第6章 時坂藍子の出生
四月十八日水曜日。死体発見から二日が経った。殺害されたのが十三日だから、事件発生からならば五日。
被害者久慈村要吾の遺体は解剖が終わり、東京の実家へ戻すことになった。今夜と明日に渡り営まれる通夜と葬式に出席するため、西根樹実彦と妻の佐枝子は朝早くの新幹線で上京したという。長男勝巳は医院、長女友美も勤めに出ており、西根家は空だったが、主人の樹実彦から自由に捜査してよいと許可を得ている。
今、理真と私、そして今日のパートナーとなる丸柴栞刑事の三人は、昨日発見された久慈村の車が停めてあった道に立っている。もっとも車はすでに警察の手でどかされているが。
左右を林に囲まれた車通りのない道だ。久慈村が通ったと思われる獣道はすぐに見つかった。草が踏みならされた跡が容易に確認できる。理真、丸柴刑事、私の順で獣道に分け入る。木々の間を縫い、曲がりくねった道を抜けると、開けた場所に出た。そこはまさしく、殺害現場となった倉庫がある、あの高台だった。私たちは倉庫の前までさらに歩く。
「二分二十三秒」
倉庫入り口まで辿り着いた理真が腕時計を見ながら言った。
「昨日の中野さんの計算でほぼ間違いないね」
私が声を掛けると、理真は頷いた。当然丸柴刑事にも昨日の新津署での城島警部らと理真とのやりとりは聞かされている。
理真は中野刑事からもらった西根家の見取り図を手に、辺りを見渡した。
「このトンネルの先に行ってみてもいい?」
理真が見取り図上に指をさした先を丸柴刑事と私が覗きこむ。昨日中野刑事とここへ来たとき、枝分かれしていたトンネルの先だ。
「昔私道だった場所ね。私も行ってみたけど、今は小屋が一つあるだけよ。勝巳さんが休日に山菜を採りに行ったりする入山口になっているわ」
昨日上り下りしたゆるやかな坂道を下り、左手に見えるトンネルに入る。床も壁も半円を描いた天井も、トンネル内は全てコンクリートで固められている。中に照明はないが、十メートル程度の直進のため歩くのに支障はない。
トンネルを抜けると、少し広い空き地になった。四方は完全に斜面に囲まれている、いや、その勾配はかなりきつく、斜面というより崖だ。高さは五メートル以上あるだろう。
「元々左右に崖が切り立った道だったんだけど、ごらんの通り正面も土砂崩れで埋まったのね。崩れてきた土砂はトンネルの出口付近まで迫っていたそうだけど、スペースを確保するために土砂を掘ったのね。それで正面も崖みたいな急勾配になってしまったそうよ」
と丸柴刑事の解説。なるほど。幅は四メートルくらいか。道だった頃と幅は変わっていないはずだから、昔の私道といっても結構広い道だったのが窺える。長さは五メートルあるかないか、ほぼ正方形の土地だ。ここまでは舗装はされていない。地面を覆う雑草はきれいに刈られている。右奥には木造の小さな小屋があり、左の崖には梯子が立てかけてある。
「あの梯子を使って山に出入りするそうよ。」
丸柴刑事が指をさす。
梯子の脇には左右の取ってにロープが結びつけられた籠が置いてあり、そのロープは崖を伝って上の木に結ばれているようだ。採れた山菜などはこれに入れてエレベーターのように使って下ろすのだろう。
「模造刀を振り回す他にも、アクティブな趣味を持ってるのね、勝巳さん」
言いながら理真は小屋に近づいて中に入った。小屋の中は雑多な道具置き場と化しているようだ。ブルーシートやスコップといった土木用具が主にしまわれている。鉄製のパイプとそれを繋ぐような部品がいくつか纏めて置かれているのも見える。パイプは長さ三メートル程度のものが数本。小屋の隅には草刈り用電動カッターがある。外の雑草はこれを使って勝巳が刈ったのだろうか。
「ここは事件とは関係ないかな?」理真が小屋から出て、「もうすぐお昼ね」と続けた。
「どうする、どこか食べに行く? 西根さんから家の鍵を預かってるけど」
丸柴刑事がポケットから鍵を出して言ったが、家を空にするのは躊躇われたため、私と理真がコンビニへお弁当の買い出しに行くことになった。
