「眼」の話(中①)
2
田舎エリアに続く橋に程近い、都会エリアの端の端。
ほとんど人通りの無いその一角に、そのビルはひっそりと建っていた。
元は複合ビルだったのだろうか。五階建てでやたら横に広く、外壁側面には様々な看板が生えていた。
しかし今や外壁はくたびれ、看板もその殆どが掠れ切り、各階に何のテナントが入っていたのかも分かりゃしない。客入りも全く無いようで、なんとも寂れた有様だ。
――で、私が居るカラオケボックスはその四階。
入るにも出るにも手間がかかる、とてもいやらしい階に配置されていた。
(……寂れ具合といい人気の無さといい、明らかにそういうアレ目的の場所じゃん。キッツ)
そんなとこに集まったチャランポランどもの騒がしさに紛れ、私は溜息と共に小さく呟く。
――結局、私は黒髪の女性の誘いを断る事が出来なかった。
一日と少しの間に悶々悩み、無視しようとも思ったけれど後ろめたくて出来なくて。
そうして迎えた今日の朝。家の前で待ち伏せていた女性にハッキリ嫌だという事も出来ず、流されるままこの場まで来てしまった。
正直、今もなお納得はいっていないし、なんなら今すぐ部屋を飛び出し廊下の窓を突き破って逃げ出したい。ビルの壁を伝って降りるなんて、私にはそこそこ朝飯前なのだ。
けれど、私の心に巣食う罪悪感がその行動の邪魔をする。
私のせいで、彼女の友達が酷い目に遭う事を防げなかった――そう言われると、どうにも。
「…………」
ちらりと、現在進行形で流行りの曲を熱唱している黒髪女を盗み見る。
するとバッチリと視線が合い、笑顔でウインクが返された。勿論、濁った瞳の。
……なんとなく考えを見透かされているような気がして、私はまた溜息を落とした
――私が黒髪女から頼まれた事。それはただこの場に居る事だけだ。
詳しい話は聞いていない――というか、全然まともな会話をしてくれないため、上手く聞き出せなかったのだ――が、彼女は私の『オカルトを引き寄せる性質』を利用したいようだった。
私はまだ視ていないけど、このカラオケボックスに居るという黒髪女の自殺した友人の霊。
彼女にとって嫌な記憶しかないこんな場所に居るのならば、きっと何か『したい事』がある筈だ。
だから私の持つオバケを元気にする力で、彼女の『したい事』をさせてあげて欲しい……との事。
明らかに「復讐の幇助をしろ」という意味であり、実際に下手人であるという大学の先輩を全員呼んでいる事から、確かな殺意が見て取れる。中学生の美少女に頼んで良い事じゃねぇだろ。
というかまず私の持つ性質を誤解しているし、そもそも自分の意思で振るえるものでも無い。ここら辺は何度も説明して訴えた事なのだが、終ぞ理解されないままだった。
ともかく、そうして私は黒髪女と仲の良い後輩高校生という事にされ、彼女の主催するカラオケ会に連れとして参加する事となってしまった訳である。くそったれ。
下手人は四人。
黒髪女曰く、彼女の通う大学内外でやたらと『遊んでいる』グループらしい。
顔がよく、グループの中心格でもあるらしいメタルピアスの男。
家が金持ちでグループの財布となっているらしいツーブロックの男。
そんな二人とつるみながら、女性としての側から動いているらしいタバコ女。
もう一人のアゴ男についてはよく知らないようだったが、頭の軽い男である事には変わりないだろう。
彼らは黒髪女の友人の死をまだ知らないらしく、今回の誘いも前回の穴埋め会と称せば特に怪しむ事も無く乗って来たようだ。
……前回逃がした魚を、私というおまけ付きで食べようという魂胆だろうか。
本当に中学生をつき合わせて良い場じゃねーだろ。いや今は高校生って事になってるけど、それでもダメだわ。
「――はい、以上で~す!」
そうして頭を抱えていると、黒髪女の歌が終わった。
パチパチと疎らな拍手が上がる中、彼女はにこやかに私の隣に戻り、「ん」とマイクをこちらに差し向ける。
……歌えってか、こんな状況で?
