第22章 犯人出現
西根家前の駐車場には数台の車両が駐められていた。全て覆面パトだ。付き合いの長い私たちには分かる。セダンタイプの車の隙間を縫って私は駐車した。車を降りると、理真は呼び鈴を押すこともなく玄関へ上がり込んだ。私もあとを追って廊下を歩き居間へ入る。
「理真」丸柴刑事が理真の姿を見つけ声を掛けてきた。広い居間は警察官でごった返し、鑑識が固定電話に何か装置を取り付けたりしている。逆探知を行うための機械だろう。テーブルの上には三台の携帯電話があり、そちらからもコードが伸びており、鑑識のパソコンに繋がっている。恐らく樹実彦と佐枝子、勝巳の携帯電話だろう。こちらに犯人から電話が来ることも予測しているのだ。その横には、佐枝子と勝巳が神妙な顔で座っている。樹実彦の姿はなかった。二人は私たちに気づくと、軽く会釈をし、私たちも返す。室内は刑事や鑑識の会話が続いている。丸柴刑事は、理真と私を台所の隅に連れてきた。少しは静かに会話が出来る。
「理真、大変なことになったわ」
「藍子ちゃんの家のほうは?」
「もちろんそっちにも警察が入っているわ。同じように、固定電話と、お手伝いさんの携帯電話で逆探知できるようにしてる」
「脅迫状が届いたのは何時頃?」
「午後八時五分くらいじゃないかしら。佐枝子さんが警察に電話してきたのが、八時十分。脅迫状を見て、勝巳さんと相談して電話したそうよ。その間五分くらいだったそうだから」
「即、警察に電話してきたのね。脅迫状には、警察に連絡するな、のお決まりの文はなかったの?」
丸柴刑事は、答える代わりに懐から封筒を取り出した。理真は手袋をしてから受け取る。それを見た丸柴刑事は、指紋はなかったわ、と告げる。封筒は無地のありきたりなものだ。宛先などは一切書かれていない。玄関に直接置いてあったそうだから当然だろう。理真はゆっくり中の紙を引き抜く。広げられた紙は、A4サイズの無地の紙だった。
トモミト アイコハ アズカッタ
フタリヲ クジムラヤ タモツノヨウナメニ
アワセタクナケレバ オッテ シジヲマテ
タモツノコトハザンネンダッタ
スナオニイウコトヲキカナカッタ タモツノカシツダ
サガミタケル
「友美と藍子は預かった。二人を久慈村や保のような目に遭わせたくなければ、追って指示を待て。保のことは残念だった。素直に言うことを聞かなかった保の過失だ」
パソコンのワープロソフトで打たれたであろう、全文片仮名の文章を、理真は読み上げた。それから少し時間を置いて。
「……相模健」
「どう思う、理真」丸柴刑事は額に手をやった。
「まず、二人がいなくなった状況を聞きたい」
「そうね。本当は佐枝子さんから直接話してもらうのがいいんだけど、動揺してて、私たちもやっと状況を聞き出したような状態だから、私から話すね」
保の葬式が終わったあと、友美と藍子は二人で出かけていった。二人とも私服を持って葬式に来ていたので、最初から出かけるつもりだったのだろう。礼服(藍子は学生服)はそれぞれ佐枝子とお手伝いさんの福田に預け、友美の車で二人は式場を出た。葬式が終わったあとのお斎を途中で抜け出たそうだ。時間は午後三時くらいだったという。
樹実彦、佐枝子の二人は最後まで付き合い、葬儀の後片付けなど手伝ってから帰ったので、帰宅したのは七時半頃だった。克巳は医院から六時頃に帰宅していた。
八時を少し過ぎたころに、玄関のチャイムが鳴り、佐枝子が応対に出たが誰もおらず、玄関先に封筒に入れられた脅迫状が置かれていたという。
「二人の携帯電話は通じないわ。電源が切られているみたい。犯人から電話があるかもしれないから、西根家、時坂家に鑑識部隊が乗り込んで逆探知の準備をするのと平行して、友美ちゃんの車の捜索も行ってる。今の警察の動きはこんなところよ」
