表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/72

06.その目の奥の深い色にとらわれる

 その助手席にいま座っている見知らぬ彼は、時速三十キロほどで、あの道路から若干離れて静かな住宅街を走るわたしに、「右に曲がって」とか、「次は左で」なんて指示をだし、わたしはそれに黙って従っていた。

 何しろ、何を話していいかもわからない。


 ちらりと彼の顔をのぞき見ると、顎の下に手をあてて、何か考え込むようにして、わたしとは反対側の、窓の外を見ている。

 どうやら本当に平気そうだ。


 少しだけ、安心する。彼の倒れている姿を見たあのとき、わたしは何も考えられなかった。そうして、自分の職業のことを思った。

 実際のところ、わたしには、物語しかなかった。

 高校三年生の頃から書いている物語、つまり小説だけが、今のわたしに生活の糧と喜びを与えてくれていた。

 それだけあれば、何とかなる。そう考えていたものを失いかけたあのとき、わたしは被害者の救護すらせず、ただ呆然していることしか出来なかった。


 それが今では、その被害者を助手席において運転をしている。

 妙な成り行きに、苦笑さえ浮かんでくる。

 心配も、良心の呵責も、まだ少しだけあった。

 だが先ほどからわたしに一方的に指示を出し、遠慮も何も見せないその男には、わたしの心配は必要なさそうだった。


「止めてくれ」


 二十分ほどぶらぶらと、当てもなく周辺を走り回った後、不意に彼がそういった。

 周りに駐車場も何もない道の途中だったので、わたしはハザードランプを点灯させ、路肩へ停車した。

 その場所には見覚えがあった。

 少し前に、わたしがあわててハンドルを切った場所。

 つまり、事故現場だ。


 いつの間にか一周していたらしい。

 元の場所へ戻ってきて、彼は何をしようというのだろうか。

 そもそも彼は本当に何でこんなところにいたのだろう。

 住宅街から若干離れた、周りに雑地しかないこの道は、まぎれもなくただの通り道だ。

 住宅街と住宅街の間にあり、昼間の交通量は多い。

 が、夜になってしまえば歩く人も、車も滅多に通らない。


 まさか警察を呼べ、とか言うんじゃないだろうな。

 少しずうずうしくわたしがそんなことを考えていると、彼が言った。


「すまなかった。だが、助かった」


 彼の方へ首を向けると、その目と視線が合った。

 わたしはそのとき、つい、息を飲んだ。

 夜の車内の薄暗さでぼんやりとしか見えないが、そのときの彼の目にはなんだか妙な魅力があった。

 普通の黒い瞳なのに、吸い込まれそうな何かがある。


「いえ、別に」とわたしは、つい、そっけない声を出した。だいたいひいたのはわたしだし、なんて口の中でもごもごとしてから、ふと気づく。「それで、何か思い出しました?」


 彼が思い出せない、といっていた何か。

 おそらくわたしのせいである何か。

 その何かが解決しない以上、彼はわたしに何らかの責任を求めてくるんじゃないだろうか。

 何せ、どういうわけか彼が元気でぴんぴんしていたとしても、彼が被害者であるのは間違いないのだから。


「ああ、多くを。だが、重要な点は、まだだ」


 そんな風に答えたあと、彼はじっと、わたしから目を離さない。

 なんだか少しずつ、その顔が近づいてきている。

 わたしもまた、その目の奥の深い色にとらわれ、目を離せない。

 蛇ににらまれたかえるのように。


 それでもそっとのけぞって、彼と距離をとりながら、わたしはたずねた。


「……あの、どうしました」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