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悪役令嬢は激怒した  作者: 松本雀


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8/17

公爵令嬢ローザリンデの思い出

 その夜、ローザリンデは眠れなかった。


 マリエッタのアパルトマンの狭いベッドに横たわり、天井を見つめている。隣の寝台ではマリエッタが寝息を立てている。規則正しい、穏やかな呼吸。彼女はいつだってよく眠る。図太いのだ。それが少しだけ羨ましい。


 ——羨ましい。


 その言葉が、頭の中で引っかかっている。


 クラリッサが言ったのだ。今日、銀の雫亭で。紅茶のカップの縁に吸い込まれるように消えた、小さな声で。


 あなたのことが、少し、羨ましい。


 何が羨ましいのか、クラリッサは説明しなかった。ローザリンデも訊かなかった。


 だが、あの言葉がずっと残っている。喉に刺さった小骨のように、飲み込めないまま。


 寝返りを打つ。


 窓の外から、夜警の足音が遠く聞こえる。王都の夜は辺境より騒がしい。人の気配が近い。壁一枚の向こうに誰かがいる。それなのに、静かだ。自分の内側だけが妙に騒がしい。


 天井の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。


 ローザリンデは目を閉じた。


 閉じると、別の天井が見えた。


 もっと高い天井。もっと広い部屋。金箔の施された装飾と、重厚なシャンデリア。シュヴァルツェンベルク公爵邸の、自分の部屋の天井。


 ◇


 あの屋敷は、いつも静かだった。


 広すぎるのだ。


 廊下が長く、部屋が多く、天井が高い。家族で住んでいたのは三人、父と母と自分のはずなのに、三人が同じ空間にいることは滅多になかった。


 父には父の棟があった。書斎と応接間がある東棟。母には母の棟があった。私室とサロンのある西棟。ローザリンデの部屋は北棟の二階で、どちらの棟にも属さない、ちょうど中間の場所にあった。


 子供の頃は、それが普通だと思っていた。


 貴族の屋敷とはこういうものだ。父と母はそれぞれ忙しくて、食事の席で顔を合わせる程度。会話は天候と社交界の予定と、ごくまれに自分の学業について。それ以上のことは話されなかった。


 父と母が愛し合っていないことに気づいたのは、八つのときだった。


 きっかけは些細なことだった。使用人たちの会話を、廊下の角で聞いてしまったのだ。


 「奥様、またお出かけですよ。今週三度目」

 「旦那様も昨夜はお戻りにならなかった」

 「いつものことでしょう。お互い、別のところに大事な人がいらっしゃるんだから」


 別のところに、大事な人。


 八歳のローザリンデには、その意味がすぐにはわからなかった。わかったのはもう少し後で。そして分かったとき……泣きはしなかった。泣くほどの衝撃ではなかった。ただ、ああそうなのか、と思った。パズルの、最後のピースがはまったような感覚。


 だから母はいつも出かけているのか。

 だから父はいつも書斎にこもっているのか。


 ——だからこの屋敷は、三人暮らしなのに二人用みたいにできているのか。


 東棟と西棟。父の場所と母の場所。


 北棟は誰の場所でもなかった。

 ただ、使用人たちがいた。


 料理長のグレーテルは、ローザリンデが厨房に来ると、嫌な顔一つせず焼きたてのクッキーを出してくれた。庭師のヴィルヘルムは、庭の花の名前を全部教えてくれた。デイジー、マーガレット、カモミール……カモミールの花が好きになったのは、あの頃からだった。侍女見習いだった若い頃のマリエッタは、夜眠れないローザリンデの部屋に来て、辺境の昔話を聞かせてくれた。


 父と母が与えてくれなかったものを、使用人たちがくれた。ローザリンデの子供時代は、使用人たちの善意でできていた。


 だから、屋敷の中でローザリンデは、使用人には優しかった。貴族令嬢にしては珍しいことだと、来客に驚かれたことがある。母は「この子、躾がなっていなくて」と眉をひそめた。使用人に優しくする必要はないと。身分をわきまえなさいと。


 ローザリンデは言い返さなかった。言い返してもどうにもならないことを、もう知っていたから。


 ◇


 成長するにつれ、屋敷の空気はさらに冷えていった。


 父は東棟から出てこなくなった。書斎にこもる時間が増え、特に社交界の外の来客が増えた。後になって知ったことだが、あの頃すでに公金の横領に手を染めていたのだろう。


 母は西棟で、社交界の準備に明け暮れていた。完璧な淑女、完璧な公爵夫人。外での評判は申し分ない。誰もが羨む優雅な暮らし。……屋敷に帰れば、夫と目を合わせることもない暮らし。


 二人が揃って食卓に着くのは、月に一度あるかないかだった。


 その月に一度の食事が、ローザリンデにとっては一番苦しい時間だった。


 長いテーブル。向かい合う父と母。その中間に座る自分。銀の食器がぶつかる音だけが響く。会話はない。あっても「塩」「今週の茶会は何曜日だ」程度。ローザリンデの名前は、呼ばれない。視線は合わない。自分がここにいることを、二人とも特に気にしていない。


