第14章 『見えない男』
私たちは、すぐさま東京駅に戻り、十三時十二分発の下り新幹線に飛び乗った。新潟駅到着は十五時十三分。中野刑事が車で迎えに来てくれる手筈となった。
この時間の下り新幹線が混雑することは少ない。ましてや日曜日。東京へ遊びに出ている人達もぎりぎりまで東京を満喫するため、もっと遅い新幹線で帰る人が多いだろう、久慈村の死体発見日の前日の西根友美がそうだったように。乗客もまばらな車内はいつも以上に静かだ。
理真はシートを倒し目を閉じているが、眠っているわけではないようだ。その眉間に少し皺が刻まれている。
事件への介入後に被害者が出てしまう。探偵にとってこれほど屈辱的なことはない。今の理真もそれを大いに感じていることだろう。丸柴刑事の表情もきつい。こんな表情も魅力的だな、などと場違いなことを考えてしまう。本部からの第一報による時坂保殺害の、いや、死体発見の様子は、
「昼食を下げに来た看護師が、保さんがベッドで死んでいるのを見つけたらしいわ」
「死因は?」
「毒物の嚥下が原因と見られているそうよ。詳しいことは解剖してからだけど」
「毒……」
新幹線乗車直後になされた丸柴刑事と理真との、その会話を最後に、私たち三人は沈黙に支配され続けている。
捜査状況がある程度まとまって報告する材料が揃ったら、丸柴刑事の携帯電話に着信がくることになっている。新幹線内では電波状況が悪いため、着信があったら丸柴刑事が新幹線備え付けの車内電話から連絡し直す手筈だ。車内電話はテレホンカード専用のため、こういう場合に備えて丸柴刑事はテレホンカードを持参していた。
もうすぐ高崎駅だ。高崎を超えるとトンネルが多くなるため、携帯電話の電波も途切れがちになる。路線でもっとも長い大清水トンネルに入ってしまったら、着信がなくても丸柴刑事は車内電話を掛けてみると言っていた。
まもなく高崎駅到着を伝えるアナウンスが車内に流れると、丸柴刑事が握りしめていた携帯電話の着信ランプが点滅し、振動音が聞こえてきた。理真と私に目を合わせてから、丸柴刑事は車内電話のあるデッキへ駆けていった。
丸柴刑事が戻ってきたのは、越後湯沢駅を過ぎ、通過駅の浦佐駅に差し掛かる頃だった。
「解剖はまだだけれど、医師の見たところによると、やはり青酸系毒物が死亡原因とみて間違いないそうよ」
車内は空いているため、事件の話をしやすいのはありがたい。丸柴刑事は事件発生の状況を語った。
午前十一時三分、時坂保の入院している横手病院に一本の電話が掛かってきた。着信の正確な時刻は、電話局に調べを入れた結果分かったものだ。電話を取ったのは病院職員の事務員だった。
「今、病院に警官が大勢いるだろ」
受話器を取るなり、スピーカーの向こうから聞こえてきたその声は、ドラマや映画などでよく聞く変声機を通したか、ヘリウムガスを吸った、過度に甲高いおかしな声だったという。刃物で襲われた患者がこの病院に入院しており、院内に刑事や警官が出入りしていることはこの事務員も知らされていた。
「警官の誰かに伝えてくれよ、これから面白いことが起こるって」
あっけに取られ無言の事務員をよそに、受話器からの声は続いた。
「……どちら様ですか」
ようやく絞り出した事務員の対応の第一声はそれだった。
「時坂のじじいをやり損ねたからな、その代わりの殺人の犯行予告だって言ってくれ。今、俺の周りにはいっぱい人がいるぜ。よりどりみどりだ……レインボータワーが見えるな。あれ、今はもう動いてないんだってね」
「レインボータワー?」
「ふふふ、しっかり伝えてくれよ。じゃあな」
「ちょっと! もしもし!」
事務員の呼びかけも空しく、電話は切られた。このことは直ちに近くにいた刑事に告げられた。
地震による影響で今はもう稼働を止めているレインボータワーのある万代シティは、新潟市中央区の信濃川沿いにあるショッピングエリアである。知らせを受けた捜査本部は、万代シティに刑事警官隊を動員した。
