仕立て屋ギルド長フリードリヒの感涙
第二戦『ドレスの威圧感対決』は、第一戦の三日後に開催された。
会場は王立美術館の大展示室。
天井まで吹き抜けの白い空間に、今日は絵画の代わりに二着のドレスが展示……もとい、二人の悪役令嬢が並び立つことになる。
審査員は、王都仕立屋ギルドの重鎮五名。
ギルド長のフリードリヒ・マイスナーを筆頭に、王都で最も腕の立つ仕立屋たちが顔を揃えていた。いずれも、貴族のドレスを数十年にわたって手がけてきた職人である。
「美しいドレスは数あれど、人を威圧するドレスを仕立てられるのは一握り」が口癖のフリードリヒは、今回の審査依頼を受けたとき、「私はこの日のために腕を磨いてきた」と涙ぐんだという。大袈裟な男だが、腕は確かだ。
今回、ドレスは各自で用意するルールだった。
既製品でも特注品でも構わない。要は着こなし。ドレスと着る者の相乗効果で、どれだけの威圧感を生み出せるか。それが審査対象となる。
先に姿を現したのはクラリッサだった。
大展示室の扉が開いた瞬間、空気の温度が二度ほど下がったように感じられた。
深紅。
圧倒的な赤だった。
真紅のベルベットが床まで流れ落ちるマーメイドライン。体の線に沿って寸分の余裕もなく仕立てられたシルエットが、クラリッサの長身を際立たせている。背中は大胆に開き、代わりに首元には黒いレースのチョーカー。ルビーが一粒、血の滴のように揺れている。
装飾は最小限。だからこそ、余白が威圧になる。飾り立てる必要がない、という自信そのものが、見る者を圧倒する。
客席の反応は、沈黙だった。
息を呑む、とはまさにこのことだ。華やかさに目を奪われているのではない。目を逸らせないのだ。視線が縫い止められている。
「あれは……!」
フリードリヒが身を乗り出した。
「マダム・コルヴィーノの仕立てか? あのシルエットの切り替えは!?」
「審査中だ。黙れ」
隣の仕立屋が肘で突いた。
クラリッサは大展示室の中央で立ち止まり、ゆっくりと客席を見渡した。
何も言わない。微笑みもしない。ただ、立っている。
それだけで、客席の最前列にいた若い騎士が思わず姿勢を正した。別に睨まれたわけではない。視界に入っただけだ。なのに背筋が伸びる。何かに叱られた気がする。
これが精神的威圧。力で押すのではなく、存在そのもので空気を支配する。
「お手本のような威圧感だ!」
フリードリヒがメモを走らせる。
「ドレスが主張するのではなく、着る者がドレスを従えている。主従関係が完璧だ!!」
クラリッサが所定の位置に着いた。
扇を一つ、ぱちんと鳴らした。それが合図だったかのように、客席の緊張がわずかに緩んだ。
「さて」
クラリッサの視線が、大展示室の入口に向いた。
「先代のお召し物を拝見しましょうか」
間があった。
五秒。十秒。十五秒。大展示室の扉は閉じたまま、動かない。
客席がざわめき始めた。
「来ないのかしら」
「もしかして棄権?」
「クラリッサ様のドレスを見たら、怖気づいたのでは……」
そのとき。
大展示室の照明が、落ちた。
「きゃっ」「何!?」「停電?」
暗闇の中ざわめきが広がる。そして扉が、開いた。
——逆光。
廊下の灯りを背に、一つの影が立っている。
漆黒。
闇よりも深い黒が、そこにあった。
ローザリンデは歩き出した。一歩ごとに、ドレスの全容が明らかになる。
黒のタフタ。裾に向かって波のように広がるボリュームは、ゴシック様式の大聖堂を思わせた。肩から胸元にかけて黒薔薇の刺繍が這い、ウエストは銀の鎖で締め上げられている。袖はなく、代わりに黒いレースの長手袋が肘の上まで伸びていた。
頭上には、ヴェールだ。黒いレースのヴェールが、顔の上半分に影を落としている。そしてヴェールの下から覗く目だけが、暗がりの中で異様に光っていた。
客席の反応は、悲鳴に近かった。
「こ、怖い……」「なんか呪い殺されそう……」「生きて帰れる気がしない……」
クラリッサの威圧が「この女には逆らえない」だとすれば、ローザリンデのそれは「この女に近づいたら死ぬ」だった。精神的圧力ではなく、本能的な危機感。理性を飛び越える、原始的な恐怖。
「照明を落としたのは演出か……!」
フリードリヒが唸った。
「だがそれを差し引いても、あのドレスの圧は……黒一色であそこまでやるか!? 刺繍の黒薔薇、あれは手縫いだ。糸の光沢が照明によって表情を変える設計になっている。誰が仕立てた? この仕事は……」
