2 唱える人
竹内の死とともに、時間は無限に引き延ばされる。
あらゆる物音は消え、あらゆるものは動きを止めている。
静止の世界で、黄金の仏像はいまだに光り輝くことをやめない。
竹内にとって、仏像はリビングの巨大な置物でしかなかった。
いや、それ以下、ナイターを観る上での障害物でしかなかった。
だが、竹内は死んだ。仏像の足下にひれ伏すがごとく倒れた。死によって初めて仏像を見た。今や、竹内は仏像を直視していた。
凄まじい存在感を受け、圧倒される。
なんと巨大で眩しい像なのだろう。他に類を見ない、仏像だけが持つ迫力。
世の心理を悟り、人々を苦界から救って、悟りへと導いてくれる仏の像。
竹内を含むあらゆる衆生を、彼岸の彼方である済度へと連れてくれるのである。
実に壮大ではないか。何かウラがあるのではないか、竹内は勘ぐってしまう。
儲け話には何かウラがあるもの。長年ビジネスマンをやってきた人間として、竹内は第一に疑いを持つようになっていた。
竹内は疑惑の目で仏像を見上げる。
だが、仏像は動じない。半眼のまま、慈恵の表情をたたえ、あらゆるものを包括しようと立っている。
立派な姿である。
それなのに、竹内はそんな仏を信じることができなかった。
仏の尊い教えなら知識として知っているし、敬意もはらっている。
だが、信じて、心を預けるとなれば話は別だ。
仏像を見ているだけで、無数の疑問が湧き起こる。何をするにしても心は揺れ動いて定まることがない。死してなお、泰然の境地とはほど遠い。
心が、疑いを吐き出すように設計されているとしか思えない。
こんな心境で、数字に表すこと能わないほど長く功徳を積み、無限の知恵と光を持つ仏に帰依することができようか。
難しい。これほど難しいことはないだろう。竹内は思う。
だが、竹内がどれほど思い悩み、苦しもうと、頭上の阿弥陀仏はそこに立っている。
全き笑みを浮かべて、そこにある。
なんと奥深いことか。とても真似できたものじゃない。
自分はといえば……。イヤな上司だの、ナイターが観れないだの、くだらないことで狼狽える自分との格の違いは決定的である。竹内は自分の弱さ、惨めさを思った。
竹内が惨めさに苛まれても、阿弥陀仏は微笑み、立っている。
自分のような凡夫が自力で到達し得ない境地への高みを体現してくれている。指針として、指標として、ガイドとしていてくれる。
真っ暗なトンネルの中の、救いの光なのだ。これほどありがたいことがあろうか。
竹内の感じた感謝に偽りはなかった。疑いの念も消えていた。
仏教は、仏の教えを一人でも多くの人が受け入れることを目的としている。それに疑いを挟むこともバカバカしい。
仏の光は平等なのだから。
静止していた竹内の時間が、軋みをあげて再開する。
竹内を死へと向かわせていた苦しみが消えていた。
自身の絶対的な無力さを理解することで、胸のつかえがとれたらしい。
ずいぶんと多く背負い込んでいた肩の荷が溶けて消えたように、楽になっていた。
竹内は仏の足下で身を起こす。
その面もちは穏やかで、清らかだった。竹内は身を正し、改めて仏像を見上げる。
念仏が独りでに口から流れた。
念仏なんて、子供の頃、近所の寺で聞いて以来だ。それなのに、よどみなく口から出てくる。深層意識に刷り込まれていたのだろうか。
あるいは、念仏とは遺伝子に書き込まれているのかもしれない。
どうでもいいことだ。仏の教えを、浅はかな人の理で解ろうと試みるのもつまらないこと。竹内は、ただ念仏を唱え続けた。
「あなた、今夜は酢豚よ」
妻の声が台所から聞こえていた。