第8章 捜査会議にて
翌木曜日は事件捜査に乗り出すことはできなかった。
理真が前もって予定が入っていた編集との打ち合わせに一日取られたためだ。昨日掛かってきた電話は、その確認の一報だったのだ。着信者の名前を見て狼狽えた理由は、理真がその打ち合わせがあることをすっかり、きれいさっぱり失念していたからだという。
ワトソンひとりで捜査しても仕方がないため、私もその日は管理人としての雑務を消化するのに当てた。何か進展があれば、私の携帯電話に丸柴刑事か中野刑事から連絡が入ることになっているのだが。
「ふー、危ないところだったわ。電話なかったら完全に打ち合わせすっぽかすところだったわ。向こうは東京から来てくれるってのに」
昨日慌てて電話に出たあと、汗を拭き拭き理真が漏らした台詞だ。その打ち合わせは、先日脱稿した新作とは別の出版社とのものだ。雑誌に連載しているコラムを近々単行本としてまとめるための打ち合わせだそうだ。本業が作家だということを忘れてはならない。
その作家先生が打ち合わせから帰宅したのは、午後九時を回った時分だった。
「ただいまー」
理真はソファに腰を下ろし、手に提げていたコンビニ袋からノンアルコールカクテルを二本取り出し、私に一本差し出す。そのままでは味気ない。私は台所からグラスを二つ持ってきた。
「丸姉から何かあった?」
うまそうに最初のひと口を飲んでから、理真は尋ねてきた。私はかぶりを振る。「そう」と理真は二口目を煽る。「お風呂沸いてるよ」と私が告げた直後、携帯電話の着信が鳴った。〈着信音1〉ではない、〈ダッタン人の踊り〉が部屋に響く。私の携帯電話からのものだ。グラスを口に運ぶ理真の動きが止まる。すわ、丸柴刑事からの連絡かと、私はすぐに携帯電話を手に取るが、ディスプレイに表示された発信者名は、
「あ、藍子ちゃんからだ」
理真と顔を見合わせたあと電話に出た。昼に会ったとき、携帯番号とアドレスを交換していたのだ。
藍子からの用事は、明日の夕食のお誘いだった。と言っても、事件の夜のような西根家でのホームパーティーではない、ファミリーレストランで、藍子、友美、理真、丸柴刑事、私の五人で食事をしないかというものだった。
何でも昼のことを友美に話したら、とても羨ましがられ、ぜひ五人でご飯を食べたいと友美が要望したのだという。会話から内容を察したらしい理真が、無言で人差し指と親指で丸を作る。丸柴刑事は仕事があるから、参加出来るかは分からないと告げ、明日の夜六時半、秋葉区のファミリーレストランで待ち合わせをすることにした。
理真の番号も交換したはずだが、私に掛けてくるというのは、やはり作家安堂理真に直接電話するのは恐れ多いと考えたのか。かわいいところがある。いや、藍子は普通にかわいいか。
「いいのかな、事件の最中お食事会なんて」
「いいんじゃない、リラックスした中で、新しい手がかりが訊けるかもしれないし。そのためには、警察官の丸姉はいないほうがいいのかな……」
理真はそこまで言って急に表情を暗くした。
「どうしたの?」
「うん、私、事件の話が訊けるかもってことを真っ先に考えちゃったわ。向こうは普通に食事会を楽しみたいだけなのに。二人が私のファンってことを捜査に利用してるみたいね」
「それは……仕方ないよ。状況が状況だし」
「あー、やだやだ。丸姉には私から電話しとくわ。さあ、風呂だ」
