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淡い微睡みとその彼方に

作者: 三宝 雄介
掲載日:2011/10/31


人魚……上半身が女身で、下半身が魚の形をしているという想像上の動物。マーメイド。

 





 「ううん、聞こえるわ。波の音も、かもめたちのおしゃべりも、母さんがよく口ずさむあの歌も。ぜんぶ、ぜんぶ。本当は白海君にも聞こえるはずなんだよ。ただ、正しい耳の澄まし方を知らないだけ。」


 空は相変わらず曇っていた。ずっとここで懐かしい音を、切ない調べを、聞いていたかったけど、じわじわと近付く雨の気配にかきけされて、遠い海の音はやがて聞こえなくなった。私の手は、やっぱりわずかに震えていた。

 「もう、いこうか。」


 白海君が静かに言った。声が、さらに遠くなる。

 


白海君と別れてひとりで歩いて帰る。送ってくれると優しい彼は言ってくれたが、断ってしまった。今は、一人がいい。今の私の感情を、彼はきっと理解できない。自分ですら、今私がどんな感情を抱いているのか分かっていなかった。ただ、何かが私を締め付けて、その何かに私は怯えていた。それと同時に、その何かに縋りたい気持ちもあった。ぐちゃぐちゃな思いが心をかけめぐる。こんな気持ちになるのは初めてで、どうしたらいいか分からなかった。持て余したセンチメントのせいで、私は感情の迷子になっていた。

雨は降りそうで降らない。あの日を思い出す。あの日も、今日と同じような、嫌な曇り空だった。






 私は初めて感じる「足」の感覚に驚いていた。「足」というもの自体、初めて見るものだから、歩くという行為自体初めてだから、すべてが新鮮でどきどきしていた。

 昔から、人魚は16になると人間として陸の上で過ごさなければならない掟だった。そして、1年後の17歳の誕生日、また人魚として海に戻ってくることにいる。それはずっとずっと昔、母さんが若かった頃よりもうーんと前に、海の魔女と陸の人間が恋に落ちて、二人の愛から生まれた呪いだって、ばば様は言ってた。17になったら必ず海に戻らなければいけないのだけど、人間としてずっと陸の上で過ごすこともできる。もちろん、そのためにはある条件を果たさなければならないのだが。アケミ――私と同い年で私よりも半年先に陸にあがっていった幼馴染――は、人間になるためにたくさんの努力をしていた。「早く16になって、人間になりたい」。そういつも言っていた。アケミは、陸の上はいろんなものであふれていて、わくわくして刺激的で、とても楽しい世界だという。海の中は退屈で、何もなくてつまらない、と。私はそうは思わない。水底から見上げる太陽の眩しさとか、波や魚のうろこに反射した光がゆらゆらと柔らかいカーテンのようにゆれるのを見るのは、とても美しく幻想的で、永遠と眺めていても飽きることなんてない。アケミが口ずさむ、陸の上で流行っている歌よりも、波の音やウミネコの声、母さんが歌ってくれる唄の方が、私にとっては魅力的だった。幼い頃から、私とアケミは違う感覚を持っていた。彼女は、派手できらびやかなものを好むが、私はどちらかというと地味で儚げに光るものが好きだった。彼女はいつも私に疑問を持っていた。確かに、たいてい私ぐらいの年頃の人魚は陸の上に興味をもち、未だ見ぬ世界に想いをはせるらしい。母も、私のあまりの興味のなさに驚いていた。私の一番上の姉は16で陸の上に行ってからずっと、海には帰ってこない。つまり、アケミが熱望する人間になれたのだ。

姉さんはときどき海に私たちに会いに来てくれるが、確かに彼女は、とても幸せそうだった。人間として陸の上で生きるということは、海の中でただ悠久の時を過ごすことよりも、幸せで意義のあることなのだろうか。

 私は、姉さんがこの日のために用意してくれていた服に身を包み、なれない足で彼女のあとを付いて行った。私はその日から一年間を姉の家で暮らすことになった。母やばば様は私が姉のところに住むということにとても安心していた。

