第10章 復讐の男
電子音がまどろみの底から私をサルベージした。
目をこすって上半身を起こす。〈着信音1〉が鳴り響く室内。普段はそれほど感じないが、まだ半分眠っている頭には、この手の電子音というのは悪魔の嘲笑のように聞こえる。実際に悪魔の笑い声を聞いたことはないので、この比喩が適切かは知らない。
理真が薄目を開けてテーブルの上の携帯電話を取る。
私はメガネを掛けて壁の時計を見たが、起きたばかりで焦点が定まらない。窓の方を見ると、カーテン越しに日光が差している様子はない。まだ夜は明けていないようだ。そうこうしているうちに理真が電話に応答した。
「はい、もしもし」
完全に寝ぼけた表情だが、声ははっきりしており緊張を孕んでいた。そうだろう。発信者を確認するまでもない。こんな時間に電話をしてくるのは警察関係者だけだ。ということは用件は自ずと予想できる。
「理真、ごめんね、起こしたよね」
悪魔の嘲笑が止み静寂が支配した深夜の室内では、相手が中野刑事でなくとも携帯電話のスピーカーからの声をそばにいて容易に聞き取ることが可能だ。丸柴刑事の声だ。
「うん、いいよ、何かあったんでしょ」
「時坂保が襲われたわ」
時坂保。まだ寝ぼけているのか、すぐに顔が浮かばない。しかし名前は知っている。そうだ、時坂藍子の祖父だ。顔が出てこないのも当然ではないか、まだ会ったことがない。襲われた? 電話から丸柴刑事の声が続く。
「新津駅前を歩いているところを、いきなり背後から刃物で刺されたらしいの。病院に運び込まれたわ」
「犯人は?」
「まだよ。非常線を張ってるけど、望みは薄いわね。今の事件とは関係ないかもしれないから、こんな時間だし理真に知らせるか迷ったけど。どうする?」
「ううん、知らせてくれて感謝する。病院に行くわ」
「横手病院で」
「オーケー」
目の焦点が合ってきたので、再び壁の時計に目をやる。深夜一時半だ。
「聞いた?」
理真の問いに私は頷く。
「十分、いや十五分で支度しよう」
そう言うなり理真は洗面所へ走った。
私も着てきたコートを引っかけて、自室へ戻るため玄関へ急いだ。電灯を付けると、玄関の鏡に写る自分の姿が目に入る。完全なるすっぴんで髪はぼさぼさ。さっきの理真も同じような状態だった。外へ出るには最低限の身支度を整えねば。
私はアパートの廊下を駆けながら思う。私と理真が男なら、顔を洗ってその辺の服に適当に着替え、髪の毛は帽子の中にでも押し込んで、ものの五分とかからず車に飛び乗り、今頃は病院に向かってアクセルを踏んでいられたかもしれない。何てもどかしい。やはり探偵は『女には向かない職業』なのか?
「傷は浅いし、刺さりどころもよかった。命に別状はありません」
手術室から出てきた医師はマスクを外し、皆にそう告げた。張り詰めた空気が弛緩していく。表情を和らげる時坂藍子。その肩を抱く西根友美。それとは対照的に、丸柴刑事、中野刑事の警察官二名は緊張の面持ちを崩さなかった。
「事情聴取は出来ますか」
「麻酔が効いて眠っています。明日、目が覚めたらにして下さい」
勇む中野刑事を医師がたしなめ、中野刑事はそれもそうだとばかりに頭を掻いた。
手術室の観音開きのドアが開き、看護師らの押すストレッチャーに乗せられた時坂保が姿を見せた。駆け寄る藍子。目に涙を溜めて、「おじいちゃん大丈夫」と声を掛けるが、祖父はゆるやかな寝息をたてて目を閉じたままだ。
「明日の昼にはお話できるようになるからね、心配しないで」
やさしく諭す医師に頷き、孫は祖父を見送った。
保の入院する部屋番号を聞いたのち、私たちは待合所に場所を移した。薄暗い非常灯のみが灯り、時折夜勤の看護師らの足音がかすかに響く中、中野刑事が事件発生からの状況を語ってくれた。
凶行が起きたのは午前零時半前後。
東京から訪れた友人二名と三人で新津駅前の馴染みの店で飲んでいた時坂保は、店を移動するために狭い路地を歩いていた。次に向かう店の看板が路地の先に見えた。
