母より生きたが、母ほど生きたか
死後
私の頭を覆っていた全天から垂れ込める、陽が漏れる白い部分は点在するが大部分は暗灰色の黒雲、それが瞬時に消えて青くすっきりと晴れ渡った。
快晴。何年ぶりか。
高空の所どころ青空が透ける薄い白雲なら良かったのだが、低空の厚いどんよりした日光をさえぎる鬱陶しい黒雲だった。何年も憂鬱だった。悩まされてきた。もどかしかった。
母より生きたが、母ほど生きたか
死後
私の頭を覆っていた全天から垂れ込める、陽が漏れる白い部分は点在するが大部分は暗灰色の黒雲、それが瞬時に消えて青くすっきりと晴れ渡った。
快晴。何年ぶりか。
高空の所どころ青空が透ける薄い白雲なら良かったのだが、低空の厚いどんよりした日光をさえぎる鬱陶しい黒雲だった。何年も憂鬱だった。悩まされてきた。もどかしかった。
それが今消えて、この上なく爽快だ。きっと黒雲の隙間から漏れる陽の光が脳の正常機能、黒雲に覆われたところがもんぼれ(呆け)だったのだ。
今は過去を思い出せる。覚えていなかったここ数年も、記憶として引き出せる。
きっと私は死んだのだ。だから頭が元に戻った。これが死だ。今は死後という事だ。
悪くない。
むしろかなり良い。なにせ、もんぼれが治った。生きていた時も自分はもんぼれている、狂っている、と時に認識する事はあったが、死んでみると頭の黒雲の正体が認知症であった事、その上そこから回復した事まで実感できて、もんぼれていた事を確信した。
ここまででも充分に不思議だが、さらに不思議な事に、認知症によって覚えていないはずの記憶さえ探して再生できる。
最初に思い出した、初めて知ったとも言える事は、実は妻のキミは病気で寝たきりだったが、私は認知症である為、キミが怠けて起きて来ないのだと思い込んでいて、怒ったり怒鳴ったりしていた事だ。ひどい事をしてしまった。
しかし、単に認知症という病気を言い訳にして済むのか、あるいは元々の私の思いやりのない性格が認知症によって覆い隠せなくなっていたのではないか。
キミは一年前に死んだ。あの時、私は母の死と混同していた。ある時は妻の死、別の時は母の死だと、何が何だか分からなかった。
キミはどこにいるのか。
会えるのだろうか。私と同じ様に意識を持っていて、私の死を待っていたのか。それとも私に愛想を尽かして、もう会いたいとは思っていないのか。
死の直後の状態は分かったが、これからどうなるのか。
迷信か宗教として言われている事はあるのか。
いつの日にか、動物か植物か人間か何かに生まれ変わるのか。
その前に、生前の行動によって地獄と極楽に振り分けられるのか。
あるいはこのまま孤独に、この意識だけが存在し続けるのか。それなら永遠の時間によって、もんぼれではない、言葉通りの意味で狂ってしまうかもしれない。
待てよ、今は死ぬ直前の、いわゆる走馬灯を見る状態で、脳のあらゆる記憶が一瞬の内に甦り再生されているだけかもしれない。
一瞬の後には、何も無い死の世界に落ち、その時、この意識も消えてしまうのか。
何も無いのであれば死の世界は無いし、無いのだから落ちるも昇るも無い。
私は馬齢を重ねた大正十三年生まれの九十五歳。
九十五年の最後の意識の消滅、死の完成までの猶予は数秒か、数分か、一週間か、ひと月か、さすがに一年は野心的に過ぎるだろう。
今が死の瞬間であってもおかしくはなく、むしろ自然とも言える。残された時間はほんの数秒、あるいはせいぜいひと月。その間に自分の人生の映画を見る事ができそうだ。渡邊直俊製作、脚本、監督、そして主演。
母は七十七で死んだ。
母より長生きしたいと思いながら生きて来て、十八年も長く生きた。しかし、私は母より生きたのだろうか。
年齢にも一定の価値はあろうが、それ以外の、即ち内容としての価値は私の人生にあったのだろうか。
その前に、内容としての人生の価値とは何か。
逆説的な、ニヒルを気取った、否定的な表現はいくらもある。もし人生が全て思い通りに行くなら、その人生には生きる価値も楽しむ価値もない、希望は裏切るが絶望は裏切らない、人は五尺の糞袋、など。
チャップリンは、人生は近くから見れば悲劇だが遠くから見れば喜劇だ、と。
健康に恵まれ長く生きたかもしれない命が、親の都合で中断される事がある。
生まれても、幼くして人生という言葉を知る前に、事故や病気で死ぬ命もある。あるいは犯罪や戦争で、強制的に人生を奪われる人もいる。
各人の堪えられない理由によって、自分で人生を放擲する人もいる。
いや、病気が運命なら事故も運命、犯罪や戦争に遭う事も運命。
自殺も老衰も含めてそれらすべては人生を中断はまたは終了する原因ではなく、死の原因も含めて全体が人生であって、人はそれを受け入れるしかない。
どの様な人生も、つまりどの様な死も、生きた時間の長さ以外は老衰死と何も違わない。
確率は計算のしようもないが、地球に人間として生まれただけでも奇蹟だ。
世界人口が八十三億人。それほど多くの奇蹟があるかと言われるなら、宇宙にある星の数は十の二十三乗個、ひとり当たり星の数は二十四兆個、ひとりひとりが二十四兆個の星の中から地球に生まれたのだ。
生物が生きられる星が地球だけとしても、同じ事。
地球に生まれた、が、幸いにも犬猫ではなく、昆虫でもなく、植物でもなく、人間だった。
人間と動物や植物の人生は比較できないから、動物や植物として生まれた方が幸せだ、という考えは排除する。
生まれた限りは、五体満足でありたい。しかし指の数は見れば分かるが、頭の中はどこまでが満足で、どこからが不満足なのかは簡単に決められない。医学や社会常識で便宜的な区分けはあるだろうが、そこまでだ。
生まれた限りは、生存しやすい環境であって欲しい。
平和で豊かな国家で、愛情深い両親で、望む教育を受けられる条件であって欲しい。
愛あふれる家庭を築き、好きな、あるいはやり甲斐のある仕事を楽しみ、趣味に没頭する。
自由、健康、美酒、美食、ユーモア、社会への貢献、社会からの承認、運、老後に不安のない資産など望めば限りはない。欲望を制御する理性も必要だ。
人生の価値は、しかし他にもありそうだ。
与えられたもの、たまたま手に入ったものだけではなく、手に入れなければならないものの方が多い。
手に入るかどうか分からない老後が手に入ると仮定して、その生活を安定させるには、若いうちの職業を適切に選択しなければいけない。職業の選択範囲を広げるには、必要な教育を受けなければいけない。
良い家庭を持つには、良心、道徳、品格、常識、知性などを身に付けなければいけない。
健康を維持するには、不健康な生活習慣と手を切らねばいけない。
いずれにも努力と忍耐が要求される。しかし残念な事に、必ずしも望む結果が保証されるほど人生は容易ではない。
性格により努力や忍耐を大変な苦痛と感じる人から、それほどでもない人までいる。
性格は生まれ持ったものと環境から形成されるもの、そして変化するものの合成。
人間は大量生産の工業製品ではなく、性格が違うのは当然、むしろ違うからこそ数百万年も生存できたのでもあり、努力・忍耐を得意とする人と苦手とする人の差異をハンディキャップ付与で均質化する事は不可能であり不要。
自分の人生にどれだけの意味を与える事ができたか、自分の人生は自分にとって価値があり、自分を満足させる事ができたか、それが、それだけが大切だ。
他人の人生は自分の人生を測る為の基準ではなく、参考資料に過ぎない。
自分に与えられた遺伝子と環境において、自分ができる限りの努力と忍耐で何を実現したか、それが人生の価値だろう。
運、これはどうか。
幸運と不運、いずれも人生に大きく影響する。与えられた環境も運だ。どこの国に生まれるか、どの様な親を持つか、若くして大病や事故などに遭うか。
運は与えられるものだから、人生に影響は及ぼすが、人生に価値を持たせるものは挑戦する勇気や強固な信念なども含めた広い意味での努力と忍耐であり、運は人生の価値から外す。
運の代わりに感動や誇り、成長や自律などの精神活動も人生の価値に含めよう。
自分で判断し、選択し、挑戦できる自由は最初から最後まで与えられていて欲しいが、自由を得る為に努力や忍耐、さらには戦いが求められる事もあるだろう。
人生の価値、意義は複雑だ。
死ぬ時に後悔したくない、という言葉がある。
だから人生のどこかの時点で、努力なり忍耐を開始する人がいる。
それをせずにただ自堕落に過ごし、死ぬ時に想定通り、あるいは想定もせずに後悔する人がいる。それは人生の無駄遣いだ、という意見がある。いや、それが人生だ、という意見もある。
死ぬ間際だけの後悔なら、それが死んでも死に切れないほど深い後悔であっても安心だ。
あと数秒か数十秒で死ぬのだから、後悔という煩悶の時間は数十年の人生に比して極めて限定的だ。怠惰に、易い方に、低い方に、卑しい方に生きて、最後に一瞬の後悔、それも人生、成功の人生、かもしれない。
人生には達成すべきゴールを持つべきだと信じて設定したが、遠すぎる、たどり着く手段を知らない、たどり着く努力を継続できない為に数十年も逡巡、苦悩、彷徨、後悔、屈折の繰り返しは考えたくもない。
人生の幸福とは何か。
これも価値や意義と同じく人それぞれだが、私の場合、それは他人に評価される事ではない。
有名になったり作品が売れる事、即ち他人に評価される事を幸福とする芸術家の様な職業もあるが、私は自分の良心に恥じない、家族に誇れる人生を送る事だと思う、と言えば気取り過ぎか。
寄り道をしてしまった。
そろそろ我が人生を振り返ってみるか。過去、経験、思考を余す事なく思い出せるのか。機械的な記録装置で保存されている訳ではないから無理だろう。
死んで、または死が完成する直前に、認知症が解消されただけの様だから、思い出せる事もあり、思い出せない事もあり、それに時間切れになる可能性もあるだろう。
母
昭和初期の農村、成人男子でも革靴を持っていない時代と土地。
私はみんなが履いているゴムの短靴を母にねだった。母がどこからから貰ってきたのかそれとも拾ってきたのか、古いゴム長靴を切って短靴にして、履けと言った。
鋏で切った跡があからさまな、もとは長靴で足首から上の部分を切ったものだから、簡単に脱げてしまう靴。友達に見られる事が恥ずかしいと言うと、履きたくなければ裸足で歩けと怒られた。仕方なく履いた。
貧乏な時代の貧乏な農村の中でも、とりわけ貧乏な家だった。父が生きていれば少しはましだっただろうが、願っても祈ってもどうにもならない。その靴で学校まで一里半歩いて通った。
同級生で高等小学校まで行ったのは半分もいなかったが、母は進学させてくれた。ありがたい事だ。自分は文盲だったが、だからこそか、子どもに教育を受けさせる意識を持っていた。母は無学だが、賢い女だった。
戦争で米が不足した。
百姓が兵隊に取られて働き手がいない。鍋、釜から寺の鐘まで軍隊に取られたほどだから鋤や鍬、鎌を作る鉄も不足した。農耕用の牛や馬も軍隊に取られた。
船が沈められて、肥やしを輸入できなくなり、台湾や朝鮮で作った米の移入もできなくなった。
政府がいくら米を出せと言っても、無いものは出せない。しかし母は米を隠して、白米を茶碗に山盛りにして食べていた。自分で作った米を自分で食べて何が悪い、と。
母は強い女だった。それほどの強さがなければ、女ひとりで四人の子を育てられなかった。
米はあるが、おかずはない。
ほとんどは自分で作った野菜の煮物や漬物。おかずでも何でも、ものを買う事はほとんどなかった。たまに塩の強い鮭や筋子が手に入ると、少しずつ、舐める様にして、米ばかりを食べた。米だけで生きていた様なものだ。
昔の人間は驚くほど沢山米を食べた。腹一杯でもおはぢ(おひつ)に残っているのがあと少しであれば、おだじ(おかわり)する、と言って残さず食べ尽くした。
長男の雅人がまだ学校に上がる前、よく母の家へ泊まりに行った。
同居していた私の養母が実の娘の家に住む様になってから、母はうちで食事をする様になったが、それでも夜は自分の家に帰った。その時、孫の雅人をよく連れて行った。
ある朝、母と一緒に帰って来た雅人は、昨日の夜はサイダーを一口飲んだと教えてくれた。母がサイダーを一本買い、二人で一口ずつ飲んで、新聞紙で栓をして仏壇に置いて寝たという。
冷蔵庫のない時代、サイダーが母には贅沢品で一度に全部飲めない時代、新聞で栓をして炭酸が抜けても、ほのかな甘さが井戸水とは比較にならないまさに甘露の時代、日清戦争の頃に生まれた母の昭和三十年代の生活。
母がどうしたのか突如弟に会いたいと、小学生の雅人と次男の郁人を連れて青森へ行った。
弟は洗濯屋をやっていたから、商売を何日も休んで新潟まで来る事はできないと考えたのかもしれない。
