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第29章 殺人者の方程式

「動機は……」絞り出すように友美(ともみ)は口を開き、「私がどうしてあの男と藍子(あいこ)ちゃんのお祖父さんを殺さなくちゃいけないんですか」


 一転、顔を上げて微笑むような表情で続けた。だが、それは、やはり私が知っている友美のものではなかった。挑むような不敵な笑み。鋭い視線と相まって、その笑顔は歪んでいる。これが本当にあの友美なのか? ファミレスで一緒に食事をした、祖父の死にやさしく藍子の肩を抱いた、理真(りま)と三人でお風呂に入った、あの、西根(にしね)友美?


「復讐です。友美ちゃん、あなたは……時心(ときしん)製薬の『リューゲルフェン製剤』の薬害被害者ですね」


 理真の言葉に友美は立ち上がった。歪んだ笑みは消えた。ベッドに座ったまま友美の視線を受けながら理真は、


「私は、過去に横手(よこて)病院で看護師をしていた方に会って話を聞きました。二年前、何があったかのか全て話してくれました。続けますか?」


 友美はゆっくりと椅子に座り直し、頷いた。


「では」理真は話し始めた。元横手病院看護師、新島幸子(にいじまさちこ)が語ってくれた事件を。


「今から二年前、風邪で体調を崩した女性が横手病院へ診察に訪れました。女性を診たのは久慈村(くじむら)医師。その女性の父親は、やはり医師で、久慈村医師は彼の弟子でした。そんな繋がりがあったため、久慈村医師はその女性のかかりつけの医師だったのです。診察を受けた女性は久慈村医師にある薬を投薬されます。その薬が、『リューゲルフェン製剤』

 しかし、これは久慈村医師のミスだった。病院で使用する風邪薬に、よく似た名前の薬があるそうです。久慈村医師はそれを投薬するつもりで、間違えて『リューゲルフェン製剤』を投薬してしまった。久慈村医師はかつて、『リューゲルフェン製剤』の国内認可も行った、新薬認可調整委員会に所属していた時期がありました。そこで何度も耳にして、目にしてきた薬です。別の風邪薬のつもりで、つい『リューゲルフェン製剤』としっかりカルテに書き込んでしまったのではないでしょうか。これは書き殴った字を看護師が読み間違えたということではありません。久慈村医師は、誰の目にも分かる文字で、看護師にも言葉ではっきりと『リューゲルフェン製剤』と明記明言していた。私が話を聞いた看護師は、そう証言してくれました。

 しかも、悪いことにその患者女性は、薬害の触媒となる国産の風邪薬をそのとき併用していました。カルテにそう書いてあったのです。それに気付いた看護師は久慈村医師に伝えました。そして、検査をしたほうがいい、と進言します。しかし、久慈村医師はそれを拒絶しました。そんなことをしたら自分の間違いが明るみに出る。それで副作用が発症してしまったら医療事故となり自分の身が危うくなると。どうせ副作用を発症する確率は言うほど高くない、放っておいても心配はない、そうも言ったと。

 看護師も西根樹実彦(きみひこ)という後ろ盾を得て当時院内で幅を利かせていた久慈村医師に目を付けられることを恐れ、黙っていたそうです。このことを知るのは久慈村医師と看護師の二人だけ。どちらかが口を開かなければ決して表に出ることはない。看護師は久慈村医師から賄賂も受け取ったそうです。

 薬の在庫数は久慈村医師が立場を利用して虚偽の報告を行いました。リューゲルフェン製剤を何本か落として中身をこぼして使えなくしてしまったと報告し、実際は二本のところ三本使えなくなったと報告して実際に使用した一本を紛れ込ませたそうです。もちろん、そのアクシデント自体、久慈村医師がわざと行ったことです。ここまでが私が聞いた話です。ここに出てくる女性とは、友美ちゃん、あなたですね」


 友美は何も答えなかった。その無言が、そのまま肯定の意志なのだろう。


「友美ちゃん、あなたは、かつて自分が久慈村さんにリューゲルフェン製剤を投薬されていたことを知ったんですね。同じ時期、触媒となる風邪薬を飲んでいたことも。どうやってそれを知ったんですか」


