湖林の人喰カタツムリ
まだ僕の叔父さんが生きていた頃、僕はよく家に遊びに行き、叔父さんが飼っていた人喰カタツムリを見せてもらっていた。その時はまだ自治体から駆除対象の害虫として認定される前だったけれど、叔父さんのように人喰カタツムリを飼っている人など滅多にいなかった。
四角いガラスケースの中は生育環境に近づけるための苔や朽木が敷き詰められ、場違いな赤色のプラスチックの丸皿に、色彩鮮やかな金平糖が盛り付けられていた。七匹いる人喰カタツムリのうち、必ず二、三匹がその餌場に群がっていて、真珠貝色の丸い殻を重そうに引きずりながら、競い合うようにして金平糖の上を這いずり回っていた。残りの数匹は大抵、朽木の上でじっとしていて、時々思い出したように数センチ前進しては、再び何事もなかったかのように再び動かなくなる。彼らの二本の角の先はビーズのように丸まっていて、僕がいたずらでガラスケースを揺らすたびに、周囲の異変を察知しようと、くるくると角の先を回し始める。僕がそれが面白く思って、叔父さんにもうやめなさいと注意されるまで、何度も何度もガラスケースを揺らしていた。
頃合いを見て、叔父さんはカーテンを締め切り、部屋の電気を消して、室内を真っ暗にする。すると、何も見えない部屋の中で、人喰カタツムリの丸い殻がエメラルド色に光り始める。最初は部屋の明かりの残像かと見間違えるほどに小さな光で、それが徐々に明るさを増していく。数分もすると、人喰カタツムリの身体、そして、その周辺の苔と朽木のこげ茶色の表面が、エメラルド色の光を反射して、幻想的に輝き始める。優しくも鮮やかなその光は彼らの銀色の粘膜を照り返らせ、人工苔に生気を帯びたみずみずしさを与えた。ガラスケースの中は七匹分の人喰カタツムリの殻の光で満ち、それはまるで、万華鏡の中の世界をあちらこちらにばらまいたようだった。
「人喰なんて物騒な名前をつけられてはいるけれど、それは単純に彼らが雑食なだけなんだ。彼らもお腹が空いていなければ人間を食べようなんて思いもしないし、食べるとしても、生きた人間を襲うなんてことはしない。彼らは仲間同士でも争い事を好まないし、男女という性別関係を超えて愛しあう。それに、暗い闇夜の中でも、こうやって自らのエネルギーを消費して、自分がここにいるんだという自己表現を行う。彼らが輝く様子を見るたびに、生命の儚さと力強さに思いを馳せずにはいられない。僕はいろんな国でいろんな生き物を見てきたけど、この人喰カタツムリほど僕の心を掴んだ生き物はいないね」
僕が初めて叔父さんの家で人喰カタツムリの発光現象を観賞したとき、叔父はこのように語った。僕はまだその時中学生で、正直言って叔父さんの言うことにピンときてはいなかった。しかし、この言葉をふと思い出した今、僕はなぜだか強く心を締め付けられるような心持ちになった。それは僕が叔父さんが達した境地に近づくことができたからなのだろうか、それとも、今は亡き叔父さんの姿を思い出し、郷愁に駆られるからなのだろうか。
叔父さんは僕が大学一年生のとき、突然の心臓発作でこの世を去った。孤独を愛する叔父さんは一人暮らしで、自宅を職場として働く人間だったから、約二週間もの間、叔父さんの遺体は狭い八畳の部屋に放置された。これは親戚から聞いた話に過ぎないけれど、遺体が見つかったとき、叔父さんの身体は溶けたアイスクリームのようなドロドロの黒い半固形体となっていて、身体からは白いウジ虫が湧き、上空ではインドの舞踏会のように、蝿たちが密集して踊り狂っていた。
