第21章 安堂家の人々
安堂家には午後六時すぎに到着した。安堂家は、理真と私のアパートから車で十五分もかからない閑静な住宅街の一角にある。ここいらも十年くらい前までは田んぼに囲まれた小さな住宅街だったのだが、開発が進み、近くに大型ショッピングセンターができるなど、風景が急速に一変した。
理真は玄関前の駐車スペースに愛車のR1を滑り込ませる。理真のお母さんの車、シルバーのインプレッサもある。
「ただいまー」理真が玄関のドアを開け、上がり込む。私もそのあとから、お邪魔します、と声を掛けて上がった。
「いらっしゃい由宇ちゃん。理真も久しぶりね」
いそいそとエプロンで手を拭きながら、理真のお母さんが登場。相変わらず若いなー。詳しい年齢は聞いたことがないが、聞くときっとびっくりすると思う。私の中で永遠の謎にしておくつもりだ。
「ちょうどご飯の用意できたところだよ」
と言うお母さんの後ろから、三毛猫がとことこと歩いてきて顔を出した。
「あー、クイーン」
理真は猫の名前を呼びながら駆け寄っていく。
野良犬、野良猫を保護し新しい飼い主に引き渡す団体主催の、里親探しのイベントで引き取ってきた猫だ。
名付け親は理真だ。恐れ多いからその名前やめろと言ったのだが、三毛猫ホームズがありなんだからいいでしょ、じゃあ、三毛猫クイーンと、三毛猫隅の老人と、三毛猫思考機械のどれがいい? と無茶苦茶な提案をされた。実質、選択肢がひとつしかないではないか。結局そのまま名前が定着してしまった。その「いかにも」な名前とは裏腹、残念ながら、この猫が事件解決の役に立ったことは一度もない。
理真は愛おしそうな表情で抱きかかえた三毛猫の顔を見つめているが、猫のほうは理真と目を合わせない。さらに理真がクイーンを抱きしめると、猫の喉奥から、「うー」という唸り声が聞こえてきた。悲しいことに、この素人探偵は実家の飼い猫にあまり好かれていないのだ。
居間に通された私たちは、すでにあらかた食事の用意ができた食卓を見た。
「あれ、宗いないの?」
理真がお母さんに弟の所在を訊いたのは、卓には三人分の料理しか並べられていなかったからだろう。
「うん、友達のところだって。遅くなりそうだから、夕飯は先に食べていてくれって電話があったわ」
「高校生の分際で、夜遊びはするわ、エロゲーはやるわ、とんでもない不良少年だわ。きつく叱ってやらなきゃ」
腰に手を当てて理真が怒ったポーズをする。お母さんが、何をやるって? と訊いてきたが、こっちの話です、と私はその話題に触れさせないようにした。
炊きたてのご飯、焼き魚、お味噌汁、肉じゃが。今日の献立は和風で固められていた。いつ食べても理真のお母さんの料理はおいしい。昨日は西根家で豪勢な料理に舌鼓を打ち、今日は暖かな家庭料理。最近の食生活の充実ぶりはどうだ。
「理真、お前、また事件に首突っ込んでるんだって? 丸柴さんから電話あって、申し訳なさそうに謝ってたよ。お前のやることに文句言うつもりはないけど、あんまり危ない目に遭わないように気をつけなよ。それと、あんまり警察の方に迷惑を掛けないようにね。お前がお父さんの娘だからって、多めに見てくれているところもあるんだからね」
そう言って、お母さんは障子戸が開けられた隣の部屋の仏壇を見る。正確には、そこに立てかけられた一枚の写真を。写真の中では、理真の父親、元新潟県警捜査一課刑事、安堂哲郎がやさしい微笑みを浮かべている。
そんなことはない、理真は実際に丸柴刑事たちに頼りにされ、いくつも不可能犯罪を解決しています、と言おうとしたが、理真が、うん、と珍しく殊勝な声を出したので、私はその言葉を料理と一緒に飲み込んだ。
食事を終え、洗い物も手伝い終わると、お母さんがお茶を煎れてくれた。居間のテレビを点け、とりとめのない雑談をしたり、クイーンと遊んだりしているうちに宗が帰ってきた。車があるから、理真が来ていることは分かっていたのだろうが、私もいることは予想していなかったようだ。あー腹減ったー、とだらしのない声を出しながら居間に入ってきたが、私と目が合うと、あ、由宇さん、いらっしゃい、と急に大人しい声になった。甘いな宗。玄関の靴を見て客がいることを把握しなくては。探偵の弟なんだから。
宗は、ご飯すぐに食べるから、とお母さんに告げて二階へ上がっていった。
「私は、お風呂入るね」と理真は立ち上がった。
宗がご飯を食べ終わるのと、理真が風呂から上がってきたのは、ほぼ同時だった。
お母さんは、宗のご飯を用意し終えると、私はもう寝るけど、由宇ちゃんはゆっくりしていってね、と言い残し、自室へ戻っている。その間私は、クイーンにおやつをあげたり、宗から学校の話を聞き、自分の高校時代を思い出し、青春っていいなーなどと感慨に浸ったりしていた。
