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悪役令嬢は激怒した  作者: 松本雀


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9/17

悪役令嬢たちの戦略

 四戦を終えて、戦績は三引き分けと一つの未決着。


 どちらが真の悪役令嬢か、白黒はまるでついていない。だが、何かが変わり始めていた。


 最初の変化は、些細なものだった。


「ローザリンデさん。この紅茶、お好きかしら」


「ダージリンのセカンドフラッシュ? 嫌いではないけれど」


「そう。では次回は別のものを用意しますわ」


 次回。その言葉を、どちらも不自然に思わなかった。次があることが、いつの間にか前提になっている。


 二つ目の変化は、もう少し具体的だった。


「あなた、左の縦ロールがまた緩んでいるわよ」


「ご指摘どうも。辺境には腕のいい髪結いがいなかったものですから」


「私の髪結いを貸してあげましょうか。火曜日なら空いていますわ」


「……別に、あなたに借りを作るつもりは」


「借りではありませんわ。対戦相手の身だしなみが整っていないと、勝っても箔がつきませんもの」


 三つ目の変化は。


「ローザリンデ様」


 マリエッタがある朝、遠慮がちに言った。


「昨日、クラリッサ様から贈り物が届いておりました」


「贈り物?」


「ラベンダーの苗です。辺境の薬草園に植えたら良い品種だと、お手紙が添えてありました」


「…………」


「……ローザリンデ様、今ちょっと嬉しそうな顔をされましたよ」


「していない」


「しています」


「していないと言ったらしていないの。……それで、何の品種?」


 似たような光景が、クラリッサの側でも起きていたことを、ローザリンデは知らない。


「クラリッサ様。シュヴァルツェンベルク様から、小包が届いております」


 メイド長ヘルミーネが報告した。


「あら」


「自家製のハーブティーだそうです。『あなたは寝不足のようだから、カモミールを調合しました。飲みなさい』と」


「……命令形ですのね、相変わらず」


「お捨てになりますか?」


「捨てるわけないでしょう、淹れなさい」


 どちらも認めない。


 友情などという安っぽいものではないと、二人は言うだろう。敵同士の礼節だ、戦場での敬意だ、対等な相手への最低限のマナーだ、そう言い張るだろう。


 だがマリエッタの見立てでは、あれは控えめに言っても友情で、もう少し正直に言えば、お互いにしかわからない孤独を嗅ぎ取った者同士の親近感だった。


 悪役令嬢は孤独な役回りだ。誰からも恐れられ、誰からも嫌われ、最終的には舞台から退場させられる。そのことを骨の髄まで知っている人間が、自分以外にもう一人いる……その事実が、二人の間の空気を、少しずつ変えていた。


 変化が決定的になったのは、ある夜のことだ。


 五戦目の内容と形式を詰めるため、二人は銀の雫亭の個室で夜遅くまで協議していた。協議というのは建前で、実際にはダージリンのサードフラッシュを飲みながら延々と悪役令嬢論を語り合うだけの会だったが、当人たちは真剣だった。


「思うのだけれど」


 ローザリンデが言った。


「あなたの悪役令嬢としての方向性は、政治家に近いわよね。裏で糸を引いて、権力構造を動かす。嫌味も高笑いも、計算ずくの演出」


「それの何がいけませんの?」


「いけなくはないわ。ただ、楽しんでいないでしょう、あなた」


 クラリッサの手が止まった。カップを唇に運ぶ途中で、ぴたりと。


「……楽しむ?」


「悪役令嬢を楽しんでいないでしょう。あなたのすべてが計算なのは、裏を返せば、計算しなければやれないということよ。私は、雑だったかもしれないけれど……少なくとも、悪役らしいセリフを考えるのは楽しかったわ」