新発田の停車場までバスで送って、汽車に乗せた。それから弟に、母が子どもを二人連れて行くから青森の停車場まで迎えを頼む旨の電報を打った。
青森に滞在して三日か四日目、母が弟にどうしても直ぐに帰りたいと無理を言った。弟が、明日の朝の汽車に乗せると言っても聞かず、仕方なく弟はハイヤーを頼んで青森から新潟まで一緒に来た。
運転手含めて五人、夜中はハイヤーの中で仮眠し、運転手にも食事を奢り、新潟まで二万円もかかったと聞いた。
弟はそのハイヤーに料金なしで青森へ帰った。
母がどうして一晩待てなかったのか分からないが、どうしても直ぐに帰ると言う母に負けてハイヤーで送ってきた弟は大した親孝行をしたと思う。汽車賃は大人片道千円くらいだったと思うから、ハイヤーは大変な散財だ。
姉家族は毎年盆には川崎から帰省していたが、弟家族が青森から帰省する事はなかったから、母は会いたかったのだろう。青森には孫の女の子が二人いた。
その冬、雪が初めて五寸(一五センチ)も降った朝、お婆があさげまま(朝食)に来ないから行って見て来い、とキミが雅人を母の家にやった。
雅人は風邪で寝ていた母と一緒に帰って来た。行きは走って行ったから何度か雪で転んだ、帰りはお婆の歩くのが遅いから転ばなかった、との事。そんな話も思い出せる。
雅人が母の家で寝る日は、必ず針に糸を通してやるとも聞いた。母は老眼鏡を持っていなかった。買ってやると言っても要らないと、とにかく金を使う事が嫌いだった。
母の口癖『痛い時もあれば痒い時もある』
大した事もないのに受診する事を『医者を飼っている様なものだ』とも。そう言って、よほど我慢できない様な痛みでもない限り医者にかからない人だった。
その母が胃がんになり、手術もならず退院して四ヶ月余りうちで過ごした。
ある晩とうとう呼吸がおかしくなり、往診を頼んだ。医者は異様に長い針の付いた注射器を胸に刺したが甲斐なく、臨終の時間を枕元の私たちに告げた。強心剤の注射は気休め、私たち家族への配慮に過ぎなかったと想像する。
キミは最後まで母を看病してくれた。
川崎の兄貴と姉、青森の弟は母の最期に間に合わなかった。各々が、母が新発田の二の丸病院入院中に一度来てくれたのが最後だった。
母が亡くなった夜、キミと二人で家の回りを歩いた。母が、化けてでも良いから、もしや出て来てくれないものかと。馬鹿な息子だ。親孝行が足りなかった、罪の意識。そんな私の行動に、キミがよく付き合ってくれたものだ。
私は母に何をしてやったわけでもないが、退院する少し前に新しい家ができたばかりで、母にうちに来いと言った。
母は、行っても良いのか、と遠慮がちに訊き返した。涙が湧いた。
寝たきりでひとり生活できる状態ではなく、何の疑問もなくうちに来るしかないものを、子どもである私に気兼ねして。それは母の優しさなのか、明治女の強さなのか、自立した人間の誇りなのか。
四人兄弟でただひとり網代浜に住む私が母の葬式を出した。
独りよがりかもしれないが、私のただひとつ、最初で最後の親孝行としておきたい。いや、死んだあとに親孝行も蜂の頭もない。
母は息子三人の子守をしてくれた。雅人は学校に上がるまで毎日の様に母の家に泊まりに行っていたし、郁人と三男の悠人は母の背中で育った様なものだ。
若いうちに夫を亡くして子ども四人を極貧の中で育てた偉大な、しかし最後まで子である私には遠慮があった母。
軍隊
軍隊時代は思い出したくはないが。
山口県で大発(上陸用舟艇)の訓練を受けた。
上官に殴られた事ばかり良く覚えている。私が特に出来が悪かったとは思わないが、よく殴られた。新兵はみんな殴られた。
戦陣訓と軍人勅諭が覚えられなくて、消灯後に便所で覚えた。消灯後も便所だけは電気を点けるができた。みんな交代で便所に行って覚えた。
今思えば馬鹿な話だ。あの様なものを覚えても戦争には勝てない。
訓練でゲートルの巻き方が悪いと殴られ、靴が片方脱げてなくして殴られ、鉄砲が壊れれば、貴様は天皇陛下から預かった鉄砲を壊したと殴られた。殴られる事が訓練だった。
訓練で撃った弾の数より殴られたげんこつの数の方が多かった。あれでは鉄砲の弾は敵に中らない。馬鹿な話だ。
空襲が楽しみだった。
空襲から逃げる時は、畑に飛び込んでとまとでもきゅうりでも食えるものは盗んで腹いっぱい食った。軍隊といえども食料不足で、腹が減ってどうにもならなかった。
しかし上官から「逃げろ」の命令が出るまでは気を付けのままだ。飛行機が頭の上に来ていても、勝手に逃げると後で殴られる。そっちのほうが怖かった。
馬鹿な話だが、たまの空襲が待ち遠しかった。
戦争に負けて新潟へ帰る途中、広島を通る時に憲兵が汽車の日除けを下げさせて、絶対に外を見るなと言った。
原子爆弾による壊滅的な被害の隠蔽。
私は新兵訓練中に終戦になって戦地に行かずに済んだが、いずれ死ぬのかと恐かった。日本の兵隊は負ければ全滅するものと戦陣訓で教えられていた。降伏は無い、部隊が全滅するまで戦えと。馬鹿な話だ。
戦争が終わって何年も経ってから知ったが、アメリカでは兵隊の損耗率が高い指揮官は責任を追及されると。
ヤンキーは合理的だから戦争は死ぬ事ではなく殺す事、如何に味方の損害を少なく、如何に敵の損害を大きくするか、部下の兵隊を無駄に死傷させる指揮官は指揮を失敗した無能、よってその責任を取らせる、という。
日本は、フィリピンで特攻を指揮した富永中将司令官は、いくら特攻を出しても戦果が上がらず、基地が危うくなると参謀と一緒に台湾に逃亡した。しかし責任は問われなかった。
指揮官はどれだけ部下の兵隊を殺しても、自分だけ助かれば良い。馬鹿な話だ。
将官ともなれば天皇が任命するものだから、将官の逃亡した責任を糾弾する事は天皇の責任を糾弾する事になり、それはできないという理屈。
あの頃は軍隊が日本の国だった。政府は軍隊の下にあった。軍隊というのは、一番数が多い兵隊ではなく、数が少ない将官の事だ。
兵隊は鉄砲の弾ほどの価値もなかった。弾が無くなると銃剣や軍刀でアメリカ軍の自動小銃に突撃した。馬鹿な話だ。
大体が軍隊の上層部は高級官僚だから、出世するには戦争して手柄を立てなければならない。
局地戦で勝てば、部下の兵隊が死んでもそれを指揮した将校は出世する。その上の司令官は、もっと多くの部下の兵隊を殺して出世する。
それが軍隊の手柄と出世の仕組み。馬鹿な話だ。
若い頃に戦争はあったが、その後は平和でこの時代に生きて良かった。
子ども三人は軍隊に取られず、戦争に行かずに済んで良かった。
雅人が高校を卒業する直前、自衛隊の勧誘が来た。私は雅人には好きな仕事をやれと言って来たが、本人に相談もせずに自衛隊を断った。間違ってもうちの息子は自衛隊には入れない、と言ってやった。
あとで本人も、そんな所に行く気はないと言った。
靖国神社、あんな所に祀られて喜んでいる兵隊や下士官はいるのだろうか。
佐官・将官は靖国に祀られる事で、戦争責任の禊が済んだとするだろう。
しかし、兵隊を山ほど殺した奴ら、食うものも鉄砲の弾もなくても戦えと命令して全滅させた、餓死させた軍隊上層部と一緒に祀られて喜ぶ兵隊がいるのか。日本を、即ち家族を守る為に死んで行った兵隊、殺された兵隊に。
いても良い、それは自由だが、私は仮に戦争で殺されたら、それこそ死んでも靖国はゴメンだ。御霊だの英霊でなくても良いから、郷里の網代浜に帰る。
中国や朝鮮が靖国をガタガタ言う事とは意味が違う。
戦争で殺された兵隊の為にその家族が参拝する事は自然で、他所の国に遠慮は要らない。総理大臣でも誰でも戦争の犠牲者を、政治的理由を混ぜないで悼む事は当然だ。
あの時代は侵略されるか、侵略するか、のふたつにひとつだった。中国はいくつの国に侵略されたか。朝鮮は放っておけばロシアに侵略されたかもしれない。いずれも侵略される側だった。
日本は白人・キリスト教徒を見習って侵略する側になった。それだけ国力があった。無かった者の僻みを気にする事は不毛だ。
アメリカ映画かぶれ
戦争が終わってから私はアメリカ映画にかぶれた。
映画に出てくる自動車、冷蔵庫、食い物、道路、店、町並み、家、着ている物、農場、工場、何を見てもアメリカと戦争した事は愚かだと思った。勝てるわけがないと思った。そう思わせる事がアメリカの狙いでもあったのだろうが。
カラーの映画はきれいだった。西部劇で、あのきれいな青空を暗い映画館で見る事ができるだけでも驚いたし、映画を見る価値があると思った。
シネマスコープという大きな画面は迫力があった。
大体の西部劇は単純な勧善懲悪で、あれは、アメリカは良い国だ、アメリカ人は良い人間だ、アメリカの言う通りにしていれば間違いない、とアメリカ人よりもアメリカへ来たばかりの移民や外国人に思わせる為の筋立てだったのではないか。
アラン・ラッドのシェーン、日本人にも良く分かる、共感できる映画だ。ジャック・パランス、まさに敵役の顔つき。
駅馬車、真昼の決斗、OK牧場の決斗、三人の名付け親。
フォード一家というジョン・フォード監督とそのお気に入り俳優たち、砂漠にそびえ立つ岩の風景、馬車が走った後の砂埃、風で転がる丸まった草の塊、どこに擦っても火が点くマッチ、動物の様に撃ち殺される白い服を着たメキシコの農民とインディアン、酒場での殴り合いで簡単に壊れる椅子とテーブル、頭を叩いて割れるウィスキー瓶、ウィスキーの飲み方、早撃ち。
OK牧場の決斗は雅人が生まれた年だった。
ワイアット・アープはバート・ランカスター、ドク・ホリデイは顎に穴があるカーク・ダグラス。荒野の決斗はその十年も前か、ワイアット・アープはヘンリー・フォンダ、ドク・ホリデイはヴィクター・マチュア。
合成で鳥の数を増やしたというアルフレッド・ヒッチコック監督の鳥。ひとつの部屋だけで見せる十二人の怒れる男。迫力ある戦車競走のベン・ハー。
ジョン・フォードが映画でインディアンを殺し過ぎた贖罪だというシャイアン。
長い灰色の線、我等の生涯の最良の年、静かなる男、怒りの葡萄。
蟻の大群が全てを食い尽くす黒い絨毯。
チャールトン・ヘストンが本を注文する時『何でも良いから三百六十キロくれ』というセリフが印象的だ。
映画は忘れたが『神よ、我を悪と絶望から遠ざけ給え』救い給え、ではないところが洒落ているのか、それともキリスト教のお経なのか。
『君の為に満月を注文した』これはキザだ。
ハリウッドには映画に使う馬の為の学校があったという。
俳優はみんな馬に乗る事ができたが、俳優が優秀なのか、俳優でも乗せる様に学校に通った馬が優秀なのか。
リチャード・ウィドマークの冷酷な顔と、人を小馬鹿にする様にフンと笑うところが好きだ。
アーネスト・ボーグナインは確かにハリウッド一の醜男だ。
二度芋の様な顔のチャールズ・ブロンソンはまだチンピラ俳優だった。
ランドルフ・スコット、ジェームズ・キャグニー、タイロン・パワー、眠たそうな目をしたロバート・ミッチャムの眼下の敵、チャールトン・ヘストン、空軍の少将にまでなったというジェームズ・スチュワート、若禿でかつらを被っていたとか、髪の毛を移植したと言われたジョン・ウェイン。
ゲーリー・クーパー、モンゴル系のユル・ブリンナー、ポール・ニューマン、波止場のマーロン・ブランド、クラーク・ゲーブル、喜劇のチャールズ・チャップリン、歌手でもあるフランク・シナトラ、ウィリアム・ホールデン、ジョセフ・コットン、ロバート・ライアン、グレゴリー・ペック、若くして死んだジェフリー・ハンター、スペンサー・トレイシー、ロバート・ワグナー。
十戒の海が割れるシーンはどうやって撮影したのか。
モナコ王妃になったグレース・ケリー、モーリン・オハラ、ジャネット・リー、エリザベス・テーラー、イングリッド・バーグマン、デボラ・カー、スーザン・ヘイワード、ドリス・デイ、エレノア・パーカー、いろいろいた。
ハリウッドには、男が女を叩くシーンのある映画は売れないというジンクスがあるとか、しかしべラクスルとOK牧場の決斗では、カーク・ダグラスが女を叩いた。
現実的なイタリア映画も良かった。ピエトロ・ジェルミ監督・主演の刑事、鉄道員、自転車泥棒。口の大きなソフィア・ローレン。
フランスにはジャン・ギャバンがいた。
刑事やOK牧場の決斗はレコードも買った。
黒助ではハリー・ベラフォンテ、シドニー・ポワチエ。
あの時代、相当な人種差別があっただろうから、よく努力し、よく運にも恵まれたのだろう。
戦争でも黒人は危険な戦闘を命令されたと聞く。日本からの移民もアメリカで生まれた日系アメリカ人も強制収容所に入れられたから、あるいはまだ黒人の方がましだったのか。
あの頃の私は、そんなアメリカの本当の姿を知らなかった。
人種差別はいつか無くなるのか。
