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鬼姫と生贄の御曹司

作者: mono

時は平安時代。

長岡京を廃し、平安京に遷都してから早二百年。

雅な文化と煌びやかな貴族達が贅を尽くしていた都から、少しばかり北に離れた比叡山の頂上に、人目をはばかる様にして、その屋敷はあった。

北嶺に構えられたその屋敷は、都にある貴族達の屋敷と変わらぬ上品で厳かな雰囲気に包まれている。


ここに住まうのは“鬼”。

巷では鈴鹿御前と呼ばれていた女鬼が、この屋敷で暮らしていた。



鈴鹿御前こと胡蝶こちょうがいつもの様に抑揚のない生活を送っていた、ある日。

胡蝶の元に一人の男が転がり込んで来た。

随分と小綺麗な格好をしていることから、胡蝶はその男が貴族かその関連の者であることを悟った。


「あ、貴女が鈴鹿御前か!?」

「いかにも。わたしが鈴鹿御前と呼ばれる鬼であるが。」

「私は閑院大臣、藤原公季殿より書簡を預かり参じた者。」


胡蝶は男から書簡を受け取った。確かにその書簡には藤原公季の名が記されている。

藤原公季といえば、閑院大臣の号を持つ右大臣であったはずだ。

そんな人物が鬼である自身に、一体何の用があるというのだろうか。

胡蝶は眉を顰めながら、書簡を丁寧に開いた。

そこには、自身の寵愛する側室が都の薬師では治せない病に罹ったため、力を貸してほしいとのことだった。


「なるほど。わたしの薬が目的か……。」


鬼。それは人よりも倍近くの寿命を持つ者達のことを言い、その多くが摩訶不思議な薬術に通じている。

世の人の噂では不老の薬だったり、長寿の薬だったり、万能の薬だったり、色々な薬を精製していた。


「ふふ、いいだろう。だが、わたしの薬はそう安くはない。相応の対価を寄越せ。その側室の命に等しき対価をわたしに差し出すのであれば、薬を譲渡しよう。」


確かに胡蝶はそう言った。

しかし、この言葉を早々に後悔することとなる。



数日後、再び胡蝶の屋敷を訪れた男が対価として持参してきたのは、まだ十ほどの少年だったのだ。

その少年の首、右腕には包帯が巻かれている。怪我か皮膚病かだろうか。

どこぞの孤児かと思ったが、身体の状態や纏っている着物を見ると、その可能性は無いに等しい。


「この方は、閑院大臣の第六子、藤原珀鸚ふじわらのはくおう様でございます。」

「―――はっ!?」



◇ ◇ ◇



あれから十年。

鬼姫への生贄として差し出された少年は、とっくに元服の歳を迎え、見目麗しい青年へと変貌を遂げていた。



「お早う御座います、胡蝶様。」

「ああ、おはよう、珀鸚。今日もわたしは部屋に篭る。」

「では、ご一緒してもよろしいですか?」

「……いけないと言ったら?」

「この世の終わりです。なので、幸福を感じている人々を絶望のどん底に落として差し上げます。」


珀鸚の言葉に胡蝶は思わず固まった。

そう、十の頃に胡蝶の元にやって来た少年は、今では貴族の娘たちの前に出せば、引っ張り凧になるだろう美貌を開花させている。

首と右腕に患わっていた皮膚病は、胡蝶が薬を与えたことによって完治した。

都の書物などを与えて、己が出来る限りの教育も受けさせた。

そんな胡蝶の努力が実を結び、非の打ち所のない美丈夫となった珀鸚であったが、唯一引っかかるところがあったのだ。


「どうか、貴女のお傍に。それが叶わぬのであれば―――」

「わかったから。物騒なことを言うんじゃない。」


彼の欠点とも取れるところ。

それは性格だ。だが、決して悪人ではない。寧ろ、穏和で紳士的である。

しかし、その上品な物腰と温厚な性格の裏に、少しばかりの狂気を感じることがあるのだ。

