第12章 時坂保の聴取
時坂保の意識が戻ったと知らせが入ったのは、田町刑事が激しく追求されていた会議の最中だったという。
さっそく事情聴取のお願いをすると、気持ちが落ち着いていないのでお昼前くらいに来て欲しいと本人からの要望があったため、時間を合わせて訪れることとなった。
時坂保が入っているのは、横手病院の最上階五階の個室だった。保の部屋はすぐに分かった。部屋の前で背広を着た男性が椅子に座っている。万が一のことを考え警護についている新津書の刑事だ。私たちが近づくと刑事は立ち上がり敬礼をした。丸柴刑事と中野刑事は同じく敬礼を、私と理真は会釈を返す。
「お疲れ様です。先ほどまで西根さんの奥様とお子さんが、入院道具の運び込みも兼ねて、お見舞いに来られてましたよ」
見張りの刑事はそう教えてくれて、再び椅子に座った。
ノックのあとに、どうぞ、と室内からの了承の声を得て、私たちは病室に入った。
時坂保はベッドのリクライニングを使って上半身を起こし、窓の外の風景を見ていた。窓は開け放たれていて、風が病室に入り込み頬をなでた。病室にベランダはない。丸柴刑事が窓辺へ歩み寄り、窓を閉めようとしたが、
「いいんだ、開けておいてくれ」
そう言って、保がそれを制した。
この辺りでは病院の他に高層の建築物はないため、遠く霞む粟ヶ岳が眺望できる。眼下の景色はほとんど田畑で、病院前の道路を挟んだ大型ショッピングセンターが一際目立つ。
「具合はいかがですか」と中野刑事が声を掛けた。
「ふん、かすり傷だよ」
答えてから保は、ベッドテーブルに置いてあったペットボトルの水をコップに注ぎ、ひと口飲んだ。
この人が時坂保。西根樹実彦と同年代ということだが、目の前にいる保のほうがはるかに若々しく見える。樹実彦が長く病状ということもあるだろうが。
「西根さんが来ていらしたそうですね」と丸柴刑事。
「ああ、私の家に寄って、着替えや身の回りのものを持ってきてもらった。家にもひとり家政婦がいるんだが、藍子の世話や色々やることがあるからな。持ってくるものの用意だけさせて、運んでもらった。勝巳くんのような男手があると助かる。樹実彦も来たがっていたそうだが、あの体だからな。久慈村くんの葬式にもやっとのこと行って帰ってきたそうじゃないか。この通りピンピンしとるから、わざわざ来ないでいいと伝えてもらった」
サイドテーブルには時計や手ぬぐい、携帯電話など、日用品が並べてある。その中に薬袋があった。昨夜藍子が飲んでいたものと同じ薬局で処方されたものだ。
「藍子ちゃんは、お見舞いには?」
私はそれを見て尋ねずにいられなかった。保は首を横に振った。
今日は土曜日だ。学校も休みのはず。友美らが来たときに一緒に来なかったのか。昨夜あんなに保のことを心配しているように見えていたのに。いざとなるとやはり、わだかまりがあるのだろうか。
「君らが樹実彦が言っていた素人探偵だな。会って驚くなとは言われていたが、こんなに若いお嬢さんとはね」
「今日は先に警察から事情聴取をさせていただきたいのですが」
と丸柴刑事が言うと、
「刑事さんも美人の女性ときたか。事情も何も、特に役に立てるようなことは何も言えんよ。何せ突然のことで犯人の顔はおろか、姿をちらりとも見ていないのだから。武藤と北上は何て言ってる?」
恐らく昨夜一緒にいた友人二人のことだろう。
「同じです。振り返ったらすでに時坂さんが倒れていたと。犯人は目撃していません」
その二人は改めて署で聴取を受けているはずだ。出がけに耳に挟んだところでは、昨夜語った以上の情報は聞き出せていないらしい。
「だが、君らにはもう犯人の目星は付いているんだろ」
保のほうから水を向けられるとは思わなかった。
「……相模健なのか?」
「時坂さんも犯人は相模だと思っていらっしゃるんですか」
「ふふ、久慈村くんが殺されたと聞いたときは、まさかと思ったよ。警視庁の奴らがそれとなく身辺に注意しろと警告の電話を寄越してきたしな」
「それなのに深夜に遊びに出ていたんですか。言ってくれれば警護を付けたのに」
中野刑事はそう言って悔しがるが、まだその時点では薬害問題に発する相模犯人説は新潟県警サイドには知らされていなかった。保から警護の依頼が来たとしても、警視庁の刑事がその任に付くことになっていただろう。
「馬鹿言え。刑事が付き添いでうまい酒が呑めるか」保は少し笑う。「そういったわけだ、せっかく来てもらって悪いが、私からは何も有益な情報を教えてやることは出来ない。一刻も早い犯人逮捕を願っているよ。さあ、もうひと眠りさせてくれ」
保はサイドテーブルにある薬袋に手を伸ばした。
「刺し傷の薬ですか?」私は訊いてみた。
「前から飲んでいる関節痛の薬だよ。医者からは飲み続けても問題ないと了承を得ている。これは食前の服用だが、別に食後には消化器系の薬もある」
こんな状態でも薬の服用を止めないとは。製薬会社元社長の鑑、といっていいのか?