 深い息を吐き出した友美は、おもむろに語り始める。


「一年くらい前だったかしら。あの男を訪ねて横手病院へ行ったとき、私のカルテが他の患者のカルテと一緒にあの男の机の上に無造作に置かれていたのを見たわ。あいつは何か用事があったらしく、しばらく席を離れていたわ。大事な患者のカルテを机の上に置きっぱなしで席を離れるなんて、本当、医師としても誇りも何もない男だったわ。

 何気なく見たその中に自分の名前を見つけて、自分のものなら構わないだろうと見てみたの。でもカルテってドイツ語で書かれているじゃない。全然分からなかったんだけど、興味本位で何が書いてあるのかあとで調べてみようと思って、部屋にあったコピー機でコピーを取って持ち帰ったの。でも結局そのときは、すぐに調べる気にもならなくて机の中にしまったままにしておいたの。

 それで、半年くらい前だった。目まいや倦怠感に襲われることが多くなった気がして診察に行ったの、横手病院じゃなく別の病院でね。その頃にはもう、私、あの男は藪医者だって気付いてたから、もうあてにしなくなってたの。お父さんの手前、そんなこと言わなかったけどね。そこで診断されたの、白血球が減少してるって。目まいや倦怠感はそれのせいだって。全く原因なんて分からない。まあ、病気なんて普通そんなものだからね。私が診てもらったお医者さんも、根気よく治療していこうって言ってくれて。私も、そんな大事(おおごと)の病気じゃないって思ってたから、家族にも誰にも言わないでいたの。心配かけたくないしね。藍子ちゃんにも……。

 ある日、何の気なしに思い出したの、あの男のところからコピーしてきた自分のカルテのことを。何か分かるかもとか期待していたわけじゃないけど、時間があったから調べてみたの。今はネットでどんな外国語も個人で翻訳できるから。あの男、藪医者のくせに字は妙に丁寧に書いてたから、翻訳もそんなに面倒じゃなかったわ。そして、そのカルテにあの薬の名前を見つけたの、〈リューゲルフェン製剤〉確かに私に投薬されてる。

 薬害の話は当然知ってたわ。藍子ちゃんの会社のことだったからね。薬の名前も憶えてた。おまけに、私はすっかり忘れてたんだけど、薬害を引き起こす触媒になる国産風邪薬を併用していたって、そこまで書いてある。何より、今私が罹っている病気の症状が厚労省が発表した薬害の症状とそっくりじゃない。私は会見の詳しい内容をネットで調べたわ。そこには、こう書いてあった。『副作用を発症した患者は一名。患者の名前、性別、年齢、居住場所、全ての情報の公開は差し控える。投薬した医師の名前、所属も明らかにしない』

 私だ! これは私のことなんだ! 投薬した医師はあの男だ。あいつ、私に何も言わないで。自分のミスをしらばっくれるつもりだったんだ。それを知ったら、もう駄目。私、あの男を殺すことしか考えられなくなった……」


 友美は誤解している。厚労省発表の患者は、相模健(さがみたける)のはずだ。しかし、ここにも同じ薬害被害の患者がいた。それも、公的に認識されていない患者が。あんな発表の仕方では友美が誤解するのも無理はない。理真はそれを告げるタイミングを見計らっているようだった。しかし、友美の口は止まらない。理真の推理を聞いていたときとは全く逆だ。


「あの男、知り合うなり私に言い寄ってきて、最初はわたしも満更じゃないって思ってたんだけど、藪医者だって気付いちゃったからね。それに薬害のことを隠してたことが拍車を掛けたわ。でも、何かと利用できそうだったから表面上今まで通りにしてたわ。誘いはうまくかわしてたけどね。色んな殺人計画を練るうち、毒殺もありかなって思って、ちょっとこっちから頼んだら、あの男、本当に病院からシアン化カリウムを持ってきたわ。救いようのない馬鹿。それでお前が殺されるかもしれないんだぞって、私、心の中で大笑いしたわ。まあ、あいつにはもっとふさわしい無様な死に様を用意してやったけどね。