電車というものに2時間ほど揺られ、姉の住む家についた。そこは、とても綺麗で明るくて暖かかった。姉の家族は優しく私を出迎えてくれた。その日の晩餐は、初めて出会った人たちとであったが、なにか満ち溢れたものであった。人間が、暖かいものであることを知り、私は大いに安心し、ほんの少しだけ、この世界を好きになった。それでも、寝る時にあの深海のゆらぐ月明かりを思い出し、切なくなった。「母さん」。小さく呟いた声は、海の中とは違って、ちっとも響かなかった。






 あくる日、登校するときに白海君を見つけたが、声はかけなかった。彼も、こちらに声をかけようとはしなかった。昨日の曇り空はやはり雨をよんでいて、朝から冷たくざあざあと音を立てて降っていた。授業はどれも退屈で、早く放課後になればいいと思った。教室内で一番いい席、窓際の一番後ろを陣取る白海君をそっと盗み見る。彼は、相変わらずじっと空を見ていた。灰色一色でぬりつぶされたつまらない空。授業が退屈なのはいつものことであったが、見えないなにか、まるであの嫌な灰色のどっしりとした雲のようなものがのしかかっているような感じがして、なおのこと授業をきくことがしんどく感じられた。

 放課後。さまざまな声が飛び交う中私は一人椅子に座ったまま目を閉じていた。幾分かたった後、教室から音が消え去る。目をあけるとほとんどすべての生徒が帰ってしまっていた。校舎のどこからか、筋トレをする運動部の掛け声がかすかに聞こえる。横には、さっきまで空を見ていたはずの白海君がいた。


 「起きた?」

 「…、もともと寝ていたわけじゃないの。それよりも、白海君いつのまに私の隣に?さっきまで、ずっと、あの退屈な空を眺めたのに。」

 「俺が空を見ていたのは、6時間目のことだろ。やっぱり寝ていたんじゃないか。」

 「そんなこと、ないよ。ただ周りを見てなかっただけ。」

 「それってつまり、寝ていたとおんなじことだと思わない?」

 ちょっとだけ意地悪な顔をして、笑いかける。少し癪に障るからふいと顔をそむけ時計をみた。

 「うそ、もう5時半なの。」

 「ほら、時間がたつのも気づかないくらい熟睡ってわけだ。とにかく、帰るぞ。」

 「もしかして、待っててくれてたの?」

 「もしかしなくてもな。雨、どんどん強くなってるから、急ぐぞ。」


 彼は立ち上がり私を見下ろした。薄暗い教室で、白海君の顔はよく見えなかった。昇降口で靴を履き替える。見ると、確かにバケツをひっくり返したような激しい雨になっていた。天気予報を思い出す。たしか、今日の夜に台風がここらへんを通過するとか。通過するということは台風の目を通るということじゃないのかしら。台風の目は、晴れているものじゃないのかしら。私には、よくわからない。

 「聞いてるか?天草の傘って、これだよな。」

 白海君がほとんど傘の入っていない傘立てから傘を一本ひっぱりだして聞く。それよ、と答えようとしたが、よく目を凝らしてみるとそれは私のものではなかった。


 「天草?」

 「それ、私のじゃない。私のは持ち手のところが桃色なの。よく似てるけど、違う。」

「じゃあどれだよ」

 「どれかな…。」


 少ない中から探すのは、簡単だろうと思っていたが、見つからない。白くて猫のステッチがあり、持ち手が桃色。しかし、その傘は見つからなかった。あきらめてため息をつく。


 「持って行かれたな。傘忘れたやつがいたんだろう」

 「ひどい。あれお気に入りだったのに。」

 「とりあえず、今日は一緒に入って帰ろう。」


 彼はそう言って、手招きをした。一瞬、ドキッとする。男の子と一緒に傘に入ることは「相合傘」といって、特別なことなのではないのか。好き同士の者たちが行うものではないのだろうか。ためらっていると、白海君が口を開いた。