丸柴刑事からは何でもいいと言われたが、それはそれで選択に困るものだ。
コンビニに入り、私の持つ籠に理真がさっそく選んだお弁当を入れる。一気に籠の重量が増す。なになに、〈男の極盛りタレカツカレー丼〉何だこれは。栄養成分表示を見ると、これ一食だけで成人女性の一日の基本代謝カロリーを優に突破してしまうぞ。私は当たり障りのない幕の内弁当と、チキンカレーを入れる。好きなほうを丸柴刑事に選んでもらおう。
西根邸に戻り、広い居間で三人の昼食が始まった。丸柴刑事が選んだのはチキンカレーだった。食事をしながらの会話は、必然と事件のこととなる。
「正直どうなの理真、事件の謎は解けそうなの?」
「正直に言わせてもらえば、まだ何のとっかかりもないわ」
「そう。こっちも八方ふさがりよ。久慈村さんの身辺を洗ってるけど、容疑者となりそうな人物、要は恨みを持っている人物は全然出てこないわ。もう調査範囲は東京時代の仕事関係者から、大学、高校時代にまで広がってる。徒労感が半端ないわ」
「病院での評判は悪くないって聞いたけど?」
「それがね、ちょっと悪い評判というか、あるのよね。久慈村さん、病院のパソコンで、いわゆるエッチなサイトを閲覧してたことがあったんだって」
「あらあら。でも、男ならみんなそれくらいやってるんじゃない?」
「でも、ばれた経緯が最悪なの。久慈村さんがエッチなサイトを見たまま、パソコンを放って席を外したことがあって、しばらく戻らなかったらしいのね。で、パソコンって、長い時間動かないとスリープモードになるじゃない。久慈村さんが戻ったときには、ディスプレイは真っ黒で、パソコンの起動音もしてなかったから、それを見て、てっきり自分はパソコンをシャットダウンして席を離れたものと思い込んじゃったらしいのね。そのまま帰っちゃった。その後看護師の女の子がそのパソコンを使おうと電源を入れたら……」
「それは、やっちゃったわね」
「しかも、見てたサイトが盗撮ものだったらしいの」
「もう死ぬしかないね」
死んでるんだけどね。
「翌日出勤してきた久慈村さん、女性看護師たちからもの凄く責められて。どうか院長にだけは言わないでくれって拝み倒して。取引として、その場にいた全員、色々買ってもらったんだって。鞄とか靴とか」
「まあ、そんな程度で済んでよかったんじゃない」
「それくらいね、悪い評判といえば。まさか殺人の動機にはならないでしょ? あとは何も収穫なし。こちらも正直に言わせてもらえば、理真頼みというのが本音ね。当然そんなことは口が裂けても言わないけど」
「あんまりプレッシャー掛けられても困るな」
理真も丸柴刑事には素直に本音を語る。これが中野刑事や他の警察関係者だったら、虚勢を張っていたかもしれない。丸柴刑事も理真が弱気だったなどと他の人に漏らすことはないだろう。
「ごちそうさまー」
〈男の極盛りタレカツカレー丼〉を米ひと粒残すことなく完食し、理真は畳に仰向けに転がった。
「由宇ー、お茶入れてきてー」
「はいはい」
私は腰を上げる。お茶くらいは家のものを使わせてもらって構わないだろう。いいお茶の葉を使っているんだろうな、と考えていたそのとき、チャイムの音が。続いて、「ごめんくださーい」と声が聞こえてきた。玄関からこの居間までは結構距離があるため、かすかにしか耳には届かないが、この声には聞き憶えがある。
玄関に向かおうとした私を丸柴刑事が、ここは私が、とばかりに制して立ち上がった。理真も体を起こし、鞄から取り出した鏡を覗き髪を整えたりしている。そうだろう。自分のファンを前に無様な姿は見せられまい。
「こんにちは」
丸柴刑事とともに時坂藍子が居間に姿を現した。
「あら、藍子ちゃん。こんにちは」
理真が髪をなびかせ振り返り、微笑みかける。素敵な美人作家を演じようという魂胆だろうが、それなら先に〈男の極盛りタレカツカレー丼〉の殻を片付けたほうがいい。
居間に時坂藍子が加わって四人となった。当然お茶もひとり分増える。
「どうしたの藍子ちゃん、今日は学校じゃないの?」
