{口}の話(中②)
*
「――っクロユ、」
爽やか先輩がワタシの名前を呼び切る前に駆け出した。
当たり前だ。今さっきのアゴ君への絡み方を見て、逃げない方がどうかしてる。
咄嗟の事とはいえ人気のない路地裏の方に引き返しちゃったのは大失敗だとすぐに悟ったけど、後ろからは既に足音が追いかけて来ていて引き返せない。今はとにかく撒くしかなく、懸命に足を動かした。
でもこちらはヒールの女の子で、あちらはスニーカーの成人男性である。
背後から聞こえる足音はあっという間に大きくなって――とある角を曲がろうとした所で、とうとう鞄のショルダーストラップを掴まれた。がくんと肩口から後ろに引っ張られ、思わず舌を噛みかけた。
「ぐ……!?」
「はっ、ははっ……ま、待って、待ってよって。なんで逃げんの、ねぇ――」
爽やか先輩の手がワタシの肩口を掴み、ギリギリと締め上げる。
その痛みに小さな呻きが漏れたけど、全部無視され無理やりに真正面を向かされた。
そうして対峙した彼の両目は充血し、その瞳孔も忙しなく揺れと拡縮を繰り返している。
呼吸も荒ければ口端には唾液が泡を吹いており、明らかにまともな状態じゃない。正真正銘何かの中毒者のようで、出かけた悲鳴を咄嗟に呑み込む。
「っ……あのぉ、突然なんなんですかあ? ほんと、とっても迷惑なんですけどぉ……!」
「いいって。分かってるから逃げたんだよね? やっぱ心当たりあるよね、教えなって。ねぇ、マジで、頼むから……!」
身を捩りながら抗議するけど、通じない。
自分の中の予想や妄想を、完全に真実だと結論付けてしまっているらしい。
何を言ってもまともに取り合ってくれず、ただただ変な薬やその入手ルートを強請られる。
必死に身を捩っても拘束は固く、周囲には助けを求められる人影もない。肩を掴んでいる指先もどんどんと深くめり込み、痛みによる脂汗が一筋流れた。
「いっ……! っだから、知らないって言ってるでしょお……!? いい加減離してっ!!」
「あの、あのね。さっきもさ、あの壁、現実、も、もう判断つかんくなってる。たぶんもうエグいとこまで来ちゃってんの! だからさぁ、お願い、ちょうだいよ、教えてってばぁぁ……!!」
「ちょっと、や――あぐっ!!」
いきなり壁に押し付けられ、背中と後頭部を強く打つ。
そして持ち物に目を付けたのか強引に鞄を引っ張られるけれど、ストラップを腕に巻き付け絶対に死守。隙をついて胸の中深くに抱え込み、必死に身体を丸めて蹲る。
「はは……それ、や、やっぱ持ってんだ? だよね、分かってんだよ、知ってんだ。俺の、君も使って、気に入ったんでしょ? 聞いてんだから……!」
「は、ぁっ? 何の、はなしでっ」
「――あのビルのっ、『お楽しみ会』の時だよ! 君ら、試しに使ってみたいって! だから分けてやったんじゃん、俺のぉ!」
「――、」
一瞬、理解が遅れた。
(……ぁ、え? なら、それって――)
瞬時にとある推測が頭の中で組み上がり、目の前が真っ赤に染まる。
しかしそれを行動とする前に思い切り突き飛ばされ、ワタシは乱暴に路上へ転がった。
「うぁっ……!」
「せ、せめて、それだけでも良いから返して……? 半年経って俺捕まってないんだから、警察にも見つかってないんだ。なら君だろ? 君が何か知って、いや、持ってて、きっと、仕入れの別ル、ルートも、見つけててぇ……!」
「……! だ、だめっ!!」
無論、ワタシの鞄にそんなものが入っている筈が無い。全部先輩の願望が混じった妄想だ。
けれど、大切なものが入っているのは確かだった。
無遠慮に鞄を漁り始めた先輩を止めようと、ワタシは痛む身体で飛びかかり――その直前に鞄の端から零れたものを見て、咄嗟に狙いを切り替えた。
「あ――」
――それは可愛らしい装飾の施された、ガラスの小瓶。
ワタシの、何よりも大切な宝物。地面に落ちるすれすれでそれをキャッチし、また転がった。