年を取ってからは、戦争好きのアメリカほどろくでもない国は無いと思う様になった。シャイアンで描かれた様に、アメリカに渡ったイギリス人などは移民ではなく、侵略者であり、略奪者であり、虐殺者であり、征服者であり、キリスト教徒であった。
読書
本も読んだ。
吉川英治だったか、原稿料が一文字百円には驚いた。
水上勉は売れる前、娘が卵かけご飯を食べたいと言ったとき卵を買う金がなくて、今作ってやるからと後ろを向かせて、飯に醤油だけかけて卵かけご飯だと食べさせたとの事。
私も子どもたちに卵はめったに食べさせてやれなかった。卵に限らず、食べ物を買う事は少なかった。子どもたちにはかわいそうな事をした。
新田次郎のアラスカ物語、明治時代にアラスカに渡った日本人フランク・安田がエスキモーの生活を助けたという。
新聞記者から作家になった松本清張は唇がいかりや長介の人相だが、どうして小説を書く様な感性を持っていたのか。
司馬遼太郎、何度か盗作騒ぎのあった山崎豊子、流行語になった有吉佐和子の恍惚の人。
機関士
誇れる迄でもないが、高等小学校しか出ていない私は近所の中学生に分数を習ったり、五分のナットにネジ山が三つかかれば何トンまで耐えられるなどを覚えながら、丙種機関士の海技免状を取得した。
油差し(機関部の免状を持たない若い衆)のままでは歩合が上がらないから資格を取れ、と導いてくれた船の師匠がいた。
入港したら直ぐに若い衆を上陸させる為に、漁場から帰港する迄の間に、疲れている事を承知で機関部の整備作業をやらせた。
入港しても上陸させずに、仕事をやらせる方がかわいそうだから。
甘やかすと、仕事があっても上陸するのが若い衆だ。発動機を整備しておかないと、出港が遅れる、魚が捕れない、歩合がつかない、乗組員全員が困る。あるいは時化の海で発動機が止まって波を横から受けると、小さい船は転覆する。
プロペラシャフトが折れて海難審判にかけられた。
プロペラシャフト折損を機関長の責任にされてはたまらない。設計時の強度不足か、製造時の品質不良だ。
機関室の発動機から船外のプロペラに繋がるプロペラシャフトは、機関部で整備したり交換したりできるものではない。
別の角度からプロペラシャフトが折れる原因として、プロペラに浮遊物が衝突、これは舵を取る甲板部の責任だ。
長期間の使用によるプロペラシャフトの金属疲労、これは定期点検しているドックの責任だ。発動機とプロペラシャフトの芯ずれ、これもドックの責任だ。
海難審判法の前身は海員懲戒法で、原則として船員の責任を問う、懲戒する、という思想から法の執行者が抜け切れていない。
懲戒無しとなったが、当たり前だ。
船に乗って、初めのうちは子どもの頃に食べられなかった、見る事もなかったうまいものを食べて、それでも金が余って母に送った。
そのうち煙草と酒を覚えた。酒はうまかった。そのあとには女郎を買う事も覚えた。
母に送る金がなくなった。仕方ない、男だから。それも私の人生の一部だ。
あの頃、樺太をカバフトと言う人もいた。
露助はサハリンというから、ロシア語ではなくアイヌ語だろうか。
樺太は夏でも寒い。網を上げている時、若い衆が海に落ちた。鼻の穴でも口でも引っかかれば良いと思って投げた鈎縄が、運良くゴム合羽のベルト通しに引っかかって引き上げてやった。
冬だったら、船に引き上げても凍死したかもしれない。夏で良かったし、鈎が引っかかって良かった。そんな事もあった。
長男の雅人は青森県立病院で生まれた。
難産で帝王切開。キミを個室に入れる事ができた。当時の稼ぎは三万円ほど。
大学教授より稼ぐ、と言う人がいた。本当かどうか知らないが、私の方は命を懸けた稼ぎだ。
三年後に次男の郁人が生まれた。私は三十八か九になって、いくらか貯金もできて、青森から新潟へ帰った。
妻に子どもが二人、船が怖くなり、船で死ぬわけにはいかないと思った。
記憶
次から次へと思い浮かぶ。
色々思い出される。今となっては、人生は体験の記憶でしかない。
自分の人生が他者やもしかすると社会にまで影響を及ぼしたとしても、自分に取っては体験の記憶がなければ生きたかだどうか確かめられない。
時系列に思い出すわけではない。
記憶の復元には何の制限もなく、どこからでも自由に関連する記憶に飛んで行き、時系列に戻って来ない時もある。メインルーチンからサブルーチンに飛んだが、ノイズかバグで動作がフリーズしたりハングアップしたり、あるいは無限ループに陥る様な記憶と感情の相互作用による混乱も起こる。
混乱は、それもまた楽しい。
自由に楽しい記憶を次々と辿って行くのだ。飽きたらまた違う記憶を探し出す。これは、私の人生がそれなりに楽しかった、充実していた証拠だ。思い出したくない事の十や二十あるにしろ。
だかと言って、私の人生は成功したと安易に結論することもたためらう。
百姓
青森から故郷の北蒲原郡聖籠村網代浜へ戻って、瓦斯化学会社の入社試験を受けたが落ちた。
やむなく百姓を専業でやる事になった。冬は土方。
苦労した。苦労とは自分で言うのではなく、人が言ってくれる言葉かもしれないが、私は、苦労した、とあえて言う。
漁船では機関長という長が付く仕事で、若い衆の面倒も見て、機関部の責任者だった。
船は危険もあり寒さもあり、体力も判断力も要求された。しかし、雇われ人に過ぎなかった。月給取りの気楽さがあった。
百姓は自分が経営し、自分が労働し、全ての責任を負う。しかも、未経験での開業。無謀。不安。
だが、キミと雅人と郁人を食わせなければならない。
いや、キミは食わせるのではなく、キミと二人でやってきた。キミがいなければ、百姓はできなかった。
キミは子どもの頃、戦争で大人の人手が足りなくて学校に行く代わりにりんごもぎを手伝った事がある程度。それが、よく本当の百姓仕事に弱音を吐かずにやってくれたものだ。
私も子どもの頃に家の手伝いはうんざりする程やったが、自分で農家を経営するとなると当然ながら何百倍も大変だった。
船で貯めた三十万円ほどの預金が、生活費で危うく無くなりかけた。肥やしや農薬、機材は農協からツケで持って来て、秋に収穫から差し引けば良いのは助かったが、収穫が期待に足りない。いや、必要に足りない。
初めの二年は赤字。馬鹿らしい仕事だ。苦労に見合う収入が得られない。船は命に見合う収入だったかと言われれば、命が惜しくて、子どもを育てる為に辞めたのだが。
子どもに命を救われた、と考えておく。いずれにしろ、人生は緩くない。
米が主力、畑は西瓜、煙草、ながらし(菜種)、芋(さつま芋)、二度芋(馬鈴薯)などを作った。
自家用には瓜、メロン、茄子、大根、大豆、ささげ、小豆、白菜、とまと、きゅうり、蕪、牛蒡、人参、南瓜、葱、胡麻、きび(とうもろこし)、ほうれん草、じごぐり豆(落花生)、南蛮、らっきょう。
植えて収穫するだけではない。
堆肥を作り、温床を作り、温室を作り、燻炭を作り、耕し、種を撒き、苗を育て、畑に植え替え、水をやり、農薬を撒き、草を取り、肥料をやり、刈り取り、乾燥させ、脱穀し、餌をやり、選別し、牛の世話をし、収穫したあとの藁、蔓、根などの残渣を処分し、農機具の整備をやり、新しい作物を勉強し、新しい農機具を覚える。
農作業には牛を使う。
力は人間の何人分にもなる不可欠な相棒。しかし報酬は稲藁と小糠、たまに野原の草で済む。
牛の後ろに鋤、その後ろに私がいて、牛と一緒に歩いて田畑を起こす。田畑の端で折り返す時は、鋤を持ち上げて牛を反転させる。何十回も何百回も何日も繰り返す。顎が出る。
もいだ西瓜や刈った稲を牛車で運ぶ。
西瓜は牛車の枠を超えて落ちない程度に積むだけだが、刈ったばかりで水分を含んでいる重い稲束は牛が引けるだけ牛車に積み上げ、崩れ落ちない様ロープで締め上げて運ぶ。
上り坂で牛が登りたがらない時は、手綱で牛の尻を叩いたり前に回って鼻輪に繋がっている手綱を引く。牛は涎を垂らして、白い泡を吹いてがんばる。
立って登れない時は、前足の膝を地面に突いてがんばってくれる。
膝を突くと重心が低くなって、後ろ足が踏ん張り易くなる。
それでも登れない時は、積荷をいくらか降ろして軽くしてやる。降ろした稲束は私とキミが担いで運んで、坂の上でまた牛車に積む。顎が出る。
牛は畑や田を覚えて、手綱を引かなくても曲がる所に来れば自分で曲がる。なかなか利口だ。
仕事が終わったらブラシをかけてやり、押し切りで切った稲藁に小糠を混ぜて食わせる。
別の桶で水を飲ませる。時には草っ原の草を食わせる。収穫の終わった後の畑で、西瓜や芋の蔓を食わせる。
そんなものでよくあれだけの体になって、あれだけの力を出せるものだ。
牛小屋は臭い。
牛は豚と違ってどこでも糞をして、その上で寝るから体にも糞が付く。糞に塗れた敷き藁をホークで掻きだして、新しい藁を敷いてやる。
体を洗ってやれない時は、体にこびり付いた糞が乾いて毛にてぶら下がって揺れる。
掻き出した敷き藁は堆肥にする。
丑の湯治、夏、牛を海に連れて行き海水で洗ってやる、水浴び。
年に二回、牛の爪切りが網代浜に来る。爪切り場には予め穴を掘っておき、爪切りの順番待ち中の牛の糞を埋める。さすがに、それまで肥やしにしようと持って帰る者はいない。
牛の爪には釘や小石が刺さる事があり、治る迄の間ゴムの草履を履かせる。しかし履かせっぱなしでは鼻緒が蹄に食い込むので、時々は脱がせる。
私は網代浜で最後まで牛を使っていた数人のひとりだ。
牛が徐々に耕運機に代わった。早く耕運機を買いたかったが、しっかり者のキミが反対した。今思えば、私とキミでバランスが取れていたのだろう。
それに、酔っ払い運転が危ないという理由も追加された。あの時は、そんな事あるか、と思ったが、酒飲みには違いない。
それでもなんとか耕運機を買った。
三十万円もした。高い買い物だったが、土起こしも作物の運搬も相当に効率化された。耕運機のロータリーの後に付いて歩いて耕すのは同じだが、一回歩くだけで牛に引かせる鋤の二、三回分の幅を耕せる。稲を運ぶにも、牛より力がある。
牛の様に、生き物としての世話をしなくても良い。冷却水と軽油を補給すれば動く。たまにオイルを交換する。耕運機のディーゼルエンジンは船の機関士をやっていた私にはなじみ深く、少々の保全は自分でやった。
使い始めてしばらくクラッチを切らずにギアチェンジをしていて、壊した。
船にはクラッチはないし、耕運機にはブレーキと表示されていたが、実際はただのクラッチで、駆動輪から動力を遮断するだけのもの。このブレーキを引いて、つまりクラッチで動力を切り離してからギアを変える必要があった。買った時の説明を忘れていたのだろう。
ギアは前進三段、後退一段、そしてニュートラル。
ハンドルの左右には自転車のブレーキの様な握りがある。
これも機能はクラッチ。右に曲がる時は右を握る、左に曲がる時は左。これで握った側の駆動輪が動力から遮断され、反対側駆動輪にだけ動力が伝達され、強制的に急激に曲がる。
緩く曲がる時は、握りを使わずに腕の力でハンドルを曲がりたい方の反対側に押してやる。
耕運機はトレーラーで作物を運んだり、ロータリーで田畑を耕すだけでなく、作物に水をやるポンプを回す事もできる。
別途発動機を買わずに済む。
しかし後年、もう一台テーラー(小型軽量の耕運機)を買ったり、農薬散布用に小型ポンプとガソリンエンジンを買って自分で一体化したりもした。
牛を手放した後は徐々に機械が増えた。
耕運機からトラクターになった。
これは乗って耕せる。耕す幅は更に広い。ハンドルが丸くて、耕すにも運ぶにも運転しやすい。
耕運機ははずみ車を手で回して始動するが、トラクターのエンジンはバッテリーとモータで自動車の様にスイッチで始動できる。
稲刈りはバインダー。
これは刈って束ねるだけ。バインダーの後ろを歩いて操作する。
バインダーで刈った稲束は七つ、八つまとめてひと束にし、担いで田から道路まで出し、耕運機やトラクターのトレーラーに積んで家の裏のはさまで運ぶ。まとめた束をほどいて、稲束をはさに架けて干す。
はさは七段、下の三段は私が地面に立って、キミや雅人が地面の稲を私に手渡す。
上の四段は私が脚立に乗って、下から稲束を手渡して貰ったり、六段、七段では竹竿で稲を持ち上げて貰う。
台風が来る前には、稲を一旦はさから外して小屋に入れる。台風が過ぎたら、小屋から出してまたはさに架ける。馬鹿馬鹿しい手間だ。
バインダーからコンバインに買い替えた。
これは乗って稲を刈れる。刈ったら直ぐ脱穀して、藁はカッターで切って田に撒くまで自動だ。
籾だけを家に運び、乾燥機にかける。バーナーで灯油を燃やして強制的に乾燥させる。はさを作る必要もなく、稲のはさ架けも台風も関係ない。
その代わりに乾燥機も買わなければならない。