 あの男が覗きをやってるって知ったのはひと月くらい前よ。まだ雪が降ってる時期。私、ある日、この机で本を読んでたんだけど、ふと窓から外を見たの、そこで何だか違和感を憶えたのね。あれ、いつもと何か違うなって。原因が分かった。倉庫の下の穴だった。雪が積もれば、当然地面と同じ高さにあるあの穴は積もった雪で見えなくなるわ。でも、そのときは穴が見えてたのね。四角い口が白い雪の中にぽっかりと。私、藍子ちゃんと違って目がいいから。

 おかしいなって思って、私、倉庫まで行ってみたの。そうしたら、穴の外の雪だけがどかされていたわ。自然にこんなになるわけがないから、何でだろうって、私、倉庫の中に入ってみたの。そこから穴を覗いてみたら……見える、私の部屋も、隣の脱衣所も、お風呂も。まさか、誰かが覗きをするために雪をどかしたのかって。よく周りを見たら、倉庫の入り口から奥の林まで、誰か歩いたような足跡もある。その先は獣道。何だろうって、とても怖くなって。最初はお兄ちゃんかもって思った。ここに一番来るのはお兄ちゃんだから。兄妹っていっても母親が違うし、何か私に変な感情を持ってるのかなって。それとも、目的は藍子ちゃんなのかもって思った。よく泊まりに来るからね。

 私、その日からこっそり、倉庫の中にある棚の一番下にビデオカメラを隠して録画を始めたの。録画時間に限界があるから、だいたい夜暗くなってからカメラを仕掛けて、次の日に会社から帰ったら回収することにしてたの。当然、その間は窓のカーテンもお風呂の窓も絶対開けないで用心したわ。しばらくは何も映っていなかった。

 でも、それから二週間くらい経ったある日、食事会が開かれることになったのね。事件の夜と同じメンバーで。藍子ちゃんも泊まることになってたわ。藍子ちゃんには、怖がらせちゃうから、覗かれてるかもなんて言えないから、その日は、それとなく窓際には行かないようにさせてお風呂に入ったわ。翌日、カメラを回収して再生してみたら、映ってた……あの男が……食事が終わって帰るふりをして倉庫に行って、こんなことをしてた。

 驚かなかったわ。あの男ならやりかねないって変に納得した。そのとき閃いたの。あいつが覗く配線の穴、お父さんから聞いたあの倉庫の屋根のこと、倉庫にしまってあるお兄ちゃんのコレクションの中に変な形の武器があったこと、それらが頭の中で一瞬で結びついて、あの男を殺す方法を思いついた。あいつの変態性癖を利用して殺してやる殺人装置をね。

 あの日、殺人装置を仕掛けて東京へ行ったあの日。もしかしたら、あの男が私の仕掛けに気付いてしまうかもとも考えたわ。だっておかしいじゃない。あんな仕掛けに掛かって死ぬなんて。普通気付くんじゃない。いくら夜だからって自分の頭の上にあんな凶器がぶら下がってたら。自分で考えておいてなんだけど。それと、もしかしたら、あの夜覗きはやらないかもしれない。そうも考えたわ。私が日曜日に帰ってきて倉庫へ行くと、私が仕掛けた状態のまま、あの武器がぶら下がってる。それならそれでよかったかも。それを見て頭を冷やして。もう殺人計画を立てたりなんてしない、そう考えたかも。

 でも、日曜日の夜、倉庫へ行って、外に張ってあるはずのロープがなくなってるのを見たとき、穴から人の腕が出ているのを見たとき、ああ、やっぱり、って……私も、もう後戻り出来ないって覚悟を決めたわ。でも、あいつ、鍵を掛けてたなんて。私が撮ったビデオには、倉庫の入り口までは映ってなかったから知らなかった。覗きなんてやるくせに余計なところで小心者。おまけに指紋も残さないようにしてたなんて。やられたわ。安堂(あんどう)さんの言った通り、長めに作っていたロープは、屋根と壁の隙間に引っかかって完全に倉庫内に落ちてはいなかったから、何とかロープの回収だけは出来たけれど。

