第20章 ワトソンのおさらい
目が覚めた。周りを見回して、いつもと全然別の景色でちょっと混乱したが、すぐに頭は理解した。そうだ、友美の部屋に泊まったのだった。見るとその友美のベッドは空だ。壁に掛かった時計に目を移すと、九時を指している。勤め人の友美はとっくに会社で仕事をしている時間だ。気を遣って起こさないようにしてくれたのか。見ると、理真の布団はすでに畳まれていた。やばい、ひとりだけ寝坊助になってしまった。しかも他人の家で。
とりあえず布団から出て、閉まったままのカーテンを開けた。当然のことながら、夜の闇はすっかり払われて、陽光が世界を照らしている。さわやかな朝だが、ここに立つと嫌でも目に入ってくるのは、あの倉庫だ。角材を井桁に組み上げて作られた木製の壁。その上に載る鉄製の屋根。西根家に宿泊してみて、理真は何か手掛かりを掴んだのだろうか。
洗顔を終えて居間へ降りると、テーブルの上にひとり分の朝ご飯が用意してあった。台所へ行くと佐枝子の姿があった。おはようございます、と挨拶を交わす。私ひとりだけお早くないのだが。佐枝子は茶碗にご飯をよそってくれ、味噌汁を温め直しているから居間で食べていてくれという。恐縮することしきりだ。
居間へ戻り、朝ご飯に箸をのばす。佐枝子が味噌汁を運んできてくれるのと同時に、理真も居間に登場した。
「おはよう、由宇。佐枝子さんの卵焼き、めちゃうまいから。ふわふわだから。寝坊助の罰として、私がひとつ貰うから」
理真は私のおかず皿から卵焼きを一切れ摘むと、ひょいぱくと食べてしまった。
「あら、安堂さん。江嶋さんがかわいそうですよ。卵焼き、もうひとり分作りましょうか?」
「いえ、いいんです。こういうのには慣れてますから。ありがとうございます」
理真が、ええ是非、とでも言いそうだったので、先回りして制した。
「安堂さん、江嶋さん、お葬式はお昼からですけれど、お二人も出席なさるんですか?」
「いえ、私たちは昨夜の通夜だけで。捜査もありますので」
「そうですか、大変ですね。私と主人は昼前に家を出てしまいますけれど、お昼を用意していきましょうか?」
佐枝子はお昼ご飯までご馳走してくれるつもりらしいが、
「ありがとうございます。せっかくですけれど、由宇が食べ終わったらお暇しますので」
理真はそう言って座布団に腰を下ろした。そういえば今日の予定は聞いていなかった。
「勝巳さんと友美さんもお葬式に?」
私は卵焼き最後のひと切れに箸をつける前に訊いた。
「勝巳は患者さんがいて仕事が休めないそうなので、出席しません。友美は午前中だけ会社に行って、早退して出ると言っていました。友美ったら、今朝は寝坊したらしく、朝ご飯も食べずに慌てて支度をして会社に行ったみたいですよ。一度も顔を合わせなかったわ」
そう答えて佐枝子はお茶を持ってきてくれた。昨夜の理真との会話のあとも友美は寝付けずに、目を覚ましていたのだろうか。私は最後の卵焼きを口に放り込んだ。
佐枝子がお茶と引き替えに私の膳を下げる。当然完食だ。
「一服して、支度出来たら行くよー」
理真は自分の分のお茶をすすり、テレビのスイッチを入れたが、
「あれ、映らない。あ、アンテナの調子が悪いんだっけ」
テレビの画面は真っ暗だ。電波を受信できないとのメッセージが表示されている。それを見た佐枝子は、
「あら、昨日までは少しは映ってたんですけれど。本格的におかしくなってしまいましたね。やっぱり仕事に行く前に勝巳さんにアンテナを見てもらったほうがよかったかしら」
佐枝子に礼を言って西根家を出た。樹実彦にも挨拶しようとしたが、あいにく寝ているらしかった。ハンドルを握る理真に横目で尋ねる。
「今日はどうするの?」
「丸姉と会議の続きよ。昨日のうちに色々調べておいてくれてるだろうから」
新津署に到着した。前もって理真が電話を入れておいたのだろう、署員の対応はスムーズで、私たちは二階の一室へ通された。
「理真、由宇ちゃん、おはよう」と丸柴刑事は、「どうだった? 西根家に泊まって」
「うん、ご飯が豪勢だった」
「そういうんじゃなくて」
「分かってる。事件の夜、あの倉庫で殺人が行われたとして、友美ちゃんの部屋にいて何も物音が聞こえなかったとは思えないわね」