丸柴刑事が話しかける。藍子とは初動捜査のときに顔会わせ済みで知った仲のようだ。
「は、はい、そうなんですけど、何だか気分が悪くなって早退させてもらって。友美ちゃんに電話してみたら、今日安堂さんが捜査に来てるって聞いて、それでちょっとお話したいなって思って……」
知人の家で殺人事件が起きたのだ、普通の女子高生には大変なストレスだろう。無理もない、と言いたいところだが、見たところ顔色も良く体調が優れないようには見えない。昨日の理真と会ったときのはしゃぎっぷりと併せて考えるに、さてはずる休みをして理真に会いに来たんだな。先ほど、早退してから友美に電話をしたような口ぶりだったが、恐らく順番は逆だろう、友美から理真が来ていると聞いて早退を決めたのではないか。ワトソンはそう推理する。
「安堂さん、捜査のほうはどうですか、進んでますか?」
「うん、まずまずかな。」
「そうですか。がんばって下さい、私、絶対安堂さんが事件解決してくれるって信じてますから。あ、丸柴さんのことも信じてますよ」
素人探偵だけでなく警察側も応援することを忘れない。丸柴刑事も笑顔で答える。
「ねえ、せっかくだから、藍子ちゃんのことも教えてもらってもいいかな?」
理真が顔を寄せて藍子に訊いた。
「えっ? 私のことですか……」
「うん、事件のこととかじゃないんだけど、私、藍子ちゃんのことも色々知りたいんだ」
「は、はい、私のことなんかでよければ、どうぞ!」
「藍子ちゃんのおじいさんって、時心製薬の社長だったんですってね」
「はい、今はもう引退してますけど。友美ちゃんのお父さんと友達なんです」
そうだ。二人は大学時代の同級生だったと中野刑事から聞いた。
「私の家はもともとおじいちゃんの別邸だったんです。まだ私が生まれる前に友美ちゃんのお父さん、樹実彦先生の家――ここですね――の近くに建てたそうです。私は東京生まれで、新潟に引っ越してきたのは中学校からなんですけど、昔から夏休みやお正月に、おじいちゃんに連れられてよく新潟に来ていて、友美ちゃんともそれで仲良くなったんです。」
「藍子ちゃんは秋葉第一高校に通ってるんだよね」
「はい、二年生です」
「部活は?」
「文芸部です。私、作家になるのが夢なんです」
「そうなんだ、じゃあ将来私のライバルになるね」
「そ、そんな、安堂先生のライバルだなんて! 恐れ多い!」
藍子は顔を横に振った。理真を改めて作家と認識したのか、先生呼びになっている。
「おじいちゃんやお父さんは、私に薬の研究員か医者になってほしいって思ってるみたいですけれど、私、学校の成績あんまり良くなくて……」
「お父さんも時心製薬に勤めていらっしゃるの?」
「はい、今は東京で働いてます。新潟に引っ越してきたときに地元の研究所みたいなところに勤めたんですけど、やっぱり東京じゃないと思うような仕事が出来ないって言って。お父さんは私も東京に連れて行きたがってましたけど、私、都会に住むのってあんまり好きじゃなくて。こっちでも友達できたし、友美ちゃんもいるし」
何やら視線を感じた。丸柴刑事がお茶をすすりながら理真を見ている。理真も藍子との会話の合間にその視線を窺っているようだ。
「藍子ちゃんはどんな小説が好き?」
理真が会話内容を方向転換させた。
「それはもちろん恋愛小説です。安堂せん――さんの作品みたいな。でも色々読みますよ。でも本なら友美ちゃんがすごいですよ。私よりもいっぱい本読んでて、本棚もすごいんですよ。色んな種類の本があって、私、友美ちゃんの部屋にいると全然飽きません」
「じゃあ、新刊が出たらサイン入れてプレゼントするね、友美ちゃんにも」
「うわ! 本当ですか! 私もう本屋に予約してるんですけど、そっちは読む用、プレゼントは保存用にしてずっと大事にします!」
何という優良顧客だ。
「あ、あの、すみません、写真一緒に撮ってもらっていいですか?」
藍子はわたわたと鞄からデジタルカメラを取り出す。これが目的だったか。