理真は残ったカクテルを飲み干し、風呂場に向かう。明日は朝から捜査本部で行われる会議に理真と私も出席することになっている。早く寝なければ。
翌日、午前八時半からの捜査会議。
私と理真は開始十分前に会議室の一番後ろの席に並んで座った。
捜査会議に出るのは初めてではないが、何度出ても緊張する。顔見知りで軽い挨拶をしてくれる人もいれば、誰だこいつと一瞥したり、露骨に嫌そうな顔を見せる警察関係者も少なくない。素人探偵を歓迎してくれる人ばかりでは、やはりないのだ。しかし、新潟県警内には隠れ理真ファンも多いと聞いたことがあるぞ。
「全員揃ったな。では始める」
城島警部が会議の開始を宣言した。
会議内容は、特に新たな事実や証拠発見の報告はなく、事件内容のおさらいに終始した。
捜査員の報告も、被害者久慈村の交友関係者の中に犯人と思しき人物は浮かんでこないだとか、周辺聞き込みで有力な情報は得られていないとか、捜査が進んでいないことを確認しただけに思える。
会議室が重い空気に支配された。
「安堂理真さん、何かありますか。名探偵の推理をぜひお聞かせ願いたい」
沈黙を破ったのは、城島警部の隣に座っていた織田刑事だ。やはり来たか。
「はい」理真は立ち上がり、「すみませんけれど、今のところ特に……」と言うとすぐに着席した。
やれやれ、といった顔で織田刑事はこれ見よがしに肩をすくめる。城島警部がちらと理真を見た。その目が、許せ、と言っている。
織田刑事は城島警部を除けば県警捜査一課いちの古株にして、素人探偵が捜査に介入することを快く思わない警察官の最右翼。とにかく理真が目障りで仕方ないらしい。会議室に入って、織田刑事の姿を確認したときからこうなると思ってたよ。
その織田刑事のさらに隣に、知らない顔の刑事が二人座っているのを見た。知らないのに刑事と決めつけてしまっているが、捜査会議に出席しているということは刑事なのだろう。しかも、城島警部と同じ列に座っている。それなりの身分の警察官であるはずだ。県警内の、そんな重要人物なら見たことあると思うんだけど。二人とも、しかつめらしい顔で腕を組んだまま、一度も発言はしなかった。
「すまなかったな、理真くん」
会議終了後、誰もいなくなった会議室に残っていた理真と私に、城島警部が缶コーヒーを二本差し出しながら声をかけてくれた。
「いえ、慣れてますから。何も手がかりを掴んでいないのは本当のことですし」
「織田くんも、もう少し頭を柔らかくしてくれればいいんだがな。事実、過去に数々の不可能犯罪を理真くんを始め、何人もの名探偵が解決しているというのに。彼自身は優秀な刑事なんだが」
「反りが会わない刑事がいるのも、素人探偵の宿命ですよ」と理真は笑う。
「とにかく、俺は期待してるよ」
「私も」と入り口から声がした。丸柴刑事だ。「警部、私にもコーヒーおごって下さい」
「お前は夕方から食事会だろ。ドリンクバーでいくらでも飲み放題だろ」
「ん? 丸姉、じゃあ」
「うん、警部が許可してくれたわ。女子五人で楽しみましょ」
「城島警部。織田さんと一緒に座ってた二人は誰なんですか」
私は会議室での疑問をぶつけてみた。
「あ、私も気になってました」
と丸柴刑事。彼女も知らない人物だったのか。城島警部は、
「ああ、彼らか。警視庁の刑事だよ」
「警視庁?」と私と丸柴刑事が同時に口にした。理真も不思議そうに顔を向ける。東京都が管轄の警視庁刑事がなぜここに?