電話を掛けてきた怪人物の、「時坂保をし損じた代わりに殺人を起こす」との意味の言葉から、電話の人物は相模健だと断定されたため、城島警部、中野刑事をはじめ、横手病院に詰めていた刑事警官も多数そちらに駆り出された。
休日の昼間、買い物客で賑わっていた万代シティは、非常線が張られ、混乱のるつぼと化した。
電話局への調べで、病院に掛かってきた電話は、万代にある伊勢丹百貨店近くの公衆電話からのものだと分かった。確かにその電話ボックスからはレインボータワーを見上げることができる。
付近では相模に似た背格好の男が捜索されたが、発見には至らず、殺人事件も何かしらの犯罪が行われた形跡も発見できなかった。
電話が掛かってきて一時間半程経過した午後十二時半すぎ。何の異常も見られないため、そろそろ撤収しようかと考えていた城島警部の携帯電話に着信があった。病院で時坂保が殺害されたとの報だった。
一方病院内での出来事。午後十二時半頃、看護師が昼食の膳を下げに保の病室を訪れる。ノックをしても返事がなかったため、食後の睡眠を取っているのだろうかと思い静かに個室のドアを開け中に入った。
保はリクライニングの背もたれを四十五度くらいに上げ、体を預け眠っているように見えた。ベッドテーブルには昼食の膳が置いてある。ほぼ完食だった。看護師は起こすまいとそっと膳を下げようとしたが、うっかりスプーンを床に落としてしまった。乾いた金属音が室内に響き、起こしてしまったかと保を見るが、身じろぎはおろか、まぶたをぴくりと動かすこともしない。
部屋の前で見張りをしていた刑事が、スプーンの落ちた音を聞き部屋に入ってきた。看護師は、時坂さん、と声を掛けるが全く反応はない。おかしいと感じた看護師は保の体に触れて軽く揺すってみると、保の体はベッドから滑り落ち、転落防止柵にぶつかって止まった。飛び退く看護師に入れ替わり刑事が保の体を支え、脈を見る。顔を青くした刑事は、ナースコールボタンを押し、ナースステーション直通の連絡機に医者を呼ぶよう叫んだ。そして保の肩に両手を掛け大声でその名を呼び続ける。すぐに医師と数名の看護師が駆けつけ保を診たが、保はすでに事切れていた。
新幹線は新潟からひとつ手前の燕三条駅を発車し、まもなく終点の新潟駅に着こうとしている。丸柴刑事からの話を聞き終え、少しの間無言を貫いていた理真が口を開いた。
「ということは、犯人はニセの犯行予告を出して病院の警備を手薄にして、その隙を突いて保さんを殺害したということね」
「そう。電話口で中野くん、相当悔しがってたわ」
「でも、話じゃ、病室の入り口を見張ってた刑事はそのままだったみたいね」
「ええ、さすがにそこの人員は割けないわ」
「しかし、それでも殺害は遂行されてしまった……」
「病室の窓が開いていたそうよ。犯人の侵入口はそこしかないわ」
昨日、事情聴取に行ったときも、保の病室は窓が開いていて風が吹き込んできていたのを思い出した。
「窓から……」
保の病室は最上階五階だった。ベランダはないため、隣室などから侵入するのは困難に思えるが。窓の直下がどうなっていたかは分からない。すでに警察が調べているのだろう。
十五時十三分、定刻通り私たちを乗せた下り新幹線は新潟駅に到着した。待ち合わせ場所の駅南口のロータリーには、サイレンを出したままの覆面パトが待機していた。ハンドルを握っているのは中野刑事だ。丸柴刑事が助手席、私と理真が後部座席に飛び込むと、覆面パトは走り出した。
時坂保の病室は鑑識員でごった返していた。所々で写真のフラッシュが瞬き、指紋採取が行われている。須賀鑑識員の姿を見つけたが、さすがに神妙な面持ちだ。目礼だけ交わす。室内にいては邪魔になるので、先に部屋の外で入り口の見張りをしていた刑事に話を聞くことにした。
「申し訳ありません、私が付いていながら……」