 おかげで事件が変な方向に行っちゃったわ。密室殺人なんてやるつもりなかったのに……だから、だからね、私、警察の人たちが、穴に手を入れた死体。手元に落ちている携帯電話。異様な凶器。それらについて、強面の刑事さんや警察官たちが真面目な顔で、ああでもない、こうでもないって一生懸命考えを巡らせて話しているのを見てね、本当、おかしくって。そんなの全部、私の妥協の産物なのにって。意味なんてないのにって。探偵まで引っ張り出してきて……探偵まで……」


 友美はそこまで語ると、一瞬理真を見てから俯いて、ふう、と息をついた。理真はそんな友美に話しかける。


「友美ちゃん、久慈村さんを殺した理由は、あくまでも個人的な復讐だったわけですね」

「……個人的? 何が言いたいのか分からないわ」

「友美ちゃん、久慈村さんが新薬認可調整委員会っていう機関にいたことは知ってる?」

「何それ? さっきの話にも出てきてたわね。全然知らないわ」

「やっぱり。あなたは、久慈村さんは純粋な私怨で殺害した。薬害被害に遭った社会的な復讐対象としたのは、(たもつ)さんだけだったのね。だから、あなたは警察の手が自分に伸びることはないと思っていた」

「あの男も薬害事件の片棒を担いでいたの? そうなの。どこまでも救いようのない男だったのね……」

「久慈村さんは個人的な恨みで殺した。しかし、保さんを殺したのは、薬害被害を出した責任者への復讐、ということですね。社会的な恨みということですか」

「そんな大層なものかは分からないわ。でも、……そうよ。あの時心(ときしん)製薬の当時の社長が、こんな近くにいたんだもの。殺さずにはいられなかったわ」

「でも、藍子ちゃんのお祖父さんですよ」

「あの爺さんが藍子ちゃんに何をしたか、知ってるんでしょ。薬害のこともだけど、死んで当然よ……」

「でも、友美ちゃんも見たでしょう。保さんが刺されて病院に運ばれたとき、藍子ちゃん、泣いていたじゃないですか。友美ちゃん、あなた、藍子ちゃんの肩を抱いて慰めてあげてたじゃないですか。どうしてそこで踏みとどまれなかったんですか」

「……どうしてかな。私、見られたって思ったのかも、保さんを刺したとき、あの人、振り返ったような気がして。逃げる私を見ていたような気がして。翌日病室で会うのが怖かったわ。でも、全然そんな素振りなかったけど、そのときはもう毒入りの薬とか仕込んだあとだったから。もう後戻り出来なくて……ううん、違う。駄目、やっぱり駄目。死ななくちゃいけなかったの。保さんは、報いを受けなきゃ駄目だったの……」


 友美の口調は最後、叫ぶように変化していた。それは、自分自身に言い聞かせているかのよう、自分自身に言い訳をしているように聞こえた。


「友美ちゃん。確かに、久慈村さんや保さんたちのしたことは、許されることではありません。報いを受けるべきでしょう。どうしてあなたは正当な手段に出なかったんですか。二人には私刑ではなく、正当な裁きを受けさせるべきではなかったんですか」


 理真は今までにない強い口調で言った。それを聞いた友美は、


「正当な手段? それって何? 裁判にでも持ち込めばよかったって言うの? そんなことをしたらどうなるか。世間の注目を浴びて連日マスコミに追い回されることになるわ。政府と時心製薬は罪をなすりつけ合い、少しでも時間を稼ごうと証拠を小出しにして、どうしたら少しでも罪状が軽くなるか考える。そんな茶番に巻き込まれたら、もう私の人生それだけに費やされて終わりよ。