笑顔を作りつつも唇の端を引きつらせていると、タバコ女がさっとマイクを奪い取った。
「はい次あたしね。パッド貸してパッド」
「あれ、のど酒焼けしたんじゃなかったっけぇ?」
「言ったっけ? いいからパッドよこしなって」
そう言って笑う彼女はどうも私に意地悪を仕掛けているようだが、正直言ってありがたかった。
私は笑顔の裏で溜息ひとつ。熱唱するタバコ女の歌を聞き流しながら、目の前に置かれている飲み物のグラスへ何気なく手を伸ばし、
「――――」
瞬間、何処か空気がピリついた。ような気がした。
そうと気付かれぬようさっと視線を走らせれば、ピアス男とツーブロ男の二人が静かにこちらを見つめている――。
「…………」
私は少しの間考え、グラスに伸ばしていた手をそろそろと引っ込めてみる。
すると途端に二人は白々しく談笑を始め、私に意識を向けていないフリをした。
……これ、飲み物に何か仕込まれてたりするか?
まぁ、黒髪女の友達の件を考えれば、可能性は無くはないんだろうけど……まさかなぁ。
いや、でも私の飲み物はお酒ではなくただのお茶だし、その人のように前後不覚にするには何かしら盛るしか無い訳で……。
え、マジでそんな事するの? 初対面の高校生(詐称)相手に? 嘘だろ?
その時背筋に感じた怖気は、これまでオカルトから感じたものとはまた別の生々しい温度を持っていた。
私だってまだ子供なんだ、どう反応すれば良いのかも分からない。
困った私は、この場においてはまだ味方側だと言って良い筈の黒髪女へ、縋るように目をやって――。
「…………」
しかし、返って来たのは変わらず濁った瞳だった。
彼女はピアス男達と同じように、ただ静かに私を見つめるだけで、何も言葉を発さない。
……そっと黒髪女のグラスを見た。
そこには私と同じくお茶が入っていたが、そのかさは減っておらず、口を付けた様子は無かった。
たぶん、彼女もグラスに何かが盛られている事を察している。
というか彼女の場合、想定してない訳が無いのだ。
……だけど、私に何も言って来ない。
そもそも予めの忠告とか何も無かったし、今自力で気付かなかったら危うかった。それなのに。
「……っ」
「――あ、誰かタンバリン取って~?」
縋る事を止め、反対にその濁った瞳を睨みつけるも、黒髪女はそれを無視。
興味を失ったように視線を外すと、マイクを握ったアゴ男のお囃子を始めた。
(こいつ……)
味方じゃねーわ、この女。
彼女が私に望んだのは、この場に居る事ただそれだけ。
そこに安否は含まれていない事に、今更ながらに気が付いた。
……まぁ黒髪女にしてみれば、私がどうなっても当然の報いとか思ってるのかもしれないけど、こっちだって色々納得できてないんだからな。
つーかこっちは曲がりなりにも協力してんだから、そっちももう少し何かあんだろ。
私を除く奴らが順繰りに歌っていく中、彼女に抱いていた罪悪感が徐々に怒りへ変換されていく――と。
「あー、すんません。ちょっとトイレ抜けまーす」
アゴ男が暢気な様子で手を上げた。
どうやらもう酒に酔っぱらってしまったらしく、なんとも気分の良さそうな赤ら顔である。
……薄々思ってたけど、こいつだけ何か雰囲気ユルくない?
