03.わたしにわかるはずがない
彼の言葉に、わたしは答えることが出来なかった。
何かをしていたはず。
そう言われても、わたしにわかるはずがない。
彼はじっと自分の手を見たまま、硬直していた。
その様子を見て、少し不安になる。
彼は、事故の衝撃のせいで、どうにかなってしまったのだろうか。
それとも、もともとこういう人だったのだろうか。
「あの」
わたしはそう、声をかけた。
彼は首だけこちらに向けた。胸の前に広げた両手はそのままで。
「お体は、大丈夫ですか」
そう聞くわたしを、じっと彼が見返す。
少しの間があって、それから彼が答えた。
「ああ、大丈夫。問題ない。ただ、……」
そう言いよどんでから、また両手に目を向ける。
音こそ聞こえなかったが、何かを口の中でぶつぶつとつぶやいている。
思い出せない。
その繰り返される小さなつぶやきは、そんな風に聞こえた。
そうして、再びわたしに目を向けた。
「きみが何かに関係している。そんな気がする」
そう、大いに関係していた。
だが、今のわたしはどうしていいかわからなかった。
そうしてまた、不安でもあった。
この人は、いったいどういう人なんだろうか?
つい先ほどまで、わたしは人をひいてしまったという不安で一杯だった。
今は違う。
目の前の男、まだ若くて背も高い、そうして顔立ちの整った彼は、わたしの考える交通事故の被害者とは、まるで異なる挙動をしていた。
ひょっとしたら、わたしは交通事故なんて起こしていないのでは?
そんな思いが頭をよぎる。
何しろ、よく覚えていない。猫をよけようとしてハンドルを切り、視界に入ってきた人影にあっと思い、…………気づいたら、車の外に立っていた。
その二つの出来事の間に起こったことは、わたしはぎりぎりのところで彼を避け、彼は驚きのあまり歩道に倒れ込み、そうして今は二人で混乱している、ということなんじゃないだろうか。
わたしはそっと、彼のそばを離れた。
彼は再び自分の両手に多大な関心を抱いており、わたしの行動には気づかなかった。
わたしが向かった先は、すぐそばに止めていた自分の車だった。
車は歩道に乗り出すようにして、斜めに駐車していた。
そばを警察が通らなくてよかった、とふと考えた。
仮にぶつかっていなかったとしても、この状態の車を見られただけで、交通違反になりうる。
わたしの愛車はトヨタのパッソで、赤い色のものだった。
一時期トマトカラーとしてCMをしており、まだ幼かった頃のわたしはその車にあこがれた。
大人になって車が乗れるようになり、はじめて選んだのは、この車だった。
その車のフロント、丸みを帯びたその部分は、まだかろうじて車の形は保っていたものの、何かにぶつかったように大きくへこんでいた。
ひどく驚いたあと、わたしは後ろを振り返った。
彼がまだ立っており、こちらに気づいてはいない。
そのほかには、何もない。
ガードレールも、電柱も、ポストも、看板も、車にぶつかってこんなにへこむようなものは、他に何も。
車にはかなりの衝撃が加わった形跡があった。が、にわかには信じがたい。
金属で出来た車体がこんなにへこんでいるのに、人間は無事でいられるものだろうか?
だが現実に彼は平気で立っている。そうしていま、両手から目を離した。
わたしに目を向け、こちらに近づいてくる。
彼に話しかけられたとき、少しの怯えもなかったというと、嘘になる。
「すまないけれど、お願いがあるんだ」
「なんでしょう」
「君のその車にぼくを乗せて、少しの間、このあたりを走ってくれないか。それで何か思い出せるかもしれない」