 「ほら、帰らねえの。」


 私はいくらか躊躇したのち彼の傘の中へと入った。白海君の傘は、大きくて、だけど色はどんよりとした紺色だった。


 「ねえ。」

 「なに。」

 「なんで白海君は、私と仲良くしてくれるの。だって、私はもうあと半年しかここにいないんだよ。どうせいなくなっちゃう私と仲良くしてもしょうがないじゃない。」

 「もうじゃなくて、半年も、だよ。それに、いつかいなくなるのは、お前だけじゃなくてみんな同じだろ。」

 

ここに初めて来たときは咲いていた桃色の花、桜も、今は散って青々と葉をゆらしている。半年よりも多い日数が私には残っていたが、すでに私は退屈をしていた。海の中の方が、ずっとずっと楽しかったじゃないか。ずっとずっと綺麗だったじゃないか。何も恐れるものはなかったじゃないか。

 だけど、頭のどこかで「それは違うでしょ」と私が私をたしなめる声が聞こえていた。頭をふって、その声を消そうとした。



違くなんかない

 違うでしょ

 そんなこと、ない。ママやばば様のいる家が恋しいの

 違う。本当は怖がっているだけでしょ

 何も怖いものなんてない

 怖いんだよ。それが何かを知ることが怖い

 怖くない。これ以上は聞きたくない

 ほら、やっぱり怖がってる

 違う!



 白海君が立ち止った。顔をあげると、もう私の姉の家に着いていた。動こうとしない私に、どうしたのかと、白海君が顔を覗き込んだ。高鳴る鼓動。私は、私は。



 違う

 違くない

 違う

 違くない

 違う!



 「天草?」

 「なんでも、ない。送ってくれて、ありがとう。」

 「別に、これくらいたいしたことじゃないよ。あと、俺はお前と仲良くしたいと思ったからそうしてるだけだ。あと半年しかいられないとか、そんなの関係ないし、俺は別にそれが重要だとは思わない。まあ、そういうことだ。」


 白海君は、笑った。胸が締め付けられる。違うのに。違う、のに。声が、響く。遠く、なる。



 「おかえりなさい。あら、傘は?」

 「誰かにとられちゃったの。」

 「まあ、ひどい。じゃあどうやって帰ってきたの?全然濡れてないみたいだけど。」

 「友達が、送ってくれた。」

 「ああ、そうなの。よかったわね。今度ちゃんとお礼言っておきなさいね。」


 姉はふわりと笑い、キッチンの方へと戻って行った。彼女の声やしゃべり方は、母とすごく似ている。また胸が苦しくなる。それは、白海君といたときに感じた苦しさとはまた別のものだった。



 夕御飯を食べ終えお風呂に入り、自室へ戻る。この前、白海君からもらった『人魚姫』の絵本を開いた。もらってから、もう幾度となく読んでいる。私は、寝台の上でゆっくりとページをめくった。

海でおぼれていた人間の男に一目惚れをして彼を救った人魚の少女。彼に会うために、人魚は海の魔女と契約して、声とひきかえに人間の足をもらう。しかし念願の地上に出たれたのはいいものを、歩くたびに激痛がはしり、声が出ないために自分が彼の命を救った恩人であることを伝えられない。あげく彼はほかの娘と婚約をしてしまう。人魚の少女の姉たちは彼女に一つの剣を渡し、男の血を得ることによって人魚に戻ることができる、と伝え少女を助けようとする。しかし、人魚の少女は彼を殺すことなどできず、海の泡となって消えてしまう。

 なぜこんな悲しい話を人間は考え出したのだろう。見た目が少し違うというだけで、生活する場所が少し違うというだけで、あとはほとんど人間と同じだというのに、なぜ人魚はこんなにつらい思いをしなければならないのだろう。もちろん、私は人間として過ごしているが歩くたびに激痛が走ることもないし、声だってちゃんと出るし、泡となって消えることもない。激痛と声を失うことを代償にしてまで、彼女が彼に会いたかった理由は何なのだろう。何故彼とそこまでしてまで結ばれたかったのだろう。なぜそんなに苦しい思いをしてまで彼女は彼を殺すことができなかったのだろう。彼を殺して人魚に戻った方が、激痛と泡となって消えてしまうことよりも、恐ろしかったというのだろうか。

