第8話 異界にて、調査開始
目の前で、小柄な少女がうつ伏せで倒れていた。
細部は確認できなかったものの、服やその体型には見覚えがあった。
「おい、千夏! 大丈夫か!?」
反射的に駆け寄ってみると、僕の声で覚めたのか千夏が体を起こした。
「うっ……。せ、誠也先輩ですか?」
「ああ。千夏、何があってこうなったんだ?」
「わからないです。ただ林の中に居る時に真っ黒の物体を見つけたんです。それから頭が変なふうになって、意識が飛んでしまって」
「なるほど。僕と同じようみたいだな」
ある意味の納得というか安心感を得られた。
しかし、状況が理解できたというわけではなかった。
依然として、この空間が何なのかはまったく分からない。
それに持っていたはずの鞄もなかった。あるのは財布と携帯電話だけで。
そして、遠乃や雫たちの姿は見当たらなかった。影も形もない。
“もちろん心霊現象も目撃されてるし、神隠しの噂も確認できた”
“神隠しです。うちの高校で1人、行方不明になった人がいるんです”
頭の中に、ふと彼らの言葉が思い浮かぶ。
異界のような空間、消えたはずの4号棟、そして今の状況。
――僕たちは神隠しに遭遇した。そんな現実を突きつけられている。
「……これからどうするんですか」
「わからない。とりあえず、今は何かやってみることにしよう」
そう言って、考えながら辺りを見渡してみる。
可能性があるのは霧の向こうだろうか。あの先がどうなのか気になった。
「よし、僕がこの先を見てくる。ここに居てくれ」
「だ、大丈夫なんですか?」
「問題はないはずだ。すぐに戻ってくるよ」
千夏の不安そうな視線を背に、あの白い世界へと入っていく。
この中に入ったことで分かったが、霧よりは煙のようなものだった。
視界を遮る以外には何の意味も感触も存在していない白い気体。
物理的な影響はなかった。だけど、これに包まれていると自分はどこに居て、どこに歩いているのか分からなくなる錯覚に陥りかけるようだ。
変な浮遊感に苛まれつつも、進んでいくと煙が薄くなったことに気づく。
希望が見えて、そこへ駆け足で向かって……見えたものは。
「先輩?」
真正面から見た団地棟と千夏の姿だった。絶望と空虚感が襲ってきた。
「どうしました? 何かあったんですか?」
「……あれから真っ直ぐ歩いたんだ」
「えっ? でも、それって」
「どうやら、ここから出ようとしても戻ってしまうみたいだ」
常識で考えたら有り得なかった。試しに今度は東の方向に走る。
だけど、僕の体は数秒も待たずしてこの場所へと戻ってきてしまう。
……何をしても戻ってくる。体から冷たい汗が流れる感触がした。
「そ、そうだ。電話だ!」
携帯の画面を見る。ほんの微量だったが、電波は繋がっている。
何かに急かされるように通話を試みることにした。相手は遠乃だ。
「もしもし、遠乃か!?」
何回かのコールの後、相手が出る音がした。
『どうし――こっち――よ――いき――消え――今は――どこ――』
「お、おい。何を言ってるのかわからないぞ……!」
『あた――同じ――な――とにか――どこに――早く――』
ダメだ、雑音が混じってまともな会話ができない。
どうしようかと焦っている内に、通話は切られてしまっていた。
画面には圏外のマークが浮かぶ。きっと、ここでは使い物にならないのだろう。
「こちらもダメです。雫先輩にやってみたんですけど」
千夏が、苦虫を噛み潰した表情で呟いた。
何をしても出られない空間に、助けを呼べない孤立無援の状態。
そして、それらの問題を時間が解決してくれるとは思えない。
簡単な話にすると八方塞がり。どうしようもない状態というわけだ。
だけど思考を止めるわけにはいかないし、諦めの気持ちはなかった。
打開策を考えていく。もしも、この状況でそれがあるとするならば。
「この中に入るしか、ないか?」
幽明を象徴するように聳え立つ団地棟を見て、僕は呟いた。
「き、危険じゃないですか?」
千夏の呟きは当たり前のものだろう。
異界と化した空間にある建物、何があるのかは分からない。
神隠しの噂を考えるならば、潜む怪異に襲われる危険性もあるはずだ。
「そうだけど、この状況を考えると行くしかない」
繰り返すことになるが、現時点では何もかもが不明だ。
じっとしていたところで解決するとは思えない。むしろ悪化する予感がする。
だったら行動を起こすだけだ。目の前に怪異と思わしき空間があるのなら、暴き出してしまえばいい。黒羽団地の怪異の謎を、ここから出るための方法を。