それも胡蝶に関する物事のときにだけ、それは発揮される。

執着、とでもいうのだろうか。



「嬉しゅう御座います。私を貴女のお傍に置いてくださるのですね。」


珀鸚はその言葉通り、嬉々とした表情を浮かべる。

そんな珀鸚を横目で見ながら、胡蝶は溜息を吐いた。


引き取った当初はこんな性格ではなかった。

寡黙と言えば聞こえはいいが、本当に何も喋らない陰気な少年であったのに。

どこで教育を間違えたのか、彼は時が経つとともに胡蝶に傍に侍るようになったのだ。



「お前がどこにいようと構わないが、一つ頼まれて欲しい。」

「胡蝶様のお願いであるのならば、喜んで。」


珀鸚の貌が甘く綻ぶ。

うっとりとした珀鸚を直視せずに胡蝶は口を開いた。


「左京の一条大路の薬師の元へ、薬剤を届けて欲しい。」

「いつもの方ですね。わかりました。お任せ下さい。」

「すまないな。ありがとう。」


胡蝶は一月に一度、珀鸚を都へ使いに出していた。

彼は人間だ。いずれは自分の元を去り、本来の居場所へ戻るときが来るだろう。

そのときに都のことを何一つ知らないで困るのは珀鸚だ。

胡蝶は珀鸚に情が湧き、愛着を持っていたが、一度しかない彼の人生だ。自身が干渉するわけにはいかないと自制していた。


「あれだけ見目が良ければ、無一文で都に放り込んでも、貴族の娘に見初められることだろう。」


そもそも珀鸚の歳であったら、既に妻がいてもおかしくはない。

苦笑を漏らしながら呟かれたその言葉は、誰の耳にも届くことはなく、虚空へと霧散した。




それから一月後。

その日、胡蝶の屋敷にいつもの静寂はなかった。


「ご無沙汰しております、鈴鹿御前。」

「ああ、誰かと思えば……十年前の使者か。」


胡蝶の目の前には、十年前、珀鸚を対価として差し出してきた閑院大臣の使者が鎮座している。

彼は胡蝶の記憶にある姿より、大分老いていた。

それもそうだ。既に時は十年という歳月が過ぎ、都のまつりごとの重鎮たちも世代交代を重ねているのだから。

しかし、使者の男の目に映る胡蝶の姿は十年前と全く変わらない。

あのときから時が止まっているかのように、彼女は十六から十八の姿を保っている。


「今度は何用でここへ来た。」


玲瓏たる胡蝶の声が広間に響く。

そんな胡蝶に気圧されたように、使者は口を開いた。



「……珀鸚殿は、生きていらっしゃいますか?」

「ああ、生きているよ。」

「患われていたご病気は?」

「既に完治している。」


胡蝶のその言葉に、使者はそうですか。と安堵したような表情を零した。


「恐れながら申し上げますが、珀鸚殿を藤原に返して頂きたいのです。」

「あれは藤原が己が寵姫のために差し出したものだろう。故に理由を聞こうか。」


使者の話はこうだった。

珀鸚の生家、藤原公季家の後嗣問題で彼の第六子、四男である珀鸚が必要になったのだと言う。

珀鸚は四男であるが故に、後継からは外されていたはずなのだが、去年流行った病で上の兄三人ともが亡くなってしまったのだ。

公季には他にも子がいるが、珀鸚を覗いて女子のみ。しかし、後継に出来るのは男子だけ。

姫に婿を迎えることも考えたが、婿養子は取りたくないらしい。


「ですので、珀鸚殿に継いで頂きたいと。」

「―――なるほど、事情はわかった。だが、先にも言ったが、あれはそちらが差し出したもの。それを今更返せと?図々しいにもほどがある。」


思わず、眉を顰める。

確かに珀鸚を人間の世に返した方がいいとは思っている。

しかし、これは鬼との約束を反故ほごにするということだ。

それはいくら人間と近い距離を保つ胡蝶でさえ、目を瞑ることは出来ない。



「それは重々承知しています。……ですから、珀鸚殿の対価として、藤原家の四ノ姫を差し出すことを殿から仰せつかっております。」