 あの男のことだってそう。私が撮った覗きをしていた映像を証拠として出して訴える? あの男は否定するでしょうね。ただ倉庫に入って寝そべっていただけだって。どんなに苦しい言い訳でも押し通すはずよ。弁護士も入れ知恵するでしょうね。そういうホラを考えるの得意だもんね。それでここでも煩わしい裁判に時間が費やされて、もう人生終わり。冗談じゃないわ。なんで私があんなクズの保身に付き合って……。

 私には時間がないの……好きなことしたいじゃない……別の生き方もあるって、当然考えたわよ。このまま何もせず黙って、自分の人生を好きに生きようかって。運命だったと思って、全て受け入れて、全てを忘れて……でも駄目! やっぱり私、許せなかった。時心製薬の社長は事故の責任も取らず悠々の隠居暮らし。おまけに藍子ちゃんにつらく当たって……。

 あの男だってそう。罪の意識のかけらもなく平然と医者を続けて。私以外にもあいつのずさんな診療の被害者がいるはず。しかも、覗きまでしてる変態。どうしてあいつらが何の罰も受けないで好きなように生きていて、私が我慢していなきゃいけないの? 私、どうにかなりそうだった。自分の人生を選択したら、あいつらを許さなきゃいけない。あいつらに罰を与えるなら、それと引き替えに自分の人生の時間を捧げなきゃいけない。どう生きたって満足する人生なんて送れないって……。

 でもね、私、気付いたの、この方程式を解く答えに。自分の時間を失うことなく、あいつらに罰を与える方法。殺してしまえばいい。完全犯罪で。だから、私、考えた、必死に考えたわ……」友美の目に涙が浮かぶ。「こんなはずじゃなかったのに……」


 友美は椅子から崩れ落ち、床に膝と手を突いた。嗚咽する度に体が小さく震える。理真もベッドから下り、友美のそばに屈み込んだ。


「確かに。あなたの犯行には色々なアクシデントが襲いましたね。久慈村さんが倉庫に施錠したばかりに密室殺人が出来上がった。保さんがウーロン茶を飲まないことを知らなかったため、毒物が入った飲料を被害者が飲まずに毒殺されるというおかしな状況となった。藍子ちゃんを運び込んだ直後に勝巳(かつみ)さんが梯子を外したため、犯人が袋小路で消失するという事態になった。どれも典型的な不可能犯罪の様相を呈してしまった。

 私、不可能犯罪って、ダイヤモンドのようなものだと思うんです。一見堅い。とても砕けそうにない。でも、実は堅いものほど砕けやすい。衝撃を逃がす柔軟性がありませんから。一度謎を見破られたあとの応用が利かない。そして、ダイヤモンドの輝きに人は引き寄せられてしまう。ありふれた石ころみたいな犯罪には目もくれないような人達も、不可能犯罪となると興味津々で好奇の目を注ぐ。探偵と呼ばれるような人種が捜査に介入してきてしまうんです。……行きましょう、友美ちゃん」


 理真はそっと友美に手を寄せ、立ち上がらせようとした。が、


「……行くって、どこへ?」


 顔を伏せたまま友美が言う。理真の動きが止まる。友美の震えも止まっていた。


「私……やってない」押し殺したような低い声を友美は絞り出す。

「友美ちゃん!」理真が友美の腕を掴んで立ち上がらせようとしたが、それより早く友美は自分で立ち上がった。


「駄目! 私、捕まるわけにはいかない。ここまでやってきて、どうして私が捕まらなきゃいけないの? 私、頑張ったんだよ。ひとりで頑張った。色んな邪魔が入ったけど、何ひとつ予定通りにうまくいかなかったけど、私、頑張って考えた。乗り切ってきたの。誰の力も借りないで、たったひとりで。だから……駄目」


 友美は堂々と立ちはだかった。落涙を続ける目をみはり、胸を張って、堂々と……。


「友美ちゃん! もうやめて!」私はたまらず立ち上がってしまった。「友美ちゃん、言ったじゃない、全部、自分がやったって、理真の言うとおりなんでしょ。今、罪を認めたじゃない。どうして、どうしてそんなこと言うの……」


