第15話 対峙、真実、そして絶望
再びあの集団から逃げきった僕たちは、目的地に到着した。
あれから逃げ切ること自体は簡単だった。
数は多かったが、やはり行動はちぐはぐだったからだ。
こんな場所にいるとは考えないのか、もう追手の姿は微塵も見えなかった。
「…………」
人工の力で舗装された道。山というよりは長い坂だった。
そんな坂を上っていく僕たちの間に会話はなかった。
しないというよりはその余裕がなかった。肉体的にも、精神的にも。
こんな状況で、思い出してしまうのは卯月と宮森さんのこと。
本が好きで、特に執筆には真剣に向き合っている姿が魅力な卯月。
変わった面もあったが、気さくで明るい性格が印象的だった宮森さん。
そんな二人の良いところが奪われて、狂花月夜に従う物語の歯車と化した。
それがこの上なく腹立たしく、恐怖で、僕の心に大きな影を落としていた。
「此処から先、もっと道が険しくなりますよ」
不意に聞こえてきたのは、千夏の小さな声だった。
右前方を見ると、まさに獣道と呼ぶような植物が乱雑に覆い尽くす道があった。
そして、その入り口の端には、錆だらけの自転車が放置されていた。
現地の人のものなのか、不当放棄されたものなのか――犯人のものなのか。
「……行こう、二人とも」
「そうだな」
簡単な受け答えを交わして道を進む。二人は沈んだ表情をしていた。
おそらく鏡を見れば、僕だって同じような表情をしているだろう。
「……おっと」
「だ、大丈夫、誠くん?」
「ああ、大丈夫だ」
道に入った途端に木に足が引っかかった。
……想像以上に、この道は歩きにくいみたいだな。
膝の高さまで伸びた草は邪魔で、おまけに見えない足元の石に躓きかけた。
慎重に歩かないと。前はあまり見ず、足元へ神経を集中させる。
――きしゃああぁぁぁぁ!!!
そんな時、巨大な断末魔が耳に入った。
只事ではないことを感じさせる、普通では考えられないような音だった。
「は、早く行かないと!!」
今まで先頭を慎重に歩いていた千夏は、それを皮切りに走り出す。
最悪の事態を考えてしまったのだろう。言葉にし難い焦りが見えていた。
「ちなっちゃん!? 危ないよ!」
不安定な足場に何度も転びそうになりながら、僕たちは後を追いかける。
「どうしたんだ、千夏」
それが少しの間だけ続いた後。
道は長くなかったので、その先で足を止めていた千夏の元に辿り着けた。
彼女の視線、到着点を確認しようとして――初めに感じたのは視覚よりも嗅覚。
風に運ばれてきた強烈な異臭。鉄と肉が腐ったような匂いだった。
「あ、あなたは」
今までの道では生えだらけだった雑草のない、平坦な広場。
その空間にいたのは1人――丸々と太った中年の女性だった。
陰鬱な様子で、ぎょろついた目は僕たちを捉えたり、他の場所を見たりを繰り返している。
それはひと目見ただけで異常性を感じられるほど、挙動不審な様子だった。
これだけでも異様だったが、その女性で目立ったのは――その左手。
赤黒く染まった雑巾のようなナニカが乱暴に握られていた。
もう片方の手の血濡れた包丁と、逃げ惑う他の小動物から、正体は明確だった。
……間違いない。彼女が、狂花月夜の創造主である女性だ。
「お、おおおおおっ!! お、おおお前は誰だ!!? 何故ここにいる!!!?」
突然の僕たちに行動を止めていた女性。それが急にこちらに叫んできた。
「な、ななな何故、こ、この場所がわかったんだ、よぉ!!?」
「魔本で完璧な存在を産むことができても、あなた自身は欠陥品でした」
「はぁ、何を――」
「あなたが犯してくれた失態のおかげでここまで辿り着けたんです」
ここまで来たんだ、真実を告げることにした。
女性に言った通り、ここまで辿り着けたのは卯月に見せた本とブログのおかげ。
それは狂花月夜の完璧な行動ではなく、女性の感情に任せた行動によるもの。
結局、どんなに素晴らしいとされる登場人物を出したとしても。
肝心の作者が追いついてなければ……それが活かされることはないのだろう。
「あ、ああぁ」
その真実は女性の予想を超えていたのか、挙動の勢いが止まった。
もはや言葉はないか、そう思った僕の態度は無意識の内に勝ち誇っていたのか。
「ふ、巫山戯るな、私は素晴らしいんだぁ! 完璧な世界の救世主なんだぁぁぁっ!!!」
僕の態度が逆鱗に触れたのか、閉じていた口を大きく見開いた。
理論的な反論、というよりは何か言い返そうとして放たれた感情的な叫び。
おそらく彼女にしか理解できないだろう叫びに、僕は哀れと思っていた。
それは二人も同じようで、特に千夏はあからさまにため息を吐いた。
「犯罪者が救世主を名乗るとは、世も末ですね」
「私に従え、クソガキィィィッ!! “完璧”にしてあげたんだからぁぁぁっ!!!」