「突っ込みどころが多い事件ね。なぜ友美ちゃんと藍子ちゃんは誘拐されたのか。久慈村さんや保さんと同じ目に遭わせる、と言ってるということは、二件の殺人と同一犯と考えていいわね。久慈村さんと保さんは殺害したけど、友美ちゃんと藍子ちゃんは誘拐するに留めた。今のところわね。何か目的があって誘拐したのだとしても、要求が一切書かれていない。この二人が犯人から狙われた理由は何? 藍子ちゃんは保さんの孫だけど、友美ちゃんは全く無関係といっていいわ」
「そうね」と丸柴刑事は、「最後の箇所については、どう思う?」
「保のことは残念だった。素直に言うことを聞かなかった保の過失だ」理真は、もう一度脅迫状の最後の一文を声に出して読み、「保さんと犯人は、何かの話し合いをするために病室で会った。しかし、話し合いが合意に至らず、やむなく犯人は保さんを殺害した、こんなところ?」
「最初から殺すつもりはなかった、ってこと? 青酸カリを用意していったのは用心のためだった」
丸柴刑事の言葉に理真は、
「丸姉、そもそも保さんは一度深夜に襲われているんだよ」
「ああ、そうだったわね。じゃあ、やっぱり最初から殺す気満々だったってこと?」
「そこまではまだ何とも……で、とうとう、というか、やっと、というか、犯人が名前を名乗ってきたわね」
「相模健……やはりまだ新潟にいたのね。田町さんにも知らせたんだけど、驚くのを通り越して怒り出して、どうしてその二人がさらわれなきゃならないんだ、って。明朝、新幹線でまたこっちに来るらしいわ」
「田町……ああ、警視庁の刑事さんね。まあ、あの人が怒るのももっともね。相模の動機が復讐なら、友美ちゃんと藍子ちゃんが狙われる道理はないもの。ちなみに、東京で相模の動きらしき何かは掴めていたの?」
「ちょっと聞いたんだけど、全くないらしいわよ。ターゲット――相模が復讐の標的にしていると考えられる人たちってことね――その周辺から、相模らしき人物の目撃証言も、脅迫状のようなものが送りつけられたこともなし」
居間の方向から聞こえていた警官たちの声が急に大きくなった。何か進展があったのだろうか。居間から出てきた警官を捕まえて、丸柴刑事が訊く。
「友美さんの車が見つかりました」警官は答えた。
「どこで?」
「ここから三キロほど離れたスーパーマーケットの駐車場です。車内には誰もいないとの報告です」
「そう」丸柴刑事は理真と私に向いて、「私たちはここで待機しましょう。犯人から連絡が来るかもしれないわ」
「そうだね」と理真も丸柴刑事の考えに賛成した。
私たちは居間へ戻った。さっき来たときからずいぶんと警官が減っている。佐枝子と勝巳に加え警察関係者は、城島警部、鑑識の須賀の他、鑑識員が一名残るだけだ。
「みんな車のほうに向かったよ。捜索に聞き込み、あっちはいくら人手があっても足りないからな」
城島警部が言った。
「友美ちゃんか藍子ちゃんの携帯電話で居場所を探知できないんですか?」
私の問いには須賀が答える。
「電源が切られているんだよ。今モニターしてるから、どっちかでも電源が入ったらすぐに分かるようにはなっているんだけど」
須賀はパソコンのディスプレイから目を離さず言った。
「樹実彦さんは?」理真の問いには、
「寝室で寝ております。起こさないように携帯電話だけ取ってきました」と佐枝子。
「ということは、このことはまだ?」
佐枝子は頷いて、
「はい、知らせておりません。先ほども見てきましたが、まだ寝ておりました。幸い主人の寝室は離れておりますので、ここの騒ぎにも気づいていないようです」
「そうですか……」
そのとき、襖が開き、
「佐枝子……」樹実彦が姿を現した。「何があった……」
「あなた、起きていらしたんですか?」
「何があった」樹実彦は同じ台詞を繰り返した。視線は室内を巡っている。目を合わせた城島警部が会釈する。
「とりあえず座って」
佐枝子は座布団を敷き、樹実彦はその上に腰を据えた。状況説明をするためか、腰を浮かした城島警部を制して、佐枝子が先に口を開いた。
「友美と藍子ちゃんが、誘拐されました」