しかし、それとは別に、叔父さんの右足の膝から下が跡形もなく消えてしまっていた。後からわかったことらしいが、叔父さんの右足は餌を求めてゲージからの脱出に成功した一匹の人喰カタツムリが食べ尽くしてしまったらしい。この話を聞いた人間は誰もが、そのグロテスクさに眉をひそめ、嫌悪の表情をありありと浮かべた。だけど、僕だけは不思議とその人喰カタツムリに負の感情を抱くことはなかった。食べるものがなくなり、仲間が飢えで死んでいこうとする中、その一匹の人喰カタツムリだけは必死の思いで四角いガラスケースを脱出し、自分たちを可愛がってくれていた飼い主の死骸を貪ったのだろう。僕はその一匹の人喰カタツムリを憎むことはできないし、それはきっと叔父さんも同じ気持ちなんだと思いたい。彼は生きようとしたんだ。その生命の儚さと力強さに、僕は思いを馳せずにはいられない。
人喰カタツムリは毒を持っているわけでも、人を襲うわけでもないが、人間の嫌悪感情だけはどうにもならないようで、今から数年前、自治体から駆除対象害虫に認定された。この決定に、もしかしたら、叔父さんの死も関係していたのかもしれないと、少しだけ思う。何はともあれ、人喰カタツムリは行政の機械的かつ徹底的な駆除処理によって、この街からその姿を消していった。僕が今手に持っている夕刊の記事によると、人喰カタツムリに残された生息地は郊外の湖林と山奥の湖畔だけになっていて、それらも今年中には完全な駆除が実施されるとのことだった。
僕は別に行政の活動に反対するわけでも、衛生活動の名の下で行われる、その機械的な大虐殺に遺憾の意を示すわけでもなかった。僕はただ、今はもういない叔父さんとの思い出を思い出し、彼らがこの街からいなくなってしまうその前に、もう一度だけあの幻想的な光を見てみたいとふと思っただけだった。僕は窓の外を見る。乱立するビルの赤みがかった影が東へとのび、紺色と紫色の入り混じった薄い雲の間からは茜色の空がのぞいていた。僕は立ち上がり、樫でできたこげ茶色棚の上に置かれた一眼レフを手にとった。そして、コルク板にかけられてたバイクのキーをつかみ、僕は夜が忍び寄る家の外へと飛び出した。
僕は人喰カタツムリがまだ住んでいる湖林へ向かってバイクを走らせる。市街地から離れた場所にある一般道に移ると、途端に車の交通量が減り、たまに見かける車も、自分の進行方向とは逆の、ネオンで照らされたこの街の中心街へと向かうものばかりだった。思えば、このバイクも、背中にのリュックに詰めた一眼レフカメラも、どちらも叔父の影響で始めたものだった。物心がついたときにはすでに父親という存在を失っていた自分は、叔父に父親の影を追い求めていたのかもしれない。それでも、僕と叔父さんの間には目には見えない線が引かれていて、僕も叔父さんも、その正当性を疑うこともなく、その線の内側に入ることをよしと思わなかった。叔父も僕以上に孤独な人間だったし、孤独な人間同士がくっつき合ったとしても、二つの凹んだピースが組み合わさって、一つの四角い穴ができるだけだということを僕らはすでに知っていたのかもしれない。叔父の死について、そして叔父との関係について、後悔がないといえば嘘になる。だけど、仮に過去をやり直せるとしても、僕はきっと同じことを繰り返す。僕が抱く後悔はその程度のものでしかない。その揺るぎない事実はどうしようもなく悲しく、やるせなかった。
小さな駐車場にバイクを止め、端っこにひっそりと置かれていた自動販売機で冷たいアイスカフェオレを購入した。リュックから一眼レフを取り出し、それを首にかけ、林の中へと歩いていく。自然公園として整備されている湖林の入り口には白い警告看板が立てかけられていた。
『コノ林ニ人喰カタツムリ在リ。恐レヨ』
