悪役令嬢たちの誇り
第四戦は、予定外の形で始まった。
嫌味対決の翌日。銀の雫亭で非公式の反省会を開いていたとき、話題は自然と「悪役令嬢としての過去の武勇伝」に流れた。
酒が入っていたわけではない。紅茶だ。だが二杯目のアッサムを飲んだあたりから、妙に舌が滑らかになった。本人たちは絶対に認めないが、紅茶のせいではなく、三戦を経て生まれた奇妙な気安さのせいだろう。
「それで? あなたの悪役令嬢としての最初の一歩は何だったの?」
クラリッサが紅茶のカップを傾けながら訊いた。公式の対決ではない。だからか、声色にいつもの氷の鋭さがない。単純に興味がある、という響きだった。
「最初の一歩ね……」
ローザリンデは天井を見上げた。最初。そう、あれは学園に入学して間もない頃だった。
「ヒロインの、リゼットの靴を隠したの」
「靴」
「ええ。発表会の前日に、控室に忍び込んで、彼女のダンスシューズを棚の裏に隠したの」
沈黙が落ちた。
クラリッサは紅茶のカップを置いた。ゆっくりと。音を立てずに。
「……靴を、隠した」
「そうよ」
「棚の裏に」
「そう。奥の方に押し込んだから、なかなか見つからなかったと思うわ」
「…………」
クラリッサの表情は、微妙だった。
嫌味を言うための顔ではない。困惑でもない。何か別の形容しがたい感情が、あの冷たい目の奥に浮かんでいた。
「それが……あなたの、悪役令嬢としてのデビュー」
「ええ。結局、予備の靴があったらしくて効果はなかったのだけれど。でもあのときの緊張感は忘れられないわ。控室に忍び込むとき、手が震えて」
「手が震えた」
「だって見つかったら大問題じゃない。公爵令嬢が他人の靴を盗むなんて」
「盗んだのではなく、隠したのでしょう?」
「同じことよ」
「……同じではないと思いますけれど」
クラリッサは口元に手を当てた。
笑いを堪えている、のではない。本当に、なんと言えばいいかわからないのだ。
「他には?」
「他にもあるわよ。お茶会でリゼットの席に、こっそり一つだけ古い椅子を紛れ込ませたこともあるの。他の令嬢は全員ふかふかの椅子なのに、リゼットだけ座面が微妙に硬い……」
「微妙に硬い」
「あとは廊下ですれ違うときに、わざと聞こえる声で『あら、まだいらしたの』って言ったり」
「……それは、まあ。嫌味の範疇として理解できますけれど」
「一番の大仕事は、彼女が楽しみにしていた図書館の新刊を、先に全部借りて返さなかったことかしら」
「…………」
「二週間よ。二週間、返却期限ぎりぎりまで手元に置いたの。リゼットが司書に『まだですか?』って訊きに行くのを、物陰から見ていたわ」
クラリッサは、完全に沈黙した。
長い沈黙だった。紅茶が冷めるほどの沈黙の後、クラリッサはようやく口を開いた。
「……可愛いですわね」
真顔だった。
嫌味ではなかった。皮肉でもなかった。心の底から本当に、心の底から、そう思っている顔だった。
「…………」
ローザリンデの目が、見開かれた。
「可愛い?」
「ええ」
「可愛い、ですって?」
「申し訳ないけれど、他に言葉が見つかりませんの。靴を隠して手が震えた。椅子の硬さを変えた。図書館の本を二週間借りた。……ローザリンデさん、それは悪行ではなくて、いたずらですわ。子供の」
「いたずらですって!?」
「ええ。可愛らしいいたずらですわ。微笑ましい」
ローザリンデの顔が、みるみるうちに赤くなった。
「私はあれで、あれで命がけだったのよ!? 控室に忍び込むときの恐怖、椅子を入れ替えるときの罪悪感、図書館の本を返さないことへの良心の呵責……あなたにわかるの!?」
「良心の呵責」
クラリッサが復唱した。声が微かに震えている。
「図書館の本を返さないことへの、良心の呵責……」
「笑ってるでしょう。笑っているでしょう今!」
「笑っておりませんわ」
嘘だ。唇の端が痙攣している。あの鉄壁の微笑みが、内側からの笑いで崩壊しかけている。プラチナブロンドの縦ロールが小刻みに揺れている。肩が震えている。
「あなたは!? あなたの悪行は何なの!? 聞かせなさいよ!」
「そうですわね」
クラリッサは咳払いをした。笑いを押し殺すための咳払いだった。それから一拍置いて、涼しい顔で、しかし目の端にまだ笑いの残滓を浮かべたまま、語り始めた。
「私は学園時代、対立する派閥の令嬢の侍女を三人、同時に寝返らせましたの」
「……は?」