「うむ、二、三日前に突然県警を訪れたんだ。この事件に興味を持っているらしく、逐一捜査状況を報告させられているよ。彼らのほうでも独自に動いている節があるんだが、向こうの情報はこっちには流れてこない」
「何だか不気味な存在ですね」
「由宇くん、そう言ってくれるな。我々と同じ警察官であることに変わりはない。彼らには彼らの事情があるんだろう。理真くんが捜査に加わっていることも知っている」
警視庁か。理真の存在を邪険にしているわけではないようでひと安心だ。もっとも、東京でも大勢の素人探偵が警察の捜査に協力しているわけで、理解も得られやすいのかもしれない。
藍子、友美との待ち合わせ時間は午後六時半だったが、私たちは一足早く約束のファミリーレストランに乗り込んだ。
城島警部も丸柴刑事の慰安目的で食事会への参加を許可したわけではない。二人から何かしら有力な情報を聞き出せる可能性があると踏んでのことだろう。考えることは同じだ。そこのところの確認をする。相手はうら若き女の子だ、あからさまに事件のことを訊かない。ただし、向こうから訊かれた場合はもちろん別。だが、その際もチャンスとばかりに、あまり鼻息を荒くして突っ込みすぎない。
「理真」ドリンクバーから持ってきたコーヒーをスプーンでかき回しながら、丸柴刑事が声を掛ける。「事件の夜に西根家にいた人たちの中に、犯人がいると考えてる?」
「まだ分からないというのが正直なところね」
私も前に同じことを訊いた。
「こっちも正直、お手上げ状態よ。前にもこんな話したっけ。今日私がここへ来るのを警部が許してくれたのも、藍子ちゃん、友美ちゃんの二人から漠然とした情報を引き出せるかもしれないってレベルじゃないの。あの夜のメンバーの中に犯人がいるという考えに基づいて、もっと具体的な情報が訊けるかもしれないから」
丸柴刑事、ぶっちゃけたな。
「それは当然、藍子ちゃん、友美ちゃんの二人も容疑者と見ているってことね」
理真の言に女刑事は頷く。それを見て胸がちくりとした。考えたくはないことだが、今の状況では当然その考えを捨てることはありえない。
「あ、来たよ」
理真が外を見ながら言った。私と丸柴刑事も外に目を向けると、駐車場に滑り込んだ白い軽自動車の中に、西根友美と時坂藍子の姿が確認できた。当然ハンドルを握っているのは友美だ。
店内に入ってきた二人はすぐに私たちを見つけ、藍子は手を振りながら、友美は一礼して近づいてきた。テーブルに五人が揃い注文を済ませ、ドリンクバーから飲み物を持って来る。
「安堂さん、今日はありがとうございます。江嶋さんと丸柴さんも」友美が丁寧に礼を述べて、「私、昨日藍子ちゃんから話を聞いて、羨ましいなって言ったんです。そうしたら、じゃあみんなでご飯食べようって話になって。藍子ちゃん本当に電話しちゃうんだもん」
「だってだって、せっかく知り合いになれたんだし」
待ってましたとばかりに藍子が喋り出し、
「私、友美ちゃんの家で殺人事件なんて起きて、すごく怖かったんです。だけど、それで安堂さんたちと知り合えて、今はよかったって思ってます。あ、よかったなんて言ったら悪いですよね。久慈村先生に……」
少し空気が張り詰める。瞬時に考えが浮かぶ。
動機? 不可能犯罪が起きる。探偵が乗り出すことは当然考えられる。探偵はあこがれの小説家。彼女に会うために犯す犯罪? それは探偵がいたために起きた犯罪といえる。探偵さえいなければ起きなかった犯罪、殺されずに済んだ被害者。事件が起きたのは探偵のせい。こういうのを〈後期クイーン現象〉って言うのだっけ。……いや、藍子も友美も理真が素人探偵の顔を持っていることは知らなかったはずだ。……本当にそうだと言えるか? どこかの噂で知っていたのかもしれない。しかし、そんなことのために殺人まで犯すだろうか?
そこまで考えたところで我に返った。友美と理真が話をしている。内容は友美の仕事のこと? どうやら先ほどの空気はすぐにスルーされ、何気ない日常会話が始められたようだ。うん、それでいい。向こうから事件に関する話題を振ったともいえるが、まだこんな早い時間帯から、重苦しい空気を溜めることもない。藍子が私に声を掛けてきた。アパートの管理人の仕事内容? 管理人というのはね……