その部下の男の言葉に、胡蝶は不快そうに顔を歪めた。


「それをわたしが了承するとでも?」

「了承して頂かなければ、四ノ姫が犠牲となるだけです。己の責務を果たせない者を、殿は許しませんので。」

「―――とんだ下衆だな。いいだろう、珀鸚は持っていけばいい。四ノ姫も、この屋敷に置いていけばいい。ただ、もうこの屋敷へと来るな。わたしが望むのはそれだけだ。」


胡蝶は吹雪くような極寒の視線で男を貫く。

いかに胡蝶が不愉快を感じているかがわかる。

男はそんな胡蝶の視線を気にすることもなく、礼を述べて頭を下げた。


本音を言えば、まだ珀鸚を手放すつもりはなかった。

存外、自分は彼に愛着を持っていたようだ。そんなつもりはなかったが、こうも突然に別れを迫られてからわかるとは。

人の世に返した方がいい。時が来れば、そう言いながらもその時が来ないことを願っていたのだ。

それが、まさかこんなにも早く、唐突に、そう願っていた自分から珀鸚を手放そうとは。

やはり、世の中はどうなるか分からない。

人知れず、ふっと乾いた嘲笑を浮かべ、胡蝶は使者を見下ろす。

まったく十年前も、今回も人騒がせで迷惑な人間共だ。

彼等が約束を反故にした相手が人間に理解があり、温厚な方な胡蝶だったからまだ良かったものの、他の鬼に同じ態度を取ってみろ。

それこそ、生きては帰れないと思った方がいい。


(わたしもまだまだ甘いな)


ふっと、自らを嘲るような笑いを浮かべ、一人胡蝶は溜息を吐いた。

その甘さにより、胡蝶はいつか後悔するときがやって来るのだろう。否、後悔はもうしている。

十年という歳月を共にしてきた珀鸚がこの屋敷を去るのは、胡蝶にとっても喜ばしいことではない。しかし、既に自分は使者に是と答えてしまった。その場の勢いというものだろうか。

再び、胡蝶は深い溜息を吐いて、虚空を見上げた。

だが、これで良かったのだ。愛着が執着へと変わる前に、珀鸚は自分の元を去ることが出来る。胡蝶は今の自分でいられる。

どちらにとっても、これが最善だったのだ。胡蝶はそう思うことにした。


(さて、何と珀鸚に話すか……)


「…………胡蝶様。」


物陰に身を潜める珀鸚の存在に、胡蝶は違うことに気を取られていて気付くことが出来なかった。

この選択が間違っていたことなど、現状ではわからなかったのだ。





珀鸚はあれから自室へと戻り、扉に背を預けて呆然としていた。

先程の胡蝶と使者の話を全て聞いていたのだ。

珀鸚の中に言い表せない絶望が広がる。彼の耳が正しければ、彼女は彼等の条件を受け入れ、自分を藤原に返すと言った。


「……どういうことですか、胡蝶様」



幼い頃から、自身は閉鎖された部屋で幽閉されるように生きてきた。

母が女中の、父の落とし胤だったからだ。父の一時の気まぐれが、珀鸚を産み落としたに過ぎない。

母が地位も後ろ盾もない、だたの女中であったことと、まだ乳幼児の頃に皮膚病を患った珀鸚は、父の関心を買うことは出来なかった。

貴族の男子だったが、既に上に兄が三人いたことから、後嗣問題も蚊帳の外だったため、余計に父は見向きもしてくれなかったのかもしれない。それも今となっては些細な問題だが。

数年して、母も病に倒れ、ついには閉鎖された部屋に一人となってしまった。珀鸚は、齢七つで孤独となったのだ。

それから三年後、自分はあの部屋から出された。鬼姫への生贄として。

皮膚病を患い、醜い自分は殺されると思っていた。

しかし、胡蝶は一族にすら見捨てられる珀鸚に態度は冷たいながらも、温かい手を差し伸べた。根暗で病弱、無知な珀鸚に、自らの薬を飲ませ、教養を教えたのは、他でもない胡蝶なのだ。


(お美しい胡蝶様……)