地面と擦れた肌に血が滲むけど、小瓶に異常は無かったようでホッと一息。大切に、大切にこの子を胸に掻き抱き――すぐに後ろから髪の毛を引っ張られた。
「ね、ねぇ、それ何? 何持ってんの? そんなにするって大事なやつだよね? それ、ねぇ、それだよね、絶対……!」
「ち……がうっ! そんなのと一緒にするなっ! ソレって言うなぁ!!」
先輩の手がワタシの両腕を掴み上げ、無理矢理に開いて小瓶を奪い取ろうとしてくる。
必死に振り払おうとするけれど、やっぱり力の差はどうにもならない。
ぎりぎりと音がする程手首が圧迫され、段々と手の先が痺れ、力が抜けてゆく。
身動ぎしても蹴りつけても、全く意に介されず。滲み始めた視界の中、ワタシはただ歯を食いしばる事しか出来なくて――。
「――っ」
その時、左耳を囁き声が擽った。
いつも通りの、どこかで見知った誰かの気配。驚いたワタシは反射的にイヤリングへと手をやって、
――直後、横合いから突っ込んで来た自転車が、爽やか先輩を轢き飛ばした。
「は――うごぉッ!?」
そこからの数秒間は、まるで刻の流れが遅くなったようだった。
先輩の脇腹に前輪がめり込んで行き、身体がくの字に折れ曲がる。
当然ワタシの腕の拘束も外れ、そのまま自転車に押し流されるように横滑り。鈍い悲鳴と共に、ゆっくりとワタシの視界からフェードアウトしていき……入れ替わり、自転車の運転手がすぐ目の前を横切った。
「――――」
見覚えのないおじいさんだ。
向こうも不慮の事故だったのか、驚きに引き攣った顔が通り過ぎ――最中、目だけがぎょろりとワタシを捉えた。
……表情と反して冷え冷えとした、けれどどこかで見た事のある瞳。
それはワタシに明確な意思を伝えていて、察すると同時に刻が元の速度を取り戻す。
「……っ!」
そして自転車諸共に吹っ飛んでいく先輩達に背を向けて、転がる鞄を拾って駆け出した。
やがて背後で派手な騒音と怒号が聞こえたけれど、全部無視。今この機会を逃さずに、ただひたすらに道を走って、
(――トンネル)
ふと、視界の端に例のトンネルを見つけた。
……少しだけ、迷ったけれど。
ワタシはイヤリングに触れながら、その正面を通り過ぎた。
*
「……はぁ、はぁ……!」
それからどれほど走っただろう。
学校近くとはいえ、あまり馴染みの無い道だ。
途中で自分でもどこを走っているのか分からなくなっちゃったけど、とにかくあの場から距離を取るべくひたすら足を動かした。
もっとも、ワタシはどこかのタマちゃんと違って体力自慢という訳でもない。
そう長くはもたず、脚はがくがく、汗はだらだら。おなかは痛いし、ともすればたぶんとってもマーライオン。
流石にこれ以上は無理そうで、ワタシはとうとうその場で動けなくなった。見知らぬ路地の壁に手をついて、必死に息を整える。
「ぜーっ、ぜーっ……き、来て、ない……?」
ちらと背後を振り返るも、追って来る足音は聞こえなかった。
そこでようやく気が抜けて、ずるずると壁にもたれて座り込む。
通行人から奇異の視線が突き刺さるものの、愛想笑いで誤魔化してる余裕も今は無く……。
(――あの、自転車の人は……)
自然と、ワタシを助けてくれたおじいさんの事が頭に浮かぶ。
いや、正しくはその瞳か。通り過ぎる一瞬に向けられたその冷たい色が、強く記憶に焼き付いていた。
「…………」
……けれど思索にふける前に、頭の中が別の事で埋め尽くされていく。
先輩のさっきの言葉と、その意味するところ。
ワタシはイヤリングに伸びかけていた指を戻し……ゆっくりと、握りっぱなしだった小瓶に目を落とした。
「ありゃー……」
走ってる最中もなるべく揺らさないよう気を付けていたつもりだったけど、結構シャカシャカしてしまっていたようで、中はだいぶ酷い事になっていた。
瓶の内側あっちこっちがべたべたで、中の様子が全く見えない。
元々が元々だから、軽く揺すれば元通りにはなったものの、ガラスにうっすらとした残滓が残って変な模様となってしまった。……なんとなく、不機嫌そう。