「侍女たちが主人の私的な書簡を持ち出すよう仕向けて、それを社交界の要所に、もちろん匿名で流しましたわ。結果、三つの名家が半年にわたって対立し、そのうち一家は領地の利権を手放すことになりました」
沈黙。
「……領地の、利権?」
「ええ。それから、リゼットが王太子に気に入られ始めた頃には、彼女の実家……男爵家でしたかしら? その交易ルートに圧力をかけて、経済的に追い詰める計画を立てましたの。実行には至りませんでしたけれど」
「経済的に追い詰める」
「あとは、私に逆らった令嬢の婚約相手に偽の噂を流して婚約を破談にさせたこともありましたわね。あれは少しやりすぎたと反省しておりますけれど」
「……………………」
ローザリンデは、自分の手元を見下ろした。
紅茶のカップ。銀のスプーン。白いテーブルクロス。目に映るすべてが、妙に遠く感じられた。
靴を、隠した。
椅子の、硬さを変えた。
図書館の本を、二週間借りた。
可愛いですわね。
クラリッサの言葉が、脳内で反響する。
可愛い。そうだ。可愛いのだ。謀略で貴族の名家を揺るがした女の前では、靴隠しなど子供のお遊戯だ。
「……ローザリンデさん?」
クラリッサが覗き込んできた。さすがに言い過ぎたかと思ったのか、声が幾分柔らかい。
「大丈夫ですの? 顔色が」
「黙りなさい」
「え」
「黙りなさい、と言ったの」
ローザリンデの声は静かだった。
顔を上げる。その目に浮かんでいるのは怒りだが、高笑い対決のときの闘志とも、ドレス対決のときの対抗心とも違う。もっと根深い、もっと個人的な屈辱だった。
「あなた、今……私のことを、可哀想だと思ったでしょう」
「思っておりません」
「嘘をつかないで。目が同情している」
「……少しだけ」
「少しだけでも許さないわ」
ローザリンデはカップを置いた。音が鳴った。マナー違反だが、知ったことではない。
「確かに、あなたの方がスケールは上よ。政治工作で敵を潰す? 結構じゃない。大したものだわ。……でもね」
指を、テーブルの上で握りしめた。
「私は私のやり方で、悪役令嬢をやっていたの。あなたのやり方と比べて、スケールが小さいとか、可愛いとか、そんなのは」
声が、わずかに震えた。
「——そんなのは、関係ないのよ」
クラリッサは黙っていた。
扇は閉じたまま。冷たい目は、真っ直ぐにローザリンデを見ている。
「……関係ない、とは?」
「悪役令嬢であることに、規模の大小は関係ないと言っているの。靴を隠すのも、領地を奪うのも、誰かに牙を剥くという意味では同じよ。私は私なりに、精一杯の悪意で」
言いかけて、止まった。
精一杯の悪意。自分で言っておいて、なんだか情けない響きだった。靴を隠すのに精一杯の悪意を振り絞っていた自分。手が震えていた自分。図書館の本を返さなくて良心が痛んだ自分。
それが、ローザリンデ・フォン・シュヴァルツェンベルクという悪役令嬢の全力だった。
「……ふふ」
クラリッサが笑った。だが今度の笑いには、嘲りがなかった。
「ローザリンデさん」
「何よ」
「あなた、根本的に善い人ですわよね」
「は?」
「靴を隠して罪悪感を覚える。本を借りて良心が痛む。それでも悪役令嬢であろうとした。あなた、本当は悪い人ではないのに、無理をして悪い人をやっていたのでしょう?」
「…………」
「私には、それが……少し、羨ましい」
最後の一言は、小さかった。
紅茶のカップの縁に吸い込まれるように消えた。聞き間違いかと思うほど小さかったが、ローザリンデの耳は確かに捉えた。
羨ましい。
この女が、あのクラリッサ・デ・ルナフォールが——自分を、羨ましいと言った?
「……どういう意味?」
「さあ。どういう意味でしょうね」
クラリッサは紅茶を飲んだ。話はここまで、という仕草だった。
第四戦は、勝敗がつかなかった。
勝敗がつかなかった、というより……いつの間にか、勝負ではなくなっていた。
マリエッタは隅の席で、二人のやりとりを黙って聞いていた。
採点表は白紙のまま。審査員なんて、最初からいなかった。この場にいたのは、ローザリンデとクラリッサ。二人の悪役令嬢だけだった。
マリエッタは思った。この二人は、似ている。
まったく違うやり方で、まったく違う規模で、まったく違う悪役令嬢をやっている。だけど根っこの部分で、何か同じものを抱えている。
それが何かは、マリエッタにはまだ分からなかった。二人の悪役令嬢も、まだ分からないまま。