彼女が憧れだった。強く、美しく気高い彼女が。

そんな彼女に近付きたいと思っていたのだ、ずっと。

そして、あれから十年。やっと彼女に手が届きそうだと思っていたのに、彼女は自身を手放そうとしているのか。


「……胡蝶様。私だけの、美しい鬼姫」


珀鸚の色素の薄い瞳が、恋情が混じった狂気を滲ませる。

今までずっと彼女に恋焦がれ、彼女を求めてきたのだ。今更、離れるなど出来るはずもない。

幼子の憧憬は、次第に恋慕へと姿を変え、長すぎる片恋は執着心と狂気を募らせた。


「私は、貴女だけを求めているというのに……」


もう、待つのは止めだ。

我慢など、既にとうの昔に出来なくなっていた。

彼女を手に入れる。今の珀鸚の胸中には、その思いしかなかった。





◇ ◇ ◇



その日、胡蝶は夕餉の支度をしていた。

いつもは珀鸚が率先してやっているのだが、今日は珀鸚の具合が悪く、自室で寝込んでいるためだ。

先程、珀鸚の具合を見に行ったときも、熱があり、到底家事など出来そうにない程だった。

そんな状態でも、珀鸚は胡蝶の役に立とうと、布団から出ようとしたため、胡蝶が無理矢理布団に押し込んだのだ。


「まったく、あんな身体で動こうとは……阿呆にも程がある。」


広い台所に胡蝶の呆れた様な声が漏れる。

そういえば、ここ最近の珀鸚は動きっぱなしだった。

無理が祟ったのだろう。数日はじっとさせておいた方がいいかもしれない。

しかし、そんな胡蝶の考えとは裏腹に、珀鸚は布団の中で大人しくはしていなかった。



「胡蝶様。」


背後から聞こえた聞き慣れたその声に、胡蝶は素早く振り向いた。

そして、その人物を視界に捉えると、胡蝶は深く溜息を吐く。やはり、彼だった。というか、この屋敷には胡蝶と珀鸚の二人だけしかいないのだから、胡蝶でなければ、必然的に珀鸚であるのだが。

寝巻きの薄い着物で、頬を紅潮させた珀鸚がそこに立っていた。


「何故、出て来ているんだ。寝ていろと言っただろう。」

「申し訳ございません。」

「そう思うなら、寝ていろ。」

「……申し訳ございません。」


いつもは従順に胡蝶の言葉を受け入れるのに、今日に限って珀鸚は頑なだった。

思わず、はぁ…と溜息が漏れる。


「謝ってばかりいては、わからないだろう?」


こんなことは今までに一度もなかったため、珀鸚が何を望んでいるのかもわからない。

そして、その張本人は謝罪の言葉を重ねるだけで、これ以外の言葉をその薄い唇から発することをしないのだ。何を伝えたいのだろうか。

胡蝶は夕餉の支度を置いて、珀鸚に近寄った。

身じろぎ一つしない珀鸚の身体。その瞳は胡蝶だけを映し、他には何も映していない。


「胡蝶様。私は貴女から離れていては、とても不安になるのです。」

「お前は赤子か。」


呆れたような胡蝶の声音が響く。

しかし、そんな胡蝶の言葉に、珀鸚は妖艶に笑ってみせた。



「そうですよ。今知ったのですか?私は貴女がいないと何も出来ない赤子も同然なのです。………ですのに、貴女は私を引き離そうとなさるのですか?」


珀鸚の声色ががらりと変わる。

先程までの頼りない不安そうなものではなく、冷静で落ち着き払った声だ。それが妙に胡蝶に違和感を抱かせた。

胡蝶を見詰めるその瞳も細まり、どこか仄暗く据わっている。

今までにも見たことのある目だ。これは珀鸚の胡蝶への執着から、狂気に満ちたときによく見る視線。

そんな珀鸚に、胡蝶は戸惑いながらも口を開いた。


「……珀鸚?」

「酷い御方だ。私が邪魔になりましたか?他に匿う男が出来たとでも?」


確かな狂気を湛えた笑みを貼り付けて、珀鸚が胡蝶に迫る。

不穏な雰囲気を敏感に感じ取った胡蝶は、出来る限り珀鸚から距離を取ろうと後ろに下がった。


「いけませんよ、胡蝶様。私から逃げては。」

「……逃げてなど……」

「いないとおっしゃいますか?その口で。」


突き刺さるような辛辣な響き。

今まで珀鸚が胡蝶にこのような態度を取ったことがなかったため、胡蝶は戸惑いを隠せない。

しかし、珀鸚は胡蝶の戸惑いも気にすることなく、どんどん距離を詰める。

珀鸚が歩を進めるごとに、胡蝶もその分下がるが、不意に胡蝶の背に壁が当たった。

はっとして、胡蝶は後ろを振り返る。気づかぬ内に、珀鸚に壁に誘い込まれていたのだ。


「ふふ、もう逃げられませんよ。どうしますか、胡蝶様。大人しく私に囚われていてくれますか?」

「珀鸚。」


胸中に纏綿てんめんする不安を隠すように、胡蝶は咎めるような声色で珀鸚の名を呼んだ。

そんな胡蝶を満足そうに見下ろして、珀鸚はごく自然な流れで胡蝶の腕を取り、壁に押し付けた。

自身の腕と身体の檻に捕らわれた胡蝶に、珀鸚は顔を寄せる。さらっと珀鸚の髪が胡蝶の頬にかかり、胡蝶の白磁のような玉肌を彩った。

珀鸚の切れ長の瞳が真っ直ぐと、胡蝶だけに向けられる。

胡蝶は珀鸚の手から逃れようと、掴まれた手に力を込めるが、鬼といえども身体能力は普通の女性よりも僅かに強いだけだ。故に成人の男である珀鸚から逃れられることは出来なかった。