「ごめんねぇ……また、おうちのお手入れ、するからねえ……」
そしていつもみたいに、よしよしと小瓶を撫でてご機嫌取り。
小さな小さなガラスの中を、そのままじっと見つめ続けて、
「――そう、だったの?」
ガラスの内側にこびり付いた黒いものを、外からなぞる。
返事は無い。
無い、けれど。
「……帰ろっかあ」
直射日光の降り注ぐ中、ぽつりとひとつ呟いて。
ワタシは宝物をしっかりと懐に収め、ずるずると生傷と疲労の残る身体を引きずった。
ワタシの住むアパートは、学校のある地域からちょっぴり離れた場所にある。
一人暮らし向けを謳う小規模な建物で、部屋は狭く設備も最低限のものしかないシンプルな住居だ。
家賃もお安く清潔感もあり、ワタシも結構気に入っていたのだが――今この時に限っては、もう少し近場の物件にしておくべきだったと若干後悔してもいた。
「はぁ……やっと着いたあ」
アパートのエントランス。
出入口の自動ドアを這う這うの体で潜り抜け、途端に身体を包むクーラーの冷気に、ワタシは安堵の息を吐いた。
この猛暑の中をずーっと徒歩で帰って来るのは、流石に結構きつかった。
ほんとならバスやタクシーを使えればよかったのだが、今や爽やか先輩というストーカーが居る。
あのヤバい様子からして自転車に轢かれたくらいじゃ止まってないだろうし、街に戻ったり車の到着まで一つ所で待つというのも不安が残った。
結果として、ワタシはあのまま街中から離れ、念のために遠回り。夕方近い今になって、ようやく帰宅出来た訳である。しんど~い。
(……次、遭うまでには……)
つらつら考えながらも十分に涼んで汗も引き、心身共にちょっとだけ回復。
さぁお部屋までもうひと踏ん張りと、ワタシはくたくたの足でエレベーターへと向かい――その時、スマホに小さく着信。
見るとアゴ君からのメッセージで、爽やか先輩への注意喚起が記されていた。
『いきなりごめんけどすいません! 何か変な先輩が君探したた! 言ってないどもしかたしらヤバいも! 警察けど反応ダメッぽ君からもあってもて!』
「うーん、とってもあわてんぼう」
察するに、爽やか先輩から逃げ切ったアゴ君は、その後警察に通報なり飛び込んだなりしたのだろう。
しかしあんまりまともに相手をされず、慌ててワタシ本人にも忠告してくれた、と。こんなのでもなんとなく伝わるのが不思議である。
「……あはは」
まぁ色々と今更な話では合ったけれど、肩の力はちょっぴり抜けた。
ワタシは小さな苦笑をひとつ落とし、とりあえず短い感謝をメッセージに打ち込んで、
「…………?」
その時、自動ドアの外に誰かが立つ気配があった。
このアパートはエントランスにオートロックが付いており、基本的に住人以外にはドアが開かない仕組みとなっている。
何かの業者か他の住人の知り合いでも来たのだろうか。ワタシは何気なくスマホから顔を上げ――そして、瞬時に凍り付いた。
「――い、居たぁ……!」
――ドアの外に立っていたのは、爽やか先輩の姿だった。
ついさっきまで走っていたのか肩で息をして、全身から汗を滴らせている。
当然頭もまるで冷えてはいないようで、閉じたドア越し、ギラギラと充血した瞳をワタシに向けていた。
「な……んで……!?」
いきなりのエンカウントに頭が真っ白になり、思わず数歩後退った。
するとそれが変な刺激となったのか、先輩は自動ドアを強引にこじ開けようとし始めた。
そんな事をすればすぐに警備会社が来てしまうだろうに、そこまで頭が回らなくなってしまっているらしい。
「ね、ねぇっ! ここ居るんなら、君は現実なんだろ!? 一回分でいいからっ、後は自分で何とかするからっ、なぁ、頼むよぉ……!」
先輩の支離滅裂な言葉が繰り返される中、強く蹴り飛ばされた自動ドアが大きく撓む。
オートロックとはいえ薄めのドアだ。よく見れば端の方に若干の隙間が生まれていて、あまり長く保ちそうには見えなかった。
(ど、どうしよ。裏手から逃げる……いや、部屋に籠城……!?)