「……やはり藍子ちゃんが虚偽の証言をしていると?」
「そこまでは分からない。テレビを見たり、音楽を聴いたりしていたら、何も聞こえなくてもおかしくはないでしょうね。丸姉のほうは?」
「ええ、色々調べたわ」丸柴刑事は手帳を開き、「まず、由宇ちゃんから預かった倉庫の鍵だけど、綺麗なものだったわ。一度でも被せてあるラバーから抜いて持ち歩いたり、鍵穴に抜き差ししたら、何かしら小さな傷が付いてもおかしくないところだけど、表面には傷ひとつなし。鑑識に調べてもらったから、間違いないわ。もちろん二本ともね」
「そうですか。じゃあ、あの鍵は犯行には」
「全く無関係ね。ドアの施錠には全く別の方法がとられたと見て間違いないわね。それと犯行に使われたシアン化カリウムだけど、入手経路は今のところ不明。病院、薬局、メッキ工場も当たっているけど、盗難にあったような話はないわね。届け出もない。今在庫を調べている最中というところもあるから、あとで何かしら報告が入るかもしれないわ。中には毒物だっていうのにずさんな管理をしているところもあるみたいだけど。シアン化カリウムの致死量は、人ひとり分で三百ミリグラムだから、少しずつ持ち出せば気付かれずに入手することも可能かもしれないわね。時心製薬関連では、群馬県にある製剤工場が一番近いわね。久慈村さんが勤務していた横手病院でも当然取り扱っているわ。
次に、相模健と西根家、時坂家の関係を再度調べてみたけれど、やはり全く繋がりはなし。相模健とあの両家との関係は、薬害で時坂保さんが関係しているというだけね。保さんの友人の西根樹実彦さんが間接的に繋がりがあるとは言えないこともないけど、それを言い出したらきりがないわ。今のところ掴んだ情報はこれくらいね。それと、藍子ちゃんには警察がマークを付けるべきかどうかということも話し合われているわ」
完全に容疑者として目星を付けるということか。
「まあ、でも、昨日も言ったけど、何の物証や証言もなしにそこまで出来るのかとは思うけど。藍子ちゃんは今日から学校に行き始めたみたいよ」
そうか、学校に行き始めたのか。少しでも元気になってくれたらいいのだけれど。……いや、今は容疑者のひとりなのだ。藍子が犯人だとしたなら、祖父が殺されて落ち込んでいたあれも全て演技ということになるが。そんなことがあるだろうか。私にはあれが演技だとはとうてい思えない。甘いとは承知で、今の考えを理真と丸柴刑事に話してみた。
「気持ちは分かる」理真はことさら真面目な顔になり、「私もそう。あれが演技だとは思えない。というより、思いたくないかな」
探偵がそんなセンチメンタルでどうする。いついかなる時も客観的に物事を見ろ、理真。探偵は私のような凡人とは違うんだ。容疑者に情を移してはいけない……。
「私は」と丸柴刑事が述べる。「もちろん個人としては最悪な結果は考えたくないわ。でも、警察組織の一員として、藍子ちゃんは容疑者として見るわよ。前も言ったけど、捜査状況は芳しくないの。相模の行方や潜伏していた形跡も相変わらずさっぱりなの。それがどんなに薄くても、ありえないことでも、少しでも犯人か共犯者の可能性があるなら、食らいつくわよ、警察は」
改めて言われると心が痛い。
その後、お昼となったので、私たちは新津署の食堂で昼食をとった。丸柴刑事の話では、城島警部らは、引き続き相模の足取りを掴むべく走り回っているそうだ。県内での成果が上がらなかったら、隣県の福島県の会津方面にも脚を伸ばすという。新潟市内と会津間は、高速道路を使えば片道一時間もあれば行き来できるためだ。レンタカー会社などにも、聞き込みの手は回っている。
午後からは丸柴刑事も聞き込み捜査に加わるというので、私と理真の二人は別行動を取ることにした。と言っても、理真の連載エッセイの締め切りが迫っているため、部屋で執筆作業である。本業が忙しいことはなによりだ。
先生のために私はコーヒーを淹れてあげることにした。勝巳に感化されたではないが、久しぶりにインスタントではなく、コーヒーメーカーを使って本格的に作ろう。