囁かな抵抗をする胡蝶に、珀鸚はその貌に嘲笑を浮かべ、胡蝶の耳元で囁く。


「これで分かったでしょう?どうか、大人しく私だけを見ていてください。」

「……いきなりどうしたんだ、珀鸚。」


今まで従順な態度を貫いてきていただけに、珀鸚のこの変わりようにただ驚くばかりだ。

何が彼をここまで責め立てているのだろうか。

その疑問をそのままに、珀鸚にぶつける。



「―――貴女は、私を藤原に返し、四ノ姫をお引き取りになるそうですね。」


珀鸚の口から零れたその言葉に、胡蝶はこれ以上ないほどに目を見開いた。

珀鸚にはこれから順を追って、納得してもらえる形で伝えようと思っていただけに、彼が既に知っていたというのは、胡蝶からしてもまったくの予想外だった。

やはり、彼は納得などしなかったのだ。


「私は貴女が何と言おうと、藤原に帰りません。四ノ姫も、こちらに迎えずともよろしい。」

「それがどういうことか、わかってて言っているのか?」

「お優しい貴女は四ノ姫を憐れんでのことでしょう。ですが、私にとっては平穏な生活を脅かす害なす存在でしかない。それを貴女はここに置こうというのですか。私を捨てて。」


徐々にいつもの敬語が取れていく珀鸚を気にも止めず、胡蝶は珀鸚に厳しい視線を向けた。

そんな胡蝶に、珀鸚も色のない表情を浮かべたまま、胡蝶を見遣る。


「珀鸚。今だから言うが、もともとわたしはお前を都に返すつもりでいた。それが早まっただけのことだ。」

「何故ですか?」

「何故?それは問うまでもないだろう。お前とわたしは“違う”。種族も生きる時も。」


そう。それが胡蝶が珀鸚を手放すことを決めた、最大の理由だった。

鬼という種族の寿命は長い。不老不死の薬などを使う者もいるが、普通の者でも人間の二、三倍は生きるのだ。人間の珀鸚と鬼である自身では、何もかも違う。

珀鸚と共に過ごしていても、いつか胡蝶は置いて逝かれるのだ。それは、ごく自然な摂理だった。

これから珀鸚は自然に老いていくだろう。

しかし、胡蝶は最低でも十数年はこのままの姿でいるのだ。


珀鸚が自分を置いて逝く姿など、見たくない。

そして、傍で置いて逝かれたくもない。

そんな胡蝶が取れる選択肢は、珀鸚を人の世に返す。それしかなかった。



「……言いたいことは、それだけですか?」

「え?」

「そんな言葉で、私が貴女から離れるとでも?貴女と私が違うのは百も承知ですよ。」


それでも、尚、珀鸚は胡蝶から離れる気はないと視線で訴える。

珀鸚とて、鬼と人間の埋められない差はわかっていた。

わかっていても、胡蝶の傍から離れるなど、考えたくもないのだ。

彼女の傍から離れれば、自分はきっと狂う。そんなことはわかりきっていた。


「だから、茨木童子殿に助言を頂いたのですよ。貴女と同じ時を生きるために。」

「……何を、言ってるんだ?」


珀鸚の言っていることが理解出来ない。

彼は何を言っているのだろう。鬼である自分と同じ時を生きるなど、人間である珀鸚が出来るはずもないのに。

そんな胡蝶に、珀鸚は不敵な笑みを浮かべた。


「胡蝶様でしたら、仙丹せんたんをご存知ですよね。」

「―――っ!?」


仙丹。それは大陸から伝わってきた、不老長寿の秘薬のことだ。

鬼だけがその存在を知っており、人間は知らないはずだった。知っていても、ただの迷信でしないと思っていたのだ。

そして、茨木童子。彼は仙丹などに興味はなかったはずだ。

そんな茨木童子が何故、仙丹のことを珀鸚に告げたのか。否、それ以前の問題だ。いつ、珀鸚と茨木童子は出会ったのだろうか。

わからないことばかりだった。



「私は、仙丹を飲みました」

「仙丹を……飲んだ?」

「ええ、貴女と共にいたいがために」


呆然と自身を見る胡蝶に、珀鸚はふわりと淡い微笑みを零した。

そう、既に珀鸚は不老長寿の秘薬を口にしていたのだ。茨木童子と接触した際に。