わからない、私には。きっと人はこれを「愛」と呼ぶのだろう。ちらりと、心のどこか脳の奥らへんに、一瞬だけど白海君が浮かんだ。ぼんやりと、だけど声だけは鮮明に聞こえた。彼は、私にとって一体どういう存在なのだろうか。彼の存在は、私にどういう影響を与えるのだろうか。彼がいることで、私は何かを得るのだろうか。それとも、何かを失うのだろうか。

わからないことだらけだ。陸の上には難しいことが多すぎる。今まで私が住んでいた世界では、全てが単純明快で、何も悩む必要なんてなかった。ただ、静かに毎日が過ぎて行くだけだった。白海君なら、教えてくれるだろうか。彼は、私が求めている答えを知っているのだろうか。




 朝、カーテンの隙間から除く朝日で目が覚める。目覚まし時計は、まだ鳴っていなかった。嫌な予感がした。見たくない現実が目の前に横たわっている気がした。それでも、一度覚醒してしまった脳をもう一度眠らせることはできなかった。のろのろとリビングへ降りると、朝食の準備をし終えて食卓に座っていた姉が悲しい顔をして言った。


 「おはよう。」

 「おはよう、姉さん。…嫌な知らせなのね。」

 「ええ。落ち着いて、聞いてね。アケミちゃんが、泡になってしまったわ。」


 リビングには私と姉しかいなかった。突然のことに絶句して姉を見つめる。私の予感は当たっていた。アケミが、泡になってしまうなんて、そんな。そんなこと。私の心を読んだかのように姉は言う。


 「私も初めは信じられなかったわ。でも、本当のことなの。ああ、きっともう明日には私たちの記憶からも消えているわ。」


 茫然としたまま姉を見つめた。姉はただ首を振るだけだった。ショックすぎる出来事に、私は特別に学校を休むことを許してもらった。ゆっくりと自室へと引き返して、自分の寝台に腰かけた。

 人魚は、17になる前の夜までに海に戻らなければならない。その掟をアケミは破ってしまったのだ。なぜ戻らなければならないのかというと、人間に自分たちの正体がばれてしまうと泡となってしまうからだ。人間の姿でいられるのは16歳の誕生日から17歳の誕生日の前日まで。17歳の誕生日になった瞬間、私たちの体は人魚に戻ってしまう。そして、人魚の姿を人間に見られた者は泡となって消えてしまう。そして一週間とたたぬ間に、人間だけでなく同族の私たちの記憶からも泡となって消え去ってしまう。存在の消滅とは、なんという残酷な罰だろう。こうしているあいだにも、アケミと幼いころ海の中で過ごした記憶が少しずつ消えていっているのだ。あの、誰よりも人間に憧れていたアケミが、泡となってしまうだなんて、信じられない。信じたくない。「掟破りの掟」が本当だったなんて。ただのばば様達の脅しだと思っていた。アケミを忘れてしまう私が怖い。何より、私もそうなってしまう可能性があるというころが怖い。どうして、人魚は不幸になる運命なのだろう。どうして陸に上がった人魚は幸せになれないのだろうか。机の上に置いたままの「人魚姫」の絵本を見やる。彼女は愛ゆえに泡となった。それじゃあ、アケミは何のために泡となったのだろう。彼女が安房になったことに、何か意味はあるのだろうか。でも、そんなことはどうでもいい。ああ、考えるのが億劫だ。どうして、私たちは、人魚は。ああ、どうして。ふと頬を伝う涙。アケミ。大事な大事な友達。対照的な私たちであったが、私は彼女が大好きだったし、信頼していた。人間になることをあんなに楽しみにしていたのに。望んでいたのに。残酷な仕打ち。彼女がいったい世界に対してどんな災厄を及ぼしたというのか。泡となって消えてしまうほどの禁忌を犯したというのか。ああ、どうして。どうして。