「靴を隠すのは?」


「あれは怖かった」


「……ぷっ」


「笑わないで」


「失礼。続けてくださいな」


「つまり。あなたには、悪役令嬢をやる動機はあるけれど、衝動がない。何か目的があって悪役令嬢を演じている。そうでしょう?」


 沈黙が落ちた。


 夜の銀の雫亭は静かだ。他の客はとうに帰り、給仕も奥に引っ込んでいる。二人きりの個室に、壁掛け時計の音だけが響いていた。


 クラリッサは紅茶を見つめていた。


 深紅の液体に、天井のシャンデリアが映り込んでいる。冷たい目が今日は、少しだけ温度が違って見えた。疲れているのかもしれない。あるいは、自らの矜持を手放そうとしているのかもしれない。


「……ローザリンデさんは、鋭いですわね」


「鋭いんじゃなくて、あなたがわかりやすいのよ。少なくとも私にはね」


「それは光栄と言うべきかしら」


「事実を言っただけよ。話してくれる?」


 クラリッサは長い息を吐いた。扇を閉じ、テーブルの上に置いた。武器を手放すように。


「……ルナフォール侯爵家の跡継ぎは、兄ですの」


「知っているわ。ランドルフ・デ・ルナフォール。社交界では……」


「無能で、善良で、人畜無害な人間として知られている」


「……もう少し柔らかい表現を使おうと思ったのだけれど」


「事実ですもの。柔らかくする必要はありませんわ」


 クラリッサの声は淡々としていた。淡々としすぎていて、逆に何かを押し殺しているのが透けて見えた。


「兄は優しい人です。誰にでも分け隔てなく、争いを好まず、穏やかで領民にも慕われている。人間として、欠点のない人ですわ」


「でも、当主としては……」


「致命的に向いていない」


 断言だった。


「決断ができないのです。領地の運営に必要な判断、予算の配分、交易路の交渉、他家との利害調整。そのすべてにおいて、兄は『みんなが幸せになる方法を探したい』と言う。それ自体は美しい理想ですけれど、現実の政治で全員が幸せになることはない。誰かを切り捨てなければ、全体が沈む。そしてその判断を、兄はできない」


「……では、侯爵家は?」


「今は父がいますから、まだ保っています。けれど父ももう長くはない。あと数年……いえ、数ヶ月かもしれませんわ。父が引退した後、兄が当主になれば、ルナフォール侯爵家は、十年以内に瓦解します」


 クラリッサは紅茶を一口飲んだ。冷めかけていたが、構わない様子だった。


「私が当主になればいい。そう思いました。けれど侯爵家の慣例では、男子が継ぐ。女子が当主になった前例は三百年ない。父も兄も、周囲も、私が継ぐことは想定していない」


「だから——悪役令嬢」


「ええ。社交界で名を売り、恐れられ、影響力を持つ。実質的に侯爵家の外交を私が掌握する。兄が当主になっても、実権は私が握る。そのための布石ですの。悪役令嬢としての悪名は、言い換えれば『この女には逆らえない』という信用。政治における信用とは、好かれることではなく、怖がられること」


「それで、あの完璧な悪役令嬢ムーブ」


「すべて計算です。高笑いの音圧も、嫌味の精度も、紅茶のかけ方も。一つ一つが政治的メッセージ。クラリッサ・デ・ルナフォールは逆らってはならない相手だと、社交界に刷り込むための」


 クラリッサは自嘲するように微笑んだ。


「楽しんでいるか、と訊きましたわね。答えは……楽しんでいません。楽しむ余裕がない。すべての振る舞いに意味と目的があって、一つでも間違えれば計画が崩れる。私にとって悪役令嬢とは、戦略なの。生き方ではなく」


 ローザリンデは黙って聞いていた。長い間、黙って聞いていた。時計の針が進む音だけが、個室に響いていた。


 やがて、ローザリンデは口を開いた。


「つまり、あなたの計画はこうね」


 指を一本立てる。


「社交界で悪名を確立する。恐怖による支配で侯爵家の外交を掌握する。兄が当主になっても実権は渡さない。……それで、どうやって『社交界の外』を押さえるの? 領地の運営は? 交易ルートの管理は? 軍事顧問との関係は?」