「私の全ては、貴女のためなのですよ。胡蝶様。貴女が私を遠ざけようとも、私は必ず貴女の元へ戻って来る。」

「………………」

「どうすれば、貴女に分かって頂けるのでしょう。私を貴女から遠ざけようとする藤原一族を皆殺しにすれば、いいのでしょうか?」

「珀鸚!」


咎めるような胡蝶の声が響く。

そんな胡蝶に、珀鸚は申し訳なさげに目を細めながらも、口元だけは弧を描いていた。

珀鸚が狂気を秘めていることはわかっていた。しかし、親族を殺すなど、冗談でも笑えない。

それが自身と共に在りたいから、などという理由では余計に駄目だ。

―――何故、珀鸚はわからないのだろう。

胡蝶が彼を手放す理由は、彼のためであるというのに。


「わたしはお前を自由にしてやりたい。お前はこんな山奥にいるべき人間ではないんだ。」


だからこそ、胡蝶は珀鸚を藤原へ返す。

今は望まなくとも、いつの日かそれが日常になるはずだ。

それまでは、自分はこの山奥の屋敷に引きこもっていようと、胡蝶は考えた。

しかし、珀鸚の口から出たのは、予想だにしない言葉だった。



「では、私に嫁いで来て下さいますか?」

「……何を言っている?」

「貴女が私に嫁いで下さるなら、藤原へも帰りますし、山奥からも出て行きます。勿論、貴女も一緒ですが。」


それが珀鸚にとって最大限の譲歩だった。

本当は十年間過ごしてきた胡蝶の屋敷を離れたくはないが、胡蝶が共に来てくれるのであれば、藤原の屋敷に戻ってもいい。

そんな珀鸚の言葉に、胡蝶は驚愕の眼差しを珀鸚に向けた。

彼は何を言っているのだ。人間が鬼を娶るなど聞いたこともないし、そんなことは世間体が許さないだろう。


「いいですよ。私に嫁ぐのがどうしてもお嫌であれば、私はこの屋敷に居座るだけです。どうせ、貴女の力では私を追い出すことも出来ますまい。」


人間であるが、珀鸚は男。純粋な腕力では、胡蝶の方が圧倒的に弱い立場にある。

そんな珀鸚が、胡蝶の意思を無視してこの屋敷にいるというのであば、胡蝶はどうすることも出来ないのだ。



「―――っ!?」


その刹那、胡蝶の身体が珀鸚の腕に包まれる。

珀鸚の満足そうな視線が、胡蝶を撫でた。その視線に、明らかな恋情と執着を灯して。

そんな珀鸚に、胡蝶が目を見開いたその刹那、胡蝶の項に手刀が落とされた。

ふっと、胡蝶の身体から力が抜け、珀鸚に全ての体重を預ける。そんな胡蝶の身体を、珀鸚は受け止め、軽々と横抱きにした。


「ふふ、胡蝶様。もうこの腕から逃しません。」

「………………」

「貴女は私の妻となり、長い時を私だけと過ごすのです。」


気を失った胡蝶は、珀鸚の呟きに答えることはない。

何も言わず、瞳を閉じている胡蝶の長い髪に指を通し、珀鸚はその髪を一房掬い、口付けた。

髪への口付けの意味は思慕。しかし、珀鸚の想いはそんな単純な言葉で言い表せないものだった。

―――このひと以外、何もいらないのだ。

巨万の富も、絶世の美女も、朝廷での地位も、何も珀鸚には必要ない。

ただ、胡蝶が自身の腕にあればいい。それを邪魔する者は、何であっても排除する。


「ですが、この屋敷で過ごすことは難しいですね。」


既に胡蝶は、藤原に珀鸚を返すと言ってしまっていた。

ならば、近い未来に再び使者が訪れるはずだ。四ノ姫を伴って。

そしてまた、胡蝶もこの屋敷に留まっていれば、いつ珀鸚を置いて去るかわからない。


「申し訳ありませんが、この屋敷は出ましょうか。胡蝶様。大丈夫、もう次の住処は手配してありますよ」


珀鸚の貌が微笑みを浮かべる。胡蝶だけに向けられるその笑みは、慈愛にあふれたものだった。

しかし、目蓋を閉じた胡蝶がそれを知る術はない。



「では、行きましょうか。私達だけが在る、私達だけの空間へ……」


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