……こう覚悟を決めておいて、自信満々になっておいてなんだけど。
どっかの馬鹿と同じような発想をしてしまった。ものすごく複雑な気分だ。
「分かりました、行きましょう」
そんな僕の心中とは裏腹に、しばしの沈黙で千夏は頷いてくれた。
前々から思っていたが、彼女はこういう時には案外行動的だ。
変な方向やベクトルで暴走したり、怖がりで怪異を呼び込んでしまわなかったりする分、調査の相方として優秀な人物なのかもしれないな。
「千夏は僕の後ろに付いてきてくれ。離れないように」
「わかりました」
不安と覚悟に苛まれながらも、4号棟に足を踏み入れる。
入った途端に、生気を感じられない冷気が僕たちを襲ってきた。
無意識に肌を強張らせてしまう、独特で深く暗く冷たい雰囲気。
それは、まるで人々の住まう場であることを忘れているように思えた。
「中の作りは他の場所と同じようですね」
千夏の言葉の通り、構造は昨日に見た黒羽団地の棟そのもの。
ここが黒羽団地の一部だという推測がますます現実味を帯びた。
だけど、それに加えて奇妙なところはあった。
この場所を構成する全体が今まで見てきた棟と比べて、真新しいのだ。
年季のあるひび割れも、土の汚れも、見ることができなかった。
「これは凄いな……」
そして、もう1つの奇妙な点。
脇にあるポストの、その全てがガムテープで何重にも塞がれていた。
「何でしょうか、これ」
「勧誘やセールスお断りにしては過激すぎるな」
普通に考えて、生活するのに必要な手紙が受け取れなくなるだろう。
仮にするとしても、ここまで厳重に塞ぐ必要もない。剥がすのが困難になるほど厳重かつ複雑にされたポストには、恐ろしいほど強迫的な執念を感じる。
まるで、この場所の住民全員が外部と接触を断絶しているようにも思えた。
「先輩、見てください。あそこに掲示板があります」
千夏に言われて見ると、質素な掲示板が壁に付いていた。
おそらく住民の連絡用だろう。回覧板と合わせて団地の情報網とされている。
内容も掃除の当番や避難訓練の連絡など、極めて一般的なもの。
だけど、一枚だけ、他とまったく違う張り紙が目に入ってきた。
『七星顯宗が語る怪異と深層心理の秘密』
何故か貼られていた、そのレトロチックなポスターが気になる。
デザインも目を引くし、それに中心に書かれた人物に見覚えがあった。
「七星顯宗か」
「この男性のこと、知っているんですか?」
千夏の意外そうな声に、僕は小さく頷いた。
「1970年代のオカルトブームは知ってるよな」
「ここに来る道の途中で先輩たちの会話でありましたね」
「その時代には、テレビや雑誌等で多数の霊能力者や超能力者が出るようになったんだが……七星顯宗はその中の1人だ」
全盛期を迎えたオカルトブームの、その後半に活躍した人物。
彼は今までの超常現象を批判するという形で一躍人気になっていった。
ブームも情報が繰り返されることで陳腐化し、よくある怪異や超常現象がつまらない人々には魅力的に映ったのか、多くのメディアで顔を出すようになった。
「怪異や心霊現象の事件を暴露して、世の超常現象の殆どは偽物だと主張。そして、自分こそが怪異を創造する本物の人間だと自称していたんだ」
「怪異を創造する……ですか?」
「ああ。真偽は定かでないが、彼を批判する人物に不可解な事件が起きたという噂もあるほどだったんだ」
それも彼の人気を集める要因となり、熱狂的なファンがつくようにもなった。
けれども、消えるのも早かった。理由は彼がインチキだという証拠が出たから。
超能力者や霊能力者のアンチテーゼとして話題になった彼には、こういったスキャンダルは大きすぎたのだろう。それをきっかけに人気は失墜したという。
「でも、この人が活躍していたのって」
「さっきも言った通り、オカルトブーム真っ只中の1970年、その後半だ」
だが、僕が気になったのは彼自身のことではなく。
彼は表舞台から消えて、その後は行方が知れなくなっていたのに。
彼を飾るポスターが、何故この掲示板に貼られているんだ?
「そんな人の、そんなものが何故ここに?」
「謎だな」
だけど、それが何故かは現時点では分からない。情報が足りない。
「なら、とりあえず次は101号室に行ってみませんか?」
「そうだな」
そして、こういう時は行動あるのみ。
ゆっくりと僕は頷いて、重々しい足を101号室に進ませた。