樹実彦は全く無反応に見えた。一言、「そうか」と呟き、「水をくれ」
そして、大きくため息をした。肺の中の空気全て、魂までも吐きだしたようなため息だった。台所に勝巳が走り、すぐに水を満たしたコップを持ってきて差し出したが、
「……お父さん?」
樹実彦が一向にコップを受け取ろうとしないため、コップを一旦テーブルに置きその肩に触れる。その触れた勝巳の手が、強烈な一撃だったといわんばかりに樹実彦は後ろに倒れかかったが、寸でのところで勝巳が体を押さえ、畳に背中を打ち付けることは回避した。
「あなた!」
「お父さん!」
佐枝子と勝巳が同時に叫んだ。
「救急車だ」城島警部が静かに指示を出す。隣にいた鑑識員が携帯電話をダイヤルした。
程なくして到着した救急車は、樹実彦と付き添いの勝巳を乗せ走り去った。玄関まで出た理真と私と丸柴刑事は、赤いランプを明滅させながら遠ざかる緊急車両を見送る。
「大変な心労だったでしょうね、樹実彦さん」私は丸柴刑事に話しかけた。
「そうね、弟子の死、親友の死、それもただの死じゃない、殺人だものね。そして今度は娘の誘拐。ただでさえ体が悪いのに、心配だわ」
サイレンの音は遠ざかり、夜は静けさを取り戻した。
「そろそろ戻りましょう。犯人から連絡が来るかもしれないわ」
丸柴刑事はそう言って踵を返した。私と理真も続いたが、救急車が去った門の方向から何やら音が聞こえてきた。私と理真は立ち止まる。人が歩く音だ。誰だ? 振り返るが、月が雲に隠れているため視界がはっきりしない。足音は止まった。三メートルほど離れた門の前に誰かが立っているようだ。玄関へ入りかけた丸柴刑事も引き返してきた。
「誰? お客さんかしら?」
丸柴刑事が呼びかけるが、答えはない。そして、まるで演出されたように、雲に隠れていた月が顔を出し、侵入者の姿を照らし出した。
全身を黒いマントで包み隠していた。マントと言うよりは、ファンタジーの魔法使いが身につけるような、だぶだぶのローブという衣装に近い。頭にも黒いフードを被っている。顔の部分は真っ暗な穴と化しており、木のうろを思い起こさせた。
「うわっ!」私は思わず叫び声を上げてしまった。理真と丸柴刑事はさすがに叫び出すようなことはなかったが、一気に緊張した空気が伝わってくる。丸柴刑事は二、三歩進み出て、私と理真の前に立った。その怪人は、無言のままの私たちに向けて右手を差し出す。ローブの長い裾は手首の先まで隠しており、素肌を全く露出させていない。裾ごしに何かを握っているようだ。あれは、携帯電話?
「……う、誰か……いるの……」
携帯電話から、女性の声が聞こえた。スピーカーモードにしてあるのだろう。
「友美ちゃん!」私は小さく叫んだ。間違いなく友美の声だ。しかもあの携帯電話には見憶えがある。あれは藍子のものだ。
「動くな」今度はスピーカーからでなく、肉声が飛んだ。怪人が発した声だ。だが、この声。変声機を通すか、ヘリウムガスを吸っている、異質な声。身構えて飛びかかるような体勢を取った丸柴刑事に対し、牽制するような声だった。
「おとなしくしていろよ。この女どもがどうなっても知らないぜ」
丸柴刑事が構えを解いたのを確認したように怪人は言葉を続けた。私たちと怪人との距離は約三メートル。そもそも、一気に飛びかかれるか不安な距離だった。怪人はゆっくりと歩きながら門を越し、敷地内に入ってきた。そのまま歩みを続け、庭へ向かう砂利道の上に来たところで足を止めた。
「あなた、何者なの」丸柴刑事が問う。
「フフフ……誘拐犯人に決まっているだろう」
思ってはいたが、やはりそうなのか。じゃあ、こいつが、相模健? さらに犯人は丸柴刑事に向かって、
「おい、刑事。両手を上げてろ。どうせ物騒な物を持ってるんだろ」
丸柴刑事は両腕をゆっくり上げ、後ろ頭で組んだ。スーツの隙間から、拳銃のホルスターが見えた。玄関のドアが開く音が聞こえ、ばたばたと足音が。