「相模が逮捕されたとして。何て言葉を掛けるつもりなんですか」
早々に聴取を切り上げようとする保に、中野刑事がそう問う。
「詫びを入れろというのか。文句があるなら、裁判なり何なり、正当な手続きを取ればよかったんだ。なぜ命を狙われねばならない。今度の事件と過去のことは全く別の問題だ」
「関係ないってことはないでしょう」
中野刑事が食い下がろうとしたが、丸柴刑事と理真が制し、私たちは病室を辞した。
「あんな言い方ないですよ。事件と過去のことは関係ないだなんて」
昼食は病院のレストランでとることにした。なおも中野刑事は立腹中だ。
「でも確かに保さんの言うとおりよ。最初の非は時心製薬や厚労省にあるとしても、復讐殺人なんて許されることじゃないわ」
「それは分かってますけど」
丸柴刑事になだめられた中野刑事は、運ばれてきた大盛りカツカレーにスプーンを入れた。女性陣は三人とも日替わり定食だ。病院の食堂らしくヘルシーな献立だった。
「理真が話訊けなかったわね」
「ううん、いいの。あんなものだろうと思ってたから。後ろから不意打ちを受けちゃね。何も分からないのも無理ないわよ」
「あのさ、理真」
「ん?」
私の呼びかけに卵焼きを頬張りながら理真が顔を向ける。
「私、ちょっと考えてることがあるんだけど、保さんが襲われた件について」
「……分かってるわよ。私も考えたけど、それはないと思うわよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
「分かるよ」
何だこの無駄に名探偵ぶった物言いは。もし違ってたらどうなるか見ておれ。
「何? じゃあ言ってみてよ」
「保さんが刺されたのは、狂言じゃないかって考えてるんでしょ」
うっ、正解である。
「そうだけど……よく分かったね」
「由宇なら考えると思ってたわよ」
「狂言?」中野刑事が反応した。
「ええ、ここは言い出した由宇が説明したほうがいいかな?」
私は理真の提案を受け入れた。味噌汁をひと口飲み込んでから、
「過去の不可能犯罪事件でも度々使われた手です。連続殺人事件の最中、襲撃された人物がたまたま殺されずに傷を負うだけで済みます。犯人に襲われたという事実があるため、容疑者から外される。しかしそれは、犯人である人物が容疑の圏外に逃れるために行った自作自演なんです」
「つ、つまり、時坂保が今回それを行ったと?」
中野刑事が私の言いたいことを理解してくれたようだ。
「はい。時坂保の友人二人も、付近にいた人達も、誰も犯人の姿を目撃していないというのが引っかかりました。さっきの保さんの態度も、あまり事件について語りたがらないように見えましたし。変なことを言ってしまってボロが出るのを恐れていたんじゃないでしょうか。理真はさっき、ないって言ってたけど、何で?」
「凶器よ」
「凶器?」
「うん、自作自演による刺し傷なら、刺した凶器が傷口に刺さったままになるはずでしょ」
「あ、そうだ」
そうなのだ。保の体に残っていたのは刺し傷だけ。凶器が遺留していなかったと聞いた。
「刺した瞬間に引き抜いてどこかに隠したということも出来なくはないけど。すぐに投げ捨てるか、倒れた近くに隠すか」
「保が倒れた場所や近くから凶器が見つかったという報告は受けていません。ちなみに、保を刺した凶器は、刃渡り十五センチ程度のナイフか包丁だと考えられています」
理真の出した凶器隠滅のアイデアは、中野刑事により否定された。
「当然、保さんも所持していなかった」
理真の確認に、中野刑事は頷いた。
「前もって刺し傷を付けておいてしばらく歩いてから倒れてみせるというのも……」
「無理ね、一命を取り留めたとはいえ、入院が必要な程の傷よ。保くらいの老人でなくとも、刺した途端、一歩も歩けなくなるわ」今度は丸柴刑事が答える。
「うーん、よく分かった。完敗」
「そんなに消沈しないでいいわよ。そうやってひとつずつ可能性を潰していくのも大事な作業だよ」
と理真は言ってくれるが、そんな慰めはいらない。ワトソン役は的外れな推理を披露して探偵を引き立たせるのが役割だ、なんて誰か言ってた気がする。
「ちなみに、久慈村さん殺害時の保さんのアリバイは?」と理真が訊いた。
「ないわね。自室で寝ていたそうだけれど。広い家で藍子ちゃんとお手伝いさんの寝室も離れているから、証明する手段はないといっていいわね。第一、久慈村を殺す動機もないわ。ま、今のところね」
アリバイはなしか。動機はひとまず置いておくとして、凶器の問題さえ解決できたら……消える凶器! 凶器は氷で作られたナイフだった。刺したあと投げ捨て、警察が捜索する頃には溶けてなくなってしまっていたのだ。おい、どうやって持ち歩くんだい。それに氷がそんなにうまいこと刺さるか。自分で突っ込んでおこう。もちろん口に出して披露はしない。
「理真、これからどうするの?」
食事も終わる頃になり、丸柴刑事が言った。
「犯人が本当に相模健さんなら、朝に中野さんが言った通り、もう私の出番はないかもね。今日は帰って仕事して吉報を待つわ」
「それなら明日、東京に行かない? 相模の勤め先だった会社の人に話を聞きに行ったり、アパートを見たりするんだけど」
「うん、行く。何かまだ素人探偵が手助けできることがあるかもしれないし」
「じゃあ、明日八時ちょうど発の新幹線で。由宇ちゃんも来るでしょ?」
ワトソンとしては同行しないわけにはいかない。丸柴刑事は交通費は捜査費から出すといってくれたが、やったー、と両手を挙げる理真を制して、それは固辞した。さすがに血税を使って新幹線に乗るのは憚られる。
「中野さんは行かないんですか?」
「残念ながら中野くんは、明日から織田班に入って相模の捜索よ」
中野刑事は仏頂面で最後のカツを口に放り込むのであった。