 気付くと、部屋にかかった時計は5時を指していた。いつのまにか、半日ほど眠っていたらしい。鏡を見ると涙の跡がうっすらと残っていた。アケミ…。小さくつぶやいた。すでに彼女との記憶は半分ほど消えているのを感じた。彼女の声すら思い出せなくなっていた。そのことがまた私を苦しくさせ、一粒の涙をこぼさせた。その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。


 「だあれ。」

 「私よ。お友達が心配して来てくれたんだけど…、どうする。部屋にあげる?」

 「それは、誰?」

 「白海君ですって。もしかして、ボーイフレンド?」

 「ただの友達よ。そうね、白海君なら上がっても構わないわ。」

 「わかったわ。」


 数分して、姉が飲み物とお菓子を、白海君が授業のノートなどをとって部屋に入ってきた。姉はすぐに出ていいたが、白海君は用意した座布団の上に腰を下ろした。


 「今日はどうしたんだ。風邪…ではないようだけど。」

 「友達が死んだの。」

 「そう、か。…、ごめん。」


 白海君は気まずそうに顔をふせた。私はかぶりをふる。


 「いいの、もう私も彼女のことは忘れかけているから。ああ、死んだというより、消えたというべきなのかな。」

 「どっちも同じじゃないのか。」

 「そうね、どっちも同じ。でも。でも、記憶からどんどん、それはもうすごい速さで彼女が消えていくの。ええと、名前は…。そう、アケミ。ほら、名前すらこうやってすぐに出てこなくなった。私にとってとても大切な友達なのに。ああ、もう本当に親友だったかさえ定かでないの。どうしたら、彼女を忘れないでいられるの。私はアケミを忘れたくない。アケミといた日々を無くしたくない。だけど掟は絶対だわ。明日にはもう彼女のことなんか全く思い出せなくなっている。いやよ、そんなのいやだ。アケミ、っ。私はアケミが大好きなのに。アケミが教えてくれたさまざまな事、一緒に過ごした日々、おしゃべりしたこと、全部、全部もともとなかったことになる。こうして流れる涙もこの感情さえ消えてしまうなんて。そんなのおかしい。ひどいわ。残酷だわ。」


 一気にしゃべって、頬を伝う涙は数知れず落ちる。取り乱した私の肩を、静かに白海君は抱いた。私はためらうことなく彼にすがり、声を出して泣いた。


 「今日死んだばかりなんだろう?そんなすぐに忘れることなんてありえないよ。」

 「ううん、忘れちゃうの。だってもうアケミの声も顔もわからない。あんなにたくさんおしゃべりして、遊んでいたのに。あんなに大切な友達だったのに。本当の姉妹より仲良しだったのに。」

 「…、よくわからないけど、忘れたくないなら何か紙に書き残しておけばいいんじゃないか?」

 「紙、に…?」

 「そう、覚えてる間に、忘れたくないことを書き綴ればいい。そしたら、すべて忘れてしまっても、それを見れば思い出すことができる。」

 「それは、いい提案だわ。」


 私は急いで使っていないノートを取り出した。アケミ、とはじめに名前をかいた。そして彼女との思い出を書ける限り書き綴った。涙でノートの文字がにじむ。彼女を思い出すのは難しかった。それほどまでに時間は私を蝕んでいた。

人魚が不幸になるのは、いつだって陸の上。私たちは、やはり陸から歓迎されていないのではないだろうか。神はきっと私たち人魚が陸へあがることを赦していないのではないか。タブーだったとして、どうして罰があると知りながらも私たちは陸を望むのだろうか。海という安全で平和な世界を捨て、人間と共に暮らすことを願うのか。アケミを綴りながら思う。そして、隣にいる白海君の暖かさがきっと答えなのだろうとも思う。それは、認めたくない事実でもあった。彼の存在が、だけど私の陸に対する意識を変えてくれたのは確かだ。白海君は、私が人魚であることを忘れさせる。そして、彼と別れると自分の正体を思い出し悲しくなる。この気持ちは、一体何なのだろう。