「次の店はあそこだ」と保が指をさす。当地に不案内な友人らは、常に保の後ろをついて歩いていたのだが、そのときに気持ちがはやったのか、保を追い越し前へ出てしまい、保が殿を務めるかたちとなった。
さすがに保より先に暖簾をくぐることは躊躇われた友人らが、保の追いつくのを待とうと店の前で立ち止まり振り返ると、時坂保はアスファルトの上に俯せの状態になっていた。最初は酔って倒れたのかと思った友人らが駆け寄ると、保の背面右腰の上にグレーの背広を染めた血痕を発見した。友人のひとりは悲鳴を上げ、もうひとりは「大丈夫ですか」と声を掛け続けた。人の拳大だった血痕は、みるみる面積を広げていく。悲鳴を上げた友人は冷静さを取り戻し、携帯電話で119番通報をした。
刺傷事件と思われたため、救急から即座に警察へ通報が入り、被害者の名前を聞いた中野、丸柴両刑事が、保が搬送されたここ横手病院に向かった。
「その友人二人とも、犯人は見ていないそうです。付近に非常線を張って一応怪しそうなやつに職質をかけていますけれど。凶器も見つかっていません。犯人捜索、聞き込みと合わせて付近を捜索中です」
と中野刑事は状況報告を締めくくった。
「今回のことは、久慈村殺害事件と関係あるんでしょうか」
中野刑事が続けて口にした。
「こんな短期間に近隣の二名の人物が被害に遭うなんて、ちょっと異常よ。私は何かしら関係があると思って理真に連絡したんだけど」
丸柴刑事の意見はもっともだ。これを偶然で片付けていいのだろうか。
「しかしですね、久慈村殺害と、今度の事件とでは、あまりに手口が違いすぎますよ。片や密室で起きた不可能犯罪殺人事件。もう片方は深夜の路地での通り魔的刺傷事件ですよ」
中野刑事の言うことにも一理ある。事件の性質が違いすぎる。
「理真、どう思う?」
丸柴刑事は理真に話を向ける。
「これが同一犯人によるものなら」理真は僅かな時間沈黙したあと、「相当手強い相手かもしれないわね。普通、犯人は同じような手口で犯罪を完結させようとするものよ。それがこの事件はどう? 特異な凶器による密室殺人という不可能犯罪を犯した次は、ありふれた凶器を使った通り魔犯罪。自分の力や頭脳を過信しない、とても冷静な人間に違いないわ。その場その場でもっとも適切な犯行方法を選択しているんだと思う。最初の密室殺人だって、決して警察や探偵に対する挑戦や、自分の考えたトリックを誇示する劇場型犯罪じゃない。あれがその場ではもっとも効率的だと考えたからこそ取られた犯行方法に違いないわ」
野外倉庫の密室で後頭部をモーニングスターという特殊な凶器で撲殺するのが、もっとも効率のよい殺害方法? いったいどういう事情があればそうなるのか。
友美と藍子に疲れが見えるので、一旦この場は撤収することにした。万が一のことを考え、保の病室の前には制服警官が交代で常時見張りに付くという。
保刺されるの報は警察から直接藍子に届き(保の携帯電話を使用した)、藍子から友美へ。友美は自分の車に藍子を乗せ病院まで来たという。明日改めて友美の母、佐枝子、兄、勝巳を連れて様子を見に来ると言って、二人はそのまま帰宅した。
中野、丸柴両刑事は新津署に戻る。理真と私も車で同行することにした。どうもこれから帰って眠る気にはなれない。
新津署の捜査一課室。丸柴刑事の炒れてくれたコーヒーを囲み、中野刑事、理真、私の四人は椅子に座っている。
「ますますわけが分からなくなってきました」沈黙に耐えきれないとばかりに中野刑事が声を上げる。「久慈村殺害の容疑者も殺害動機も掴めていないっていうのに、第二の事件まで起きて、それも通り魔犯罪ですよ。時坂保が助かったのが救いだけど」
「そうね、最悪の展開は逃れることができたわ。でもお陰で犯人が絞り込みやすくなったといえるわね。久慈村、時坂保両者に恨みを持つ人物となると、かなり限られてくるはず」
丸柴刑事はコーヒーカップを手に取って言った。中野刑事は、
「明日、時坂さんが目を覚ましたら色々分かるはずですよ。不意打ちを受けて背中から刺されたとはいえ、何かしら話してもらえるんじゃないですか?」
今のところ目撃者や凶器の発見など、現場からの有益な情報は入ってきていない。
