第2章 事件の概要
国道49号線を南下し、分岐で同403号線に進路を取る。現場である西根家は秋葉区の外れにあるから、新潟市の際ということになる。
通勤ラッシュを避けるため、少し遅めの朝九時にアパートを出た。西根家へは一時間かからず到着できるだろう。
途中でコンビニに寄って軽い朝食の時間を取ったため、西根家到着は十時十五分になった。近くに公園と神社があり、林に囲まれた静かなところだ。玄関前の駐車スペースに一台の覆面パトが駐まっている。私はその横に車を駐めた。
「中野さんに電話するね」
理真が携帯電話を取り出したが、発信するより早く着信音が鳴った。何の変哲もない電子音〈着信音1〉買ったときから一度も変えていないのだ。
「あ、噂をすれば」理真が応答ボタンを押す。「もしもし」
「ああ、安堂さん。何時頃着きそうですか?」
「今ちょうど着いたところです」
「そうですか、じゃあ玄関まで迎えにいきますよ」
「はい」
中野刑事、相変わらず大きな声だ。理真が話している携帯電話のスピーカーからの声を、私も普通に聞き取ることができる。理真も耳から携帯電話を数センチ離して会話していた。
玄関から、中野勇蔵刑事が腕を振りながら出てきた。
声もでかいが体もでかい。中野勇蔵、年齢二十六歳、期せずして私と理真の同年代である。あ、年齢言っちゃった。まあいい。身長実に百八十センチ。柔道、ボクシング、空手など各種格闘技経験あり。
「安堂さん、いつも悪いですね、江嶋さんも」
「おはようございます、中野さん」私と理真は挨拶を返した。
「さっそく現場を見ますか?」
「いえ、家の人たちに挨拶を」
理真は事件の捜査に入る前に関係者への挨拶を極力欠かさない。いくら出馬要請されてとはいえ、素人探偵が犯罪捜査に介入することを好ましく思わない人は、警察、民間を問わず存在する。今回のように個人住居が現場となった場合などはなおさらだ。
「そうですか。一応、安堂さんのことは話を通してありますけど。じゃあ、先に樹実彦さんのところに行きましょうか。もっとも、今関係者で家にいるのは、樹実彦さんだけなんですけどね。他の人たちは事情聴取で新津署に行っていますよ」
中野刑事に連れられて、私と理真は家に上がった。いや、この広さだ、屋敷と呼んでもいいかもしれない。
一階奥の部屋に家の主、西根樹実彦はいた。
ベッドから上半身を起こして私たちを迎える。部屋は純和室だが、畳に直接置かれた樹実彦のベッドはリクライニング機能などを備えた医療用のものだ。寝起きするのには布団よりもベッドのほうが楽だからだろう。
「樹実彦さん、どうも。こちらが昨日お話した、安堂理真さんと江嶋由宇さん。事件の捜査に協力願うことになりました」
中野刑事の紹介に、私と理真は頭を下げた。理真だけでなく私のことも話を通していてくれたのか。
「作家の先生だそうだね。作家で犯罪捜査に協力しているとか。昔そんな探偵がいたな」
西根樹実彦の声はやっと聞き取れる程度のものだった。隣にいる中野刑事の大声を耳にしたあとだったので、なおさら小さく感じた。その中野刑事も、樹実彦に話すときはさすがに声のボリュームを落としている。
「はい、諸先輩方の名声に泥を塗らぬよう、最善を尽くします」
理真が答えた。樹実彦が言っているのは、世代的にレジェンド探偵エラリー・クイーンのことだろうか。
「警察だろうが作家だろうが、捜査をする人間は誰でもいい。久慈村くんを殺した犯人を捕まえてさえくれれば」
「警察も全力を尽くします」
中野刑事も改まった口調で宣言する。
樹実彦が二、三度咳をしてベッドに横になったため、私たちは部屋を辞することにした。
「先に樹実彦さんから話を訊こうかと思ったのですけど、あの体調では無理ですね。警察は樹実彦さんから事情聴取できたんですか?」
「ええ、簡単に。あまり参考になる話は聞けませんでしたが」
「では、それをあとで教えて下さい。どうしても本人に訊きたいことが出来たら、折りを見て訊きに行くことにしますね」
関係者で屋敷に今いるのは樹実彦だけだというので、殺害された久慈村なる人物も含め、関係者の把握をするため、私たちは応接間で中野刑事から話を聞くことにした。