相田と名乗った新津署所属の刑事は大きな体を小さくして謝る。交代制で保の病室の見張りについていたそうだ。相田の当番は今朝の八時から。トイレに行くときはトランシーバーで他の刑事を呼び、一時見張りを交代してもらっていた。ドアの前に誰もいなくなる時間は一瞬たりともなかったという。
「死亡推定時刻を聞いてきました。およそ昼十二時から十二時半の間だそうです。その時間、何か変わったことはありませんでしたか? 室内から物音が聞こえたとか」
丸柴刑事が手帳を見ながら質問する。中野刑事は他の警官と一緒に院内の調べに当たっている。
「いえ、まったく。恥ずかしいことですが」
「誰も病室へは入らなかったんですか?」
「はい、怪しい人物は誰も」
「怪しい人物は誰も? じゃあ、怪しくない人物は入ったっていうことですか?」
理真が質問を挟んだ。
「『見えない男』ね」私の言に理真は頷く。『見えない男』レジェンド探偵ブラウン神父が解決した事件のひとつだ。
「ええ、それは。昼食を配膳しにきた看護師が入りました。このときは私も一緒に入室しましたが、室内に異常は見られませんでした。十一時四十五分くらいでした。その前は……」相田刑事は手にしていたメモ帳を開いて、「九時半に定期検診で医師と看護師が来ています。これには私も立ち会いまして、五分程度で済みました。それから、お孫さんがお見舞いに来られました。十時五分です。お手伝いさんも一緒でしたね。さすがにこのときは私は一緒にはなりませんで、五分くらいしてお手伝いさんが出てこられて、さらに五分くらいしてお孫さんが出てこられました。話し声はかすかに聞こえました、内容までは分かりませんでしたが」
「孫って、藍子ちゃんですね」
「はい、お孫さんとお手伝いさん、西根さんご家族は顔写真をもらいましたので、問題なく通すようにしていました。西根さんご家族は今日はみえていません」
私たちは相田刑事に礼を言って、室内に入った。まっすぐ窓へ向かう。須賀鑑識員が、もうひとりの鑑識員と一緒に窓枠を調べているところだった。
「丸柴さん、理真ちゃん、由宇ちゃん、どうも」
須賀が声を掛けてくる、他の鑑識員も会釈をくれた。理真と私も頭を下げる。
「ご苦労様。どう、何か出たかしら?」
と丸柴刑事が訊くと、
「今のところ何も。ドアは刑事さんが見張っていたから、犯人の侵入経路はこの窓しかないんでしょ? 窓枠に靴跡とかないかと見ているんですけど、泥ひとかけらも見つからないです。余程綺麗な靴を履いていたんでしょうかね。室内にも怪しい足跡はありませんでした。窓枠にも指紋は出ていないですね。まあ、手袋をしていたんでしょうけど」
理真は窓から半身を乗り出し、直下を見下ろした。
「真下は植え込みね。五階なら、梯子を使って昇ってこられる高さじゃないわね」
私も見下ろすと、植え込みの周りにも数名の鑑識員がしゃがみ込んでいた。何かの痕跡がないか探しているのだろう。
「おーい」そのとき、真上から声がした。この声は。
「中野さん」見上げると、屋上の手すりから身を乗り出した中野刑事の上半身が見える。
「分かりましたよ。犯人の侵入の手口が」
中野刑事の右手には白い大きな布が握られていた。
屋上へとやってきた。屋上には大量のベッドシーツが干され、風になびいている。
「これを見て下さい」中野刑事は屋上隅に置かれた段ボール箱を示した。中には数枚の、ベッドシーツであろう白い布が見える。
「ベッドシーツです。全部で三枚あります。犯人はこれを使って時坂さんの病室に侵入したんですよ。見て下さい。シーツは全て対角線の二箇所が皺になっています。その内一枚の皴の部分には青い塗料が付着していますね。そして、こちらへ」
中野刑事が屋上の手すりまで歩く。手すりには青い塗装がされている。
「ここはさっき俺が安堂さんたちに声を掛けた位置。すなわち、時坂さんの病室窓の真上です」
中野刑事の言わんとしていることが分かってきた。