コーヒーが抽出されるこの香りがたまらない。コーヒーそのものよりもこの香りのほうが好きだという人も多いのではないか? カップもお気に入りの高価なものを使おう。戸棚の奥にしまっていたはずだ。一応ここは理真の部屋だが、勝手知ったる我が家のようなものである。
コーヒー受けのお菓子も用意して、理真のいる居間へ運ぶ。理真はブレイクタイムは取らず、書き物をしながら飲むようだ。普段はブラックはあまり飲まない私も、メーカーで淹れたコーヒーはひと口ふた口は砂糖もミルクも入れないで味わう。やっぱり、あんまり違いは分からないんだけどね。
執筆の邪魔になるためテレビを付けるわけにもいかないので、このコーヒータイムを使って、私は事件の様相を総括し、推理想像してみることにした。
まず最初の密室殺人。被害者の久慈村は倉庫の中で俯せに倒れ、配線穴から右腕を出した状態で発見された。その手の先には電源が切られた自身の携帯電話が落ちていた。死体に見られた唯一の外傷であり、致命傷となったのは後頭部に受けた打撃痕。凶器はモーニングスターと呼ばれる武器。
問題なのは、その武器が命中した箇所だ。鉄球の頂点のトゲにのみ血痕が残っていた。どうしたらこんなところをぶつけて被害者を殺害せしめることが出来るのだろうか。握りと鉄球を鎖で繋いだ武器のため、槍のように突いて使うのは無理だ。考えられるのは、陸上競技のハンマー投げの要領で、勢いを付けて投げつける方法だ。
しかし、あの倉庫の中ではとてもモーニングスターを振り回すだけの広さはないだろう。屋外で行ったのか? 犯人はドアを開放した倉庫の外でモーニングスターを振り回す。倉庫の中には被害者となる久慈村がいる。久慈村が後ろを向いているときに犯人は手を離す、勢いの付いたモーニングスターは久慈村目がけて飛んでいき、後頭部に命中する。
……ないな。丸柴刑事が言っていた、犯人が鉄球を直接持って叩きつけたというのが現実的だ。で、その一撃を受けて、久慈村が倒れる。倒れた拍子に右腕が配線穴から滑り出る。即死だったと思われることから、打撃を受けたあとで瀕死の力を振り絞って右腕を出したとは考えがたい。(そもそもなぜ腕を出すのだ?)犯人は何らかの方法でドアを施錠し、現場から立ち去る……。
駄目だ。配線穴から右腕が出ていた説明が苦しい。そうだ、携帯電話。久慈村は倒れた拍子に携帯電話を落とし、それが穴から外に出て行ってしまった。それを取ろうと最後の力を振り絞って……だから即死だったんだってば。
百歩譲って、久慈村が即死を免れたとしよう。穴から右腕を出すだけの力は残っていたとしよう。それでも説明は付かないよね。今際の際で落ちた携帯電話を拾おうとするような人間がいるか? 放っとけよそんなもの。もっと他にするべきことはあるだろ。110番通報をしようとしたのだろうか。しかし、久慈村の携帯電話は電源が切れていた。普段携帯電話の電源を切って携帯している人がいるだろうか。電源は犯人が切ったのだろうか。そんなことをする必要があるだろうか?
または、藍子が犯人だった場合。友美の部屋から何かしら遠隔操作をして倉庫の久慈村を殺すことは可能か? 部屋から倉庫までは直線距離で十メートル強。ロープや何かを使って出来ないか。出来ないことはないだろう。たぶん。物理トリックは考えるだけなら何だって出来る。何かしら大掛かりな装置を作って倉庫にいた久慈村を……ここで根本的な問題を思い出した。なぜ久慈村はあの時間、西根家の倉庫にいたのか? 死体が動かされた形跡はない。
思い出してみると、久慈村の死亡推定時刻は九時から九時三十分の間だ。久慈村が友美を駅へ送り着いたのが八時四十五分。駅から西根家まで折り返しで十五分、さらに久慈村の車が停めてあった道までの移動で二分、そこから徒歩で獣道を通って倉庫に到着するまで三分。合計で二十分消費する。この時点で九時五分。そうしたら殺されるまで最長で残り時間は二十五分だ。久慈村は倉庫に到着して、すぐに殺害されたと言っていい。犯人は久慈村を呼び出したのか? 呼び出すとすれば携帯電話。倉庫の外に落ちていた携帯電話と関係があるのか? それとも、犯人は久慈村が来ることが分かっていて待ち伏せをしたのだろうか?