咄嗟に浮かんだ選択肢は二つ。即決出来ず、足先が迷う。
いや、まずはとにかく、出入口から離れなければ――そう駆け出したその瞬間、幽かな囁きが左耳を擽った。
振り返った先。
すぐ近くの壁に、今日幾度となく通ったオカルトトンネルがその口を開けていた。
「――――」
直後、背後で自動ドアが外れる音が響いて。
ワタシは咄嗟に、一番近くにあったトンネルへと飛び込んだ。
「ここ……っ!」
さっき爽やか先輩から逃げた時と同じく咄嗟の判断だったけど、今度は失敗したとは思わなかった。
だって最初の追いかけっこで、ワタシの足じゃ先輩を振り切れない事は分かっている。
エントランスに入られた以上、今から階段や裏手に走ってもすぐに追いつかれるだろうし、だからといってエレベーターを待っている余裕も無い。
でもトンネルくんなら、一度通り抜ければ消えてしまう。
追っ手を撒くのであれば、一番可能性のある逃げ道の筈――と、思ったのだけれど。
(え……な、長っ!?)
トンネルの様子が、想定と違っていたのだ。
位置的にはエントランスの奥面にあったトンネルだ。少し行けば、たぶん裏庭あたりに抜けるだろうと見ていたのだけれど……通路が予想外に長くなっていた。
出口の光はかなり先の方にあり、おまけに足元もなんだかぬるぬるになっていて走り難い。
(これじゃ追いつかれちゃう――……あれ?)
そう焦りつつ振り向いたけど、その気配は無かった。
というか、入って来た筈の出入口がぴったりと閉じている。
どうやらトンネルくんは本格的に一人用であったらしい。やっぱり一途!
(なら、このまま……!)
ホッとしつつ前を向き、滑る地面に苦戦しつつも出口へ走る。
……けれど、そうして一度落ち着いてみると、内部の様子の変化が気にかかった。
質感や空気感がどんどんと生々しくなっているというか、生物的なものになっている気がするのだ。
やがては頬を撫でる生暖かい風すらも、どこか気持ち悪さを感じてしまい――そこでようやく外へと抜けた。
「……ぷはっ、はぁっ……!」
いつの間にか、息を止めていたらしい。
酸素を求めて喘ぎながらも周囲を見回せば、そこはアパートから少し離れた道の途中。
位置としては、アパートから民家数軒を挟んだ場所に出たようだ。
通ってきたトンネルも既に消えていて、ワタシはその何も無い壁を見つめて少しの間ただ呆け。
(……っ、い、いやいや、今は……!)
ハッと我に返り、小走りになりながらスマホを取り出す。
家まで特定されてしまった以上、もうとやかく言っている場合じゃない。
少し残念ではあるけど、さっきのアゴ君の言う通り警察に通報して、先輩の逮捕なりワタシの保護なりをしてもらうしかないだろう。
ワタシは疲労に震える手指をいなし、スマホに手早く110とタップして、
「――そこぉ!? そっちが本当ぉ!?」
「っ!?」
しかし電話をかける直前、また大声。
そちらに振り向けば案の定、遠くから走って来る爽やか先輩の姿があった。
またトンネルくんを目の当たりにしたせいか錯乱度合いが加速しているようで、その切羽詰まった形相にはもはや爽やかさの欠片もない。
悠長に電話している場合では無くなり、ワタシも慌ててまた走り出す。
(こっちの居場所、バレちゃってる……!?)
絶対におかしい。アパートに来たのまでは尾けられたからで済ませられるかもだけど、トンネル通ってのこれは意味が分からない。
けれどカラクリを考えている暇も無し。ワタシは少しでも撹乱するべく、細い角を細かく何度も曲がって行き、
「――あ」
するととある塀にまたトンネルを見つけた。
……少しだけ躊躇したけど、背後の怒声は近付いている。
ワタシは意を決して再びトンネルの中に駆け込んで――爪先を何かにぶつけ、つんのめった。
「きゃっ……と、と?」
足元を確かめると、地面に突起がずらりと並んでいた。
等間隔に生え揃う、それぞれ厚みの違う四角形。真横一列に並ぶそれらは地面だけでなく、天井からも生えている――。
「――……っ」
……歯を。
自分の歯を、食いしばる。
加速度的に嫌な予感が増していくけど、進まないという選択肢はない。
さっきよりも湿り、さっきよりも生臭い風の吹くトンネルを、吐き気を堪えて駆け抜けた。
「はっ……はっ……!」
今度も入口から離れた場所に到着し、トンネルが消えた。
……無事に抜けられた事への安堵が、次第に大きくなっていく。ばくばくと暴れる心臓を抑え、今度こそとスマホを取り出し、「――今度そっちぃ……!?」また怒声。
的確にワタシに向かって近づいて来る気配を察し、すぐ逃げた。
(どうして追いかけて来れるの……!)