 往生際が悪い、と非難するつもりはなかった。ただ、探偵の推理の刃で切り刻まれてもなお、立ち上がろうとする友美のその姿が、あまりに痛々しく、美しく。その姿が歪む。気が付けば、私の頬にも熱いものが伝っていた。

 友美は私の目を見た。助けて、そう訴えかけているようだった。私は視線で返事をした。出来ない、と。それが伝わったのかどうかは分からない。

 友美は再び理真を向いた。その視線は炎を発しているかのような禍々しいものに変わっていた。友美は深く息を吸い込むと、


「どうして私が捕まらなくちゃいけないの。証拠がないわよね。アクシデント、色々あったけど、私、指紋や物証を残すことは絶対しなかった。それだけは自信を持って言えるわ。

 第一の殺人で使ったロープはとっくに捨てた。保さんを指した包丁は、その夜のうちに橋の上から阿賀野川(あがのがわ)に投げ捨てたわ。あれだけ広くて深い川から一本の包丁を探し出すなんて出来るものですか。もう流されてどこへ行ったか分からなくなっているでしょうね。

 返り血が付いた服もとっくに捨てたしね。病院の屋上でシーツを結ぶときも、メモを書くときも、当然手袋をしてたわ。電話を掛けたときもそう。誰に見られてもいない。シアン化カリウム? 全然知らない。あの男が病院から盗んで私にあげたなんて、今更どうやっても証明できないわよね。徹底的に家捜ししてもらって構わないわよ。絶対に家のどこからも残りの毒は出てこないから。

 ボイスレコーダーを回収するためにもう一度あの喫茶店へ行った? そうよ、会社帰りに寄ったわ、マスターに聞いてくれて構わないわ。でも、私は席にハンカチを忘れて、それを取りに戻っただけよ。ボックス席の観葉植物の鉢の中に、私が忘れたハンカチが落ちていたのをマスターも一緒に見てるわ。その下にボイスレコーダーがあったなんて誰が証言出来る?

 私と藍子ちゃんを誘拐した犯人が着ていたローブだけどね、私が高校の文化祭のクラス演劇で魔法使いを演じたときに使ったものよ。だから私の指紋がベタベタ付いてるかもしれないけど気にしないで。あれ、つい最近ゴミに出したんだけど、誰かがゴミ袋の中から持ち去ったのかも。

 あの男が死んだのも、私と藍子ちゃんが監禁されていたのも、私の家の敷地内ね。私の指紋が出てきても全然おかしくないわね。犯人はどうしてそんな場所を選んだのかしら。犯人、そう、この事件の犯人は脅迫状を出したサガミタケルっていう人なんじゃないの? 捕まえるならそっちよ。警察は何をしてるの……?」


 友美は一気に捲し立てた。涙は止まっている。赤くなったその目がその痕跡を物語るのみだ。


「相模健さんは、死んでいるわ。この事件が起きるより前にね」


 友美とは対照的に、理真の言葉は静かだった。


「そう。いったい誰なの? その人。警察はもうとっくに死んでいる人間を犯人だと思って追いかけてたってわけ? まあ興味ないけど。じゃあ、この事件は迷宮入りね」

「友美ちゃん、あなた、絶対に証拠は残していないっていうけど、警察の捜査を甘く見ないほうがいいわよ。漠然と犯人を追っていた今までと違って、友美ちゃん、あなたが犯人だと断定して捜査にかかれば必ず何か見つけるわ。誘拐事件に使った脅迫状はどう? 見たところ友美ちゃんの部屋にプリンターはないから会社のパソコンで作って印刷したの? ああいう業務用のプリンターは、いつどんなものを印刷出力したか履歴が残るものが多いのよ。そのデータも調べるわよ」

「……いいわ、調べてみればいいじゃない。会社には業務用の他に名刺の印刷なんかに使う家庭用の小型プリンターもあって、それを使って印刷したのかも」

「任意で同行を求めて話を聞くこともあるわ」

「任意だったら、従う義務はないですよね。無理やり連れて行かれたとしても、私、絶対喋らないけどね。どんな酷い目に遭わされても、私、絶対自白しない。安堂さんがここでのやりとりを証言したって、そんなこと言ってない、デタラメだって言い張るわよ……まさか、この会話をこっそり録音するなんてケチくさい三流探偵みたいな真似してないわよね。まあ、そんな盗聴まがいの録音に証拠能力なんてないけどね」