……行き詰まったので第二の殺人。時坂保殺害について。だがこれは捜査会議や喫茶店で散々語られている。問題となるのは、犯人が屋上から侵入した手口が、実際に行われたかどうかという点だ。ただ、これについて疑いの目を向けているのは理真、丸柴刑事、そして私の三人だけだろう。いや、私は……。
私の個人的な感情はいい。保殺害については、現在大きく分けて三つの説がある。〈直接他殺説〉〈間接他殺説〉そして〈自殺説〉だ。
第一の説がもっともオーソドックスだろう。犯人は病院に電話を掛け、警官隊が手薄になったところを保の協力で病室へ侵入し、保を毒殺。この説の不明点は、保が犯人を病室に入れた理由だ。犯人のほうは、最初から保を殺すつもりでいたのだろう。でなければ、事前に青酸カリを用意しているはずはないからだ。この説の優位点は、犯行時にアリバイのある友美と藍子が完全に容疑の圏外に出されるということだ。個人的な感情だが。
第二の説。これは、屋上から病室へ侵入するトリックがフェイクで、犯人は保の死亡時現場にいなかったというもの。この説の問題点は、何と言っても殺害方法だ。犯人は現場から遠く離れていながら、保を毒殺したということになる。そんなことが可能だろうか。引き出しから出て来たメモとウーロン茶の問題もある。犯人が実際に侵入していないのであれば、あのメモは何なのか。どうして冷蔵庫に毒入りのウーロン茶が残されていたのか。この説では、万代シティから病院に電話を掛けることが可能で、死亡時刻に確固たるアリバイを持つ藍子と友美も容疑者に含まれてしまう。個人的な感情……。
第三の説。これを採用すると、第一、第二の説の問題点をすべて抱え込むことになる。屋上の手掛かり、電話、メモ、すべてに意味がなくなってしまう。毒入りウーロン茶が冷蔵庫に残されていたこともおかしい。ペットボトルからは指紋が拭き取られていたのだ。自殺動機もまったくの不明だ。
……私は考えるのをやめた。コーヒーを半分も飲んでいないことに気付いた。最初から冷たいアイスコーヒーと違い、温かかったものが冷めたコーヒーはまずい。
「由宇、終わったよ」
理真の声で我に返った。
「どうした、ぼーっとして」理真はパソコンの電源を落として立ち上がり、大きく伸びをして、「事件のことでも推理してくれてた?」
「うん」と、とりあえず頷いた。
「何か閃いた?」
「閃くわけないでしょ。ワトソンよ、私は」
「ワトソン役が事件を解決したことも過去にはあるじゃない」
「私には無理だって」
もうこれ以上推理したくないというのが本音だ。頭が痛い。
「そんなこと言わない。頼りにしてるんだからね。それよりお腹空かない?」
時計を見るともう夕方だ。私の胃袋は、空腹でもなければ、何も食べられないわけでもない、微妙な腹具合だ。
「軽く何か作ろうか? それとも夕ご飯にしちゃう?」
私は冷蔵庫の中身を確認しに台所へ行こうとしたが、
「今夜は私の実家で食べようよ。安堂家も西根家に負けないご馳走を用意するわよ。実は、今日由宇と行くからって、お母さんに連絡してあるんだ」
いつの間に。私が朝寝坊していた間にだろうか。理真のお母さんの料理は大好きだ。元気が出てきた私は、流しに捨てようと思っていた、カップに残った茶褐色の冷めた液体をのどに流し込んだ。
管理人室を出る直前にひと雨来て、三十分ほど小雨が大地を濡らした。出がけに天気予報を見てみると、夕方から夜に駆けて雨雲は新潟の空から撤退するとのことだった。事件のことはひとまず頭から追い出して、理真のお母さんの料理を楽しみにしよう。明日の予報と同じく晴々とした気持ちで私は部屋を出た。宗に返すため、サイキ大戦キリンの攻略本を鞄に入れている。東京でもらったゲームグッズのおみやげも一緒だ。