「……それは、これから……」


「お茶会で高笑いしていれば領地経営ができると思っているの? 社交界の悪名なんて、屋敷の外では紙切れ同然よ。商人は悪役令嬢が怖いから取引するわけではないし、領民は高笑いの音圧では動かないわ」


 クラリッサの目が、わずかに揺れた。


「あなたの計画は、半分しかできていない。社交界という表舞台の戦略は見事よ、認めるわ。でも裏側、実務の部分が丸ごと抜けている。それでは兄が潰れる前に、あなたが先に行き詰まるわ」


「……それは」


「それに」


 ローザリンデは腕を組んだ。


「あなた、孤立しているでしょう。悪役令嬢として恐れられることを選んだ結果、味方がいない。側近はいても腹心がいない。命がけで助けてくれる人間が、一人もいない」


 クラリッサの指が、テーブルの上でかすかに震えた。


 一瞬のことだった。すぐに握り込んで隠したが、ローザリンデは見逃さなかった。


 図星だ。


「……ローザリンデさん」


 クラリッサの声は平静を装っていたが、いつもの冷たさが抜けていた。


「忠告はありがたいですけれど、私の家のことは、私が」


「その程度の策略で、悪役令嬢を名乗らないでちょうだい」


 遮った。


 ローザリンデの声は、不思議なほど穏やかだった。怒りでも軽蔑でもない。ただ真っ直ぐだった。


「あなたの計画は穴だらけよ。社交界の威圧だけで権力を維持できると思っているなら、甘い。実務と人脈と、何より、覚悟が足りていない。悪名を売るだけなら誰にでもできるわ。大事なのはそこから先」


「……あなたに何がわかるのよ」


 敬語が崩れた。


 初めて。クラリッサの言葉から、計算が消えた。


「わかるわよ」


 ローザリンデは言った。


「私は実際に追放された側だもの。悪役令嬢の末路がどうなるか、身をもって知っている。あなたには、こうなってほしくないのよ」


 沈黙。長い、長い沈黙。


 クラリッサは目を伏せた。プラチナブロンドの睫毛が、頬に影を落としている。冷たい湖のような瞳が、今だけは、薄い氷の下で何かが揺れているように見えた。


「……何様のつもりですの」


 声は小さかった。小さくて、かすれていた。


「先輩様のつもりよ」


「…………」


「私が本物のやり方を教えてあげるわ」


 ローザリンデは立ち上がった。テーブル越しにクラリッサを見下ろす。


「領地経営の実務は私が教える。辺境で半年、泥にまみれながら覚えたことが山ほどあるの。商人との交渉術も、領民との信頼の築き方も。あなたの頭脳と私の経験を合わせれば、穴は埋まるわ」


「……なぜ」


「なぜ?」


「なぜ、私を助けるの。私たちは対戦相手でしょう。悪役令嬢の座を賭けて争っている最中でしょう」


「ええ、争っているわ。それとこれとは別よ」


「別になるわけがないでしょう!」


「なるわよ。だって」


 ローザリンデは微笑んだ。


 悪役令嬢の微笑みではなかった。辺境で花に話しかけていたときの、あの穏やかな顔だった。


「あなたが潰れたら、勝負の決着がつかないじゃない」


 クラリッサは数秒間、ローザリンデの顔を見つめていた。


 それから、ふっと笑った。今度は計算のない、本当の笑みだった。小さくて、不器用で、きっと本人は気づいていない。


「……馬鹿ですわね、あなた」


「真の悪役令嬢に向かって馬鹿とは何よ」


「馬鹿は馬鹿ですわ。……先代の悪役令嬢が、一体何を教えてくれるのかしら?」


「まだ言うの、それを」


「一生言いますわ」


 二人は顔を見合わせて、笑った。そして同時に笑ったことに気づいて、同時にばつが悪い顔をした。

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