 ノートを半分ほど埋め尽くしたところで、ペンを持つ手を止めた。いつのまにか流れていた涙は、暖かかった。


 「書き終わった?」

 「うん。」


 私はそのノートを机の引き出しの中へとしまった。いつかそれを開く時、私はもう彼女のことを忘れているのだろう。それでも、その紙にアケミの記憶は残っている。いつか開くとき、アケミはまた生き返る。振り返ると、白海君は優しく微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、彼女とずっと前に話したことを思い出した。



 「恋よ。人間は『恋』というものをするの。」

 「こい?」

 「そう。誰かを愛おしいと想う気持ちのことを指すんだって。恋は、素晴らしいものなんだってさ。」

 「そう、なんだ。」

 「まあ、アンタみたいなお子ちゃまには分からないかもね。」

 「アケミはわかるの?」

 「ええ、当然よ。誰かを恋しく思って、その人のことを考えると切なくなって胸が苦しくなって…。だけど、一緒にいるとぽかぽかして話せるとうれしくなって。そういうものよ、恋って。素敵な感情よ。誰かを好きになるってとても神秘で綺麗なことだわ。私も早く陸へ行って恋をしたいわ。」



 アケミの言葉は綺麗に思い出せた。恋…。白海君を見つめて、彼女との会話を反芻する。「切なくなって胸が苦しくなって…。」白海君の瞳は私をどこか安心させるものがあった。アケミ…。小さく呟いた。そして、もう一度彼を見つめた。彼女が教えてくれた「恋」の正体、私が白海君に抱いている感情。そのどちらもが同じであることに、私は、今、気付いた。

 その発見は、夕焼けの赤よりも鮮明に私の頭の中を駆け巡った。新しい感情の名前を知ったことで、私の世界はさらに色を増した。音が増えて、輝きを増した。彼は優しく私を見つめる。ああ、この感情は、この輝きは、恋と呼ぶのだ。母さん、私は今、恋を知ったのよ。姉さん、恋って、海の中の真珠よりも光り輝いて、珊瑚よりも儚くて美しいものなのね。二人きりで私の部屋にいるだけなのに、どこからか波の音が聞こえる気がした。私は立ち上がって白海君に言った。


 「海にいこう。」

 「今から?」

 「そう、今から。」


 私は帽子だけ掴んで部屋を出て階段を駆け降りた。白海君は慌てて私を追いかけて、靴を履き終えドアノブに手をかけたところで姉さんに一言言ってから家を飛び出した。

 外は、朝の曇り空が嘘のように晴れ渡っていた。日没する前に、海へ。早く海へ行きたい。足が、まるで自分のものになったかのように軽かった。今までの違和感が消え、走るということの爽やかさを感じた。走馬灯のように街の景色が流れていく。姉さんが得た感情、アケミが叶えられなかった夢。私は街を走り抜ける。いろんな人が私を不思議そうに見るのさえ気にならなかった。むしろ、周りの人たちにもこの感動を分かってもらいたいくらいだった。

 海へつくと、ちょうど太陽が海へ落ちるところだった。間もなくして白海君が私の隣に走って来て、息を整わせ始めた。私は、一回深呼吸してから、お気に入りの唄を歌った。あんなに大好きな唄だったのに、どうしてここに来てから一度も歌わなかったのだろう。うんと小さい頃に母から教わった唄。それは、私にとって初めての唄であった。歌声は、海の中とは違う響き方をした。かもめが私に合わせて鳴き、羽根を羽ばたかせた。波の音が、良いリズムを刻む。すべてが私の歌う唄と調和していた。海は私の喜びに共感してくれていた。海は私の喜びを理解し、祝福してくれた。白海君は不思議そうに私を見ている。彼が隣にいるという事実が、よりいっそう私の幸福感を満たした。

