1 疲れた人
今日もまた、疲れた身を引きずり、竹内は帰る。本当に疲れていた。体は自分のものとは思えないほど重い。早く帰って体を休めなければならない。
もう随分長いこと、刺激もやりがいもなく、ただ疲れるために働いている気分だった。これが、額に汗することを嫌う月給取りの末路か。竹内は思った。
いいや、頑張らねば。ローンはあるし、自分が一流のビジネスマンだという矜持もあった。働いて働いて、成果を上げなければならないのだ。
それにしても、今日は特に仕事がしんどかった。
上司の奴、家で何かあったらしい。機嫌の悪い上司の奴は、十時間かけて竹内を、ねっとりと嬲るように苛め続けたのだ。指一本触れないながら、極度のストレスで竹内を殺そうとする試みにすら感じた。
何とか生きて職場を出たが、とんでもなく疲れた。
竹内はくさくさした心持ちで煙草に火を付ける。
医者から煙草はやめるように言われていた。煙草は糖尿病を悪化させるらしい。だが、もうそんなこともどうでもよかった。それぐらいは腐っていた。
「……もう長くないかもしれないな」
竹内は煙を吐き出しながら、呟いた。死期を悟った人間の口調だった。
煙草が灰になるのを見つめる。煙草が短くなっていく様が、自分自身の末路と重なる。自分は燃え尽きようとしている。
自分は、きっと来月までもたずに死ぬのではないか。漠然とそう思いながら煙草を灰皿に放った。喫煙スペースを出て、満員電車で帰途についた。
疲労困憊のていで自宅のアパートに戻り、リビングルームに入る。
竹内は、ぎょっとして立ち止まる。見ず知らずの奴がいたのだ。
「誰だ!」
竹内は跳び下がりながら怒鳴る。ビジネスバッグを盾にしようと、両手で構えた。
そいつは、リビングルームの中央で悠然と立っていた。
巨漢だ。身長は天井に頭が擦るほど高い。
しかも、全身が金色に光り輝いている。ただ者ではない。
竹内の騒ぎようにも関わらず、そいつは微動だにしなかった。黄金の巨漢は泰然と立っていた。
ふいに、竹内は悟る。
この金色の巨人は、仏像なのだ。
「仏像? ……なぜ俺のリビングに?」
「あなた、お帰り」
妻がエプロンで手を拭きながら、台所から出てきた。
「お仕事はどうでしたの?」
「い、いや……仕事は問題ないんだ……」
「まあ、それはよかったわ」
「と、ところでこの仏--」
「そんなところで立っていないで、スーツぐらい脱いでくださいな」
「あ、ああ」
竹内はクローゼットの前でスーツを脱いだ。
「ねえ、あなた、実は、今日、すごいモノを買ったのよ」
夫のネクタイを外すのを手伝いながら、妻がとっておきの甘えた声を出す。
「仏像でも買ったのか?」
「すごい。よく分かったわね。千里眼ね」
妻が感嘆した。
「あれは何だ?」
「阿弥陀如来像よ」
「ただでさえ狭いリビングに、あんな巨大な仏像だなんて、何を考えているんだ?」
「だって、安かったんですもの」
妻は口をとがらせて、勝手な言い訳をこねた。
竹内は仏像の値段を尋ねなかった。仏像の相場を知らないので、高いのか、安いのか判断できないのだ。
どのみち、竹内の稼ぎは妻の管理するところであった。
「ご飯? それともお風呂?」
「疲れているんだ。休ませてくれ」
竹内は言った。ナイターを観ようと、ソファの上にごろんする。
だが、阿弥陀如来像がテレビとソファの間に据え置かれていたため、テレビは全く見えなかった。
しかも、いまいましいことに光り輝く仏像は、リモコンから発する電波すら反射してしまうらしい。ソファからテレビを操作する方便はなかった。
「阿弥陀如来は、極楽浄土を司る仏様で、念仏を唱えれば浄土に生まれ変わることを保証してくれるのよ」
台所から妻の声が届く。
「そりゃすごい」
竹内は、相槌を打ちながら、仏像をずらそうと抱え込んだ。
仏の尊い教えなら知っているし、敬意も払っている。だが、今はナイターが観たいのだ。仏像はどかさなければならなかった。仏像が巨大なため、子供が大人と相撲をとっているような構図となる。
「阿弥陀如来の手の印である、印相には九つも種類があるそうよ」
「そうか」
竹内は全身に力をこめる。だが、仏像は動かない。竹内の全身の筋肉が膨れ上がる。顔が真っ赤になる。それほど力を込めているのに、仏像は動かない。
恐るべき重量でもってして、がんとして床から離れようとしないのだ。
「ねえ、あなた。私、九種類の阿弥陀如来全部を集めようと思うの」
妻の声が言った。
「言い考えだ」
竹内は肩で息をしながら言った。
少し遅れて、妻の言う意味を頭で理解した。
九種類……九種類!?
それはビジョンとなって、竹売りの脳裏にありありと描かれる。
九種類! この狭いリビングに、仏像が九つ並ぶことになるのだ。
もはや、くつろぐ以前に、足を延ばすスペースもないだろう。リビングは仏像に占拠されてしまうのだ。そんな狭さ、耐えられない!
自分の、ただ一つの、くつろぐことのできる空間が奪われようとしていた。
竹内の動悸が速まる。
「うっ!」
竹内の背中に激痛が走る。いや、背中だけではない。全身のあらゆる関節が悲鳴を上げている。
もうダメだ。
竹内は悟った。
仏像がリビングに来たという事実は、ストレスと疲労でボロボロになった身には重すぎた。竹内の許容できるレベルを越えてしまった。
今、自分は死ぬのだ。竹内は理解した。
圧倒的存在感を誇る仏像の足下に、竹内は倒れ伏す。
ゆっくりと、竹内の心臓の鼓動が弱まっていく。
そして、死がやってくる。