船では機関長として人を使っていたが、所詮船主に使われる仕事。
百姓は自分が、船主の様に経営者であり、漁をする様に農作業もやる、つまり船頭で船長で機関長で、全責任を負う。
船は自然相手で魚が捕れなければ歩合は付かないが、それでも最低基本給の保証はある。百姓も自然相手で台風、日照り、大雨、気温などで収穫が激減する危険がある。
全滅はないにしろ、最低基本給相当は底なしに少なくなる。
船の方が良かったのか。
船で蓄えた預金を二年でほとんど使い果たして、これからどうなるかと心底不安になった。それでも、何とか最低限の生活ができる様になった。苦労した。
しかし、海で遭難する心配だけはなかった。遭難は死。キミひとりで雅人と郁人を育てられたかどうか。それに悠人は生まれなかった。
いまさら、どちらが良かったかは分からない。百姓で生きてきた人生は取り消せない。船の人生をやり直せない。
とにかく、生きてキミと二人で三人の子を育て、六人の孫を得た現実がある。
煙草を栽培した。
煙草の種は胡麻より小さい。冬の間に雅人と郁人にも手伝わせて、種を植える枠を準備する。枠は、経木を折り目に合わせて曲げて四角にし、一端にある二ヶ所の切り込みに他端を差し込んで作る。経木の枠は一、二年で腐るが、後に何年も使えるプラスチックになった。
春、枠に種を植えて温床で苗を育てる。それから畑に植え替える。
煙草は専売品で植える苗の数が決められおり、専売公社の人間が畑に来て植えた苗を数える。
事前にひと畝毎に数えて、畑の合計を出すのは雅人にやらせた。雅人は新聞に挟まれて来る広告紙の裏で足し算をした。
雅人は気の小さいまじめな奴だから、二回計算して合うまでやった。それでも専売公社の数と合わない時は、多ければ植えた苗を抜かれ、少なければ指導された。
畑の畝に地温維持、乾燥防止、雑草生育阻止の為に黒いマルチ(ビニール)を被せる。
マルチに一定間隔に穴を開けて、一本ずつ苗を植える。葉を成長させる為に、花が咲く前に茎の頂点を折る。
葉を収穫する時は、手にベトベトのヤニが付いて真っ黒になる。石鹸で洗っても落ちない。
煙草には自然乾燥させるシボリッパと、石油バーナーで乾燥させるオンショクがある。
シボリッパは、三メーター程の縄の綯い目に収穫した葉の茎を一本ずつ挟む。縄の両端には番線で作ったS字フックが付けてあり、それを家や小屋の鴨居や長押に引っ掛けて自然乾燥させる。
乾燥すると葉のカスが舞って、喉がいがらっぽくなる。煙草を喫む私でも咳が出る程だから、喫まないキミや子どもたちは切なかった。
オンショクは、縄の代わりに金属棒を使う。
棒にはトゲが付いていて、それに葉の茎を刺し、もう一本の棒で挟む。それを乾燥室に並べて架ける。灯油バーナーを焚き、夜中も室温を数時間毎に確認、調整する。
暑い昼間に働いて疲れて、夜中に起きるのは辛い。キミにはバーナーの調整はできないから、夜中に起きるのは私の役目。しかし、私が起きるとキミも目覚めた。針が落ちても目が覚める、と言ってからかった。
乾燥した葉は一枚ずつ手でしわを伸ばして重ね、茎を縛り、まとめて出荷する。
やれやれ。
私が喫んでいたのはしんせいだが、私が作った煙草はもっと高級なハイライトやピースにでもなったのか。それともわかばかエコーか。
収穫の終わった煙草の木は枯れる。それを抜いて燃やして、芋を焼いて子どもたちと食べる。煙草の木は牛も食わないし、燃やせば肥やしになるし、病害虫予防にもなる。
楽な作物はないが、西瓜は重くて収穫に骨が折れる。
藁で枠を作り、中に牛小屋の敷き藁で作った堆肥とカッターで切った藁を入れて、水をたっぷりかけて、踏み固めて、その発酵熱と太陽による熱が逃げない様にビニールで蓋をしたものが温床。
西瓜の種を植えて温床で苗を育て、畑に堆肥と肥料を入れ、耕し、畝を作り、マルチを張り、苗を植え、水をやり、草を取り、農薬を散布し、収穫となる。
西瓜を収穫する時は、ひとつずつで良いからと畑から牛車や耕運機が入る道まで、子どもたちにも運ばせる。
私とキミはこも(藁で編んだかご)に二つ、三つ入れて、担ね棒で担いで運ぶ。こもが二つで、西瓜は四つから六つ、肩が痛い。
畑は砂地で柔らかく、一輪車は使えない。夏の暑い盛りの作業。
その年最初によんだ(熟れた)西瓜は出荷せずに、家族で食べる。
初物。畑で草刈り鎌で切って、鎌がない時は手で割って食べたり、家に持ち帰って水道で冷やして食べた。井戸の水道水だから冷えてうまかった。
あと何日かでよむと見当をつけていた玉を、その前にカラスが穴を開けて食うこともある。実は桃色で、いたましい(もったいない)。
最初の品種は縞が薄かった。
数年で縞が濃くて黒い品種になった。これを縞西瓜と呼んでいたが、その内ただ西瓜と呼ぶ様になった。
縞西瓜が出た頃は、昔西瓜と呼ぶ球形ではなく楕円形の、これも縞が薄い西瓜があった。小玉のトランジスタ西瓜もあり、これらも自家用に少し作った。
味はどうだか、どれも余り違わないと思ったが。
あの頃は夏に食べる西瓜は何でもうまかった。冷蔵庫はなかったが、井戸の水で冷やせば充分。畑で食べる西瓜でも、一升瓶に詰めて持って来たぬるくなった水より格段にうまかった。
瓜も作った。メロンの様に球形ではなく楕円形。西瓜とは違う甘さで、うまかった。菓子をあまり買ってやれないから、子どもたちは西瓜も瓜もメロンも喜んで食べた。
畑の畝にかける黒いビニールを、どうしてマルチと呼ぶのか農協に訊いてみた。
英語から来ているらしいとの回答。それくらいは誰でも分かる。
かんりんしゃ、これは農協に訊く前に包装に寒冷紗という字を見つけた。訛って、かんりんしゃ。
面白いのは、じごぐり豆。落花生の事。町の人はじもぐり豆と言う。どうやら地面に潜って実る豆だから、地潜り豆、それが訛ってか聞き間違えてか、じごぐり豆となった様だ。
自分が抜けなかったじごぐり豆を雅人が抜いた、と母が褒めた。
雅人が学校に上がる前で母は七十近く、腰は曲がっていたし、実が一杯なったじごぐり豆を抜く力がなかったのか。それともただ孫を褒めたかったのか。
じごぐり豆は自家用で、抜いたら稲を干すはさに架けて乾燥させ、実をもいで炒る。
部落共有の円筒形の炒り釜が順番に回って来て、よろびじ(囲炉裏)の火にかけて釜を手で回して、一回で一升ほども炒る事ができた。それを冬の間のおやつにしていた。
蚕、生き物はまた農作物とは別の苦労がある。
ありご(蟻)より小さい幼虫を買って育てる。
一度養母が自転車を倒して荷台の幼虫を道にこぼして、一匹ずつ拾うのが大変だった。数は多いし、とにかく小さいし、柔らかい。
桑畑から葉を枝ごと切って持って来る。時々乾燥防止に、口に水を含んで葉に吹きかける。霧吹きさえなかった。
蚕が鼠に食われない様に気を遣った。
太って体が黄色くなった蚕を一匹ずつ拾って、繭を作らせる藁のまぶしに移す。雅人にも手伝わせたが、判断に迷うと私に訊いてくるのがかわいかった。
蛾になって繭を食い破って出てくる前に出荷。
豚も飼ったが、何か月も育てて大きくしたものが、出荷の時に豚小屋から出たがらないで鳴く豚をトラックに乗せるのが可哀想で、がっくり来た。生き物は難しい。
田植えの雨の日は、田の近くの人の家の玄関や土間を借りて昼飯を食べた。
体が濡れているから家には上がれない。自分の家を往復するには体は疲れているし、時間が惜しい。少しでも休んだほうがましだ。
百姓は、毎年季節が来れば植えたり収穫したり同じ事を繰り返している様で、実はそう単純ではない。
金にならないとなれば、直ぐに作物を変える。変えなければ生活できない。
庭で趣味の家庭菜園をやっているのではない。生きる為、食う為に、売れるものを作らなければならない。
その作物を育てる為に何年も磨いて来た経験をあっさり捨て、次の作物に移る。
蚕が駄目となればながらし、次は西瓜、そして煙草。
企業には、これ程の素早い移り身はできないだろう。百姓は、新規事業に挑戦する企業よりリスクは高いし、時間猶予がない。百姓は企業ほど体力がないから、儲からない作物を何年も続けられない。
農村通信という雑誌を定期購読して勉強もした。
生活
布団と言えば、夏はいわゆるせんべい布団を一枚敷いて、蚊帳を吊って、扇風機もなく寝ていた。
冬は藁を梳いて出たクズを布団の大きさの袋に詰めたクズ布団を作って、綿布団の下に敷く。少しは暖かい。しかし暫く使うと潰れて薄くなるので、一冬に何度かクズを取り替える。綿の敷布団を二枚持てない、そんな生活。
すきま風はどこからでも入って来る。
床は板が一枚。剥がせば地面。
冬は豆炭タンポ(あんか)を使う様になって随分楽になった。夕方、よろびじに豆炭を焼べて、真っ赤になったらタンポに入れる。寝る頃にタンポの所だけは布団が暖かくなっている。タンポに足を付けて、足が暖まれば眠りやすい。
寝ている間に蹴飛ばしたりしてタンポを入れる袋の紐が解けて、タンポに直接足を付けて雅人も郁人も足を火傷して水ぶくれを作った。小さい悠人はキミに抱かれて眠った。
あの生活でも子どもが三人育った。
尤も私の子どもの時はもっと厳しい環境だったが。しかしそんなもの自慢にはならず、恥じてもどうにもならず、そんな時代と言うしかない。
社会の進化、経済の発展、時代の成長、人類の躍進、昔より今が、今より未来が良くなるのは当然だ。
網代浜で最後までよろびじを使っていたのは我が家かもしれない。
そうでなくても最後の五軒には入っていただろう。どこの家にも薪ストーブ、中には石油ストーブの家もあった。
姉がガスコンロと炊飯器を買ってくれるまで、夏でもよろびじで煮炊きしていた。炊飯は土間のかまど。
不思議なもので、コンロと炊飯器と配管工事は姉が負担してくれてが、その後のガスボンベ交換費用は自分で負担した。気づかないうちにそんな時代、ということか。
よろびじにもかまどにも焚き物が要る。
山で木を切ったり拾ったりして、切って割って乾かす。焚き付けの松葉を松林に拾いに行く。枯れて落ちた茶色の松葉をビンビラ(竹で作った熊手の様なもの)でかき集めて、牛車で家に運ぶ。
船の仕事は、やれば現金収入。焚き物集めはやっても現金収入にならない、が、やらなければ暮らせない。買うには金がかかると分かっているが、時間と手間を掛けてやる事が金にならない苛立ち。こんな事をやっていて生活できるのか、こんな事をやらなければ生活できないのか、と。
早く火を点けようと焚き付けの新聞や松葉を多めに焼べると、母が心底渋い顔をして勿体ないと小言をいう。
焚付が惜しいと言うより本質的には、自覚はしていなかったにしろ、松葉を集めるにも手間がかかる、手間は金に換算できる、新聞も只ではない、金を無駄にするな、という気持ちだと思う。
少しの新聞にマッチで火を点け、少しの松葉に燃え移らせ、少しのがすを焼べる。
がすは、冬に浜に行って拾って来た木っ端。冬の日本海は風が強く、波が荒く、がすが打ち寄せる。波が引き始める直前に、たもでがすを掬って引き上げる。
これも牛車で運ぶ。自動車ならジープでもなければ埋まる砂浜でも、牛は牛車を曳く。
木の細い枝も焚き付けになる。
子どもたちは手の力で折れない枝を両手に持って、その間に足を入れて膝を伸ばして折る。母は自分で折れない枝を子どもたちに折らせた。
がすに火が点いたら、割った薪を二、三本焼べる。
火を使い終わったら灰を掛けて消す。冬は、炭として使える熾は消し壺に入れて、あとでこたつに使った。今思えば原始時代だ。
炊飯はガスから電気になって、保温ジャーに移す事がなくなり、魚焼きもガス、風呂は灯油、ストーブも灯油、湯沸かし器はガス、掃除機もあるし、テレビはカラーになり、冷蔵庫は二つ、扇風機もいくつもあり、カラオケも電子レンジも買った。
掃除機と冷蔵庫は、最初は姉が買ってくれた。
クーラーだけは買わなかった。キミがクーラーの風は嫌いだとの事で。
古い家の風呂はトタンの缶や木の桶だった。
トタン風呂の底の敷板には、洗濯板を使っていた。風呂は薪で沸かしていた。
木の桶にしてから灯油バーナーにして、雅人が風呂当番になった。
四リットルの缶に灯油を入れて梁に縛り付ける。缶からチューブで灯油がバーナーに下りて来る。バーナーのバルブを開けて、バーナーの芯に少し灯油を溜め、バルブを閉めてマッチで火を点ける。バーナーが温まると灯油が気化して火炎を噴き出す。再度バルブを開けて灯油をバーナーに供給する。
風呂場には水道がない。
風呂が熱くて水で埋める時は、居間にいる誰かに五、六メートルも離れた流し台の水道にホースを差し込んで蛇口を開け閉めして貰う。テレビもついているし、怒鳴らないと聞こえない。
