倒れたような、ガタンという音だ。
騒音とまではいかないけれど、この静かな廊下にはよく響く。
当然、店員はそれに反応し、こちらへと振り向いて――アゴ男を抱えた私と目が合った。
「……!? な、おまっ――お、お客様? それはどういう、」
「――――」
全てを聞き終える前に、全力で床を蹴った。
もう音を気にする意味も無い。
私は体当たりの要領で部屋へ突っ込むと、そのままアゴ男を床に放り投げ「んげっ!?」叩き付けるようにドアを閉じ切った。
「っ……お、おい、あんた――」
「椅子、倒しちゃった」
そうして黒髪女を睨めば、彼女は眼を合わせる事無くそう呟いた。
その足元には、確かに薄汚れた椅子が横倒しになっている。なっている、けれど、
『……もう、だめだね』
「!」
問い詰めるより先にメモ帳が蠢き、そう告げた。
見れば、ドアの中央部分に嵌る磨りガラスに、店員のものと思しきシルエットが浮かんでいる。
どうやら私達を追ってきたようで、ドアノブがガチャリと乱暴に下がり、
――次の瞬間、磨りガラスが真っ赤に染まった。
「っ……」
ドアノブが弾かれるように元に戻る。
同時にドア自体が小刻みに揺れ、部屋の前で何かが暴れている事が察せられた。
……だが、音は届かない。
質の高い防音機能が外界の音を断ち、誰の声も、飛び散る音も聞こえない。
いや、耳をすませば、微かに声のようなものが聞こえる気がしたけど――それが誰のものかは、私の耳でも判別がつかなった。
「…………」
「…………」
私も黒髪女も、一言も発さない。
無言のまま、ただ立ち続け――やがてドアの揺れが止まった。
……何か。
何かを言ってやりたかったけど、上手く言葉が出てこない。
私は暫く唸った挙句、喉を閉じ。ひとまず切り替え、またドアの隙間にメモを挿す。
『……居ないよ』と返ったメモをドアの隙間から引き抜けば――そこには、血がべっとりと付着していた。
「……なぁ……」
未だ意識を取り戻さないアゴ男を引き起こしながら、黒髪女を見やった。
返事は無い。
彼女は変わらず濁った眼をして、じっとドアを――磨りガラスの赤を見つめている。
……その口元に浮かぶ微かなそれを、私はどうしても咎める事が出来なかった。