「……はぁ?」
女性は、物語の一部であるはずの千夏が自分に歯向かうことは癪だろう。
しかし、それは怪異の正体を知っている僕だからこそ判る答え。
それを知らない千夏にとっては、要領を得ない言いがかりでしかなかった。
「何で従わなければいけないんですか。あなたみたいな人でなしに」
心底嫌そうで、存在を拒否しているように突き放した千夏の発言。
それは動物を殺し、自分に従えと喚いてくる女性に対して妥当なものだろう。
しかし、空想の物語に生きる女性には、許せるはずのない言葉。
怒りで全身を震わせ、醜く歪んだ顔を、更に歪ませて僕たちを睨みつけてきた。
「アンギャアァァァッッ、ガアアアアアアァァッッ!!!」
突如として金切り声を上げて飛びかかった。
もはや言葉にすらなっていない叫びに体は身構えていたが……。
「……ガ? ガァ、ガァアアアァア!」
それは杞憂に終わった。
何もない場所で躓いて、その醜悪な巨体が倒れたからだ。
それは相当痛かったようで、人間とは思えない雄叫びを無様に響かせている。
「何なの、この人……」
そんな光景に、雫でさえも困惑で立ち尽くしていた。
現に僕も正常かつ冷静に状況を判断できているかの自信はない。
しかし、やるべきことは頭の中に刻まれていた。
――この怪異を生んだ、魔本を探し出す。
女性がいた場所には無残な姿の死骸、その数々。
歪な円形に並べられていて、円の中心には分厚い本が置かれていた。
それに気づいた僕は無我夢中で駆け出した。
「ま、待てぇぇぇ――ギャアアアァァ、イッテエエェェッ!!」
倒れている女性の側を通ろうとした時だった。
ぶよぶよとした女性の手が足を掴もうと伸びてきた。
僕はそれを踏む。後ろから悲鳴が聞こえたが、罪の意識は微塵も感じなかった。
「……やっと、見つけた!」
中心の深い紺色に染まった分厚い本。それを手にとった。
かなり昔の物なのか、ありとあらゆる場所が傷み、茶色に変色している。
……これが禁呪の魔本なのか。あらゆる願いを叶えてくれるという。
本を開くと、文字の羅列が小さく書かれていた。よく目を凝らしてみると。
「peaceful taleそのもの……?」
書かれていたのは――あの小説そのものだった。
無地の表紙とは違って、変な染みや人間の髪が練り込まれたページ。
そのページに目を細めないと読めないほどに小さく、文章が書かれている。
それを見た瞬間、僕の上に広がる空の青さほど明瞭に認識できた。
この本を消し去ってしまえば、全ては終わってくれると。
「だめっ! やめてっ!! 誠也くんっ!!!」
その時、悲痛な声が耳に入った。雫の声だった。
どうしたんだ? そう聞こうとして、それより早く思い出した。
――本。――それを見開く僕。――殺される。
数日前に見たという雫が言っていた夢と酷似する光景、そのものだった。
「ごめんなさい♪」
そして、気づいた時には遅かった。
瞬きする間に、本のページから漆黒の塊が姿を表した。
正体は、書かれた文字が粘土のように捏ねられ、形を成した狂花月夜の上半身。
体は歪みに歪みきっていて原型を留めていなかったが、不気味に輝いているオッドアイと作り物のように綺麗に整っている顔立ちのおかげで見分けがついていた。
「私はね、こういう物語、文字の集合体なのよ」
「……あ、あっ」
「だから、本に隠れることも、別の場所からここに移動することもできちゃうの♪」
聞いてもないことを軽い口調で教えてくる狂花月夜。
これ以上無いほど口元を吊り上げ、そう笑う彼女の手には光るもの。
ああ、刃物か。あれで首をやられたら、ひとたまりもないだろうな。
人は絶体絶命の瞬間に陥るとこうなるのか、そんなことをぼんやり思っていた。
「物語に従わないあなたに教えてあげる。脇役は“主人公”に勝てないの」
「しゅ、じんこう」
「あはっ、これで完璧なHappy endだわぁぁああはははははぁっっっ!!!!!」
刻一刻と迫り来る銀色の刃。
自身の命を刈り取ろうとしているそれに僕が持つ全ての感覚を集中しているのか、それ以外は見えないし、狂乱した笑い声以外に何も聞こえることはなかった。
ただただ、死の恐怖と、真っ暗闇な静寂が僕の世界を支配していた。
「――あんたの幸せな結末なんて認めない」
声が聞こえた。無意識に閉じていた目を開けた。
すると、見えたのは空まで届くかのように蹴り飛ばされた本と影。
一呼吸くらいの間、それを呆然と眺める。その後にようやく気づいた。
馴染みのある声だった。懐かしく、危なっかしくも頼れる、そんな声だった。
「紛い物のあんたなんか! 主人公じゃないわよ!」
――比良坂遠乃。僕の想像をいとも簡単に壊してくれる、彼女の姿があった。