建て替えた家の風呂桶はホーロー。バーナーではなく、また焚き物で沸かす様になった。釜に入れた焚き物に軽油をかけて火を点ける。新聞や松葉で焚き付けるより簡単に火が点く。
ガソリンを飲んだ。
一升瓶に飲み水を入れて田や畑に持って行くが、発動機に入れるガソリンを水と間違えて一口飲んで、具合が悪くなり半日寝込んだ。
ほじない(思慮がない、間抜け)と言うか、疲れていたのか、よっぽど喉が渇いていたのか。
親戚の親父は、殺虫剤を飲んで二、三日寝込んだ。
酒好きで余りにも酒好きで、彼の妻が酒を隠したところ、彼は探し当てたと喜んで一升瓶からラッパ飲みしたのが殺虫剤だった。一升瓶に水で希釈した殺虫剤を保管していた時代。
私と彼は、酒はうまいからと笑い合った。
キミと彼の妻は、お互いの夫は酒に卑しい馬鹿だと笑い合った。
新潟地震では雅人を殺してしまったかと青くなった。
小学校一年生、学校は終わっている時間。家にいたらあのぼろ家は潰れたかもしれないし、外にいてもどうなっているかと心配した。キミは、きっと大丈夫だと落ち着いていたが。
友達と遊んでいたが、地面が揺れてみんな家に帰った。自分も家に帰ろうと走ったが揺れで転んだ。家には誰もいなくて泣いていたら、家の裏の坂の上からお婆(私の母)が自分を呼ぶ声が聞こえた。走って登って行くとお婆がいて安心したと。
生まれて初めての地震、地面が揺れるという体験、家に誰もいない、それでパニックになって泣いた様だ。
郁人は私とキミと共に畑にいた。悠人はまだ生まれていない。
私にとってもあれ程の大地震は初めてだった。アサヒグラフで見た新潟市はひどい被害だった。石油コンビナートが何日も燃えていた。しかし、私の家族とぼろ家は無事だった。
悠人が生まれたのは昭和四十二年。
まだ母が元気で、私とキミが農作業に行く時はいつも母が悠人の子守をしてくれた。しかし、どうも、そのせいかどうか分からないが、悠人は言葉を覚えるのが少し遅かった気がする。
母は悠人を負ぶって、自分の好きな仕事とも呼べない作業をやり、あるいは友達の家へ遊びに行ったりで、悠人を相手に遊んだり喋ったりする訳ではなく、おしめは替えるがほとんど負ぶっりっぱなしだったと思う。
雅人も郁人も幼稚園に行っていない。
網代浜に幼稚園や保育園はなかった。悠人の時代になってやっと児童館ができて入れたが、悠人は行きたがらなかった。
あれも雅人と同じく笑止がり(恥ずかしがり、内気)で、家族のいない所でひとりになる事、同年代の子どもと友達になる事が苦手な性格だ。
郁人は二人と違って、良い意味で少々図々しい所がある。
毎朝、母が悠人を児童館まで連れて行くが、入口で行きたくないと泣いて、母が連れ帰ってしまう。
そこでたまに私が連れて行っても、やっぱり泣いて嫌だと言う。私もかわいそうになって、行きたくなければ仕方ない、と連れ帰る。
甘やかしと言えばそうだが、かわいそうで、無理強いしたくなかった。それではいつまで経っても道具にならない、と怒っていたのがキミ。
キミは子どもが病気となれば良く看病するが、躾は厳しかった。
しかし朝は忙しくて悠人を児童館へ送っていく事はほとんどなく、無理に置いてくる事もなかった。
他の子どもたちとの交際があれば、言葉は追い付いたかもしれない。しかし心配する程の事はなく、溶接の免許を取り大型運転免許も取り一人前になって、孫を二人もたらしてくれた。
どういう訳か聖籠村が新産業都市に指定され、農地を買い、海を埋め立て、あるいは浚渫して港を作り、火力発電所を作り、石油コンビナートや化学工場、その他の企業を誘致する計画だという。
公害が深刻な社会問題であった時代、港の開発による漁業への影響、火力発電所による大気汚染や工場排水よる水質汚濁、ひいては農業への影響、何より健康被害への懸念により開発反対運動が起きた。
岡田という男が聖籠村公害阻止連絡会議を組織し、私はその構成員となった。
彼は土建屋を経営していた。妻の他に二、三人を日給で雇う規模。赤道という大きな道路工事を手掛ける規模だったが、儲からず縮小したという。彼の妻によれば、土建屋を大きくするには良心的過ぎた、との言。
東港や発電所という大規模工事があるから、下請けでも何でもやれば自分の利益になるはずだが、妻の地元を公害で汚したくなかったのだろう。彼自身は新潟市沼垂の出身だと覚えている。
敵はまず港や発電所建設の説明会を開こうとする。
説明を行ったという実績ができれば、それは単に説明会にとどまらず、地元住民は説明を理解した、好意を示した、建設に賛成した、地域の発展に期待した、と報道される様に敵は手を回す。
大企業の手下として政府があり、県議会があり、村議会がある。マスメディアも政府の手下。なし崩し的に建設が強行される恐れがある。公害阻止など夢の夢。
そこで連絡会議の有志は体に糞を塗って抵抗した。
どこの家も汲み取り式だった。糞はいくらでも手に入った。糞を肥やしにする為に汲み取る柄杓と糞を運ぶ桶もどこの家にもあった。その糞を自分の体に塗って、説明会開催を阻止した。県の役人も企業の担当者も、糞を塗った有志に近づけない。
暴力は使用しない。だから警察も手を出せない。警察も糞には触りたくない。強烈な反対意思を印象付けられる。ニュースにもなる。そこまでやった。
私も体に糞を塗ろうとしたが、岡田さんは私に、渡邊さんはやらなくても良いですよ、私たちだけで十分です、と言ってくれた。
私がかなり年上だから礼を尽くしてくれたのだと思う。そういう事ができる人だから、組織を作る事もできるし、一緒に糞を塗る人もいる。
後に、糞を洗うのが大変だった、臭いがなかなか消えなかった、と冗談交じりに、しかし誇りを持って言っていた。
しかし、いつまでも説明会を拒否できない。
ある日の説明会で、発電所の排水は海に流すがきれいで子どもが泳いでも問題はない、との説明があった。
ではあなたの子どもを連れて来て泳がせてくれ、と言ったところ沈黙した。
その程度の説明会だ。田舎者だと思って舐めている、とはこの事だ。
結局発電所は完成し操業し、しかし公害は出なかった。
法の整備もあっただろうが、連絡会議の効果もあったと思う。日本有数の公害防止設備とのこと。
聖籠村ほど公害防止に厳しい所は日本の何処にもない、と牽制なのか世辞なのか、発電所の連中が言った。
岡田さんには雅人の高校の保証人になって貰った。
きれいな字を書く人だ。歌謡曲は一度聞けば歌詞を覚えるという頭の良い人だ。
岡田茉莉子と同級生だったとも聞いた。芸名の岡田が自分と同じで、見覚えのある顔で、興味を持って調べて分かった、と。
雅人は高校二年の夏休みに岡田さんにアルバイトで使って貰い、一日千円の日当を貰った。翌年は千五百円の日当。親子でお世話になった。
また、岡田さんの奥方の弟は甲二免状で漁船の機関長と知り、良い友人になった。
私の田畑の一部も県に売る事になったが、金ではなくできる限り代替地を要求した。
売った農地には松林を造成したビニール水田も含まれた。これは兄貴から四十万円借金して作ったものだ。
売った代金の一部で家を建て替えた。二百五十円の家は住むには限界だった。新しい家は坪九万五千円、農作業小屋の移築も含めて四百万円。坪一二、三万が相場のところ、随分安く作って貰った。
カーテンが五万円、ばかに高いと思った。照明器具も別途購入と知って一番安いものを付けた。古い家にカーテンはなく、裸電球だった。
母が裏廊下もあった方が良いと言い出し、大工から三十万円増額の見積もり。
母が、自分が十万円出すからと私にも十万円出させ、そして大工にも十万円負けさせて、三人で十万円ずつ負担で裏廊下を付けた。大工は苦笑いをして十万円負けてくれたという訳だ。学問のない母がどこから仕入れた知恵なのか。
当初、二階は要らないと思ったが、中二階、屋根裏部屋として雅人と郁人の部屋を作ってやった。
窓がサッシになって、すきま風が入らない。
よろびじが石油ストーブになって、部屋が暖かい。目が痛くなる煙も出ない。
しかしキミは掃除嫌いで片付けベタで、家は散らかり放題。まぁ、農作業に炊事、洗濯、それに母の介護もあり、仕方ない。
キミが洗濯できない時、子どもたちは自分でやった。しかし、ついでに、という事ができなくて、雅人も郁人も自分のものだけを洗った。キミが水と洗剤がもったいないから一緒にやれと言っても、二人とも聞かない。
私は黙っていた。自分のものを自分で洗うだけも大したものだ。
何度かプロレス興行を見た。
リングの外に落ちたタイガー・ジェット・シンを履いて行った下駄で殴ってやろうとした時、一緒に行った奴に止められた。殺されてしまうぞ、と。
千昌夫の歌謡ショーを見た。北国の春が売れなければ今頃は岩手で田の草取りをやっていた、と笑わせてくれた。
農協の旅行で大阪万博に行って、アポロが持ち帰った月の石を見た。
万博にはキミを誘ったが、金のかかる事を嫌ったのか、行かなかった。山歩きが好きだという地味な女。もっと楽しめば良いものを。
しかしキミは、農閑期のアルバイト先である土建屋の社員旅行で香港に行った。私は海外旅行をした事はない。キミもなかなか立派なものだ。
貧乏で、社会党や共産党に傾倒した。
社会新報と赤旗日曜版を購読した。
飛鳥田一雄横浜市長の演説会で、随分古い靴を履いていると驚いた。あれが社会党の政治家だと感動した。
子どもの頃に履かされた、長靴を切って作った短靴を思い出した。
松沢俊昭衆議院議員の演説会で、東京が偉そうにしても新潟から米や電力を送らなければ干上がる、と聞いて溜飲が下がった。
チェコスロバキアでは女でもパンツを三枚しか持っていない、という話。しかし、日本の農村も大差なかった。
物が無くて誰も買えないのは仕方ないが、物はあるが貧乏人は買えないのは、ごしゃやける(腹が立つ)。
思い出すと、農作業だけではなく、冬の前には家の周りにかざれ(風除け)を作り、春になればそれをばらして柱と竹竿と簾を仕舞い、クズ布団を作り、縄を綯い、味噌を造り、焚き物、がす、松葉を拾いに行き、土方で稼ぎ、そこまでやらなければ生活できない環境。よく生きてきたものだ。
キミも冬は土建屋で働いた。
日給三千円で月給七万五千円。それをタンス預金して二百万円遺した。二年分以上。キミはどこに仕舞ったか覚えていたのか、仕舞った事さえ忘れていたのか。私と違い、呆けてはいなかったが。
青森から葬式に来てくれたキミの妹二人が家の片付けをして、あっちこっちにあった給料袋見つけ、雅人、郁人、悠人で分けろと渡してくれた。
キミはどうして自分の為に使わなかったのか。
生きている内に、うまいものを食うなり着るものを買うなりすれば良かったものを。
私はキミが稼いだ金を生活に使えとは言わなかったが、子どもたちに使ってやっても、弁当のおかずを買ってやっても良かったとは思う。キミなりのどの様な考えがあったのか、寒さに震えながらの土方仕事で稼いだ金。
その時、雅人の母子手帳と兄貴の海技免状も出てきた。郁人と悠人の母子手帳と私の海技免状はどこに行ってしまったのか。
子どもたち
雅人が新潟の東工業高校・電気科に入学し、佐々木駅まで自転車で通わせるのがかわいそうで、オートバイを買ってやった。
高校が通学に許可しているのは百二十五まで。キミは自転車でも行ける所だから五十でも充分だと言ったが、我が一族で初の高校生、本人が欲しいという百二十五にした。
暴走族に入ったり、危ない走り方は絶対やるな、信用して買ってやるのだから、と釘は刺した。
事故の心配はあった。
しかし夏の暑い日、冬の寒い日、風の強い日、雨の日の自転車がかわいそうだった。同級生もみんなオートバイを持っていた。自分が子どもの頃にゴムの短靴さえ買って貰えなかった惨めさを味あわせたくなかった。子どもがかわいかった。信頼した。
しかし、通学中に雪道で転倒し捻挫、二週間学校を休んだ。スピードは出していなかったが、雪の轍でスリップしたという。ヒヤッとしたが、そんな事もあるだろう。
郁人が高校生になって雅人のオートバイに乗ったが、雨の日にエンジンが止まると泣いて、同じく百二十五を買ってやった。
雅人も点火栓が漏電するのか同じ悩みを抱えていたが、買った自転車屋も修理できず、なんとか卒業するまで我慢したらしい。
雅人が楽々合格した高校に、郁人は先生から危ないかもしれないと言われながらも、絶対行くと言って合格した。兄貴に負けたくなくて彼なりに努力し、賭けをしたのだろう。それがかわいくて、オートバイを買い換えてやった。
悠人は新発田の職業訓練校・溶接科に行った。
兄弟を差別する訳もなく三人とも私とキミの宝だから、オートバイを買ってやった。
若いうちはオートバイや自動車に乗れば、ヒヤッとする事の一度や二度は避けられないと思う。
私の若い頃は、オートバイも自動車も保有する事は不可能だった。酒を飲んで女郎を買うくらいだった。