「丸柴さん! 理真ちゃん! 来たよ! 友美ちゃんと藍子ちゃんの携帯電話の電源が入った!」
須賀の声が近づいてくる。
「電波を捕らえた基地局は秋葉区だよ! この近くにいるかもしれない……」
私たちのすぐ後ろまで掛けてきた須賀は、一気に声のトーンをダウンさせ、「ひゃー!」と叫び声を上げた。私と理真の肩越しにローブ姿の犯人を見たのだ。
「静かにしろ!」
犯人の一喝。直立不動の体勢になる須賀。
「……あなた、相模健なの?」理真が犯人に話しかけた。
「……そうだ」犯人は答えた。
「それなら別に顔を隠す必要はないでしょ。顔見せてよ」
「やかましい。素人探偵風情が。いいか、これから俺の要求を伝える」
まさか犯人が直接、しかも被害者の自宅に姿を現して誘拐に対する要求を行うとは。この犯人が何を言うのか。耳を澄ませていたら、
「おい、須賀、遅いぞ何してるんだ。俺には、ああいったパソコンはさっぱり……」
城島警部まで出てきた。さすがに犯人を見て、須賀のように叫び声を上げたりしない。
「フフフ、警部さんまでお出ましかい。おっと、警部さんも、そこの美人刑事と同じに両手を上げて下さいよ」
犯人が不敵に笑って、いや、笑ったような声で言った。
「……丸柴、これは一体どういう状況なんだ」
城島警部も丸柴刑事と同じく後頭部で両手を組む。警部の背広の下にも拳銃のホルスターが見えた。
「フフ、ちょうどいい、警部さんに説明してやれよ」
犯人の言葉を受けて、丸柴刑事は救急車を見送ってからの出来事を要約して話した。
「……なるほど。誘拐犯人自ら、人質解放の要求を語るということか。随分大胆なやつだな」
そう言って睨む城島警部を全く意に介さないかのように、犯人は哄笑を漏らして、中断していた話を再開した。
「いいか。俺の要求は、事件捜査の打ち切りだ」
「何ですって?」丸柴刑事が怪訝そうな顔をして、「捜査の打ち切りって、何に対しての捜査かしら」
「とぼけるんじゃない。久慈村要吾、時坂保殺人事件の捜査だ。この二人が殺されたのは天誅だ。警察が犯人を捕らえる必要はない。もっと他の犯罪の捜査に力を入れるんだな」
「そんな要求が呑めるわけないでしょう」
「呑まなかったら、友美と藍子も死ぬだけだ。捜査を打ち切ると約束すれば、二人は返してやる。この携帯電話の通話先に二人はいる。さっき声を聞かせてやったろう」
「もう一度聞かせて」理真が犯人を見据えて話しかける。
「何だと」
「友美ちゃんの声をもう一度聞かせてよ。藍子ちゃんの声も」
「駄目だね」
「どうして? 二人の安全は保証されてるの? 友美ちゃんが携帯電話を持ってるのかしら。見て、この状況、五対一よ。今この場であなたを逮捕して、それからゆっくりと二人の捜索をしてもいいのよ――」
「仲間がいる」
理真の言葉を遮るように犯人が言った。
「二人のそばには俺の仲間がいる。ここの様子は携帯電話を通じて仲間が聞いている。俺に何かあれば、即座に二人を殺す手筈になっているぞ」
理真はため息をついて、
「ねえ……」犯人に話しかける。「保さんとは、どんな話をしたの」
「あれはあいつが悪い。せっかく生き延びるチャンスをやったっていうのに」
「そもそも最初に路上で保さんを襲ってるわよね、それなのに、どうしてあとになってから話し合いなんて――」
「うるさい黙れ」犯人は一括して理真の言葉を止めて、「どうだ。捜査を打ち切ると約束するか」
「……分かった」答えたのは城島警部だった。「だから人質を解放しろ」
「フフフ、警部ともなると物わかりがいいな」
犯人はゆっくりと持っていた携帯電話を地面の砂利道に置いた。
「いいか、俺はもう退散するが、お前たちは、今から十分間、絶対にそこから動くな。動いたような物音がすれば、この携帯電話を通じて俺の仲間に聞こえる。そうしたら友美と藍子の命はないものと思え」
犯人は少しずつ後ずさりし、一気に後ろを振り向き庭の奥へ向かって走り出す。ローブがはためく音と、砂利を踏む足音が夜の帳に響いた。