最初は私達の警戒心を薄れさせる役割だと思ってたけど、それにしたって暢気が過ぎるような。
そうして、フラフラと若干おぼつかない足取りで退室していくその背中を呆れ混じりに見送っていると、続いて黒髪女も手を上げる。
「あ、ならワタシ達もちょっと行ってきますね~。ほら立って立って」
「……え、私も? うわちょっ」
すると彼女は何故か私の手も取って、強引に立ち上がらせた。
トイレくらい一人で行けよ……と一瞬思ったけど、まぁそういう事じゃないよな、これは。
私も特には抵抗せず、黒髪女に手を引かれるまま一緒に部屋を後にした。
「……あの、何か話あるんです……よね?」
「おトイレ、行こっか」
防音のドアを閉めてすぐに問いかけたけど、返って来たのはそんな一言。
それ以上何を言い募っても返事は無く、静かにトイレのある方向へと歩いていくだけ。
……質問とか説明とか、会話試みるの止めようかな、もう。
「…………」
「…………」
そうやって私も黙れば、あとは無言空間の完成だ。
客も私達以外には居ないらしく、他のルームから漏れる音も無い。まるで廃墟のようなボロい廊下に二人分の足音だけが鳴り、やたらハッキリと跳ね返る。
それは人気の他に、ビルの中央部分が一階から最上階までを貫通する吹き抜けとなっている事もあるのだろう。
今でこそ寂れ切ったビルではあるが、建築にはそれなりのお金がかけられていたらしく、内部の各所にそういった見栄えのする造りが見受けられるのだ。
この廊下だってそうだ。
トイレまでの道中にはルームのドアがずらりと並んでいるけど、その途中、ビルの中心側の壁に大きなガラス窓が嵌め込まれている区間があり、前述の吹き抜け部分が一部見渡せるようになっていた。
それは全階同じ造りであるようで、それぞれの階の廊下の様子が見て取れる。
そして四階ともなると見下ろす景色は流石に高く、建物の老朽化も合わせ、若干崩落の危機感を煽られ――……。
「……、……」
ピタリと、足が止まる。
窓から見下ろす二階部分。その廊下。
もう何の施設も入っていないがらんどうのその場所に、白い影が見えた。気がした。
(……あぁ……居ちゃった……)
頬が引きつる。
このビルに入場した時、私達はエレベーターで四階のカラオケボックス受付に直行していた。
一階はともかく、二階なんてチラ見すらしなかった訳で、あの白い影の存在をあっさり見逃していたようだ。
「女の人……だよな」
嫌々に目を眇めれば、それはどうやら白い服を着た女性のようだった。
何かの扉に縋りつくようにして蹲り、そこに何度も額を打ち付けている。
……そして、見た感じ結構な勢いの頭突きなのだが、何故か全くその音が聞こえない。
私は静かな不気味さを感じながら、黒髪女を呼び止めた。
「……あの」
「…………」
「あんたがここで見たっていうお友達の幽霊、アレの事ですか」
「っ」
小声でそう問いかければ、流石の彼女も足を止めた。
そして私の指さす場所をバッと振り返り――やがて鼻を鳴らしたかと思うと、すぐそこに見えるトイレへと歩を速める。
もう一度声をかけても、以降はガラス窓に目を向ける事すら無かった。
「……えぇ……?」
何だその反応。
あの人、復讐したいほどに大切な友達だったんじゃないの……?
それとももう覚悟決まってるからいいって事? 或いは単にアレが別人だったとか?
黒髪女の考えている事が分からず、私は困惑しながら再び白い女性へと視線を戻した――……ら。
「……………………」
――女性の動きが、止まっていた。
扉に縋りつく姿勢はそのままに、頭を打ちつける事だけを止めていた。
そしてその頭はゆっくりと回り、少しずつ、少しずつ私の方へと振り向、
「――ッ!!」
アレに姿を見られてはいけない。
そう直感した私は視線を無理矢理引き剥がし、黒髪女の後を追う。
そして今まさにトイレのドアを開けた彼女の横をすり抜け、室内に滑り込む。
流石の黒髪女もそれには驚き身を強張らせたものの、必死にドアを締めろと訴えれば、怪訝な顔ですぐ閉めた。
……暫く警戒を続けたが、何も起きず。私は小さく溜息を吐く。
「……何なの?」
「いや、何って……あんたが何なんだよ……!」
その何も気にしてない風な態度に、いい加減イライラが無視できなくなって来た。
私は罪悪感の類を少しだけ忘れる事にして、黒髪女へ言い募る。
「ねぇ、もう帰りましょうよ。流されてここまで来ちゃったけど、流石にもうキツイって。あのチャランポランどももそうだけど……見たでしょ、さっきの」