郁人の絵がユネスコに送られた。
亀代小学校から何人の絵が送られたのか分からないが、嬉しかった。
川崎に住む兄貴と姉に何かの時に報せた。雅人が東京・箱根へ修学旅行に行った時、上野で待ち合わせた兄貴が郁人に渡せと油絵のセットを持たせた。しかしだからと言って、郁人が絵に熱中する事はなかった。
百姓だけはやるな、好きな仕事をやれ、と息子たちには常々言っていた。
雅人は船に乗った。私の影響があったのか。しかし、機関士ではなく通信士、漁船ではなく本船、それ程の影響はない様だ。
高校を卒業する前、進路の話で学校に行った。担任から、息子さんは船員を希望しているが、学校としては前例がないのでどう協力して良いかわからない、と聞かされた。
雅人は先生に、船員職業安定所なるものがあるが、そこで就職して船に乗りながら勉強して資格を取れるかと相談したが、先生は船員職業安定所の存在を知らなかった。
そこで雅人は学校の図書室で調べて、方針を変更し、徳島の学校を見つけ、受験し、合格した。労働省・雇用促進事業団・徳島総合高等職業訓練校・高等訓練課程・無線通信科、高卒以上二年制。
オイルショックで世界経済が冷え込み、世界には三億一千万重量トンの原油タンカーがあるが一億トンが余っていた状況。
雅人は就職できるかどうか分からないが、貨物船より漁船の方が可能性が高いから、漁船に乗って貨物船の機会をうかがう方策も検討している、と。
補欠合格で入学した雅人は卒業前に二級通信士に合格、運良く貨物船に乗った。
七年乗って結婚、船を辞めた。その後新潟で仕事を見つけられず東京へ出た。
私とキミの初孫、娘が生まれた。
しかし離婚。そして再婚。
船を辞めてからは半導体製造装置の会社をいくつも替えた、腰の据わらない奴。
郁人は東京の会社に就職して、何度か転勤して最後は新潟に戻り、信越支店長にまで上り詰めた。
男の子が三人できた。
悠人は東港にできた発電所の下請け保全会社に入ったが、溶接のプロとしての悠人指示に年上の部下が従わないので辞めて、トラック運転手になった。
ひとりでやる仕事が性に合っていた様だ。
養子に行って男の子が二人できたが、離婚した。離婚には義父の借金問題が絡んだらしいが、詳細は聞いていない。
妻
新潟に連れて来たキミは、散々に苦労した。
青森県南津軽郡常盤村榊より田舎の北蒲原郡聖籠村。
米、煙草、西瓜などの農作業。農閑期の土建屋での力仕事。
言葉。田舎者特有の他所から来た者への愚劣な好奇心。同居する性骨悪(しょうぼねわる、性格・意地が悪い)の私の養母。別居ではあるが私の実母。
きつい仕事の割に少ない収入、したがって貧しい生活。
キミとの金婚式を役場で祝ってくれたが、私は笑止(恥ずかしい)で、あるいはめんくさい(みっともない)気がしてその席に出なかった。
今は、一緒に出てやればキミは喜んだと思う。私は年を取ってからも馬鹿な、わがままな男のままだった。
秋、キミの実家や兄弟がりんごを送ってくれる。
いろいろな品種がある。雪の下、国光、ふじ、デリシャス、王林、紅玉、印度りんご、むつ、赤いもの、青いもの、黄色いもの。
キミは停車場に届いたりんごの木の箱を一度に二つ、三つまとめてバスで家に持ち帰った。一箱二十キロもあるか。家からバス乗り場まで二十分、停車場まで四十分、バスの便は少なく、何回も往復できない。
雅人は甘い印度りんごが好きだった。キミはりんごを煮て子どものおやつにもした。また子どもが風邪をひくと、りんごをすりおろして食べさせた。
一度だけキミを叩いた。
本当に馬鹿な事をした。布団を畳まないことをだらしないと言った所、口答えをしたので叩いてしまった。キミは泣いて、青森に帰ると言った。帰れと怒鳴った。
雅人が目を覚まして泣いた。自分が怒られた訳ではないが、私の怒鳴り声が怖かったのか、母が叩かれた事が怖かったのか、夫婦喧嘩という異常な雰囲気が怖かったのか。
考えてみれば、キミは農作業でヘトヘトに疲れ、さらに炊事をやり、洗濯もやり、だから掃除やその他まで手が回らないのは当然だ。
布団ぐらい敷きっぱなしでもどうと言う事はない。畳んで押し入れに仕舞うのではなく、半分に折り畳むだけの事。それをやったからどうだというのか。
キミには、私は短気だとよく言われた。確かに直ぐにカッとなる性分だ。自分が正しい、と思い込みたいのか。良く言えば強い正義感、本当は救えない独りよがり。馬鹿な男だ。
夏にはキミが雅人と郁人を連れて里帰りした。
悠人が生まれた頃から自然とその習慣がなくなった。
新発田から北常盤まで普通で十時間もかかったと思う。キミは急行券は要らないと言った。握り飯とゆで卵を持って行った。卵を買うのはこんな時くらいだ。途中の停車場で冷凍みかんくらいは買ったと思う。
子どもを二人も連れて、十時間もよくも乗って行ったものだ。親に会う、孫を会わせる、兄弟に会う事が、キミには年にただ一度の楽しみだったと思う。
胃潰瘍
胃潰瘍の診断が下されたのは四十五の時。
新発田の病院では手術だと言われたが、親戚が別の病院で診て貰うのも良いだろうと。それで新潟のがんセンターで受診したところ、薬で治療できるとの診察結果。
手術も怖かったが、入院、手術、退院後もさらに療養となると百姓仕事ができなくなる。キミだけではどうにもならない。子どもはまだ小学生の二人。
母は七十を過ぎて、簾を編む事くらいしかできない。母の妹である養母も年で頼れない。青森で、船で稼いだ貯金が少し残っているだけ。
手術といわれた時は目の前が暗くなった。キミと子ども二人の生活をどうするか、私が死んだらどうなる、と思った。
結局手術はせずに、服薬で胃潰瘍は克服できた。
その後は数年に亘り半年毎、そして一年毎に経過観察を受けた。
胃を切ると一度に飯が食べられなくなり、何度かに分けては仕事にならない。体力がどこまで回復するかも分からない。なにより手術自体が危険だ。薬で治って運が良かった。
経過観察の為に新潟まで行くにしても、一日仕事で済む。手術をしたら、百姓仕事ができる迄には半年かあるいは一年かかったかもしれない。
通院する内に、胃カメラを飲む事に慣れた。
先生が別の患者に対して、私を見習う様にと言った事もある。自慢にはならないが。
レントゲンの前のバリウムを、病院のサービスだと思った。病院の指示で朝飯を摂らずに行ったから、牛乳でも飲ませてくれたのかと思い、もう一杯くれと言ったところ、それはレントゲンを撮る薬だと笑われた。田舎者は困ったものだ。
胃潰瘍が治る迄の間、母が牛乳を一日二本取ってくれた。
牛乳を日常的に飲むほど豊かではなかったし、牛乳には相当な栄養があると信じていたのだろう。母が年金などないのに、昔から貯めていたわずかばかりの金から払ってくれた。
しかし、雅人と郁人の目の前では飲めなかった。キミは、せっかくお婆が取ってくれたのだから子どもに遠慮せずに飲んで病気を治して、と言ったが。二人に一本の半分ずつを飲ませて、自分が一本飲むのが精一杯だった。
キミの死
キミがホジキンリンパ腫と診断された。
鼠径部にしこりができたが、痛みがなく場所が場所だけに受診を避けていて進行した。我慢強いというのも、それが過ぎれば困った性格だ。
我慢強いからこそ、青森から新潟の農村に来て、専業主婦から農作業をやり、生きてくることができたのだから、私も無理を言っている事は分かる。
しかし、キミが一番我慢強かったのは、長い結婚生活を過ごした私に対してであったかもしれない。
三年の闘病。
一度は余命宣告もあり、ところが一度はがんが消えたという検査結果もあった。医者がヤブだったのか、検査精度・医学の限界なのか。
一度目の辛さに懲りて二度目の抗がん剤はやらないとキミが決め、それではこれ以上治療はないからと退院させられた。退院させたという事は、抗がん剤の効果がほとんどなかったか、苦痛を上回る程の効果はなかったと思われる。
治癒なり延命が相当程度期待できれば、強く抗がん剤治療を勧め、簡単には退院させないはず。そう信じたい。
キミの自宅療養中に私は馬鹿な事に、キミが怠けて布団から出てこないと思いこんで、怒ったり怒鳴ったり呆れたり苛立ったりしていた。
キミは病気で、起きられないというのに。
抗がん剤も辛かっただろうが、私が認知症でキミの病気を認識できなかった事が一番辛かったのではないか。
少しも労ってやらなかった。馬鹿な男だ。
キミは食事を極端に減らした。
盃に一杯ほどの量の飯に、梅干しくらいのおかずしか食べない。排泄の介助をする者がいないから。
公的機関に相談すれば良いものを、その様な知識がなかった。それ以前に、私には理性が無かった。
雅人から悠人宛に役場に相談する様にとの手紙が来たが、悠人はそれを理解しなかったのか、それともキミがそれを止めたのか。
それでもとうとう、おそらく郁人かゆかりさんが動いて、キミと私は施設に入る事になった。
ケアマネージャーがキミと私にひとりずつあてがわれた。キミは良く状況を理解して施設に入る事を納得したが、私は何も分からなかった。
私にとって施設は、キミとの旅行で泊まっている旅館、またはキミの病院に私が見舞いに来ている状況であった。
私が家に帰ると言うと施設職員は、明日迎えが来ますから今晩だけ泊まって下さい、と言う。キミも賛成する。それが繰り返された。認知症の私はその都度納得した。
キミは日に何度も家に帰ろうと言う私に、ここが家だから、ここにいれば風呂も入れてくれる、時間になればご飯も持ってきてくれる、掃除はしなくても良い、洗濯物はゆかりさんが取りに来てやってくれる、寝返りもしてくれる、浣腸もしてくれる、看護婦もいる、具合が悪くなれば直ぐ医者を呼んでくれる、家にいたら直ぐ死んでしまう、と返事した。
キミは私の認知症を理解していて、自分は病気で寝たきり、従って自分にも介護が必要、家での生活は不可能と分かっていた。
私だけを家に返しても、もう郁人では面倒を見られない事も。
キミが死んだ時、キミと母を混同した。
死んだのがキミなのか何十年も前に死んだ母なのか、区別ができなかった。
同じ施設に入っていたキミが死んだと知らされた。その時は理解した。
しかし、頭にもやがかかっていた。キミが死んだ事を忘れた時間があった。誰かが死んだらしいが、誰なのか分からない時間もあった。死んだのは母だと思った時間もあった。
キミの遺体がどこかに運ばれた。
私も子どもたちも一緒だ。しかし、ここは何処なのか、どうして家に運ばないのか。家に連れて帰って葬式を出さなければならない。
キミを家に連れて帰ろうと子どもたちに言うと、この頃の葬式は葬儀場でやるものだ、と拒否される。私はそれを忘れて、何度も同じ事を言う。子どもたちから何度も同じ事を言われる。が、直ぐに忘れる。
どれだけ待っても葬式が始まらない。
いつやるのだと子どもたちに訊くと、葬儀場の都合で明後日との事。それも忘れて、何度も訊く。子どもたちは口で言う事に疲れて、壁に貼られた葬儀日程表を指差す。
何か書いてあるが、読んでも直ぐ忘れる。今日が何日かも分からない。日程表の存在も忘れる。
雅人がキミの通夜に来てくれた人たちに、私に代わって挨拶した。
「皆様、本日は突然の事にもかかわらず、母・渡邊キミにご弔問を戴き、ありがとうございました。
母は青森の出身で、縁ありまして新潟で父と農業を営んでまいりました。体は丈夫な方でしたが、三年前にホジキンリンパ腫を患いまして、一時は余命宣告もありましたが、良く頑張り、がんが消えたという検査結果が出た事もありました。
しかし、とうとう十五日に息を引き取る事になりました。いくらか呼吸が辛そうな様子はありましたが、痛みはなかった様で、穏やかな最期でした。
満八十四歳でした。
生前、母に戴きました皆様のご厚情に深く御礼申し上げます。
心ばかりですが、酒肴の用意をしてありますので、お時間の許す方には母の思い出話などを聞かせて戴ければと思います。
あいにくの天気にもかかわらず、皆様本当にありがとうございました」
葬式の日の朝、キミは人を憎む事を知らない女だった、と葬儀場に泊まった親戚連中に教え聞かせた。
焼き場で最後の対面をして、キミにさようならと声をかけた。
あの時はキミだと知っていた。涙は出なかった。そんな安っぽく感傷的なものではない。六十年以上も一緒に暮らした、三人の息子を産んだキミは、私の人生の半分であり、私の体の半分であり、私の心の半分あり、その死に涙をこぼしてわずかでも救われる様な程度の存在では無い。
今朝の私の言葉を、雅人は私の代わりに精進落としの挨拶に使った。
「不動院様、御寺院様、お陰様を持ちまして、母の葬儀一切を滞りなく終える事ができました。どうもありがとうございました。
