叫んだ
「アルデンテ!」
彼女が二度目の叫びをあげた時、僕はもうそこにはいなかった。ウチのドアは合板の安い造りであったため、アパートの外階段を駆け下りる僕にも彼女の声はしっかり耳に届いていた。
アパートを出て、全速力で一本目の角を右に曲がり、さらに二本進んだところを右に曲がって、走るのをやめ、一本目の道を右に曲がって歩いているとき、少しは気持ちが落ち着いてきた。
「アルデンテ…、アルデンテってなんだっけ?」
そういう名前の車がトヨタから出ていたような気もするが、車もない、免許もない僕なのではっきりとそうとは断言できない。ああ、そういえば浅草にそういう店があった気がする。でも、浅草には行ったこともなければ、興味もないのではっきりそうとは断言できない。でも彼女は叫んだ、「アルデンテ」と。それも二度も。そんなコトを考えながら前を向くと逃げ出したはずのアパートに戻ってしまっていたのに気づいた。
彼女は外階段の上で裸足のままで立ちつくしていた。僕の姿を認めると彼女は夜空に向かって「アルデンテ!」と叫び、獲物を狩る何かのような前傾姿勢でこちらに走り出してきた。僕はとっさに来ていた道を右に曲がり全速力で3本目の角を右に曲がり、さらに3本進んだところで右に曲がって、そこから3本進んだところを右に曲がった。そこで後ろを振り返り、彼女の姿がないのを見ると速度を緩めて歩きはじめた。
「アルデンテ…、アルデンテってなんだっけ?」
イタリア映画の俳優に確かそういう名前があった気がする。ジョヴァンナ・タッツォ・アルデンテ。彼は『姑の誘惑』という少しエロい映画に出演し、シャツからはみ出す胸毛が立派で、映画の中では姑の度重なる誘惑を拒否して最後にはその姑を殺害してしまう悲しい役を演じていた。いや、違う。僕はそもそもイタリア映画をイタリア映画と気付いて観たことはないし、イタリア人の俳優の名前を覚えたこともない。ああ、そういえば子供の頃にコロコロコミックの広告ページで田宮のラジコンでそういう名前があった気がする。バギータイプの車体で、ギアーボックスはノンデフ、そのため高い高いトラクション性能を実現。サスペンションはダイキャスト製アームを使用し、リアのサスペンションにはリザーブ付きのダンパーを装備していた。いやいや、そうじゃない。僕はそもそもラジコンを買ったこともなければ作ったこともない。そもそも興味がまったくない。そんなコトを考えながら前を向くと逃げ出したはずのアパートに戻ってしまっていたのに気づいた。
彼女は外階段を駆け下りた際にどうやら転落したらしく、一階のコンクリ製の土台の部分は真っ赤な血に染まり、倒れた彼女の周りには深夜だというのに住人が何人か出てきて様子を見ていた。僕は野次馬に混じって彼女の顔を人垣の上から覗き込んだ。
荒い息づかいに虚ろな視線、出血は後頭部からと思われ、未だにかなりの量の血液が流れだして血だまりの直径を広げ続けている。こいつはあからさまにヤバい。僕を殺しそうな勢いで「アルデンテ!」と叫んで襲ってきた彼女だが、彼女は彼女だ。僕は住人たちを掻き分けて彼女に近寄り、肩に手を廻して抱き起した。身体を浮かせた拍子に彼女は少し生気を取り戻し、僕の顔をジッと見つめて静かに一度頷いた。途端、瞳孔を開いたまま両手を鎌首のように強張らせて僕の首を締めあげてきた。が、その手に力はない。
「いや、それはもういいから」
僕は彼女が二度そうしたのを振りほどいて彼女に言った。誰かの通報で出動した救急車のサイレンがどんどんこちらに近づいている。彼女の意識のレベルを見ればそれが間に合うかどうかは微妙だろう。朦朧としながらも僕を殺そうと両手を伸ばす彼女を再び血だまりの中に寝かせると僕は耳元で「ごめんね」と囁いて身体を起こした。彼女は残っているありったけの力でか細く僕に「アルデンテ…」と言って目を閉じた。
謎はすべて解けた! 何かのマンガの主人公が僕の中に現れてそう叫んだ。「アルデンテ」はポルトガル語か何かの「愛してる」の意味に違いない。妙にすっきりした気分になった僕はその場を立つと近づく救急車のサイレンとは逆の方、アパートを出て右の方向に全速力で駆け出した。