「由宇もお風呂入っちゃいなよ」と理真はバスタオルで髪を拭きながら言った。パジャマ代わりに男物のジャージを着ている。宗のものを借りたのだろう。どうでもいいが、私の名前を呼んだあとに、何々しちゃいなよ、と繋げないでもらいたい。私は着替えの寝間着を取り出すため鞄の中を漁りながら、攻略本とおみやげのことを思い出した。
「そうだった、宗くん、これ借りっぱなしだった。それとおみやげ。はい」
私は鞄から攻略本とキャットソックスからもらったゲームグッズの入った袋を取り出し、渡した。
「あ、ありがとうございます」
受け取りながら宗が戸惑った素振りを見せたのは、袋に描かれた美少女キャラクターのイラストのせいか? そんなの気にするなって。
「あ! 思い出した。宗、あんたエッチなゲームやってるんですって?」
「な、何だよ急に! やってねーし!」
突然、姉の尋問が始まった。
「別にやっちゃ駄目とは言わないわよ。でも一応そういうのって、十八歳以上にならないとやっちゃいけないって決まりがあるんでしょ。警察官の息子であり、素人探偵の弟でもあるという立場を考えたらね、そういったルールは守ってしかるべきだと思うの、お姉ちゃんは」
「だから! やってないって!」
「お姉ちゃんのお風呂覗くだけじゃ満足できないの?」
「誰が覗くか! そんなことしたことねーだろ! ぶっ殺すぞてめぇ!」
「おー、怖い怖い、反抗期だわ」
理真は冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出した。
「やめなよ理真ー」
あまりに宗が顔を赤くしているので、見かねた私は姉を諫めた。ちょっとからかいすぎだぞ。
「やるときはちゃんと部屋に鍵掛けるんだよー」
牛乳を注いだコップを持ちながら理真はなおも弟をからかい続ける。
「やったことねーって言ってるだろ! だいたい部屋に鍵付いてないし!」
「理真、ほんとにやめなよ……理真?」
理真は口元にコップを運びかけた状態で止まっている。
「お風呂を覗く……鍵を掛ける……」
そんなことをつぶやいたまま、理真、と声を掛ける私に手のひらを向け制する。
「何か分かったかも……」
理真はコップを持つのと反対側の手の人差し指を唇にやりかけたが、その動作は〈着信音1〉に遮られた。テーブルの上に置いた理真の携帯電話が鳴ったのだ。
「ああ、せっかく何か浮かんだのに! 誰よ、もう!」
理真はコップを流しの脇に置いて、携帯電話を乱暴に取り上げたが、ディスプレイに表示された発信者の名前を見て、いつもの冷静な表情に戻った。私もちらっと発信者名が目に入った。丸柴刑事からだ。
「もしもし……うん。……え! 何!」
理真の対応から、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。宗も、怒りの表情を治めて黙って見ている。
「……うん、うん。……分かった、由宇と向かうわ。支度もあるけど、一時間は掛からないで行くわ」
理真は携帯電話を耳から話して通話終了ボタンを押した。
「理真、どうしたの? 何かあったの?」
「由宇、お風呂はお預けよ。私もすぐに支度するから。これから西根家に向かうわ。詳しい話は車で話す」
そう言って理真は出てきたばかりの風呂場へ引き返した。私も急いで荷物をまとめる。
「おまたせ」理真が支度を終えてきた。いや、正確には終えていない。大急ぎで髪を乾かすだけして、着替えただけだ。メイクは移動中に行おうということだろう。今度は私がハンドルを握ることになりそうだ。
宗とお母さんに暇を告げ、私と理真は車に飛び乗った。やはり、理真は早速道具を取り出し、決して明るくないルームライトを頼りにメイクをし出した。
「で、何があったの」
「……友美ちゃんと藍子ちゃんが、誘拐された」
「えっ!」全く予期しない展開に私の頭がついていかず、
「由宇、そこ、〈止まれ〉」
理真に言われ、慌ててブレーキを踏んだ。ふう、と、ひと息ついてから左右を確認し、ブレーキペダルからアクセルペダルへ足を乗せ直す。
「誘拐?」
「うん、保さんの葬式のあと、友美ちゃんと藍子ちゃんが二人で出かけたんだって。で、午後八時頃、西根家の呼び鈴が鳴って、佐枝子さんが玄関に出てみたけれど誰もいなくて、手紙が置いてあったんだって。そこに書いてあったのよ。二人を誘拐したって。パソコンのワープロソフトで打たれた文章だそうよ」
「身代金の要求とかは?」
「なし。ただ、最後に差出人と思われる名前が打たれてたって」
背筋を悪寒が走った。
「その名前って……?」
「〈サガミタケル〉片仮名でそう打ってあったそうよ」