せっかくいい庭があるからと、理真が庭まで藍子を連れ出し、私がカメラマンとなってツーショット写真を撮影。藍子は理真のみならず、丸柴刑事をも、刑事さん綺麗と、ばしばし写真に収めた。私のことも撮ってくれたが、気を遣ってくれたのだろうか。一応私のこともかわいいって言ってくれたよ。最後はセルフタイマーを使って四人でのショットも撮影。友美ちゃんもいたらよかったのに、と藍子は残念がった。
「私、そろそろ帰りますね。一応具合が悪くなったってことにしてるから、学校から電話掛かってきたらまずいし」
そう言い残し藍子は満足そうに帰宅した。もはや仮病だと自分でバラしてしまっている。
藍子が帰宅してから、私たちは、もう一杯お茶を入れてくつろいだ。
「理真、もしかして私の念が届いた?」
「うん、受信した」
丸柴刑事と理真が会話を交わした。先ほどの視線のことだな。
「藍子ちゃんにお母さんのこと訊きそうになったんだけど、思いとどまったわ。何かまずいことでも?」
「うん、藍子ちゃんのお父さん、正さんていうんだけど、藍子ちゃんはね……その正さんの奥さんの子じゃないのよ」
衝撃発言が出た。
「藍子ちゃんのお祖父さん、時坂保さんには子供が娘ひとりしかいなくてね、ちょうど娘さんと付き合っていて、会社の優秀な研究員だった正さんを婿としてとったの。でもね、二人の間に子供ができる前に娘さんが病気で亡くなってしまったの。しばらくして女の人が小さな子供を連れて正さんの前に現れて、その人は昔、正さんと付き合っていた女性だったのね。で、この子は正さんの子供だと」
何という展開。丸柴刑事はお茶を一口飲んで続ける。
「DNA鑑定までやった結果、その子供は間違いなく正さんの子だったの。これに保さんは怒って。何せ時系列で考えるに、その女の人と正さんが付き合っていた時期は、保さんの娘さんのそれと一致するのね。要は二股だったってこと。正さんは結婚するに当たって女性関係は整理を付けたと言い張ったらしいけれど、保さんだって正さんの過去の女性遍歴にどうこう言うつもりはなかった、でも、自分の娘と二股だったっていうのがやっぱりまずかったのね。保さんは無視を決め込むつもりだったらしいんだけど、さすがにそういうわけにもいかず、子供だけ引き取り女性にはお金を与えて追い返したの。女性がお金目当てだったのか、正さんの妻になりたかったのか、それは分からないわ。正さんの考えもね」
「その子供が」
「そう、藍子ちゃん」
「社内外の誰も藍子ちゃんのことにはことさら触れなかったけれど、陰では当然色々言われたらしいわ。本来は保さんが近く会長になって、時期社長は正さんというのが既定路線だったんだけど、それも白紙に。他に後釜がいないことから、保さんはそれからしばらく社長を続けることに。それで、時心製薬といえば、二年前に事件があったでしょ」
「ああ、薬害の」
理真が手を打った。
そうだ、時心製薬。妙に耳に残った会社名だと思ったが、昔聞いたニュースのせいか。丸柴刑事の言葉通りであれば二年前のことだ。確か、時心製薬がアメリカから輸入販売した薬の使用で、副作用が発生した患者がひとり出たという事件だったと記憶している。
「そう、それで会社がかなりのダメージを受けてね。マスコミの報道が沈静化してすぐ保さんは社長職を辞したわ。逃げるように新潟に移り住んだのはその直後。家族を連れてね」
「そうだったの……」
ついさっきまでここにいた藍子の笑顔を思い出す。そんな過去があるとは全く感じさせなかった。
「だから、藍子ちゃんは保さんと血の繋がりがないのよ。それもあってか、保さんは藍子ちゃんのことをあんまり可愛がってないんだって。同じ家に住んでいながらほとんど顔を会わせることもないそうよ。日常のことは全部お手伝いさんが世話してるらしいわ。だから余計に友美ちゃんのことを慕ってるんでしょうね。父親の正さんが仕事で東京に戻るときも、藍子ちゃんを連れて行きたがったそうだけど、藍子ちゃんはこっちに残ることに決めたくらいだからね」
しんみりとした空気が茶の間を支配した。