「それにしても広い家ですね」
応接間のソファに腰掛け、私は室内を見回した。屋敷は日本家屋で先ほどの樹実彦の部屋も畳敷きだったが、この応接間は純洋風の作りになっていた。どれもこれも高そうな調度品だ。腰掛けたソファも柔らかいこと。尻が沈む沈む。
「西根樹実彦といえば、結構名を馳せた外科医だったそうですから。収入もかなりのものがあったんでしょう」
中野刑事も手帳を開きながら腰を下ろした。ウエイトがある分、ソファの沈みようも私たちの比じゃない。
「自分の医院を持っていたんですか?」
「いや、大病院を流れ歩く雇われ医師だったそうです。『自分の執刀はぜひ西根先生に』という〈顧客〉を多く持っていたんですね。そういった人たちは西根先生がどこそこの病院に行ったと聞けば、そっちに鞍替えする、おまけに金に糸目は付けない。病院の引き抜き合戦で報酬は勝手につり上がる。自分の医院を持つ必要なんかなかったんでしょう」
売れっ子作家みたいだな。先生、次の作品はぜひうちの出版社から! と頼み込む編集者。つり上がる原稿料。安堂理真がそんな扱いになる日は果たしてくるだろうか。
「あまり体調が優れないみたいですね」
ついさっき面会した様子を思い出して私は言った。見るからに弱々しく、華麗なメス捌きで多額の報酬を欲しいままにした敏腕外科医には見えなかった。勝手に変なイメージをしてしまっているだろうか。
「ええ、現在六十四歳、引退したのが六十前。引退には早い年齢ですけれど、体調を考えてのことなんでしょう。医者の不養生ってやつなんですかね。さて、事件関係者についてですね」中野刑事は手帳に目を落とし、「えー、まず、被害者、久慈村要吾、三十七歳。職業は内科医。地元の横手病院に勤務しています」
「西根樹実彦の弟子だったそうですけど」と理真。
ここから中野刑事の相手は理真ひとりに移り、私はメモ係に徹する。
「そうなんです。樹実彦が最後に勤務していた東京の病院で働いていました。そこで樹実彦と懇意になり、彼が引退して故郷の新潟に帰るときに一緒についてきて、樹実彦の口利きで横手病院に入ったそうです」
「その久慈村さんがどうして西根家の倉庫に?」
「それがよくわからないんですよ。久慈村は樹実彦にかわいがられていたから、ちょくちょくこの西根家にも遊びに来ていたそうなんですが。実は久慈村は先週金曜日の夜から行方が分からなくなっていたんです」
「先週金曜日。死体となって発見されたのが昨日の月曜日だから、三日前ですね」
「そうです。久慈村は先週の金曜日に病院の勤務が終わると、まっすぐここ西根家まで夕食をご馳走になりに来たそうです。その夜はちょっとした食事会が開かれていて、西根家の人たちと、久慈村を含む二人のお客が出席しました。ついでだから参加した全員の名前を言っておきます。まずさっきも会った西根樹実彦、その妻佐枝子、死体発見者となった息子の勝巳、娘の友美、ここまでが西根家の人間です。招かれた客は、まず殺された久慈原要吾、友美の友人、時坂藍子、以上六人が金曜の夜西根家にいたわけです」
初登場人物が随分出てきた、私は名前の漢字を尋ねながら手帳にメモしていく。
「食事会は夜八時半頃終了しました。というのも、娘の友美は用事のためその時分に家を出ることになっていて、それを機会にじゃあこの辺でとなったようです。用事というのは、東京にいる友達のところに遊びにだそうです。新潟駅発最終の新幹線に乗るため、新津駅を午後九時頃発の電車に乗る必要があったんです」
「最終の新幹線で」
「はい。それに乗ると東京駅着が午後十一時半頃になるのかな。東京にいる友達の部屋にそのまま泊まり込み、朝一番で東京見物に行く段取りだったそうです。ちょっと待って下さい、時刻表を控えたんです、えーと、これだ。新津駅午後九時三分発新潟行きに乗車すると、新潟駅着は九時二十四分、東京行き最終新幹線が九時三十二分だから、八分の猶予がありますね。乗り換えには十分な時間ですね。おっと、話が脱線しました。電車の話だけに」
……。
「……続けますね。当初友美は新津駅まで兄の勝巳に車で送ってもらおうと思っていたそうなんですが、久慈村が送り役を買って出たそうです。ついでだから、駅まで友美を送ってそのまま帰ると言って」