分からない。
分からないから、この状況も変わらない。
今度も逃げる内に追いつかれそうになって、そして都合よくトンネルがそこにある。
ワタシはその正面で躊躇って、大きくなる足音に急かされその中へ。
「うっ……」
すると、さっき見た一列の突起が伸びて、より大きく厚くなっていた。
それを跨いで越えれば、天井からは粘性のある雫が糸を引き。
足元は柔らかく、そしてはっきりとうねり、絶え間ない蠕動が静かに続く。
その光景にこれまでの比じゃない嫌悪と恐怖がこみ上げるけど、必死に我慢。
粘液だまりの異臭が鼻をつく中、絶対に滑って転ばないよう慎重に歩を進め、数分をかけて踏破した。
(せ、セーフ……まだ、セーフだっ――う、おえ)
そうしてトンネルから這い出すや否や深く息を吐き出して、そのまま別の物が出そうになり、慌てて口元に手をやった。
身体に纏わりつく嫌な生臭さに、嘔吐きが込み上げ止まらなかった。
堪らずその場に蹲り、衝動に耐え続けるけど、しかし長く立ち止まっている訳にもいかない。
どうせ先輩はまだ諦めていない。早く動いて、少しでも離れなければ。
ワタシは喉元までせり上がっていたものを飲み下し、ふらふらと走り――足裏に残っていた粘液が滑ってバランスを崩しかけた。
「いっ!? っぶなぁ……!?」
幸い転ぶまでにはいかなかったものの、鞄をあらぬ方向へ投げ出してしまい、ワタシは慌てて拾い上げ、
「――……?」
ぽろりと、鞄の小ポケットから何かが零れ落ちた。
咄嗟に受け止めれば、それは車か何かのキーのようだった。
四角いキーホルダーのついたシンプルなもので、全く見覚えがない。そもそもワタシはまだ運転免許も何も持っていないのだ。
ひとまずその場から離れがてら、ワタシは謎のキーを眺め――キーホルダーの裏に製品名の刻印を見つけ、その正体を把握した。
「――GPS……?」
確か、貴重品に取り付けて、スマホと連動して失せ物探しに機能する発信機のような器具。
……ああ、そうか、これだ。先輩はこれでワタシの位置を特定していたのだ。
きっとワタシの鞄を漁っていた時にでも紛れ込ませたのだろう。
色々とおかしくなっているくせに、変な所で狡猾だ。怒りと共に思い切り地面に叩きつけるものの、軽い音と共に跳ね返るだけ。壊せた手応えは微塵も無く、ただ道の端へと転がった。
(で、でも、これでもう――)
――なぁ、どれが本当なんだよぉ! お、俺もうダメなのかなぁ! ねぇってぇ!!
そう考えた時、どこかで先輩の悲痛な叫びが響き渡った。
ここから遠くない距離だ。キーを捨てたとはいえこの場所までは追って来るだろうし、ワタシの鈍足でこのまま逃げ切れるかどうか。
いや、でも、そうするしかない。
唇を噛みつつ、限界の近付く身体に鞭を入れ……すぐにぴたりと足を止めた。
「――ぁ」
……そこにはやっぱり、トンネルが開いていた。
道の片隅にぽっかりと開いた、暗い穴。
今日一日で散々に視てきたものだけど、今までの物とは様子が大きく違って見えた。
真正面に立てばよく分かる。
穴に入ってすぐの所には突起が並び、その奥にはざらつく塊が揺れていて。
壁も床もぬらぬらとした粘液で浸されて、吹きつける風は生温く、生臭い。
――元のトンネルの面影なんて、もうどこにも残ってない。
歯が揃い、舌が蠢き、唾液に塗れた息を吐き出すその穴は、とっくに粘膜の敷き詰められた口腔そのものとなっていた。
「…………」
響く足音は、もう近い。
ワタシの足じゃ振り切れず、隠れてもすぐに見つかってしまう。
……なら、どうする。懐の小瓶に手を添え、そっと大切に包み込み。
――はぁーっ、はぁー……っ。
「――っ」正面から零れた吐息が頬を撫で、耳元に囁きが渦を巻く。
トンネルを視据えた瞳孔が絞られていくのが自分で分かった。
喉が震え、足裏が砂利を擦る。そして目前の暗闇が誘うように舌を舐めずり……ワタシは、ワタシは――。