「友美ちゃん!」理真の鋭い声が部屋に響いた。「あなた、たくさんミステリを読んでるなら分かるでしょ。超犯罪者が最後まで逃げ延びられたことが一度でもあった? 解けなかった不可能犯罪があった?」

「それはパラドックスよ。探偵が解決して書籍化されている事件だけが不可能犯罪の全てじゃないはずだわ。探偵が挑んではみたけれど、結局謎が解けなくて、不可能犯罪という看板を外して、ありふれた殺人事件として迷宮入りさせたような事件が、もしかしたらあるかもよ。名探偵の名前に傷を付けないようにね。この世に起きた全ての不可能犯罪を調査して、その全部が解決されているって証明できる? 全てのカラスが黒いって証明できる? 影には、うまく逃げ果せた超犯罪者だっているはずよ」

「自分は逃げられると」

「そうよ」

「みんなそう思うわ」

「安堂さん、私が捕まらないことは社会正義にも繋がるのよ。この薬害事件で責任を負うべきは保さんだけじゃない。もっと悪いことをしておきながら、のうのうと当たり前の生活を謳歌しているやつが何人もいるわ。保さんが殺されたことで、そいつらはどう思うかしら。次は自分の番かもしれないと怯えながら暮らすことになる。それが報いよ。犯罪に時効があるのは、犯人が逃亡生活の中で罪の意識に怯えて暮らすこと、それそのものが罰になるという理由も含まれているからだと聞いたことがあるわ。だったらこれはその裏返しよ。犯人が捕まらず野放しになっていることが、あいつらの贖罪になるはずよ」

「そんな話が通るわけがないわ」

「安堂さん、そもそも、犯人は全くの部外者である可能性だって切り捨てられないわよね。第一の殺人の仕掛けは、あの男の覗き癖を知っていたら私以外の人間でも仕掛けられるわ。仕掛けさえ施したら、あとは遠隔殺人だから、死亡時刻にアリバイがある人間全員を疑えるわよね。地球の裏側だって一日あれば行ける時代よ。全人類に聞き込みはしたの? それとも、あの男が自分で仕掛けを施して自殺したのかもしれない。殺したいほどあの男に恨みを持っている人間が他にいない? 覗き癖を私以外誰も知らなかった? 自殺する理由がない? そんなの証明できるの? 人が自殺する理由だって、そんなの他人には窺い知ることは出来ないわ。死に方が自殺とは思えない? 誰かに罪をなすり付けるためにやったのかも。そう、この私に。

 保さんの場合は? 駅前で刺されたのは本当の通り魔の仕業だったのかも。毒を飲んだことだって、保さんがウーロン茶を飲まないっていうのは本人が言っていただけよね。本当に飲まなかったと断言出来る? たまたま飲む気になったのかも。屋上からの犯人の侵入と脱出も絶対に行われていないって断言出来る? あの病室を外から二十四時間捉えている定点カメラでもあるのかしら?

 誘拐犯は? あれは本当に私? あんなだぶだぶのローブを着てたら身長なんてある程度誤魔化せるわよね。私よりずっと背の高い人間が中で屈んでいたとしたって分からないわよね。月明かりしかない夜中のことなら、なおさら。犯人が袋小路から消えたのだって、安堂さん、あなたにも解けない何かのトリックが使われたのかも。犯人はもしかしたら超能力者だったりしてね」


 目を見開き、口元を歪めた友美のマシンガンのような反論。


「安堂さん、どうなの? あなたはこれまで入手した手掛かりに沿って推理を組み立てたみたいだけど、手掛かりは本当にこれで全て? 何か見落としがあるんじゃない? それとも、事件と関係のないものまで手掛かりだと思い込んでるっていうことはない? もしかしたら、真犯人が仕掛けたニセの手掛かりに翻弄されてるんじゃない? その可能性が絶対にないって言い切れる? 神様でもないのに」