私は、太陽が沈むまで歌い続けた。それはほんの10分もない出来事だったが、私にとってそれは永遠にも思えた時だった。海との共鳴。それは、ばば様から聞いた言い伝えの一つだった。その話を聞いた時、私は共鳴にとても強い憧れを抱いた。その感動を味わいたいと思った。そして、今。私は海と共鳴している。子供のころ思い描いていたことが、実現しているのだ。とても心地よく、壮大で、寛大なシンフォニー。それは、私が今まで聞いたどの音色よりも神秘的で美しいものだった。


 「今の歌は?」


 歌い終わった私に、白海君は静かに聞いた。紫から紺に変わっていく空。雲がゆっくりと流れる。


 「母さんが、私に教えてくれた初めての唄。思い出したの。貴方のおかげで思い出せたの。」

 「とても、綺麗な唄だね。」

 「大好きな唄なの。ねえ、白海君。私は今新しい感情を知ったわ。とても、素敵な気持ち。それを教えてくれたのも、白海君なのね。」


 私は白海君と向き合った。空は、またたくま闇色に染まっていく。彼の手をとって、ゆっくりと告げた。


 「私、貴方に、白海君に、恋をしているの。」


 驚いたように目を見開いたのが、薄暗闇の中、わかった。そして、彼の頬が朱色に染まるのも。きっと、私の頬も赤くなっているのだろう。それは、些かの羞恥と、興奮だった。何故自分が今、羞恥の気持ちを抱いているのか分からなかった。ただ、触れた指先から、彼の熱が伝わって、私の掌を温めていく。


 「恋。どうして、気付かなかったのかしら。こんなに一緒にいたのに。恋って不思議なものよ。切ないって気持ちも初めて知ったの。ねえ、全部白海君のおかげなんだよ。ありがとう。私、貴方に恋をして、恋ができてすごく嬉しい。貴方に恋をしている今が、とても幸せだわ。」

 「う…。いや、でも…。」


 自分の感情を素直に述べることは、全く難しくなかった。何の躊躇いもなく、すらすらと言葉が出てきた。対して、白海君は、彼にしては珍しく、しどろもどろと何かを呟いた。うろたえる彼の姿を初めて見た。小さく何か呟いた後、深呼吸をして、赤い頬のまま彼は私を見つめた。目が、合う。それは、どの奇跡よりも切なくて至福なものだった。瞳は、私を映している。彼が、口を開く。


 「そんな熱烈な告白、初めてだよ。本でも見たことがない。ていうか、そういうのは普通、男からするものだって、知らないのか?」

 「知らないわ。そうなの?」

 「ああ、普通はね。いやでも、まあ、そんなの関係ないか。」

 「何が言いたいの?」

 「つまり、俺も、君に恋をしている、ってこと。」


 暗闇のはずのあたりが、光り輝いた気がした。彼の言葉が、周りを照らす。私の温度を上げる。彼の言葉が、私を潤す。


その瞬間、私は何かの鎖が外れた音を聞いた。私の中の何かが消滅する音を。今まで私を縛っていた何かから、解き放たれる感覚。やっと自分という存在を手に入れることのできた達成感。そういったものが、すさまじい速度で、私の体の中のあちこちで、花火のように飛び散った。彼の手は、ますます強く私を包み込む。辺りは相変わらず真っ暗だったが、白海君の表情はよく見えた。彼も私と同じ幸福を味わっていてくれていたらいいのに。そう、思った。空には、星が小さく輝いていた。





 あの日から、だいぶ時はすぎた。私は、独り浜辺で運命の日のことを思い出していた。あの時以来、一度も海と共鳴はしていない。きっとあれは、奇跡だったのだろう。奇跡は一生に一度起こるか起こらないかのものなのだ。儚くて、だけど、力強くて、私の存在を変えるほどの、奇跡。