「恐らく、犯人は時坂さんを尾行し、目撃者がいなくなるようなチャンスを狙っていたのね」
理真がそう推理した直後。部屋のドアが開いた。顔を見せたのは、城島警部だった。
「お、理真くんに由宇くんも一緒か」
四人全員が会釈して、丸柴刑事は警部の分を注ぎにコーヒーメーカーの元へ歩く。
「ちょうどよかった、明日にでも理真くんと由宇くんにも訊こうと思っていたんだ」
そう言って城島警部は内ポケットから手帳を取り出し、開いたページに目を落として、
「中野と丸柴の二人も知っていたら答えてほしいんだが」その目を外さず、手帳に書いてあるものを読み上げるように、「……『サイキ大戦キリン』というテレビゲームを知っているか?」
意外なところで意外な人から意外な名前が出てきたので、私はコーヒーカップを口へ運ぶ手を止めてしまった。
「……俺は知らないです」と中野刑事。
「私も」丸柴刑事も湯気の立つコーヒーカップを手に答えた。
「私も知らないな。ゲームだったら、弟の宗が知ってるかもね。由宇は? 由宇?」
理真に肩を叩かれて我に返った。
「し、知ってます。理真も見たことあるんじゃ。宗くんがやってたじゃない。ちょうどこの事件の知らせが入った日に」
私の説明に、ああ、あれ、と理真は思い出したような声を出した。
「そのゲームがどうかしたんですか警部?」中野刑事が尋ねる。
「ああ。実は今回の久慈村要吾殺害の様子がな、そのゲームの見立て殺人なんじゃないかという意見があるんだよ」
「見立て殺人……」丸柴刑事が呟いて、「そのゲームにあの、モーニングスターという武器を使って人を殺すシーンがあるんですか?」
「俺も詳しくは分からんがな。ああいう武器を使うキャラクターが出てくるそうだ」
質問に少し逃げ腰で答える城島警部。あまりゲームの内容について訊くなと言っているようだ。
「それだけですか?」と理真。
確かに、あの手の武器が出てくるゲームはたくさんあるだろう。特に中世ファンタジーを舞台にしたゲームに数多く出てくるはずだ。対して『サイキ大戦キリン』は、現代日本を舞台にしたゲームだ。宗がプレイする後ろでゲームを見ていた私も、あの武器がどこで出てきたかは思い出せない。
〈見立て〉の元ネタを上げるのであれば、もっとふさわしいゲームがあるのではないか? なぜ『サイキ大戦キリン』なのだろうか。
警部はすぐには答えない。手帳を閉じて内ポケットにしまい、丸柴刑事の持っているコーヒーカップを礼を言って受け取り、中身をひと口喉に流し込んでから、
「理由はもうひとつある。そのゲームの作者がな、今度の事件の容疑者なんだよ」
「なんですって」と丸柴刑事。
「いつどこからそんな情報を」中野刑事が噛みつくように前へ出る。
「そういきり立つな。お前たちも見ただろ、警視庁から来たあの二人だよ、情報元は。話せば長くなるんだがな。デリケートな問題でもあるし」城島警部はコーヒーを飲み干してカップを机に置き、「時坂保が社長を務めていた時心製薬が二年前に薬害事件を起こしたのは知っているな」
全員が頷いたのを確認して、警部は語り始めた。
五年前。時心製薬が当時北アメリカで猛威を振るっていた新型インフルエンザの治療薬をアメリカから輸入販売した。日本での感染報告はなかったが、上陸は時間の問題と言われ、複数の製薬会社の中から時心製薬が薬の独占輸入販売権を獲得したのだ。
しかし、海外ですでに使用されているとはいえ、日本国内でその薬をすぐに販売することは出来なかった。日本で海外の薬を販売使用するには、厚生労働省の認可が必要なのだ。
通常、薬の認可を得るには膨大な資料と気が遠くなる時間が必要だが、緊急性があるという理由でその時間は大幅に短縮された(それでも半年以上の期間がかかった)。
輸入された薬剤『リューゲルフェン製剤』は全国の病院に買い求められ、当時経営危機に陥っていた時心製薬はこれで息を吹き返したのだった。