 友美は額に汗を浮かべ、肩で息をした。顎の先までたれてきた汗を右手の甲で拭う。よく見ると脚が微かに震えている。


「……そうですね。私は藍子ちゃんが犯人ではありえないと言いましたが、それは第三の誘拐事件に対してだけです。久慈村さんと保さん殺害は、藍子ちゃんにも犯行は可能――」

「バカじゃないの! あの子がそんなことするわけないでしょう!」

「車の運転をする人間を調達すれば、誘拐事件も可能です」

「ふざけないでよ! 本気なの? ……いいわ、もうたくさん」


 友美は深いため息をついて、落ち着きを取り戻したようだ。そして理真に向かい笑みを浮かべながら、


「帰って。これ以上話をするのなら、警察と一緒に正式な書面を持ってきてからにして」

「あなたのこんな姿を見たら、藍子ちゃんはどう思うかしら――」

「だからやめてよ! あの子は関係ないでしょ!」


 冷静になって勝利を確信したかのような友美だったが、藍子の名前を聞くと激情を露わにする。


「藍子ちゃんのためにも、私は捕まるわけにはいかないのよ。逮捕でも何でもしたらいいわ。でも、絶対に罪は認めない。犯罪者になんて絶対にならない。時間がないの、私には……」

「時間がないって、友美ちゃん、あなた、もしかして病状が――」

「知ってるんでしょ、あの子の、藍子ちゃんのこと」


 理真の問いかけを無視して、友美は唸るように言った。理真は頷く。


「かわいそうな子なの。あの子には、私が付いていてあげないと。だからよ。裁判なんかやってる暇ないの。犯罪者として拘置されるわけにもいかないの。私は、あの子が今まで知らない、普通の子が当たり前に味わってきた家庭の温もりを、色んな楽しみを教えてあげたいの。本の中だけじゃない、本物の風景を、目で耳で触れてほしいの。あの子、ディズニーランドにもまだ行ったことないんだって。お金に不自由もしていない東京にも住んでいた女の子がよ。嘘みたいでしょ。修学旅行以外、泊まりがけの旅行に行ったことも一度もないんだって。連れていくわよ。行きたがってた東京旅行。スカイツリーにも連れて行くわ。海外旅行にも。パリとか行ってみたいんだって。

 ねえ、私には時間がないの。あの子が立派に成長するまで見届けられるか分からないわ。だから、一秒も無駄にしたくないの。色んなところにいっぱい連れていかなきゃ。たくさん話をしなきゃ。分かるでしょ。だから、駄目、あの子にだけは知られちゃ駄目。私が密室殺人トリックで人を殺した殺人犯だなんて。あの子のお祖父さんを毒殺したなんて。疑いを晴らすためとはいえ、あの子を眠らせて誘拐しただなんて。濡れ衣、全部濡れ衣なんだって。そうじゃなきゃ駄目なの。私は、あの子のお姉ちゃんで、お母さんで、一番の親友でいなきゃいけないの。だから、見逃して、見逃してよ……」


 再び友美の目に涙が滲む。訴えかけるその言葉は涙声になっていた。


 …… ……


 何か音がする。すすり泣きのような。理真と友美もそれに気づいたように部屋を見回す。

 音は堰を切ったように次第に大きくなる。それは、私と理真の後ろから聞こえてきているようだ。そこにあるのは、ウォークインクローゼット。

 立ち上がると理真は、ゆっくりとベッドを迂回してその前に立った。私は胸の前で震える手を組んだ。

 友美を見ると、その表情は恐怖に強ばっている。友美の喉が動く。ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。

 理真は、そっとクローゼットの扉を引き開けた。

 そこには、膝を抱えてうずくまり、顔を涙でくしゃくしゃにして嗚咽する時坂藍子の姿があった。


 曇天(どんてん)の底が抜け、雨が大地を叩く。


 友美は両手で口元を覆い、膝から崩れ落ちた。

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