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「ほら、ご挨拶して。 将来の旦那様よ~」
「……よろしくおねがいいたします」
そう言った後は、目の前に立つ少年に向かって、ぺこりと頭を下げました。
すると少年もニッコリ笑って、
「よろしくね」
……と、優しげに返します。
所謂『いいなずけ』というやつです。
今年でやっと六歳になる、幼いわたしの婚約者が、既に親の手によって決められている――というのも、何となく窮屈な気がしないでもありません。
それに、彼はろくでなしです。 今はそうでないかも知れませんが、わたしは彼がろくでもない人間に育ってしまうことを知っています。
でも、いい年こいて親に結婚を催促されるよりは、こっちのほうが幾らか楽かもしれませんね――。
「……」
いや、駄目です。 わたしはちゃんと幸せになりますから。
◆
――突然にはなりますが、わたしには前世の記憶が残っています。
そして、前世のわたしには『嫁』がいました。
その名も月舘神奈ちゃん。
とある乙女ゲームの主人公なのですが、アニメ化された時の言動が、もう可愛らし過ぎて……!
素晴らしいの一言に尽きます。 あの柔らかそうな髪、優しそうな丸い瞳、おっとりした女の子かと思いきや、中身は意外とボーイッシュで頼りがいのあるところ。
もう、最高です。 天使とは彼女の為に用意された言葉なのかも知れません。
そうして、その作品にアニメから入ったわたしは、原作である乙女ゲームもプレイしてみたのですが――。 これがまあ劣悪な品で。
主人公である神奈ちゃんの姿はマトモに見えず、出てくるイケメンたちにはわたしの神奈ちゃんを横取りされ、挙句の果てにはバッドエンドで悪役令嬢に殺され――。
ゲームの都合上、当然と言えば当然なのですが、その登場するイケメンたち。
わたしから神奈ちゃんを奪っておいた挙句、みんな揃って没落するんです。 どのルートに入っても、ゲーム内で描かれていないところで、神奈ちゃんは幸せになれていません。
製作者によれば、『自分がバッドエンドが大好きだから』とのことです。 作者の好みだけで殺される神奈ちゃんの身にもなって欲しいものですが――。
生徒会長は、裏口入学した不正大好き男で、体育会系の爽やか男は、実はDVも酒も大好き。
そしてそして、挙句の果てにこの男は――。
「…………」
「……どうしたの? 奈月ちゃん」
「なんでもない」
憎しみのあまり、目の前の少年を睨み付けていると、お母様に心配されました。
この男が、後に神奈ちゃんを絶望の底に叩き落とす悪魔そのもの。 引き抜きたくなるスカした金髪が特徴的な――、
その名も弥勒院翔兵。
悪役令嬢である茅野奈月との婚約を解消し、彼女をドン底に叩き落とし、エンディングでは神奈ちゃんと幸せそうに暮らしていた――までは良かったのですが、
さすがは一度婚約を解消した男。
神奈ちゃんと結婚してからも、数え切れないほどに浮気を繰り返し、
最後には喧嘩の際、勢い余って神奈ちゃんを刺し殺してしまったそうです。
ゆるせません。 あわよくば、この場で刺し殺してしまいたい位には大嫌いに思っています。
――ですが、問題はここからです。
クズ男である弥勒院との顔合わせが終わり、わたしはお母様に手を引かれて、黒くて長い車に乗り込みました。
この世界で六年間生きてきてはいますが、これほど豪勢な車に乗っているのも、わたしの家くらいです。
少しくらいは誇らしくもありますが、今のわたしは、わたし自身が憎むべき悪役令嬢。
そもそもわたしが存在しなければ、いくつかのバッドエンドルートは回避できたはずなのです。
――その場合、ほぼ強制的に弥勒院のルートに突入してしまいますが。
……もうお気付きかとは思いますが、わたしの名は茅野奈月。
主人公である神奈ちゃんの事が、大嫌いで堪らなくて、様々な嫌がらせを行う、
ネチネチとした汚い女の縮図のような大うつけです。
ですが、今の中身は神奈ちゃんのことが大好きで堪らないこのわたし。
この世界に生を受け、ここが乙女ゲームの世界であることが解ってから、
物語に影響するであろう、この顔合わせの日まで、ずっと待っていました。
地位なんていりません。 お金も、屋敷も、何もいりません。
ですから、わたしは神奈ちゃんを救ってみせます。 ……会うかどうかも解りませんが、明日は小学校の入学式。
特別入学してきた神奈ちゃんと、ちゃっかり試験に合格してきた奈月――つまりわたしは、同じクラスで隣の席になれるはずです。 ゲーム通りの歴史なら、の話ではありますが……。
「……」
わたし、神奈ちゃんにはなるべく幸せになって欲しいんです。
前世では虐められていた記憶がありますが――、どんな時だって、わたしを癒してくれたのは神奈ちゃんでしたからね。
以前は手の届かない場所にありました。
神奈ちゃんの行く末が決められるのは、製作者さんだけでしたから。
だけど、もしかしたら。
もしかしたら、行けるかもしれません。
弥勒院が実在するのは、今しがた実際に確認できました。
だったら、神奈ちゃんが存在したっておかしくないはずです――。
「……よし」
誰にも気付かれないように、わたしは小声でそう漏らしました。
わたし、神奈ちゃんを助けます。 あの弥勒院や、他のダメ男たちから――。
それが出来るポジションに居るのは、彼女の行く末を知るわたしだけです。 わたし以外にも居るかも知れませんが、わたしが出来ることには変わりません。
――とりあえず、決意表明でもしておきましょうか。
「お母様」
今のところ、一番身近な人間であるお母様に話しかけてみました。
「どうしたの? 奈月ちゃん」
聞いてくれるようなので、大きく息を吸い込んで、
さっそく話しておきます。
「……わたし、がんばりますから!!」
まだ雲の多い青空に、わたしの小さな声は響きませんでした。
――が、この空の下には、かつてあれだけ渇望していた『嫁』が居ます。 一方的に呼んでいるだけですが、わたしは同じ空気を吸えるだけで幸せになれますから。