「ふーん……」
「見るからにおかしくなってたし、動き出したらどうなるか分かんないよ。アレがあんたの友達だったとしても、こっちに危害加えて来ない保証なんて無いんだ。言いましたよね。ああいうの、正しい復讐相手に向かってくとは限らないって」
「へー……」
「……あのさ、ほんと話聞けよ。私もあんたには同情してるし、罪悪感だって持ってる。でも無駄に酷い目に遭うのはごめんなんだ。普通の人間相手なら逃げ出せる自信あったから我慢したよ。けどあんなさ、猛獣っぽいの相手だとそうも言ってらんない。アレをどうにかしたいってんなら、悪いけど私もう付き合ってらんな――」
「――そういうの、もういーよ」
突然、言葉を遮られた。
思わず口を噤んでしまった私を見つめ、黒髪女はにっこりと笑う。
「オカルトがどうとか、アレを見たとか見ないとか。鬱陶しいよねぇ」
「……は?」
「だからぁ、求めてないんだって、そういうの」
その表情に反してどこか苛立たしげに呟きながら、何気なく私の傍に立とうとする。
……ふと。彼女の片手が、いつの間にやらポケットに入っている事に気が付いた。
私はそっと距離を取ろうとしたけど、数歩下がればトイレの壁に背が付く。
その警戒を見てか、黒髪女も近寄ろうとするのを止めていた。
「……言ってる意味わかんないんだけど。オバケ元気にしてとか言って来たの、あんたでしょうが」
「うん。でもいいんだぁ、別に」
黒髪女は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべたまま、ポケットの下で何かを握り込む。そんな膨らみ方だった。
何考えてんだ、この女――そう睨みつければ、黒髪女は笑顔のまま溜息をひとつ。
「さっき、大人しく飲んどけばよかったのにねぇ。そうすれば、何も面倒なかったのに」
「はぁ? そんであんたの友達と同じ事になれって? アホかよ」
「っ……頼んだでしょ、キミはただここに居ればいーの。余計な事しちゃだーめ」
彼女の友達の件を当て擦れば流石に笑顔が揺らいだが、崩れるまでには至らない。
そして私に見せつけるように、やけに緩慢な動きでポケットから腕を抜く。
――そこに握られていたのは、スタンガン。
ドラマや漫画でしか見た事の無かったそれがバチリと跳ねて、私の顔を青く照らした。
「……いや、マジで意味分からん。何したいんだよ、あんた」
「怖がらないの? つよいね」
黒髪女は心底適当に返し、火花を上げるスタンガンを私に向ける。
……正直怖いは怖かったが、相手はオカルトではなく普通の人間だ。
捕まったら皮を剥がれる訳でも、極彩色の黄身とかくっつけてる訳でもなし。そんなのに比べたら、どうにでも出来る自信は幾らでもあった。
「…………」
私は静かに足に力を籠め、じりじりと近づいてくる黒髪女の隙を待つ。
その動きはあからさまに素人然としたものだったが、私を侮っている様子は無い。こっちもこっちで対人戦に明るい訳でも無いので、必要以上に慎重になっている自覚はあった。
極めて短く、そして小さな膠着状態――それが破られたのは、焦れた私が無理矢理に突破しようと膝をかがめた時だった。
「……何してんの?」
突然トイレのドアが開かれ、怪訝そうな声が響いた。
黒髪女と揃って出入口に目を向ければ、そこには半眼で私達を見るタバコ女の姿があった。
どうせ中々戻らない私達が逃げたんじゃないかと思って、様子見にでも来たんだろう。
救いの手でも助けを求めるべきでもない相手の登場に、私は一瞬どう動くべきか迷った。
一方で黒髪女はすぐに平静を取り戻し、私が何かを言う前にタバコ女へと笑いかけていた。
「いやぁ、タマちゃんがちょいグズっちゃって。ほら、先輩たちがいぢめるからさ~」
「はん、ガキがあたしらに混じるんだから、このくらいのイジりは普通でしょ」
「だっておうた大好きタマちゃんですよぉ? 100点取ってイイトコ見せるぞ~って意気込んでたのに、ね~?」
どの口で何ほざいとんじゃこいつは。
流れるようにスタンガンを隠しての取り繕いに、私は呆れるやら逆に感心するやらで二の句が継げなくなって、
「――……、」
……ドア。
タバコ女は、ドアを開けたままで立っている。
彼女の後ろはまだガラス窓の区間であり、立ち位置的に他の階からその背中が見えるだろう。
だからこそ、私はさっき黒髪女にドアを閉めるよう促したのだ。