ご会葬の皆様、大変お忙しい中、また遠い所おいで戴き、どうもありがとうございました。
『人を憎む事を知らない女だった』というのが、今朝の、父の母に対する言葉です。
加えて、何事にも動じない、半世紀以上前の貧しい生活にも、過酷な農作業にも、我が儘な父にも、自分の病気に対してさえも動じない、強い母でした。
皆様には今しばらく、粗酒粗肴と共に母の供養をして戴ければと思います。
本日は本当にありがとうございました」
笑止がり(恥ずかしがり屋)だった雅人にしてはよく喋った、まぁまぁの挨拶だ。まぁ、六十を過ぎているから当然か。
全てが終わり、私は家に戻った。
ゆかりさんは、一旦家に帰ると施設に戻らないと言い出すことを心配して、まっすぐ施設に行くことを提案した。しかし息子たち三人が、二、三時間でも良いから家に連れて帰ると、ゆかりさんの危惧を無視する形で無責任に決めた。
家の仏間には葬儀屋が祭壇を飾ったが、私は一度も仏間に行かず、居間で過ごした。すっかりキミの葬式を忘れていた。家に帰った事が嬉しかった。調子に乗って酒まで飲んだ。
数時間して、息子たちがそろそろ施設に帰ろうと言った。
しかし私の家はここであり、何処にも行くつもりはなかった。ゆかりさんの危惧は的中した。
全てが終わり、家に戻った。
周りの人たちは私を施設に戻したがった。特にゆかりさんが、一旦家に帰すと施設に行かないと言い出す事を懸念した。
ゆかりさんは一番私の面倒を見てくれた、実の息子たちよりも手を焼かせてしまった人だ。私が心臓を悪くして通院する時、キミがリンパ腫で通院する時、入院したキミを私が見舞いに行く時、いつも車に乗せて行ってくれたのがゆかりさんで、私はありがたくてゆかりさんに頭が上がらない。
心臓の通院に世話になっていながら、心臓に悪い酒と煙草をやるわけには行かないから、両方やめた。
それくらい私はゆかりさんには感謝していた。そしてゆかりさんは私を良く知っており、直接施設に戻す事を息子たちに勧めた。しかし息子たちは二、三時間だけでもと、ゆかりさんの危惧を無視する形で無責任に決めた。
家の仏間には葬儀屋が祭壇を飾ったが、私は一度も仏間に行かず、居間で過ごした。すっかりキミの葬式を忘れていた。家に帰った事が嬉しかった。調子に乗って酒まで飲んだ。息子たちが施設に戻ろうと言ったが、断った。
翌日ゆかりさんから、お婆ちゃんが待っているから見舞いに行こうと言われた。
息子たち三人に施設に連れて行かれた。どうした訳かゆかりさんは来なかった。
いつまで待ってもキミが現れない。施設職員や子どもたちはその都度、お婆ちゃんは検査中だ、入浴中だなどと言う。そして私がキミを忘れる事を待った。
その内息子たちもいなくなった。施設職員が私に、ここに居て欲しい、外に出るのは危ない、家に帰ってしまえばお婆さんに会えない、などと言う。
ゆかりさんから電話が来て、明日会いに行くから今晩だけそこに泊まって待っていて下さい、と言われた。
ゆかりさんが言うならと納得して、泊まった。
今だから分かるが、あれはゆかりさんではなく、施設職員だった。ゆかりさんの振りをして、嘘の電話をしたのだ。認知症で見抜けなかった。
認知症
自分の心臓の薬さえ管理できない。
毎食後、自分で薬を飲んで、その一、二分後にはまた袋から薬を取り出して、悠人がそれを見て注意する。さっき飲んだばかりだ、と。それも忘れてまた薬を取り出そうして、また注意すされる、その繰り返し。
悠人は疲弊して、一度は私を殴る寸前までになった。その時キミが悠人に、叩いたら終わりだぞ、と言ってかろうじて止めた。二人とも辛かっただろう。
私がキミを全く介護・看病しないから、悠人がキミを風呂に入れる。
娘ならまだしも、嫁ならともかく、息子が母親を風呂に入れるとは、キミも悠人も本当に辛かったと思う。申し訳ない。
納税通知書が配達されたから、郵便局へ払いに行った。
通帳とハンコをどこのポケットに入れたかと何度も確認して、それでも覚えられず、持ったのか自信がなくてまた確認し、自分はもんぼれてしまったと思った。
郵便局で税金は払わなくて良いと言われ、帰った。ゆかりさんから電話が来て、税金は自動引き落としだから払いに行かなくても良いと言われた。局員がゆかりさんへ連絡したらしい。
郵便局へ行った事も、ゆかりさんからの電話も直ぐに忘れた。ついでにハンコを無くして、悠人に怒られた。
不思議な事に、自分は馬鹿になった、もんぼれたとの自覚はあった。
記憶力がない、根気もない、どうにか対策できるのかと思考する意欲もない。老化だから仕方ない、という諦めがあった。
頭脳老化の最終到達点、認知症。救われない。
長く生き過ぎた人間の末路。
一度、雅人の顔を忘れた。
雅人を雅人と認識できなかった。雅人夫婦が帰省して、台所を片付けてくれた。ゴミが山ほど出て、道路の向かいのゴミ置き場に雅人と二人で捨てに行った。
ゴミ置き場のドアを閉めて、二人で道路を渡って戻ろうとした時、隣に立っている男の顔に見覚えがなかった。
あなたは誰ですか、と訊いた。男は苦い顔をするばかりで答えない。三度も四度も訊いた。不思議で、訊かずにはいられなかった。
ふと気付いた。
いや、正気に戻った。お前は雅人か、と私は言った。そうだ、とホッとした様に雅人が答えた。あの一分か二分、あの一度だけ、長男が誰か分からなかった。
瞬間かもしれないが、自分の子どもの顔を忘れたのか、それとも自分に子どもがいることを忘れたのか、いずれにしてもひどい病気だ。
きっと自然の原理か摂理を超えて、長く生き過ぎた人間への刑罰なのだ。
認知症、本人は良いが、回りは消耗する。
誰の言う事も聞かない、覚えられない、従えない、判断できない、薬を飲み忘れる、何度も薬をくれと言う、食事が出ないと言う、ここはどこだと訊く、家族はいつ来るのかと訊く、家に帰ると駄々をこねる・・・・・。
家族では面倒を見切れない。
むしろ一般の、脳以外の、内蔵の、しかも重篤な病気の方が家族には、社会にとっても望ましい、かもしれない。
家族はそう気付かなくても、そう認めたくなくても、そうであろう。例えば九十を過ぎて認知症であと何年生きるか分からないより、九十まで生きたら何の病気で死んでも寿命と諦めがつく。
私はキミに、ゆかりさんに、郁人と悠人に、介護施設職員に、病院職員に対して罪が深かった。不用意にして、うかつにも、そして軽率な事に、図らずも、長生きし過ぎたばかりに周囲に過大な負担を強いた。
胃潰瘍は、薬で克服できた。
脳梗塞は、異常を感じて自分で救急車を呼んで医者から褒められた。左半身が動かし難くなったが、それで済んだ。
狭心症では、少々リスクのあるカテーテル治療を受け、運良く奏功した。
最後が認知症。これを患った私に、さらに生きる価値はあったのか。意味はあったのか。
私にとっては、価値も意味もゼロだった。
家族にとっては、価値も意味もマイナスだった。
私の死
キミが死んで私ひとりが施設にいる間、キミに会えない事が強い不満だった。
職員はいつも二、三の言い訳のあとに、お婆ちゃんはもうすぐ戻って来ると言った。あるいは、ゆかりさんから明日迎えに来ると電話があったと言った。それが一日何回も、一年近くも繰り返された。
職員は決してキミが死んだとは言わなかった。死んだと言えば、私が家に帰ると言い出し、対応が面倒になると考えたのだろう。
しかし、あの時の私は実は、キミが死んだ事に気づいていた、知っていた、覚えていた、のではないか。
かすかな、決して確信ではない、不確かな時にこそ言う『確か』を前置した『キミは死んでしまった』という曖昧な記憶、それとも疑問の様なもの。
それでも私はここにひとりでいるべきだという脆弱な意志。
キミは診察中だから、少し待てば戻って来るだろうという淡い期待。キミは入浴中だから、もう直ぐ帰って来るだろうというほのか希望。
次の瞬間には、ここはキミと泊まっている旅館なのか、キミを見舞いに来た病院なのか、という混乱。なぜキミはいないのか、いつまで待てば良いのかという苛立ち。
さらには、どうやって家に帰れば良いのか、誰か迎えに来てくれるのかという焦燥。
上着のポケットに五千円札が一枚あるが、入院費用は、あるいは宿泊費用はこれで足りるかという気がかり。
ゆかりさんの、もう一晩だけ泊まって下さい、明日は迎えに行きます、という言葉への縋り。
しかし、迎えには来ないのではないか、家には帰れないのではないかという疑念。
理由は不明ながら私はここにいるべきだ、という奇妙な使命感と納得感。
その様なものの出現したり消失したりが繰り返された。
いつの間にか、キミを忘れて毎日を過ごす様になった。
不思議だ、どうしてキミを忘れたのか。六十年も一緒に暮らしたキミがいない、それさえも奇妙に感じないのが認知症なのか。
自分が誰か、妻帯したかさえ忘れたのか、それとも全てを諦めたのか、今も分からない。
排尿が頻繁で、便所まで我慢できない事が時折ある様になった。
そこで、部屋に便器が置かれた。便所へ行かず、これに排尿しろという。
馬鹿にするな、と思ったが徐々に使用する様になった。
ある日尿を床にこぼして、その尿で滑って転倒した。立ち上がろうともがいていた所を、巡回に来た職員が発見した。
胸が、おそらく心臓が押さえ付けられる様に痛くて痛くて、どうにもならない。
息が苦しい。息ができない。
いくらもせずに心臓が止まった。直ぐに呼吸も止まった。
郁人とゆかりさんと悠人が病院に来た。私は三人を空中から見た。
三人の会話から、私の右大腿骨頸部骨折、入院、手術を知った。
私は入院中である状況を理解できない、便所に行く必要がないと言っても直ぐ忘れてベッドから降りようとする、点滴のチューブを抜こうとする、それを抜かないよう両手にはめた手袋を外せと怒鳴る、腹が空いたと怒鳴る、骨折部位が痛いと怒鳴る、医師や看護師にお前は誰だと怒鳴る、手負いの動物の様な状態。
二十四時間看護師が監視・対応する事はできない。家族にもできない。
心臓が弱っている所へ、思い通りに行かない事への怒りがあり、ミトンをはめる以上の身体拘束をすると心臓の負荷が限界を超えると予想される。
身体拘束してまで生かす、生きるではなく、生かす事が本人にとって意味があるのか。
家族も病院でも対処し切れない厄介を解決する手段は、鎮静剤で眠らせる事。
医師は、私の心臓が弱っているので栄養を含む点滴は避けるべきで、ブドウ糖と塩分の点滴に鎮静剤を混注すると決定した。
眠り続けて四日目に眠る事に飽き飽きして、急性心筋梗塞で私は死んだ。
私の兄弟は歳の順番に死んだ。
兄貴は六十七、姉は六十九、私は九十五で、残った弟はいつまで生きるか分からないが、私のあとだ。
兄貴は死ぬまでウィスキーを生で飲んでいた。煙草も喫んでいた。そして大量の血を吐いて、ひとり自宅で死んだ。
入院するでもなければ、私やキミに面倒をかけるでもなく、兄貴らしい見事な死に様だ。
兄貴の様にあっさりと誰にも迷惑をかけず(死後は警察や葬式はあったが、生きている間に入院も介護もなかった)死ねれば良かった。
二年や三年早くても、五年早くても良かった。それでも九十だ。
私は、ゆかりさんに迷惑をかけたくないから酒と煙草を絶ったつもりだったが、実は死にたくなくて、長生きしたくて絶った、命根性の汚い男だ。
今、人生の記憶を楽しんでいるが、このあとキミに会えるのか、母に父に会えるのか、船の師匠や仲間にも会えるのか。
それほど人生は、いや、死後は都合良くはないか。
私の生涯
さて、私の人生はどうであったのか。
人生、一生、生涯、生命、大層に言っても、人間、腹が減れば力が出ないし、蚊に刺されれば痒い。生きていれば楽をしたいし、男ならきれいな女が欲しい、人には認められたい。欲望に限りは無い。
一切を求めず、修行したり努力する事だけが尊い人生なのか。それも、欲望に負けた、と言える。通俗的欲望を絶ちたいという欲望に。
先祖から使い切れない程の財産を残される人生がある。
私の様に、なんとか食おうと、生きようと、子どもを育てようと、あがく人生もある。
しかし、それら全てが私の楽しみではなかったのか。それ程うまくはないが食うものがある、それほど勉強もスポーツもできないが子どもが育っている。今日も生きた、その様な楽しみ。
生まれたからには生きる、生き続けるのが人生。
それが、事故、病気、犯罪、戦争で適わぬ人もいる。
ならば、人生は運なのか。生まれてきたのが第一の運。育ててくれる親に当たったのが次の運。結婚したのが次の運・・・と。
運だけが人生なら空しい。努力ができる、という運がありがたい。
人生にはいかなる形態か種類かにおいて、次の様なものが必要とされる。
生物学的両親、養育、教育、健康、就業、法的保護・権利など。