林の中は昨日まで降り注いでいた雨の名残で、空気と植物が潤いを帯びていた。整備された小道から外れた林の奥は霧で覆われ、露出した首元に手を伸ばすと、ひんやりとした心地よい湿り気を感じることができる。僕は小道の丁字路で立ち止まり、スマホの明かりを頼りに湖林の案内板を確認する。案内板の右隅に描かれた楕円形の湖。僕はそっと指でその絵の縁をなぞる。木製の看板はたっぷりの水分を含んでいて、ペンキが所々剥がれ落ちていた。僕は一眼レフの右手で握りしめ、案内板で示された湖がある方向へと歩き出した。
整備された小道を外れ、草が生い茂った林の中へ、霧の中へ入っていった。奥に進むにつれ、整備された小道に設置された橙色の明かりが小さくなり、まとわりつくような暗闇が徐々にその色を濃くしていく。それでも不思議と不安や恐怖は覚えなかった。張り詰めた静寂の中で、羽虫が飛び回る羽音や樹木の息遣い、所々にできた水たまりを踏みしだく足音が反響する。
僕は何も言わないまま、何も考えないまま歩き続けた。林の中では残像のような過去のイメージが木の表面に現れては消え、消えては現れた。それは僕の同級生の姿であったり、昔お世話になった近所の住民であったりしたが、叔父さんの残像は一度たりとも現れることはなかった。背中越しに、残像が僕を呼び止め、立ち止まるように懇願する声が聞こえてくる。しかし、その声はどれもみな空疎で、息を吹きかければ遠くへ飛んでいってしまいそうなほどに軽い言葉たちだった。それはまさに僕が生きてきた人生と同じだけの重さだった。僕はそれらを振り切り、歩き続ける。歩みを止めて立ち止まり、そこに沈み込んでしまえるほど、僕の記憶は深く、そして温かいものではなかった。
突然目の前の視界が開かれ、運動場ほどの大きさをした湖が姿を現した。僕はその湖を前にして、ただじっとその場で立ち尽くした。暗闇に目が慣れていくにつれ、闇夜の中で僅かな光があちらこちらにポツポツと明滅していることに気がつく。光は、湖の中から突き出た、蔓のように細く、互いにもつれ合った樹木の幹の上に、不規則な並びで光り輝いていた。僕はその光源に目を凝らした。身に覚えのある、淡い、エメラルドグリーンの光。それらはまさに、この湖林に人喰カタツムリたちの光だった。小さな光は目が慣れていくにつれて、その数を増していき、闇夜の静謐な雰囲気を漂わせた湖上を優しく穏やかに照らし出す。光は濁った湖面の表面で反射し、開けた上空から吹き込む風にさざめく波紋を浮かび上がらせる。
僕は首にかけたカメラを持ち、そして手を離した。僕はその場に座り込み、目の前の光景に身体と心を委ねることにした。手を地面につけると、ぬかるみで泥がついた。深く息を吸い込むと、潤いで満ちた空気が肺を満たした。眠るように目を閉じると、真っ暗な世界の中に緑色の星が瞬く夜空が浮かび上がった。僕は目を開け、右隣へと視線を向けた。そこには、座ったまま、湖面の人喰カタツムリの光を見つめる叔父さんの姿があった。叔父さんは僕が小さい時の記憶と全く同じ身なりだったが、右足の膝から下がなくなってしまっていた。僕が足があるべき空間を見つめていると、叔父さんは僕の視線に気が付き、優しげな表情で微笑んで見せる。
「カタツムリに食べられてしまったんだ。でも、だからって、彼らのことを嫌いにならないでくれよ」
嫌いになるわけないじゃないか。僕がそう答えると、叔父さんは嬉しそうに顔をほころばせた。僕たちはそれっきり何も話さないまま、黙って目の前の幻想的な光景を眺め続けた。消えゆく運命にある彼らの生命の灯火は今にも消えてしまいそうで、それでいて何かを僕たちへ語りかけているかのようだった。僕にはそれが何なのかはわからない。しかし、叔父さんはわかっているのかもしれない。僕が叔父さんの方へ顔を向けると、僕の考えたことが通じているかのように、叔父さんもまた僕の方を見ていた。僕と叔父さんはぎこちなく微笑み合う。人喰カタツムリたちの光は、そんな僕たちの距離感を埋めるように、淡く穏やかに輝いていた。




