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悪役令嬢は激怒した  作者: 松本雀


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メイド長ヘルミーネの苦慮

 第一戦の会場は、王立オペラ座だった。


 なぜオペラ座かというと、「高笑いの音響を正確に審査するには、それなりの設備が必要」というクラリッサ側の主張が通ったからだ。一理あるのが腹立たしい。


 客席には、百人を超える観衆が詰めかけていた。


 令嬢たち、その侍女たち、噂を聞きつけた下級貴族、暇な騎士、オペラ座の関係者、そしてなぜか八百屋のおかみ。要するに、王都の暇人という暇人が集まっていた。


「大変な騒ぎになりましたね」


 マリエッタが客席を見渡しながら言った。


「当然よ。悪役令嬢の高笑い対決なんて、歴史上初めてでしょうから」


「歴史に残さなくていいと思います」


 審査員席には、五人のメイドが並んでいた。


 なぜメイドかというと、「悪役令嬢の高笑いを最も間近で、最も頻繁に、最も迷惑に浴びてきた職業」がメイドだからである。これはローザリンデとクラリッサの双方が即座に合意した。この勝負における、初めての意見の一致だった。


 五人はいずれも勤続十年以上のベテランで、主人の高笑いを何百回と聞き流してきた鋼の精神の持ち主たちだ。審査委員長を務めるのは、ルナフォール侯爵家のメイド長、ヘルミーネ。白髪交じりの髪をきっちりまとめた、いかにも厳格な淑女である。


「それでは、第一回『悪役令嬢高笑い選手権』を開催いたします」


 ヘルミーネの声は抑揚がなく、感情というものが欠落していた。二十年以上ルナフォール侯爵家に仕えてきた彼女は、この程度の茶番では眉一つ動かさない。


「審査基準は三項目。声量、余韻、威圧感。各十点満点、計三十点で判定いたします」


 舞台の上手にローザリンデ、下手にクラリッサ。


 順に中央へ進み出て、客席に向けて高笑いを響かせるという、冷静に考えれば正気の沙汰ではない光景だが、当事者たちは至って真剣だった。


「先攻後攻はどう決めますの?」


 クラリッサが扇を揺らしながら問うた。


「譲るわ。後攻の方が有利だもの。あなたには、そのくらいのハンデをあげないとね」


「あら、ご親切に。では遠慮なく……先攻で参りますわ」


 挑発が通じなかった。ローザリンデは内心で舌打ちした。


 クラリッサが舞台の中央に進み出る。


 客席がしん、と静まった。


 深紅のドレスの裾が床に広がり、プラチナブロンドの縦ロールが照明を受けて煌めく。クラリッサはゆっくりと息を吸い、やがて、扇を広げるように優雅な高笑いが花開いた。


「おーっほっほっほっほ!」


 空気が、変わった。


 客席の令嬢たちが一斉に背筋を伸ばした。反射的に。体が勝手にそうしたのだ。


 声量は控えめだった。オペラ歌手のように張り上げるのではなく、むしろ囁きに近い音量から始まり、緩やかに広がっていく。だが、その笑い声の中に何かがある。


 冷たい、何か。


 真冬の湖に足を踏み入れたときのような、内臓がきゅっと縮むような冷たさ。笑っているのに、笑い声なのに、聞いている者の体温が下がっていく。


 高笑いが止んだ後も、客席はしばらく沈黙していた。


 誰も拍手をしない。拍手をする雰囲気ではなかった。数秒の沈黙の後、ようやく誰かがぽつりと呟いた。


「……怖い」


 それは、最大の賛辞だった。


 審査員席のメイドたちは、一様に硬い表情でメモを取っていた。ヘルミーネだけが微かに、本当に微かに口角を上げた。


 クラリッサが悠然と元の位置に戻る。


 すれ違いざま、ローザリンデにだけ聞こえる声で言った。


「声を張り上げるだけが高笑いではありませんのよ? ご参考までに」


「忠告ありがとう。参考にはしないけれど」


 ローザリンデは舞台の中央に立った。


 客席を見渡す。百人の目が自分を見ている。その中に、期待の色は少ない。大半は「先代がどこまでやれるか」という、やや残酷な好奇心だ。オッズ三・八倍の現実が、視線の温度に表れている。


 上等よ。


 ローザリンデは息を吸った。


 深く。

 肺の底まで。


 辺境の暮らしは、彼女の体を作り変えていた。


 毎朝の薬草園の手入れ。井戸からの水汲み。薪割り。畑仕事。領民の子供たちと走り回った日々。公爵令嬢時代には考えられなかった肉体労働が、ローザリンデの心肺機能を別次元に引き上げていた。