ここはあいつに、二階のアレに見られてしまう場所だから。
「……あの」
「あん?」
「ドア、閉めませんか」
よくない、とてもよくない予感がした。
じわじわと足元から鳥肌が立ち昇り、視線が忙しなく揺れ始める。
するとタバコ女はそんな私の様子に何を思ったのか、ニヤリと笑ってさらに大きくドアを開け放ってしまう。
「ばっ、ちょっ……!!」
「はは、何恥ずかしがってんの。客なんて他に誰も居ないしルームもドア防音なんだから、どんな音鳴らしたって聞こえないって。ほら堂々とやっちゃえよ」
そういう事言ってんじゃないんだよ。
思わず怒鳴りそうになったけど、それをしたってもう意味は無いと分かってしまった。
鳥肌が全身に広がり、胃の底が急速に冷え込んでいく。
この身体に幾度となく味わってきたその感覚に、私は胸元に潜ませていた小瓶とメモ帳に手を伸ばす。
そして黒髪女は目敏くそれを見咎め、何をするかも知らないくせに私の腕を掴んで止めようとして、そして、
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
「ッ!?」
絶叫。
女とも男ともつかない嗄れ声が部屋を突き抜け、私の臓腑を激しく揺らす。
他二人にも同じものが聞こえているらしく、それぞれ混乱した様子で周囲を見回していた。
「……え、何――」
――直後、大きな足音を聞いた。
裸足で床を打ち鳴らすような、びたびたという湿った音。
それは響き続ける絶叫と共に移動しながら、瞬く間に音量を増していく。
遠くからこちら側に。下階からこの階に。
近付いているのだ。叫びを上げる『何か』が、全速力で、この場所に――。
「――!」
「っきゃ」
何も考えていなかった。
私は咄嗟に腕を掴んでいた黒髪女を抱え込むと、手近な個室へ飛び込み扉を閉じ、絶対に開かないよう背中を押し付け封をする。
タバコ女を気にしている余裕なんて無かった。
だって、絶叫はもう同じ階に、
同じ高さに、
直線上に、
隣に、
そこに、
――足音だけが、止まった。
「――ぎぅゅべ」
……それがタバコ女の声だったのか、それとも別の『何か』だったのかは分からない。
扉の外で常軌を逸した絶叫が木霊し続け、それ以外の音が掻き消されてしまったからだ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あまりの声量に鼓膜が痛み、意識すらもが飛びかける。
何が起きている? 外は今どうなっているんだ?
私は胸の黒髪女に縋りつくように抱きしめながら、必死に息を殺し続けた。
動悸に押されて漏れ出す息遣いが二つ、終わらない絶叫の中に紛れていく。
「……っ、ぅ……、く……」
「はっ……っ…………」
……そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。
突然ぶつんと途切れるように絶叫が止み、沈黙が訪れた。
そして耳鳴りが甲高く残る中、聞こえて来たのは何かを引きずるような音。
ずちゅ、ぐちゅ。ずりゅ、ぐぷ……。
酷く水っぽい気泡混じりのその音は、少しずつ小さくなっていくようだった。
どうやらトイレの外に出て、遠ざかっているらしい。何がかは、分からないけど。
「…………」
数秒か、それとも数十分か。
私と黒髪女は動く事も出来ず、ただじっと抱き合っていた。黒髪の隙間から覗く藍色のイヤリングを、意味も無く注視する。
……とはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかない。
私は黒髪女をそっと離すと身を屈め、個室の下、壁と床の隙間から外の様子を窺った。
「――ッ!」
目を瞠り、息を呑む。
すぐに立ち上がり、慎重に扉を開いた。
「あ」黒髪女が声を上げるが、少なくとも外には誰も、何も居ない事は確認出来ていた。
……そう、そうだ。『何か』は居なかったんだ、でも――。
「……ぐっ」
「ひっ……!!」
扉を開けた瞬間、私達を襲ったのはむせかえる程に濃密な鉄錆の匂い。
そして――汚らしく撒き散らされた、ぐちゃぐちゃとした赤黒い海。
きっと、タバコ女、だったもの。
「……ぁ? ぁ、あ――ぐ、おぇ……!!」
それを直視した黒髪女が嘔吐する音を聞きながら、震える手で小瓶を取り出し、中身をメモ帳へとふりかけた。
びちゃりと紙の上で踊るインクの音が、それの合図を告げている。
――命がけのかくれんぼが、はじまった。