 耳を澄ますと、遠くから波に乗って母の唄が聴こえてくる。懐かしい気持ちになり、そっと目をふせる。もう私は海へと帰れない。帰る必要もない。私には、陸で待っている人がいるから。私を愛する人が、私が愛する人が、陸の上にいるから。母が恋しくなり、ばば様に会いたくなって、海の中の輝きを思い出しても、私はもう海に住む者ではないから。もう、海では生活をする術がないから。私の体は、もうすでに、陸の者へとなってしまったから。


 「ここにいたのか。」

 「白海君。」

 「探したんだぞ、どこにもいないから。家に行ったら出掛けたって言われるし。」

 「探してたの?」

 「ああ。相変わらず、ここが好きなんだな。」


 白海君は私の隣に腰を下ろした。二人で夕日の沈む海を眺める。この光景は、すごくロマンティックだ。日が沈むという情景を、自分が一番愛する人と見るという、素敵な奇跡。彼の横顔は、夕日に照らされてとても綺麗だった。


 「俺は、天草が何であろうと、天草が好きだよ。」

 「それは、ええと。どういう意味?」

 「そういう意味だよ。話すつもりがないなら聞かないけど、俺だって馬鹿じゃないから気付いているよ。天草が普通の人じゃないってことくらい。天草がこうやってときどき海に行きたがるのも、波の音を聞いて切ない表情をする理由も、なんとなくだけど、知ってる。」

 「そっか。知ってるのか。さすがだね、白海君は。」

 「天草がここに来てから、ずっと見てたからな。」

 「そっか。」


 遠くで母の歌が聴こえた気がした。

 私はそっと白海君の左手に自分の右手を重ねてみた。彼の手は、暖かかった。暖かいということが、切なかった。


 「なあ。」

 「なあに?」

 「いなくなったり、しないよな。」

 「え?」

 「本当は一年しかここにいない予定だったんだろ。」

 「最初は、ね。」

 「いきなりいなくなったりとか、しないよな。浜辺で天草を見ると、どうしてもそう思うんだ。半年前、俺たちが互いの気持ちを知る前まで、いつも天草が気付いたらいなくなっているんじゃないかって、もともと住んでいた場所へ帰ってしまうんじゃないかって、不安だった。最近は、全く杞憂だったなって思うんだけど。」

 「私は、いなくならないよ。白海君のそばから、離れたりしないよ。」

 「それは、約束か?」

 「約束でもあるし、事実でもある。もう私には、帰る場所がないから。」


 そう、もう帰る場所がないのだ。私の帰る場所は海ではなく、陸なのだ。私はこうなることを望んでいたのだろうか。だけど、疑問に思って立ち止るのは、何の意味もなかった。考えたら、そこで私は進めなくなる。望んでいたかどうかじゃない。今が、白海君のそばにいる今が、幸せかどうかが大切なのだ。

 そして、その答えは。


 「白海君。」

 「なんだ?」

 「私には、もう白海君しかいないの。それを忘れないで。」

 「天草?」

 「これから先、何があっても私と一緒に居てくれるって、約束して。」

 「それは、逆に俺がしたい。何があってもどこにも行かないって、天草の約束が欲しい。」

 「私はどこにも行けない。貴方から離れられない。だけど、白海君は違う。白海君は、私よりもずっと、ずっと自由だから。」


 悲しく、目を伏せた。そうだ、彼は自由なのだ。私と違って、何に縛られる必要もないのだ。彼の手は、暖かい。それが余計に、寂しさを感じさせた。


 「じゃあ、約束しよう。俺は、これから先何があっても天草から離れたりしない。…、これってまるでプロポーズだな。」

 「私も、一生死ぬまで白海君から離れない。プロポーズでいいの。だって、私たちは一生離れないんだもの。」


 満足げに呟いた私に、白海君は優しく笑いかけた。彼の約束が、とても儚いものだと分かっていたけど、それでも私には十分だった。



 静かに、だけど私を拒絶しながら、波の音は響く。






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