「しかし、なぜか久慈村さんは西根家の敷地内で死体で発見された。久慈村さんはいつ西根家に戻ったんでしょう」
「それなんですよ。簡単に死体を検分した医師が言うには、久慈村の死亡推定時刻は、金曜午後九時から数時間の範囲だろうというんです」
「ほう」理真がふくろうのような声をあげる。
「今解剖して、さらに正確な死亡時刻を割り出してはいますけどね。久慈村が新津駅まで友美を送ったのは間違いありません。その日の九時四十分頃、母親の佐枝子と友人の藍子の携帯に、友美から無事新幹線に乗れたとの電話が掛かってきています。西根家を出たのは八時半で、新津駅までは車で十五分くらいでしょう。すぐに西根家に戻ったとすれば到着は九時。この時間までは確実に久慈村は生きていたと見られます」
「友美さんを送ってからの久慈村さんの足取りは一切?」
「分かりません。今のところ目撃情報もなく皆目不明ですよ。夜中のことですから。よほど目立つ行動をしていなければ目撃証言が得られる望みは薄いでしょうね」
「被害者の服装などに変わったところはなかったんですか?」
「はい。家人の証言によれば、死亡時の久慈村の服装は、友美を送りに西根家を出たときと全く同じでした。ただ、靴が若干土で汚れていましたね。西根家の正門から入って倉庫まで行くのであれば、庭を通るのですが、砂利が敷かれた歩道があるし、途中からは土の道になるのですが、固い地面なので、歩いただけで土が靴に付着することはありません。靴がそんなに汚れるとは考えがたいです。どこか足下の悪い場所に寄ってから倉庫に行ったのかもしれません。それから、久慈村の車が見つかっていません」
「車が? キーは?」
「死体のポケットにありました。だから久慈村はどこかに車を置いて、あの倉庫を訪れ、殺されたと考えるのが自然です。財布も身につけていました。あ、ポケットといえば、懐中電灯が入っていましたね」
「懐中電灯?」
「ええ、ポケットに入るような小型でスマートなものです。単四電池二本で動くものですね。倉庫へ行くまでの道のりを照らすのに使ったんでしょうかね」
「殺害現場は間違いなく、その倉庫なんですか?」
「ええ、死体に動かされた形跡は見られないということですから。間違いないです」
「外に落ちていた携帯電話は、久慈村さんのものなんですね?」
「そうです。携帯の電源は切られていました。土曜、日曜と友人や職場の人間が久慈村の携帯に掛けたそうですが、いずれも電源が入っていないとのメッセージが流れたと言っています。電源を入れてみると、土曜と日曜、それから月曜朝の分の不在着信履歴が表示されたから、電源は金曜の夜、殺害された時点ですでに切られていたのかもしれません。月曜の朝掛かってきた電話というのは、久慈村が出勤してこないから心配して病院から掛けられたものです」
久慈村の死体が発見されたのは月曜の昼だっけ。それは電話も掛かってくるだろう。
「死亡時刻が金曜深夜から未明にかけてであれば、死体が発見される月曜の昼まで、誰もあの倉庫には近づかなかったということですね」
「そうなんですよ。あの倉庫は敷地内の奥の高台にあり、頻繁に使うような道具もしまわれていないんで、家人も滅多に行かない場所だそうです。毎週月曜に勝巳が掃除に行くくらいですね。死体が土日に渡り丸二日以上発見されなくてもおかしくないところだと。後で敷地の見取り図をあげますね」(図2・図3)
「そんな誰も用事のないところでなぜ。そして現場は鍵が掛かった密室。凶器は異様な武器のモーニングスター」
「当然警察では、久慈村に恨みを持つもの捜索など、お決まりの捜査を行っていますが、これはそんな定石では手に負えない種類の事件ですよ。警部がいち早く安堂さんに出馬要請を出すことを決断したのは正解だと思いますよ」
中野刑事が言った警部というのは、新潟県警捜査一課の城島淳一警部のことだ。城島警部もまた理真のよき理解者なのだ。
「まず関係者について簡単にお話ししましょう」中野刑事は手帳のページをめくり、「樹実彦の妻佐枝子ですが、年齢は四十九歳。彼女は樹実彦の二人目の妻です。樹実彦は三十九歳のときに前妻を病で亡くしているんですが、その翌年に、この佐枝子と再婚しています」