 横隔膜が下がる。肋骨が広がる。腹腔に空気が満ちる。


 そして——解放した。


「おーーーーっほっほっほっほっほ!!!」


 オペラ座が、揺れた。


 比喩ではない。少なくとも、客席の令嬢たちにはそう感じられた。シャンデリアのクリスタルがちりちりと音を立て、天井の装飾からぱらぱらと埃が舞った。


 声量が、桁違いだった。


 クラリッサの高笑いが冬の湖なら、ローザリンデのそれは夏の雷鳴だった。腹の底から突き上げるような轟音が客席を叩き、壁に跳ね返り、反響し、増幅し、オペラ座全体を共鳴させた。


 最前列の令嬢が椅子ごと後ろにずれた。物理的に。音圧で。


「きゃっ!」「何これ!?」「耳が……!」


 悲鳴が上がるが、高笑いにかき消されて聞こえない。


 ローザリンデは笑い続ける。肺活量が尽きない。辺境で鍛えた呼吸筋は、こんなところで真価を発揮するために存在していたのではないかと思えるほどだった。


 高笑いが止んだとき、客席は茫然としていた。


 数秒の沈黙。それから……嵐のような拍手が起きた。芸術的感動ではなく、生存本能に基づく拍手だった。終わった、という安堵の拍手。


「す、すごかった……」

「耳がまだキーンってしてる……」

「最前列、死ぬかと思った……」


 ローザリンデは元の位置に戻りながら、ちらりとクラリッサを見た。


 クラリッサは扇で口元を隠していたが、その目にはさすがに驚きの色があった。


「……力任せ、と言いたいところですけれど。あの持続時間は、率直に言って異常ですわね」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 審査員席が、紛糾していた。


「声量は文句なしにシュヴァルツェンベルク様です。オペラ座の音響主任に確認しましたが、客席最後列で九十二デジーナ。これは当オペラ座の歴代最高記録を更新しています」


 メイドの一人が冷静に数値を報告する。デジーナという単位が何なのかローザリンデにはわからなかったが、とにかく大きかったらしい。


「しかし」


 ヘルミーネが口を開いた。


「高笑いとは、単に大きな声を出すことではありません」


 老メイドはペンを置き、両手を組んだ。


「クラリッサ様の高笑いには、技巧がございました。音量を抑えながらも聞く者の背筋を凍らせる。あの冷気は、天賦の才と申し上げてよろしいかと。威圧感の項目では、クラリッサ様に軍配が上がります」


「待ってください、ヘルミーネ」


 別のメイドが手を挙げた。ローザリンデの実家に仕えていた、元シュヴァルツェンベルク家のメイドだ。


「威圧感というのは、聞いた者がどれだけ怯えるかで測るべきでは? 最前列の令嬢が物理的に吹き飛ばされたのですよ。あれ以上の威圧がありますか」


「吹き飛ばされたのは音圧によるものであって、威圧感とは質が異なります」


「音圧も威圧の一形態では?」


「暴論です」


「どこが暴論ですか!」


 審査員席が完全に割れた。


 声量と持続時間ではローザリンデが圧倒。しかし余韻と芸術的威圧感ではクラリッサが上回る。総合点で拮抗し、メイドたちの議論は白熱していった。


「余韻が何秒残ったかで数値化しましょう」「いや、余韻とは数値化できるものではなく」「では鳥肌の立った審査員の数で」「それは体質の個人差が」


 客席の観衆は、審査員同士の口論を固唾を呑んで見守っていた。主役二人よりも審査が盛り上がるという、想定外の展開だった。


 結局、三十分の協議の末……


「判定、引き分け」


 ヘルミーネが苦渋の表情で宣言した。メイド人生二十年で最も難しい判定だった、と後に語ったという。


「引き分け?」


「引き分けですって」


 二人は同時に審査員席を見た。同時に不服そうな顔をした。同時に口を開きかけて……同時に、口を閉じた。


 文句を言いたいのは山々だが、審査員を否定すれば自分の器が知れる。悪役令嬢は、器が大きくなければならない。大きくなければ大物の悪役令嬢には、なれない。


「……まあ、初戦ですもの。前哨戦としては悪くなかったわ」


 ローザリンデが先に口を開いた。


「ええ。次で決着をつけましょう。今度は、ごまかしの利かない勝負で」


 クラリッサが応じた。


 二人の視線がぶつかる。


 引き分けという結果が、むしろ互いの闘志に油を注いでいた。

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