だが、輸入されたリューゲルフェン製剤には重大な問題があるということが発覚する。ある風邪薬と併用して服用すると、白血球が徐々に減少していくという重大な疾患が高確率で発現するというものだった。その風邪薬は日本国内のみで販売されているものだったため、アメリカでは確認されない副作用だったのだ。
これほど重大な副作用の存在があったにもかかわらず、厚生労働省の厳しい審査をクリアしたことに当然疑問が持たれた。その陰には時心製薬社長時坂保の厚生労働省への働きかけがあったと噂された。会社の経営危機を救うため、一刻も早くリューゲルフェン製剤の販売許可が欲しかった時坂保は、天下りの受け入れや賄賂などを駆使し、検査で副作用の可能性があったことを黙殺させ審査を通したのだという。
通常の薬よりも早く認可が下りたのは緊急性という他にそういった理由もあったのではないかと当時のマスコミは騒ぎ立てたが、証拠は一切なかったため、保はマスコミの声を無視し続けた。
副作用の存在は認めたものの、時心製薬は薬の回収には踏み切らなかった。件の風邪薬との併用を避けるよう注意を促し、医師の処方に従って用法を厳守すれば問題はないと説明するにとどめた。
にも関わらず、事故は起きた。リューゲルフェン製剤を投薬したひとりの患者に副作用が発現したのである。今から二年前。副作用の恐れがあると発表されてから三年後のことだった。
マスコミ発表は、副作用の事故が起きたと説明するのみで、患者の名前はもちろん、場所、投薬した病院、医師名の発表も行われなかった。患者のプライバシーに関わる問題であるためだと時心製薬と厚生労働省は説明した。場所や投薬した医師が分かると、そこから患者が発覚してしまう恐れがあるからだと。
結果、リューゲルフェン製剤は全回収された。この問題に加え、北米での新型インフルエンザ被害が鎮静し、結局日本国内でもその他に感染者が報告されなかったためだ。
マスコミはずさんな時心製薬の対応を責めた。加えて、副作用が発現した患者も、実際は新型インフルエンザには罹っておらず、医師の誤診であったことが後に発表され、それも時心製薬叩きに拍車をかけた。
「その薬害被害者の職業はテレビゲームのシナリオライター。最新作がさっき言ったゲームというわけだ」
「ちょっと待って下さい。その被害者が時心製薬に恨みを抱いて時坂保を襲ったことはいいとして、どうして久慈村が殺されなきゃならないんです?」
中野刑事が、恐らく全員が抱いた疑問を代表して警部にぶつけた。
「久慈村はな、当時、薬害を起こした薬の審査機関、厚生労働省の新薬認可調整委員会に所属していたんだよ。臨床医師の代表としてな。ろくに書類に目を通さず、盲判を押しまくっていたらしい。関係者の話では、副作用を見落とした責任の半分は久慈村にあると陰で言われていたそうだ。そんな話、当然表に漏れるわけないがな」
「それで久慈村が殺されたと聞いて、中央が動いていたということですか」
「ああ、動機が動機だけに、隠密にな。厚労省の要請を受けて警察庁から警視庁に命令が下りたんだ。彼らは久慈村殺害の報を受けて、すぐに薬害被害者の男を容疑者としてピックアップしていた。独自に捜査して容疑者を確保。秘密裏に東京に連れ帰るつもりだったんだろう」
「男、なんですか」
「ああ、名前は相模健、年齢は二十八歳」
「それで、その容疑者は今どこに? 警視庁がマークしているんでしょ?」
「……行方不明だ。久慈村殺害を知った直後警視庁が相模の務めているゲーム会社を訪れたが、ひと月以上前に突然会社を辞めていた。アパートも引き払ってあった。やつはこの新潟に潜伏していて、久慈村を殺害、時坂保を刺した。そう連中は見ている」
「あいつら、そんな情報を隠してたのか」
中野刑事が苦々しげに言った。
「警視庁から来ている二人も、もうこれでこそこそ動くことは出来なくなったろう。明日朝の会議で正式に通達が出るだろうな。今日はもう遅い。明日に備えて休んでくれ。」
警部のその言葉で、この場は解散となった。
帰り際に警部が現場に確認したところ、非常線内で犯人らしき人物、凶器ともに発見はできず、不審人物の目撃情報も得られなかったという。