06.その目の奥の深い色にとらわれる
その助手席にいま座っている見知らぬ彼は、時速三十キロほどで、あの道路から若干離れて静かな住宅街を走るわたしに、「右に曲がって」とか、「次は左で」なんて指示をだし、わたしはそれに黙って従っていた。
何しろ、何を話していいかもわからない。
ちらりと彼の顔をのぞき見ると、顎の下に手をあてて、何か考え込むようにして、わたしとは反対側の、窓の外を見ている。
どうやら本当に平気そうだ。
少しだけ、安心する。彼の倒れている姿を見たあのとき、わたしは何も考えられなかった。そうして、自分の職業のことを思った。
実際のところ、わたしには、物語しかなかった。
高校三年生の頃から書いている物語、つまり小説だけが、今のわたしに生活の糧と喜びを与えてくれていた。
それだけあれば、何とかなる。そう考えていたものを失いかけたあのとき、わたしは被害者の救護すらせず、ただ呆然していることしか出来なかった。
それが今では、その被害者を助手席において運転をしている。
妙な成り行きに、苦笑さえ浮かんでくる。
心配も、良心の呵責も、まだ少しだけあった。
だが先ほどからわたしに一方的に指示を出し、遠慮も何も見せないその男には、わたしの心配は必要なさそうだった。
「止めてくれ」
二十分ほどぶらぶらと、当てもなく周辺を走り回った後、不意に彼がそういった。
周りに駐車場も何もない道の途中だったので、わたしはハザードランプを点灯させ、路肩へ停車した。
その場所には見覚えがあった。
少し前に、わたしがあわててハンドルを切った場所。
つまり、事故現場だ。
いつの間にか一周していたらしい。
元の場所へ戻ってきて、彼は何をしようというのだろうか。
そもそも彼は本当に何でこんなところにいたのだろう。
住宅街から若干離れた、周りに雑地しかないこの道は、まぎれもなくただの通り道だ。
住宅街と住宅街の間にあり、昼間の交通量は多い。
が、夜になってしまえば歩く人も、車も滅多に通らない。
まさか警察を呼べ、とか言うんじゃないだろうな。
少しずうずうしくわたしがそんなことを考えていると、彼が言った。
「すまなかった。だが、助かった」
彼の方へ首を向けると、その目と視線が合った。
わたしはそのとき、つい、息を飲んだ。
夜の車内の薄暗さでぼんやりとしか見えないが、そのときの彼の目にはなんだか妙な魅力があった。
普通の黒い瞳なのに、吸い込まれそうな何かがある。
「いえ、別に」とわたしは、つい、そっけない声を出した。だいたいひいたのはわたしだし、なんて口の中でもごもごとしてから、ふと気づく。「それで、何か思い出しました?」
彼が思い出せない、といっていた何か。
おそらくわたしのせいである何か。
その何かが解決しない以上、彼はわたしに何らかの責任を求めてくるんじゃないだろうか。
何せ、どういうわけか彼が元気でぴんぴんしていたとしても、彼が被害者であるのは間違いないのだから。
「ああ、多くを。だが、重要な点は、まだだ」
そんな風に答えたあと、彼はじっと、わたしから目を離さない。
なんだか少しずつ、その顔が近づいてきている。
わたしもまた、その目の奥の深い色にとらわれ、目を離せない。
蛇ににらまれたかえるのように。
それでもそっとのけぞって、彼と距離をとりながら、わたしはたずねた。
「……あの、どうしました」