いかなる形態か種類において、次の様なものが自然に発生または遭遇する事がある。愛情、憎悪、貧困や飢餓を免れたとしても病気、怪我、災害、欲望、嫉妬、後悔、絶望、感動、幸運、悲運、孤独、など。
いかなる形態か種類において、次の様なものが学習や経験によって会得される。
言語、嗜好、真実、虚偽、良心、邪心、理性、感性、知識、暴力、虚栄、欺瞞、策略、忍耐、服従、抵抗、統率力、判断力など。
いかなる形態か種類において、次の様なものがあれば人生に彩りを添える事ができる。伴侶、子、趣味、友人、経験、芸術、感動、思索など。
これらのいくつかは、広い意味での自由とみなす事ができる。
人生を拒否して死を自由に選ぶ人さえ稀にいる。良心を押し潰して虚偽を証言する自由、各種の欲望を汚い手段を使ってまでも実現する自由、伴侶や子を持つ自由、持たない自由、捨てる自由。理性を廃棄して暴力に生きる自由、結果的に実現しないだろう事に対してそれでも努力する自由など。
同時に、生きている限り老いと死は絶対に避けられない。
病気や怪我を避ける努力はできるが、必ずしも奏効するとは限らず、伴侶や子、友人、理性、経済的基盤、教育などを切望しても必ずしも獲得できるとは保証されない。
それでも、自由に考え、自由に発言し、自由に批判し、表現し、投票し、どこへでも旅行し、どこにでも住み、職業を選択し、自由に生きる事は最大の幸福だ。
人生は楽をする事・易きに流れるべきだろうか。
食えればそれで良い、煙草や酒を我慢しても労働は最小限にしたい、家族は持たない、雨が少々漏れるボロ家で良い、老後は野垂れ死んでも良い、そんな生き方で満足する人もいるかもしれない。
社会の世話にはなりながら、貢献はしない生き方。
それとも嫌で辛い事を我慢して、必死に働くべきか。
平均より豊かになり、伴侶と子を得て、趣味を見つけ、なんとか老後をやり過ごす。
それが何になるかと問われれば、少なくとも社会へはいくらか借りを返したと言えるが、何と答えるべきか。
適切に養育され、教育を受け、健康な心身で生活を営むならば、それだけで生産と消費によって社会への貢献となる。
不運にして心身に故障を得た人を、社会が援助する事は当然だ。それが、人間が社会を構成する理由のひとつだから。
生産者、研究者、技術者、事務労働者、医療従事者、教育者、経営者、建設労働者、輸送従事者、販売者・・・あらゆる人々が社会を構成し、社会に貢献し、しかしいつか社会から援助を受ける可能性を抱えている。
遺伝子として生存し続ける為の多様性という観点からであれば、嘘と欲まみれの政治家や高級官僚にも暴力団の半端者と同じ程度の存在意義は認めざるを得ない。
親より先には死ななかった。
これは親孝行。
親より長い年数を生きた。これは、既にいない親にとっては何の意味もない。長生きしたが認知症で子に迷惑をかけたし、社会の負担にもなった。
生産せずに長く生きる、それは食料やエネルギー資源を消費し環境を汚染するので、社会や地球のコストになる事は間違いない。
して良かった事、して悪かった事、しないで良かった事、しないで悪かった事を計算して、自分は幸福であったか、不幸であったか答えを出しても、死後の今、意味はない。
後悔をしない人はいない。大から小まで人生は後悔の連続。老後の資金を残さなかった後悔、資金はあるが老いぼれ過ぎてそれを有効に消費できない後悔、家族を持った後悔、持たなかった後悔、自堕落に生きた後悔、努力と忍耐だけに生きた後悔。
金があっても使い道がなければ無意味で済むが、子が犯罪者ともなれば無を通り越して負になる。
宇宙には果がなく、今も膨張を続けているという。
果のないものが更に膨張しているとは、無限の二倍、無限の自乗が成り立つのか。尋常高等学校しか出ていない私に理解できるはずもないが、無限の宇宙の中の地球、その中の人類、その中のひとりである私の人生に意味を探す事に、それこそ意味があるのか。
私の存在どころか地球の存在さえ、宇宙的には無意味。
しかも既に私は死んだから、今から修正もやり直しもきかない。
もう生きてしまった。もう死んでしまった。全ては過ぎ去った。
しかし今だからこそ、認知症が消えた頭で人生を振り返って楽しかった事を思い出してもう一度楽しむ。
辛かった事は思い出さない。もう一度辛さを感じたくはない。
いや、辛かった事も思い出して、もう一度辛い思いをして、その原因や理由などはどうでも良く、ともかく辛かった事も私の人生の一部だった、生きた、と一段上の楽しみとするか。
どれほど辛くても、もう生きる事も死ぬ事もないのだから。
自分の人生を他人のそれと比較する事に意味を認めないのであれば、自己満足で充分となる。
純粋に自己判断で良い。自堕落で楽しかった、欲望を抑制しなかった、障害となったルールや法は無視した、後悔はない、となれば、それが全てであり、幸福である。
努力してこれだけのものを得た、残した、実現した、私は能力の限り良くやった、満足である、も、それはそれで良い。
平均より、兄弟より、親より、同期より友人より、肩書、生涯賃金、子どもの数、家の大きさ、年金の額、孫の数、学歴、所属した企業の業種や規模、クレジットカードの色、妻の美醜、賞や勲章などを人と比較した結果で幸福感に浸る人もある。
妻と子を最低でも飢えさせなかったか、できる限り幸福にしたか、尊敬されたか、子に適切な躾と望む教育を与えたか、つまり夫として父として役割を果たしたか。果たしたと疑いが無ければ、人と比較しなくとも人生の満足感、達成感、誇りを得られと信じる人もある。
何かを残しても、何を残そうとも、いずれ人は死ぬ。
財産、残されて家族の邪魔にはならない。借金、それは残してはいけない。
芸術作品、所詮少数の評論家とそれに操られた大衆に受けただけのもの。
名前、または汚名、本人は残った事を知らず、いずれ風化し忘れ去られる。
人は就業せずに暮らせないから、詐欺や強盗などの犯罪も、税金を食い物にしている議員の政治もどきや高級官僚の行政もどきも、それで食っている限り職業と見なす。
学問的成果、新発見で覆されるかも。技術的成果、戦争の道具にされる可能性。社長や教授の肩書、名刺と共に消滅。政治家と高級官僚、唾棄すべきペテン師。
食物を供給する百姓、畜産農家、漁師などはその仕事だけで社会に充分以上に貢献しており、故に誇れる人生であり、百点を付けるに値する。
食物あっての、芸術であり医学でありビジネスである。
ならば、私の人生は他の誰とも、母とも、父とも、兄弟とも比較せずとも、魚を捕り、米を作ってきただけで最高の人生を過ごしたと言える。
加えて、妻を得て、子をなした。これ以上の大事業があろうか。これ以上の幸福があろうか。
差し引きするものはないのか。
ある。離婚して最初の妻と娘を不幸にした。マイナス五十点とする。しかし、単純に差し引いて五十点とはならない。百点と同時にマイナス五十点ある。私の後悔、私の不実、私の罪、私の悪。マイナス五十点は厳として私の心に存在する。
この高揚感とこの沈滞感を抱えた私の意識は、いつまで在るのか。
四十九のとき七十七の母を亡くして、そのとき私は初老、子どもたちは中学生と小学生に未就学。
まだまだ死ぬわけには行かず、うまく子どもたちを成人させた後にどれほど生きられるかと考えた。
九十五で死んでみて母より随分と長くは生きたが、さて、どれ程の一生であったか、生き様であったかと思い返してみた。
しばらくしたら、この意識は消滅するだろう。
人は生まれ変わるのだろうか。きっとその様な事はない。
人生に目的は必要だろうか。
意味や意義は必要だろうか。
人間に飼われている動物も自然に生きている動物も、人生を考えない。
神に飼われている人間も宇宙に生きている人間も、人生を考える必要はない。
意外に死後の意識が長生きしたな。
私の通夜、長男が挨拶している。
「皆様、本日は突然の事にもかかわらず、父、渡邊直俊の通夜にご参列戴き、どうもありがとうございます。
父は小学校しか出ておりませんが、近所に住む中学生に数学を習いながら、船の機関士の免状を取得し、青森、北海道、樺太近海で漁船の機関長として漁業に従事しておりました。
しかし、私が生まれ、次弟が生まれた頃に、友人が何人も遭難する危険な職業に見切りを付け、新潟に戻り、以来、農業を営んで来ました。
稲作が主体でしたが、畑では、その時々に求められた菜種、煙草、西瓜などを栽培してきました。
作物が違う毎に、勉強や工夫が要求された事と思います。
漁業と農業という、激しく厳しい労働によって、新潟で生まれた末弟を含めて、私ども三人の息子を育て上げました。
そして、六人の孫を得る事ができ、晩年は平穏であったと思います。
満九十五歳でした。
人の人生はその長さだけで評価されるものではありませんが、皆様のお陰もありまして、その内容においても、その年齢においても、父は自分の人生を生き切ったと思います。
心ばかりですが、酒肴の用意をさせて戴きましたので、お時間の許す方は、今しばらく父を偲んで戴ければ幸いです。
本日はお忙しい中、本当にありがとうございました」
精進落としの挨拶。
「不動院様、御寺院様、お陰様を持ちまして、父の葬儀一切を滞りなく終える事ができました。どうもありがとうございました。
ご会葬の皆様、大変お忙しい中、また遠い所おいで戴き、どうもありがとうございました。
父の人となりを振り返ってみますと、子どもに対しては母より甘い所があったと思います。中学生の頃、主に経済的理由から反対する母を押し切って、カセットテープレコーダーやラジオを買ってくれたのは父でした。
高校生の時は、通学の為に佐々木駅まで自転車で行くのは大変だろうとオートバイを買ってくれたのも父でした。但し、学用品として買ってやるのだから無茶はするな、と釘を刺す厳しさはありました。
父は酒と煙草を愛しておりましたが、病気を機に、いつも病院に連れて行ってくれる長弟の妻に申し訳ないからと、きっぱりやめる、自分を律する事もできる人でした。
ここに含めるには少し異例かもしれませんが、通夜、葬儀全般の調整をしてくれた長弟夫婦、それを縁の下から支えてくれた末弟に感謝したいと思います。
皆様には今しばらく、粗酒粗肴と共に父の供養をして戴ければ大変ありがたく思います。
本日は本当にありがとうございました」
長男も次男も三男も、子どもたちは皆うまく育った様だ。
たかが魚を捕る事に命を懸け、死ぬかもしれない、殺されるかも分からない兵隊に取られ、牛と一緒に田畑を耕す。
そんな、生き方とは呼べない人生。
首に掛けたタオルで流れる汗を拭い、西瓜の重さが肩に食い込み、手は煙草の葉のヤニで真っ黒に汚れ、稲藁の埃は首にチクチク刺さり、冬はかじかむ手でスコップを握って穴を掘ったりコンクリートをかき混ぜたりしてきた。キミにも同じ事を強いた。
そうやった子ども三人を育てた。振り返る程のものは何もないが、生き切った。
認知症の数年は余計だった。それだけだ。
しかし、キミはどこへ行った。
いつ戻って来る。ここはどこだ。病院か。いや、キミは退院したはずだ。
旅館だ。どこの旅館だろう。とにかく、明日はキミと一緒に家に帰ろう。
ずいぶん長い間泊まった気がする。財布がないが、ポケットに五千円札が一枚ある。これで足りなければ、ゆかりさんに電話して持っ来て貰えば良い。
この旅館は頼んでも酒が出なかった。ケチ臭い所だ。家に帰ってから飲む。
キミが来る前に荷物をまとめておくか。
便所に行こうとすると止められる。
便所に行くなとは、どういう事だ。これは点滴だな。ここは病院か。
眠くなって来た。もう便所は面倒くさい。
私は寝ているのか、起きているのか。腹が減ったが、体が動かない。体を起こしたいが、手も足も動かない。
キミ、聞こえるか。ゆかりさん、聞こえるか。郁人、悠人、いるか。雅人は帰って来ないのか。
何日も眠り続けている気がする。
私はもう目が覚めないのだろうか。
キミは去年死んでしまった。焼き場で、さようならと別れを言った。
私もやっと死ぬのだな。もう死んだのかもしれない。
私はこの一年を、何の為に生きてきたのか。もう沢山だ。
私が先に、キミに手を取って貰いながら死ぬつもりだった。私のほうが九つも年上だから。先に死ぬ馬鹿があるか。(終)
何日も眠り続けている気がする。
私はもう目が覚めないのだろうか。
キミは去年死んでしまった。焼き場で、さようならと別れを言った。
私もやっと死ぬのだな。もう死んだのかもしれない。
私はこの一年を、何の為に生きてきたのか。もう沢山だ。
私が先に、キミに手を取って貰いながら死ぬつもりだった。私のほうが九つも年上だから。先に死ぬ馬鹿があるか。(終)