 空気のようなものだった。


 吸っているけれど、意識しない。なければ困るかもしれないが、あることに感謝はしない。ローザリンデの存在は、この家ではそういうものだった。


 半年前に、すべてが崩れた。


 父の不正が発覚したのだ。


 公金横領の証拠が王室に提出され、シュヴァルツェンベルク公爵家の没落は、一夜にして確定した。


 父と母は、最後まで感情を見せなかった。怒鳴り合いも、泣き崩れることも、抱き合うこともなかった。ただ淡々と、事務的に、離婚の手続きを進めた。財産の分配。対外的な声明。責任の範囲。最後まで、二人は完璧な貴族だった。


 ローザリンデの処遇が話し合われたのは、ある夜のことだった。自分の部屋で本を読んでいたら、廊下の向こうから声が漏れてきた。


 あの子はどうする。

 

 あなたが引き取ればいいでしょう。父親なのだから。


 馬鹿を言うな。横領犯の手元に子供を置けるか。お前が連れていけ。


 私には私の人生がありますので。これ以上、家に縛られるつもりはありません。


 では、誰が。



 沈黙。



 長い沈黙の後、どちらかが言った。記憶が曖昧なのは、誰の声かを区別する気力がなかったからだ。


 まあ、婚約があるうちは王家が面倒を見るだろう。



 それだけだった。



 自分の娘の将来を決める会話が、それだけで終わった。


 ローザリンデは本を閉じた。泣かなかった。八つのときと同じだ。泣くほどの衝撃ではなかった。ただ、ああ、やっぱりそうなのかと思った。


 自分は、この家に——いらなかったのだ。

 最初から。ずっと。


 ◇


 翌日から、ローザリンデは悪役令嬢になることを決めた。


 婚約は公爵家の没落とともに破棄されるだろう。居場所はどこにもなくなる。名前も、家も、立場も。全部消える。


 ならば、消え方くらいは、自分で選ぶ。


 華々しく散ろう。社交界の誰もが覚えているくらい派手に、鮮やかに、悪役令嬢として。シュヴァルツェンベルク公爵家に最後の令嬢がいたことを、誰も忘れないように。


 それは存在証明だった。


 空気ではないと証明するための、歪んだ、不器用な、叫び。


 だが。


 悪役令嬢になると決めたものの、実際にやってみるとローザリンデには、才能がなかった。


 圧倒的に、向いていなかった。


 標的はリゼット・フォン・ハイリゲンベルク。男爵家の一人娘。亜麻色の髪にそばかすの散った頬。田舎から出てきたばかりの素朴な少女で、アルベルトに見初められたばかりだった。


 悪役令嬢がヒロインを虐める。物語の定番だ。自分もそうすれば、悪役令嬢として認知される。そう考えて……靴を隠した。


 手が震えた。


 控室に忍び込んで、リゼットのダンスシューズを棚の裏に押し込む。ただそれだけのことに、心臓が破裂しそうなほど鳴った。見つかる恐怖ではない。自分がやっていることの意味がわかっているから、震えた。


 この子は何も悪くないのに。


 リゼットは田舎から出てきただけだ。誰にでも優しくて、少し気が弱くて、花が好きで。……カモミールが好きだと、お茶会で言っていた。ローザリンデと同じだった。それを聞いたとき、胸の奥が軋んだ。


 それでも、やめられなかった。

 やめたら——自分には、何も残らない。


 椅子の硬さを変えた夜。図書館の本を二週間借りた日。廊下で「まだいらしたの」と呟いた午後。一つ一つが小さな罪で、一つ一つが確実にローザリンデの良心を削っていった。


 断罪の日が来たとき。アルベルトが大広間で「お前の悪行を看過できぬ」と宣言したとき。


 ローザリンデは、ほっとした。

 心の底から。


 ああ。終わった。


 もうリゼットを傷つけなくていい。


 追放の馬車の中で揺られながら、泣いた。

 悔しさでも悲しみでもなく——安堵で。


 ◇


 目を開けた。


 天井が見える。シュヴァルツェンベルク公爵邸の高い天井ではなく、マリエッタのアパルトマンの低い天井。木の梁に、薬草の乾燥束がぶら下がっている。


 隣でマリエッタが寝息を立てている。


 規則正しい呼吸。彼女は、あの頃から変わらない。若い侍女見習いだった頃、眠れない夜にローザリンデの部屋に来て、辺境の昔話を聞かせてくれた。今は逆に、ローザリンデが辺境から帰ってきて、マリエッタの部屋に転がり込んでいる。


 不思議な巡り合わせだ。


 クラリッサの声が、また頭の中に響いた。


 少し、羨ましい。


 何が羨ましいのか、ローザリンデにはまだわからない。

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