「ずいぶん早いんですね、おまけに若い」
「ええ、そのエピソードが結構ドラマチックなんですよ。佐枝子は元々樹実彦を頼って受診にきた患者だったんですが、当時の西根樹実彦といえば売れっ子で、それに対して佐枝子の家は典型的な中流家庭。とても樹実彦の受診代を出せるような状況ではなかったんですが、難しい手術だというんで、是非とも西根先生に執刀をと、まあ、駄目もとで頼みに行ったんです。門前払いを食らうかと思ったら、樹実彦は一つの条件を飲めば、佐枝子の家でも出せる金額で執刀してやると、こう言ってきたんですって。で、その条件というのが、佐枝子が自分と結婚することだと」
「なにそれー」「やだー」
私と理真、同時に声が出てしまった。
「ええー、変ですか? 結構いい話だと思うんだけどなぁ」
女性陣から不評を浴び、意外そうな中野刑事をよそに、理真は続けてまくし立てる。
「佐枝子さんが今四十九歳? で、樹実彦さんが六十四歳でしたっけ? 歳の差が、えーと……十五歳! 三十九の翌年なら四十歳、ということは、当時の佐枝子さんは二十五歳でしょ! ただのロリコンじゃないですか。しかもそのくさいプロポーズ。天才外科医の俺に落ちない女はいないってか?」
「ええー。江嶋さんもそう思いますか?」
「ええ、ちょっと、引いちゃいます」
「そんな時代があったんですねー。バブルの匂いがプンプンしますね」と理真。
バブル関係あるか? それよりもこの会話が当の西根樹実彦に聞かれていないことを祈る。樹実彦の部屋からこの応接間までだいぶ距離があるから大丈夫だとは思うけど。
「ま、まあ」中野刑事は汗を拭き拭き、「樹実彦の一目惚れだったんでしょうね。で、佐枝子はその条件を聞き入れて――両親にとっても悪い話じゃないですしね――樹実彦に執刀してもらい、退院後即結婚したそうです。それからはずっと専業主婦です」
ここで中野刑事は一旦小休止するように息を吐いてから、
「次は夫妻の息子の勝巳。年齢は四十歳。未婚です」
「四十歳、ということは」
「はい。勝巳は亡くなった前妻との間の子です。彼も外科医で市内に医院を開業しており、この家から通っています。評判を聞くと腕のほうは父親には遠く及ばず、西根樹実彦の息子という名前でやっている程度のもののようです。久慈村の死体が発見された倉庫には、彼のコレクションのレプリカの武器もしまってあり、今回、そのひとつが殺人の凶器として使われてしまいました。死体の第一発見者でもあります。死体発見の事情は丸柴さんから聞きましたか」
「ええ、ざっとですけど。後で本人からも状況を聞きたいですね」
「ええ、それはもちろん。次は娘の友美ですね。二十三歳。この友美は後妻の佐枝子との間にできた子供です」
「二十三。樹実彦の年齢の六十四から引くと……樹実彦が四十一歳のときに生まれたということですね。再婚した翌年に早速ですね」
「ま、まあ、そうですね。友美は県内の大学を去年卒業して、市内の会社に就職してOLとして働いています」
「OLですか。医者にはならなかったんですね」
「ええ、大学の学部も文学部でした。最後に時坂藍子、十七歳。市内というか区内の秋葉第一高校に通う高校生です。すぐ近所に住んでいて友美の友達です。ちょっと年齢は離れていますから友達というか姉妹みたいな関係ですかね。友美と藍子の仲がいいのは他にも理由があって、友美の父親の樹実彦と藍子の祖父は大学時代の同級生なんです。藍子の祖父時坂保は時心製薬の元社長なんですよ」
「時心製薬。結構な大会社ですね。そんな会社の元社長が新潟に住んでいるとは」
時計マークの時心製薬か。知らぬ人はいないだろう。
「ええ、時坂保の出身は東京なんですが、樹実彦との縁で新潟に別邸を持っており、社長職を引退した今はその別邸を主な住まいとしているようですね。都会暮らしに疲れた、とか周囲には漏らしていたそうです」
スーパードクターと製薬会社元社長か、なかなかビッグネームな顔ぶれの事件になってきた。いま聞いた関係者たちの警察での聴取は午前中で終わり、午後には帰ってくるだろうとのことだったので、理真はその間に現場を見たいと言った。