「フリードリヒ、黙れと言っているだろう!」
ローザリンデは大展示室の中央に立った。クラリッサの斜め向かい、十歩の距離。
深紅と漆黒が、向かい合っている。
赤い炎と、黒い深淵。
客席は完全に沈黙していた。比較するとか、優劣をつけるとか、そういう次元の話ではなくなっていた。二つの圧力が同じ空間に共存しているだけで、空気が重い。息をするのに意識的な努力が必要なほどだった。
やがて照明が戻った。
明るくなっても、空気の重さは変わらなかった。
審査員席のフリードリヒが立ち上がった。立ち上がって、メモ帳を閉じた。
そしてこの老職人は、人前で泣いた。
「……美しい」
声が震えていた。
「両者とも、美しい。ドレスが、着る者に命を吹き込まれている。いや、違う。着る者がドレスに命を与え、ドレスが着る者に翼を与えている。これは……共鳴だ! 仕立屋として五十年、私はこの共鳴を追い求めてきた!!」
「フリードリヒ、審査を」
「黙れ! 私は今、感動しているんだ!」
隣の仕立屋が黙った。
「クラリッサ嬢の深紅、あの一切の無駄を削ぎ落としたシルエットは、引き算の極致だ。装飾ではなく、存在で語る。ドレスが主張を消すことで、着る者の意志だけが浮かび上がる。これは哲学だ」
フリードリヒは、涙を拭いもしなかった。
「ローザリンデ嬢の漆黒。あれは足し算の極致だ。黒薔薇の刺繍、銀の鎖、レースのヴェール、ゴシックの意匠。一つ一つは過剰だが、着る者の圧に呑まれて、すべてが必然になる。これもまた哲学だ!」
「判定は?」
客席から声が飛んだ。
フリードリヒは五人の審査員を見渡した。全員が、同じ顔をしている。
「……我々、仕立屋ギルドの総意として申し上げる」
老人は背筋を正し、宣言した。
「両者とも——最高傑作です」
「判定を聞いている!」
「これが判定だ! どちらが上かなど決められるわけがなかろう! 引き算の哲学と足し算の哲学、どちらが優れているかなど、針と糸に訊いても答えは出ん!!!!」
フリードリヒは声を張り上げ、それから再び涙を流した。
「ああ、今日は仕立屋として最良の日だ……生きていてよかった……!」
隣の仕立屋が「もういい、座れ」とフリードリヒの肩を押した。
判定。またしても引き分け。
客席はどよめいたが、しかしどこか納得した空気もあった。あの二着を並べて優劣をつけられる人間が、この世にいるとは思えなかった。
舞台裏。
ローザリンデはヴェールを外しながら、壁に背を預けた。
「……引き分けか」
悔しいが、不思議と嫌な気分ではなかった。
あの深紅のドレスは、見事だった。認めないわけにはいかない。削ぎ落とすことで威圧を生む。自分には思いつかない発想だった。自分はいつも、足して、盛って、重ねて、力で押す。それが自分のやり方で、それ以外を知らなかった。
「次の勝負はどうなさいますか?」
マリエッタが声をかけてきた。
「高笑いで引き分け、ドレスで引き分け。このままでは決着がつきませんが……」
「わかっているわ」
ローザリンデは目を閉じた。
二戦を通じてわかったことがある。クラリッサ・デ・ルナフォールは、強い。自分とは真逆のアプローチで、しかし自分と同等の威圧を生み出せる女だ。
力で押しても勝てない。技で攻めても負けない。正面からぶつかれば、永遠に引き分けが続くだろう。
「……次は」
ローザリンデは目を開けた。
「嫌味で勝負よ。言葉の切れ味なら、私の方が上——」
「あの」
「何?」
「……ローザリンデ様の嫌味、前から申し上げたかったんですが、割と雑ですよ」
「…………」
「相手が三日後に気づくのは……精度が高いのではなくて、単にわかりにくいだけなのでは」
「マリエッタ」
「はい」
「あなた、辺境に送られたい?」
「……次の作戦を練りましょう」
決着は、まだつかない。
だが、二人の悪役令嬢の戦いは、確実に何かを変え始めていた。
少なくとも王都の社交界は、ここ数年で一番活気づいている。悪役令嬢の対決を見るために茶会の出席率は過去最高を記録し、仕立屋ギルドには注文が殺到し、メイドたちの間では「高笑い鑑定士」なる謎の資格が流行り始めていた。
誰も得をしない戦い、のはずだった。
なぜか周りだけが得をしている。当事者だけが、まだ何も手にしていないまま。




