04.越えてははならない壁を越える
「本当に大丈夫なんですか」
車に乗り込む直前、わたしは彼にもう一度たずねた。
同じ質問は、もう何度もしていた。
そうして、彼から返ってきた答えも、こちらも何度も繰り返されたものだった。
「大丈夫って、ぼくの体のことか。それなら、さっきも言った通り、問題ない。それよりも、この周囲のことを知りたい。少し、その車で周囲を走ってもらいたい」
「……あの、警察と、救急車を、呼ぼうと思っていたんですが」
少しのためらいの後でわたしはそう言い、それから自分の良識を疑った。
なぜならそれは、聞くまでもなく当然すべきことだ。
それをあえて尋ねるということは、そうしない可能性を留保した上で、相手に投げかけるという行為に他ならない。
だが彼はこう答えた。
「呼ばなくていい。いや、呼ばないでくれ。面倒だ」
わたしはじっと、その目を見た。
その答えに引っ掛かりを感じた。
警察を呼ばれると面倒。どういう意味だろう。
警察と関わり合いになるのは、一般人でも面倒といえば確かに面倒だ。
だが、あるいはこの人は、犯罪にでも関わっている人なのだろうか。
もしそうだとすると、警察を呼ばないというわたしの選択は、危ない。
わたしが法を犯す、犯さない以前に、わたし自身が何らかの危険に巻き込まれてしまうのではないか。
警察を呼んだ方がいいのでは? 彼のためではなく、自分のために今一度、そう考えてみる。
しかし、目の前に立つ彼は、わたしから見つめられても動揺した様子はなかった。焦りも見られない。
警察が来たら、来たなりで仕方がない、そんな風に考えているようにも思えた。
「……本当に、いいんですね」
最後にそうたずねると、彼は平気そうにうなずいた。
「ああ」
そう答える彼には、見たところ、何か怪我をしている様子はない。
だけどそんなこと、ありえるのだろうか。
首をひねりながら、わたしは車に乗り込んだ。
車のキーは抜いていなかった。
そのキーを回す前に、少しだけためらった。もしも車が動かなかったら、どうしよう。
だが、車のエンジンは何の問題もなくかかった。
軽くアクセルを踏むとしっかりと前進する。ブレーキもしっかり作動する。
次にバックギヤに入れて、後退をしてみる。こちらも問題ない。自走には何の問題もなさそうだ。
そう判断したあと、わたしは、このまま逃げてしまおうかと、ふとそんなことを思った。
その程度には、彼に不気味さを感じていた。
もちろん、その考えはすぐに改めた。
今、このタイミングで、彼をここに置いて逃げるなどあり得ない。
ただ、それを言ってしまえば、このタイミングでドライブがはじまることもまた、ありえないのだけれど。
わたしは窓ガラスをあけ、彼の方を向いて声をかけた。
「動くみたいです」
「よかった」
軽くうなずいて、彼は、ためらう様子もなく、助手席の方へ回った。
そうして、ドアを開き、車に乗り込んできた。
ポケットからナイフでも取り出して、脅迫してくるかとも思ったが、そうはならなかった。
わたしはふう、と息を吐いてアクセルを踏んだ。
車が動き出す。警察と救急車を呼ぶべき、事故現場をあとにして。
これで何かを、越えてはならない常識の壁というものを乗り越えてしまった。
後戻りは出来ない。そういった緊張はもちろんあったが、他にも心配な点はあった。
わたしは、他人を自分の車に乗せる機会がほとんどなかったのだ。